紅 ー紅之介と葵姫の四季の物語ー

広之新

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第1章 春

第1話 椎谷の里

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 空は晴れ渡り、日の光が高い山々の頂に残るわずかな雪を輝かせていた。そして辺りを吹き抜ける風も優しく暖かになった。長い冬が過ぎ去ってようやく春になったのだ。この山深い椎谷の里にも、暖かい陽気に誘われて草木が芽吹き始めていた。
 その春の日、その一行が里に到着した。それは馬に乗せられた姫に年老いた侍女、そして護衛の家臣が3人という寂しいものだった。しかしこの姫の存在が一行を華やかなものに見せていた。その顔は深くかぶった笠で隠されていたものの、姫はこの地ではめったに見られないほど美しくあでやかな着物をまとっていたからだ。
 その一行を里の頭領、藤林百雲斎をはじめとする地侍たちが里の入り口まで出迎えていた。彼らは、一行が見えるか見えないかの遠いところにいる時から、みな跪いて頭をじっと下げていた。やがて一行は彼らの前まで来た。

「東堂の御屋形様の御息女、葵姫様じゃ。」

先頭を歩く家臣の山形甚兵衛が声をかけた。

「葵姫様。この地によく来られました。ご無事で何より。この里の頭領、藤林百雲斎でございます。」

百雲斎は頭を上げて申し上げた。馬上の姫は深くかぶった笠のためにその顔形はよくわからなかったが、その雰囲気は高貴なものを感じさせた。彼女は何やらささやいた。

「大儀であると姫様は申されておる。」
「はっ。」

百雲斎はまた頭を下げた。甚兵衛はさらに言った。

「百雲斎殿。姫様はお疲れじゃ。 住まいに案内を。」
「はっ。すぐにご案内いたします。我が屋敷の離れをお使いください。今日よりこの者が姫様にお仕えいたします。」

百雲斎のその後ろに若侍が控えていた。

二神紅之介ふたかみこうのすけでござりまする。姫様の身辺をお守り致します。」

その若侍は顔を上げた。その侍は細身で小柄だった。そして山里の者にしては色白で端正な顔をしていた。紅之介は葵姫からの言葉を待っていた。しかし葵姫は紅之介をろくに見ようともしなかった。

「さあ、こちらへ。」

百雲斎が前に立って歩き始めた。一行は彼の屋敷に向けて進み始めた。近くから馬上を見上げると葵姫の顔が見えた。笠の下から覗く顔は周囲の者が「あっ。」と驚くほど美しかった。だが何かいい知れぬ憂いを含んでいた。葵姫は誰にも声をかけず、ただため息ばかりついていた。


 江嶽の国、ここは古くから東堂家が支配する地域だった。その高貴な血筋により人々の尊敬を受け、国衆の協力のもとにこの国を治めていた。しかし戦国の世の習い、力のある国衆が現れ、東堂家を圧迫するようになった。
 万代家もその一つだった。万代宗長が当主になってからみるみる力をつけ、ついには東堂家と事を構えるまでになった。
 戦いは万代有利に進んでいた。当主東堂幸信は何とか挽回しようとしたが、 もはや東堂家に味方する国衆は少なく、苦しい戦いを余儀なくされていた。押し寄せる万代の軍勢に対してただ本拠地の麻山城に籠り、小競り合いを繰り返していた。

(このままではやがて東堂家は滅ぼされる。そうなればこの高貴な血を継ぐ者は失われる・・・)

そう思った幸信は、一人娘の葵姫を山深いこの椎谷に送ったのだ。ここなら里の者が何とかかくまってくれようと。そしてこの近くには険しい山の上に立つ梟砦がある。もし万代の軍勢が差し向けられても難攻不落と言われたこの砦で守り切れるかもしれぬと幸信は考えていた。


 葵姫は百雲斎の屋敷の離れを住まいとすることになった。離れと言っても母屋と同じくらい大きく、また姫様が来られるということで念入りに手入れがされていた。だが葵姫にとってはこじんまりした田舎の粗末な家にしか見えなかった。

 麻山城は小高い山の上にあった。かつては東堂家の威光を誇示するため、美しい建物が立ち並び、立派な庭園が整備されていた。この城を訪ねてくる者たちは東堂家の力をまざまざと見せつけられていた。
葵姫の住む城内の屋敷もそうであった。広い座敷がいくつもあり、それぞれがきれいな装飾がところどころになされていた。その庭も手入れが行き届き、季節々々にふさわしい花が咲いていた。
 ところがこの離れはどうだ。藁ぶき屋根の小さな家屋で周囲は雑草が生い茂るばかりだった。葵姫はここに住むのに嫌悪感を覚えていた。しかもここには城からお供してきた侍女の千代とこの屋敷の女中である菊、そして廊下で控えている紅之介がいるだけ・・・供をしてきた山形甚兵衛ら家臣は城に戻っていた。彼女の周囲は寂しくなっていた。城にいた時は多くの者が周りで仕えていたというのに・・・。

(戦はすぐに終わる。戦が終わればまた城に帰れる。そうしたらまた美しい庭園を眺めることができる・・・)

葵姫はそう思って椎谷に来ていた。彼女には東堂家の苦境など知る由もなかった。ただ戦から避けるためにここに来ていると。この田舎の椎谷の里のいるのはほんのひとときになるはずだった。
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