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雨と傘と

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一旦涙は引っ込んで、すんと鼻を啜る。

雨も少しだけ弱まった。


「ごめんね、恵衣くん。もう大丈夫だから戻ります」


そう伝えると恵衣くんが立ち上がる気配がして私の前に現れた。いつも通りの無表情で私を見下ろす。一向に傘を広げない恵衣くんに首を傾げた。


「……ちょっと待ってろ」


そう言って傘を広げて歩いていってしまった恵衣くんの背中を呆然と見送る。

え、もしかして置いていかれた……?

いやでも"待ってろ"って言ってたし。


言葉通りちょっと待っている間に戻ってきた恵衣くんは傘を閉じてまた幹の反対側に入ってくる。不思議に思っていると幹の影からぬっと手が伸びてきて深緑色のタオルハンカチが差し出される。

「さっさと取れ」と急かされて戸惑いながらも受け取る。ハンカチは濡らされていて冷たい。

すぐに意図に気が付いて頬が熱くなった。


「そんなに酷い顔してる……?」

「蜂に顔刺された奴の方がマシ」


遠慮のない言葉に苦笑いを浮かべて幹に背を預ける。丁寧に絞られたハンカチを目の上に乗せて深く息を吐いた。

少し落ち着くと今度は気まずさがむくむくと大きくなってきて、わんわん泣いて腫れぼったい顔まで見られたことが恥ずかしくなってきた。

なんならこの沈黙ですら気まずい。


「あの、恵衣くん」

「……何だよ」


いつも通りちょっと不機嫌そうに答えた。


「なんでここにいるって分かったの……?」

「それを聞いて何になるんだ。口を開くならもっと有意義な質問をしろ」


せっかく見つけた会話のネタもバッサリと切り捨てられた。

まぁそれが恵衣くんなんだけれど。

でも口も態度も悪いのに、たまにこうして凄く優しいんだよなぁ。ゴールデンウィーク明けの車の中でもそうだった。

ふん、と鼻を鳴らした音が聞こえた。それがやけに面白くて思わず笑ってしまう。


「何笑ってるんだよ」

「恵衣くんは優しいなって」

「はぁ? 頭大丈夫かお前」


でた。恵衣くんの「頭大丈夫かお前」。

くすくす笑っていると「うるさい」と叱られる。反対側でものすごく不機嫌な顔をしているのが想像できて余計に笑ってしまう。

分かりにくくて気難しくて、すごく不器用な人。それと同じくらい優しい人。


「……お前こそ、お人好しだろ。なんでそこまでやられて何一つやり返さないんだよ」


珍しく恵衣くんが会話を続けた。

頬が緩む。目元に乗せていたハンカチをきゅっと握った。


「薫先生とかお兄さんとか、相談しないのか」


そんな質問に「あー……」と言葉を濁す。


「お兄ちゃんに相談したら、次の日には校舎がなくなってるかもしれないから」


恵衣くんは無言だった。

お兄ちゃんは二学期の奉納祭を見に来ていたので恵衣くんもお兄ちゃんのことは知っている。

あの兄ならやりかねないとでも思っているんだろうか。本当にやりかねないのがうちのお兄ちゃんなんだけれど。


「恵衣くんは兄弟いるの?」


何となくそう尋ねた。しばらくの沈黙の後「兄貴がひとり」と答える。

ちょっと意外、恵衣くんって次男だったんだ。


「いくつ離れてるの?」

「十六」

「結構離れてるんだね。本庁の人?」

「生きてたらな」


言葉に詰まった。

生きてたらな、つまり今はもうこの世にはいない人だということだ。

触れていいのか分からず黙り込んでいると、幹の向こう側で恵衣くんがため息をついた。


「別に俺たちの年代ならよくある話だろ。専科一年の時に空亡戦で死んだ」


あ、と呟く。

空亡戦については一年の時に嘉正くんから教えてもらって、その後自分でも少しだけ調べた。

たくさんの死傷者が出て深刻な人手不足だった当時、神役諸法度でもまだ現場に出してはいけないとされる高等部以下の学生も派遣された。

学生は主に後方支援だったのもあって被害はほとんどなかったものの、神役諸法度では神職と定義される専科の学生はいきなり慣れない実践に放り出されてしまいたくさんの被害者が出たらしい。

