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鼓舞の明
弐
しおりを挟む階段を降りながら、私は来る前に写真に収めた校舎内の教室配置図を見た。
ちょうど今いるのが教室配置図の一番端、艮の方角。鬼門と呼ばれる北東だ。ノブくんはきっと突然の異変に驚いて、ここから走って逃げたはずだ。
だとすると一体どこへ? 私がノブくんだったら────ノブくんだったらきっと。
「特別教室のある棟……!」
前を歩く二人が振り返った。
「私がノブくんだったら、怖くて一番遠いところに逃げると思うの。ノブくんはもしかしたら、特別教室のある棟に逃げたかもしれない……ッ!」
ふたりが目を見開いた。
「急ぐぞ」
私たちは一斉に走り出した。
西院高校の校舎は、真ん中に中庭を構えロの字型に配置された四つの校舎で成り立っていて、そのうち二つが学生達のホームルーム教室で、残り二つは理科室や視聴覚室などの特別教室になっている。
さっき私達がいたのが二号棟、その真反対側が特別教室のある四号棟だ。
「巫寿ちゃん冴えまくりじゃん!」
階段を駆け下りながら来光くんが興奮気味にそう言い、いやいやいやと首を振る。
冴えまくりなのは来光くんと恵衣くんだ。呪いを蠱毒だと突き止めたのも二人だし、ここまで来れたのも二人の知識と応用力があったからだ。
同じ授業を受けているし、知識量だって同じくらいのはず。持っている知識を駆使して行動に移せるのが、二人の凄いところだ。
四号棟の一階へ着いた。給食用エレベーター内の残穢を浄化出来たおかげかなり視界も晴れてきた。
非常灯の青い光が不気味に廊下を照らしている。
「蠱毒はまだこっちには来てないみたいだね。荒らされた形跡もないし」
辺りを見回しながらそう言えば、来光くんは「いや」と首を振る。
「油断は出来ないよ。裏鬼門の方角だから、蠱毒にとってこの四号棟も動きやすいはずだ」
そうか、裏鬼門!
鬼門である北東の反対にある南西もまた、不吉な方角とされていて呪の力が強く穢れが集まりやすい。
蠱毒に鉢合わせてしまえば私達は手も足も出ない。そうなる前になんとしても探し出さなければ。
「別れて行動するのは危険だから、このまま三人固まって探そう。いいよね、恵衣」
「ああ」
よし、とひとつ頷いた来光くんは教室の扉に手をかけた。
一階、二階と隅々まで捜索を続けたけれどノブくんを見つける事は出来なかった。あとは三階の音楽室と視聴覚室、被服室しかない。
廊下は相変わらずしんと静まり返っていて、不気味な空気が漂っている。
来光くんの顔にも不安の色が滲み始めていた。
前後を警戒しながら三階へ続く階段を登っていたその時、パァンッとガラスが弾ける破裂音がして勢いよく振り返った。階段を駆け上がった恵衣くんと来光くんが中庭側の窓に駆け寄り身を乗り出した。遅れて私も顔を出す。
三号棟の一階だ。廊下の中庭に面した窓が割れている。
「三号棟か」
「まずいな、急ごう」
二人が顔を顰める。
まさか────。
次の瞬間、割れた硝子の隙間からどす黒い何かが見えた。腕だ。なにかの腕だった。目をこらすとわずかな月明かりでそれがてらてらと光っているのがわかった。黒ではない、赤だ、黒に近い赤の液体を被っているだった。
それがゆらりと揺れて身体が見えた。遠いけれどそれが私の背丈の半分ほど、抱えて持ち上げられるくらいの大きさであることが分かった。
やけに手足が細く棒切れのように骨ばっている。反対に腹は破裂しそうなほど膨らんでいてその対比が不気味さを助長している。
赤子のような薄いひとつまみの髪に、落くぼんだ目は悲しみを映し、その表情は憤怒で歪んでいる。剥き出しの黄ばんだ歯から滴り落ちる赤い液体が顎を伝いいっそう身体を赤く染めた。
生臭い風が私たちの所まで流れてくる。鉄の臭いがする。これは。
ぞわりと背筋を冷たいものが走って、ヒッと息を飲んだ。声を上げるよりも先に誰かの手が私の口を塞いで柱の陰へ引きずり込む。
壁に背を預けしゃがみこみ、つられるようにすとんと座り込んだ。
「叫ぶな馬鹿、落ち着け」
耳元で恵衣くんの落ち着いた声が聞こえた。こくこくと頷けばゆっくり手が離れた。
「思ったよりも強烈だったね……」
青い顔をした来光くんが口元を抑えて天を仰いだ。
「お前の感想なんてどうでもいい。あいつは今隣の棟だ、こっちに来るのも時間の問題だろう。さっさと見付けて外に出るぞ」
「分かってる」
二人してふたりが立ち上がって、慌てて続こうとしたけれど膝が震えて上手く立てない。
血塗れた身体が脳裏を過る。あれは間違いなくほかの妖を食らった跡だ。
身へ危険が迫っている時に感じる恐怖。身体の力が抜けて思うように動かなくなる焦燥感が、一層恐怖心をざらりと煽る。
「待って」二人にそう声をかけようと手を伸ばしたその時、私が声をかけるよりも先に伸ばした手が掴まれてふわりと身体が浮いた。
両足がしっかりと地面を踏んでいる。ハッと顔を上げた。
「しっかりしろ。それでも神職か」
切れ長の目が私を見下ろす。いつもと変わらない憮然とした表情で、声だって素っ気ない。
なのに何故か、冷たくなっていた手に熱がやどる。強ばっていた身体に血が回り始めて膝に力が入った。
そうだ、私は神職だ。まなびの社の神職のひとりとしてこの任務を引き受けた。禰宜からノブくんの救出を頼まれたんだ。
しっかりするんだ、私。
一歩踏み出した私に、来光くんはひとつ頷き教室の扉をガラリと開けた。
音楽室と視聴覚室、順番に人が隠れられそうな場所は隅々まで確認したけれどノブくんを見つけることは出来なかった。
やっぱり私の予想が間違ってたんじゃ。だったら一度外に出て宮司と志らくさんが合流するのを待った方がいいかもしれない。
ぐるぐるとそんな事を考えながら被服室に入る。二人はすぐにロッカー駆け出したので、私は教卓に進む。
とにかくここを調べたら一度外に出ることを提案しよう。そんなことを考えながら教卓の下を覗き込み目を見開く。
「い、いた……っ!」
私の声にふたりが弾けるように振り返った。バタバタと駆け寄ってきて覗き込む。
教卓の下に身を縮めるノブくんがぐったりとした様子で丸まっていた。頭に切り傷があるけれど出血は止まっている。顔も白いけれど息はある。
おそらく恐怖で気を失ってしまったのだろう。
「ノブくん、ノブくん!」
肩を揺すった来光くんに「阿呆か揺するな!」と恵衣くんが止めに入る。
そうだ。確か中学校でAEDの使い方を習った時、気を失っている人は揺すっちゃ駄目だと言っていた。確か意識を確認する時は肩を強く叩くって救命士さんが────。
恵衣くんが振り上げた手は真っ直ぐ綺麗に振り下ろされ、容赦なくノブくんの頬をバチンと叩いた。
いやいやいや、二人とも間違ってるから……!
う、と小さなうめき声がして僅かに頬に色が戻った。瞼が震えてゆっくりと目が開く。ぼんやりとした瞳にやがて光がさして、顔が恐怖に引きつった。
ヒッと息を飲む音が聞こえて、咄嗟に手を伸ばす。三人の手がノブくんの口元で重なった。
「叫ぶな、死にたいのか」
「静かに!」
二人に凄まれてノブくんは恐る恐る頷いた。
ゆっくり手を離せば、今度は青い顔をしてガタガタと震えながら頭を抱える。来光くんが膝をついて目を合わせた。
「危険な状況だってのは理解出来てるよね?」
俯いたまま何も言わないノブくん。
「お前のせいで何人もの人が被害に遭ってるんだぞ。よくもまぁそんな被害者ヅラが出来たものだな」
普段なら窘める恵衣くんの毒舌も今回ばかりは私も来光くんも咎めなかった。
少なくとも禰宜と権宮司がああなったのはノブくんが原因なんだから。
「お……俺は、俺は悪くない……俺は悪くない俺は悪くないッ! 全部アイツらが、アイツらが俺をいじめたから……ッ!」
頭を抱えて目を見開き何度も何度もそう唱える姿は明らかに異常だった。
「だってこんな事になるなんて、言ってなかったし! ただ仕返しができるって、それで妖の数も減らせて……いい事しかないって……っ!」
ああっ、と声を上げて膝に顔を埋めた。
仕返し? いい事? 人を呪うことが本当にいい事だと思っているの?