恵衣くんのお兄さんも、その一人だったんだ。


「……どんな人だったの? 恵衣くんのお兄さん」


無視されるかな、なんて思いながらそっと尋ねる。恵衣くんは間髪入れず「優秀な人だった」と答えた。


「皆が口を揃えて怜衣れい兄さんは優秀だったと言うほど、優秀な人だったらしい。高等部の一年の時にはもう本庁入りが決まっていて、誰もが兄さんの将来に期待してた」


怜衣さんという人なんだ。

その名前を呼ぶ恵衣くんの声はどこか誇らしげだった。


「強くて賢くて、誰にでも平等に優しくて、面倒見が良くて、責任感のある人だった」


恵衣くんがそういうくらいなら、本当に優秀な人だったんだろう。

それにしても……。


「性格は恵衣くんと正反対なんだね」

「だからなんだよッ!」


やっぱり怒った、と肩をすくめる。


「でも恵衣くんだって何でも知ってるし成績もクラスで一番だし……兄弟揃って優秀なんだね」

「やめろ」


割って入ったのは頑なな声だった。


「俺は怜衣兄さんよりも劣ってる。紛れもない事実だ。両親だって怜衣兄さんにとても期待してた、俺なんかより」


恵衣くんは吐き捨てるようにそう言った。その言葉がどこか苦しげに聞こえて振り向く。幹の影にいる恵衣くんの姿は、私からは見えなかった。

恵衣くんが立ち上がる気配がした。傘を広げて私の前に立つ。ちらりと私を見下ろして何も言わず少し傘を傾ける。

目元の腫れはもう引いたらしい。


「ありがとう」


恵衣くんは何も答えなかった。

傘に入ろうとして「あ」と声を上げた。なんだよ、と怪訝な顔で私を見る。


「あの、私のせいで変な噂が流れるかも……」

「はぁ? 何だよそれ」

「いや、その。だってこれ、ほら。相合傘になる……から」


そっと顔色を伺う。徐々に目を丸くした恵衣くんは首から真っ赤になって眉を釣りあげた。


「あの、ごめんね」

「謝るくらいなら最初からこんな所に隠れるな! もっと屋根のある迎えに来やすい場所にいろよ!」


なんだか怒るポイントがおかしい気もするけれど、触れると余計怒られそうなので口を閉じて傘の下に入る。

ぎゅっと眉間に皺を寄せて不機嫌さを前面に出して歩き出した恵衣くん。不機嫌な割には歩幅が小さくゆっくりとした歩調だった。


「……お前だって今微妙な時期なのに、俺と変な噂が立ってもいいのかよ」


恵衣くんは前を向いたままそう呟く。

やっぱり恵衣くんは優しい。その優しさがすごく分かりにくいだけで。


「平気だよ」


そう答えたのは強がりでもなんでもなくて、心の底からそう思ったからだ。

もし変な噂がたったとしても、私は傷付いたりしない。恵衣くんの優しさを知っているから、どんな風に言われてもきっと大丈夫だ。

少し目元を赤くした恵衣くんは「……あっそ」と呟いて顔を逸らした。



「────ね、来たよ」

「聞いてきてよ!」

「俺はやだよ、お前が行けって」


翌日、神話舞も誉さんとの稽古もちょうど休みが重なって久しぶりに神楽部の稽古に参加した。稽古場に入るなり、部員たちが私の方を見てひそひそと話し始める。

前と同じだ。相変わらず雰囲気は悪い。深く息を吐いて一歩踏み出す。


「ねぇ巫寿さん」


中等部の男の子に声をかけられた。振り向くと感じの悪い笑みを浮かべて私を見ている。


「今日は神話舞の稽古ないんですか? もしかして役から降ろされたとか?」


ふふ、と嘲笑う声が周りから聞こえた。

まねきの社に投書したのは、神楽部の人達だだったんだ。

大丈夫、怖くない。辛くない。昨日を思い出そう。雨の中差し出されたあの傘を思い出せばこんなのどうってことない。


「今日は稽古が休みなだけだよ」


私の反応が気に食わなかったのかその子は「ふーん」とだけ答えて友達の元に戻っていく。

小さく息を吐いた。


「なんだよ、降ろされてないじゃん」

「でもまねきの社のポストにはちゃんと投書したし」

「そのうち降ろされるんじゃない?」

「だよな。ズルしてるんだし」


潜めることさえされなくなったひそひそ話。

聞こえないふりをしてストレッチを始める。


"胸張ってろ"

その言葉を思い出す。

大丈夫、こんなことで私が傷付かなくていい。

顔を上げた、その時。


「いい加減にしてください」


大きくはないけれどハリのある真っ直ぐな声が稽古場に響き渡る。驚くようにみんなが振り向いた先には冷たい目でこちらを見る鬼子ちゃんが立っていた。


「 そんなに椎名さんが選ばれたことが気に食わないなら、影で姑息なことをせずに正々堂々と舞で戦ったらどうなんですか? 神職見習いともあろう者が見苦しいですよ。見ていられませんね」


皆が一斉に気まずそうな顔で下を向く。

でも、と一人の男の子が声を上げた。


「でも鬼子ちゃんだって、気に入らないって言ってただろ」

「私は椎名さんそのものが気に入らないと言ったんです。彼女のことは大嫌いですが、彼女の舞はあなた方より断然素晴らしいですよ」


思わぬ援護射撃に目を丸くした。言い返す言葉がないのか気まずそうな顔のまま皆は方々に散り始めた。

内容はともあれ、助けてくれたんだよね……?

お礼を言おうと急いで立ち上がって一歩踏み出したところで、鬼子ちゃんが私をキッと睨んだ。

思わず足がすくむ。


「勘違いしないでください。私は陰湿で姑息なことをする人が嫌いなだけです。あなたを助けようと思って発言した訳ではありませんから、そのお礼も受け取りません」


ありがとうの「あ」の字すら言う前にピシャリと跳ね除けると、ふんと鼻を鳴らして私に背を向ける。

伸ばしかけた手は宙を彷徨いどうしたものかと頬をかいた。



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