襲われた生徒は命の危険だってあった。ノブくんを救いに来た神職のふたりは今も残穢に苦しめられ、私達だって今危険の中にいる。
それなのに「いい事」だって言えるの? 自分の利益のために周りを傷付けてもいいと思ってるの?
あまりにも身勝手な言い分に、怒りで握りしめた拳がぶるぶると震えた。
「おいお前」
冷たい声にノブくんの肩がびくりと跳ねる。
「日本神社本庁は"全ての人と妖を守り導く"という崇高な指針のもと、こういう一般人の呪い被害が発生した場合、被呪者だけじゃなく呪者も保護する方針を取っている。罰を与える権利は無いが、それ相応の指導をして呪者を更生させて社会復帰させるためだ」
恵衣くんが片膝をついてノブくんの襟元を掴んだ。
「今のお前に更生の余地はないと判断した。だから本来なら、俺達はわざわざお前を保護する必要がないという事だ」
ノブくんが怯えた目で恵衣くんを睨む。
「死にたくないならその喧しい口を閉じてさっさと立て。俺たちの邪魔をするな」
勢いよく手が離されて、ノブくんが後ろに倒れ込む。呻き声が聞こえた。
来光くんが慌てて駆け寄り肩を抱きかかえた。依然として青い顔をしたノブくんは頭を抱えてぶつぶつと呟き続ける。
「俺は、俺は何も、俺は何も悪くない。俺は何も悪くない……! こうなったのは俺のせいじゃない! 全部あいつらが悪いんや!」
「言い訳はいいから今は立って! ここを離れないと危険なんだよ!」
脇に手を差し込み立ち上がらせようとする来光くん。
完全に我を失っていて、さらに自分よりも一回りは体格が大きいノブくんを引っ張りあげるのは難しいようで「巫寿ちゃん手伝って!」と悲鳴をあげる。
お腹のそこにふつふつと湧いていた怒りを深呼吸で落ち着け「分かった」と駆け寄り、反対側の手を引っ張る。
根が生えたようにぴくりともその場から動かない。
「ノブくん! 早く立ってってば!」
「このままだと全員危険なの……っ!」
必死でそう呼びかけるが狂ったように「俺は悪くない」と繰り返すだけで、動く気配はなかった。
その時、「おい……っ!」と恵衣くんが控えめな声で私たちを呼んでパッと顔をあげた。教室の扉に耳を押し当てた恵衣くんが険しい顔で片手を上げる。
すぐに意を汲み取って、来光くんがノブくんの口元を塞いだ。私も身を縮めて息を殺す。
十秒か一分か、感覚が狂うほどの張り詰めた空気が流れて、後ろ手に鍵をかけた恵衣くんが足音を立てずに戻ってくると私達を見た。
「奥の階段から残穢が流れてきているのが見えた。おそらく奴はこの棟にいる。時間がない。今すぐ出るぞ」
もうこの棟に、と息を飲む。
「恵衣くん、もう下の階いるなら階段はもう使えないんじゃ……」
「いや、おそらくアレはまだ一階だ。今なら一つ下の二階におりて渡り廊下で二号棟へ向かって外に逃げられる」
なるほど、確かに渡り廊下を経由して別の棟に移れば四号棟の一階を経由せずに外に逃げられる。
だったら今すぐにでもここを出るべきだ。時間はない。
「おいお前。その窓から外に突き落とされるか自分で走るか三秒以内に選べ」
そんな脅しすらノブくんには届いていなかった。
痺れを切らした恵衣くんがつかつかと歩み寄ってきて手を伸ばした。本気で窓から放り投げるつもりなんだ、とギョッとして間に入ろうと腰を浮かせる。
けれど私よりも恵衣くんよりも先に、首がふれるほどの鋭い平手が炸裂した。その衝撃に驚いたのかノブくんがやっと顔を上げた。
「────いい加減にしろッ!」
その胸ぐらを掴んだのは来光くんだった。
「どこまで間違え続けるんだよ! いい加減気付けよ、目を覚ませよ! 確かに君をいじめてた奴らは最低だよ、でもこの状況を作り出した君も同じくらい最悪最低のクソ野郎なんだよッ!」
怒鳴り声をあげる来光くんに、ぶたれた頬に手を当てながら目を丸くする。
馬乗りになってノブくんの胸ぐらを激しく揺すった。
「ノブくんは僕らをいじめていたアイツらと同じレベルまで成り下がるのか!? どこまで自分の価値を下げる気だよッ! そんな奴じゃなかっただろう!?」
顔を真っ赤にしてそう叫ぶ横顔が私には今にも泣き出しそうに見えた。
「お、俺は悪くない……」
「いつまで言ってんだよ!? こうなったのはノブくんのせいだ! 認めろッ!」
「だって……だって! こうでもせんと耐えられへんかったんや……ッ! 一人になるのも居場所がないのもいじめられるのも、もう懲り懲りなんや!」
来光くんが目を見開いた。
見開いた瞳にすぐに水の膜が張って、真っ赤になった頬を滑る。落ちた雫はノブくんの胸元に落ちた。
その雫に気がついたノブくんが戸惑うように一瞬怯む。来光くんは胸ぐらを離して、代わりに力なくその胸を叩いた。その拳はどんどん強くなっていく。
「……耐えられない? 居場所がない? 一人ぼっち? どこ見てんだよこの間抜け!」
大きく振りかぶった拳は、触れる前に力が抜けた。
「あの頃、ずっと一緒にいたのは誰だよ……。僕はずっとノブくんの友達だったろ。僕はノブくんの事をずっと待ってたよ! それなのに一度の過ちで、僕のことを信じずに逃げたのはノブくんだろ!? ノブくんが自分から居場所を捨てたんだろ!?」
雫がぼたぼたと小雨のようにノブくんの胸元を濡らしていく。
「……一人ぼっちの僕に手を差し出してくれたあの時のノブくんは、間違いなく僕のヒーローだった。怖がりで臆病なくせに意地っ張りの見栄っ張りで、僕が一緒だったら見栄を張ろうとなんでも先にやろうとしてたよね。そんな君がとても格好よかった」
最低な人だと思っていた。
いじめは間違っている。どんな理由があろうと許されるものではない。けれどいじめられたことを理由に人を傷付けるのは、いじめてきた人達と何も変わらない。
ノブくんはその苦しみを知っているはずなのに、人を傷付けてなおその責任から逃れようとしていたからだ。
でも来光くんは、ノブくんのそうじゃない面をちゃんと知っている。酷い所ばかりじゃなくていい所を知っている。
だからそこずっと待っていた。信じていた。友達だと思っていた。
「僕がいじめられている時、ノブくんがどんな顔をしていたか知ってる。僕以上に苦しそうな悲しそうな顔をしてた。そんな優しいノブくんが好きなんだ」
胸が痛い。喉の奥が詰まる感覚がした。
二人を苦しめたいじめさえなければ、きっとこの二人は今もまだ隣合って笑っていたんだろう。
「僕の大切な友達を、それ以上貶めるなよ。親友なんだ」
来光くんが乱暴に目尻を脱ぐって笑った。
その瞬間、ぐしゃりと顔を歪めたノブくんが両手を顔に当てる。肩が振るえている。こめかみから雫が溢れているのが見えて、静かに鼻をすする音が聞こえた。
「────こんなおおごとにするつもりじゃなかった。お前から話を聞いた時、直ぐに呪いを解いて終わらせるつもりやったんや……」
「うん、分かってる。君がこんな大それたこと出来る訳がないもんね」
「……助けて、来光。俺に出来る事は何でもする!あのおじさん達にも謝りたい! 俺が悪かった……ッ!」
ノブくんの腕を引っ張りあげた。起き上がったノブくんの胸にトンと拳をぶつける。
「大丈夫。絶対に助けるから」
赤くなった鼻を啜ってノブくんが少しはにかむ。
ごめん、それからありがとう。そう続けられた小さな声はしっかりと私たちにも届いた。
「おい、感動の和解は後にしろ。時間がないって言ってんだろ」
水を差すそんな声に私たちはハッと我に返る。外の様子を伺っていた恵衣くんが険しい顔で振り返った。
「自分の足で走ることにしたのならさっさと立て」
そう言われてノブくんはあわあわと立ち上がる。一瞥した恵衣くんは私達と目を合わせた。
「走るぞ」
私達が頷くと同時に、恵衣くんは扉に手をかけた。
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