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犬と猿
壱
しおりを挟む「舞はもう完璧なんやけどなぁ……」
ふむ、と顎に手を当てて首を傾げた志らくさん。私はがっくりと肩を落とした。
今日で何度目かの「鼓舞の明マスター講座」。
これまでは私の中に宿る鼓舞の明を感じる為に瞑想を繰り返す日々だったけれど、実習も残りひと月を切って「座ってても仕方ないし舞うか」という志らくさんの提案によりとにかく動いてみることになったのだ。
リズムはまだ分からないのでとにかく決められたステップを四拍子で舞い切る。
それで志らくさんのあの発言だ。
足りていないものは分かっている。私に足りていないのは「リズム」だ。
志らくさんの鼓舞の明を初めて見た時の事を思い出す。三拍子とも四拍子とも言えない独特な拍子で舞う姿は、崩したリズムのはずなのにとても見ていて心地よかった。
私にはまだその"心地いいリズム"を見つけられないでいる。
実習が終わるまであと一月。習得するには時間がかかると聞いていたし志らくさんからは「気長にやろう」と言ってくれたけれど、ここ数週間何も変化がないとどうしても気持ちが焦ってしまう。
うーんと唸り声を上げて考え込む志らくさんの前に正座した。
「いやぁ、巫寿ちゃんホンマついてないな。私に教えを乞うのが間違いやわ。これ以上教えれることなんてなさそうやもん」
お手上げですとばかりに力なく首を振った志らくさん。「そんな……!」と藁にもすがる思いで志らくさんを見つめる。
「嫌やわ、そんな捨てられた子犬みたいな顔せんといてよ。別に見捨てるなんて言うとらんやん」
「でもそんなニュアンスでした」
「まぁまぁ。とにかく"私から"はもう教えれることは無いってだけ」
そう言った志らくさんは傍に置いていた自分のスマホを手に取った。軽く画面を叩いたあと「ほいこれ」とスマホをよこす。
画面をのぞき込むと見覚えのある女性が巫女装束で舞う姿が映っていた。
「これって……」
「そ! 巫寿ちゃんのお母さんの舞の映像。しかも、鼓舞の明を使ってる所を収めた超貴重映像や」
画面に移る女性、艶やかな黒髪に優しげな相貌のその人は家族写真で見るよりも少し若いお母さんの姿だった。
「あれ、でも鼓舞の明って動画に撮ってもいいんですか? 大勢で見るのもあまりよくないんですよね?」
「ええんちゃう? 諸法度には特に挙げられてないし。まぁの当時はお母さんにバレてしこたま怒られたけどな」
けけけ、と笑った志らくさんは再生ボタンを叩いた。
恐らく家庭用のハンディカメラで撮影された映像をスマホで録画し直したのだろう。画像が荒く手ぶれしている。
それでもお母さんの舞は息を飲むほどに美しかった。
しだれ桜が春の陽気に吹かれたように靡く黒髪。その指先はパッと桜が咲いたように可憐で、神楽鈴の音色は芽吹きの喜びを奏でているようだった。
足音はない。人ならざる者が地上に舞い降りたような清廉さに息をするのも忘れてしまう。
桜の精霊そのものだった。
「ほんま何度見ても惚れ惚れするわ。泉ちゃんの神楽舞は」
「はい。本当に……」
お母さんの舞はまだ数回しか見たことがないけれど、それでも別格なのが分かる。いつもこれを見る度に「どうしてその血は引き継がれなかったんだろう」とちょっと落ち込む。
せめて何か一つでもいい所を引き継いでいればなぁ。
「この動画あげるし、今後は泉ちゃんの舞を参考にしてみ」
「ありがとうございます……!」
まるで出口が見えなかったこれまでに比べれば、目指すものが出来ただけでも随分違う。
頑張るぞ、と身を引きしめた。
神職は死ぬまで研鑽、というのは色んな先生の口癖だ。自分の祝詞を分析してより強い文言へ構築し、舞の精度を高め、日々変動する己の呪の力を抑え、言祝ぎを高める必要がある。
だから定年間近の神職であろうと、とにかく空き時間があればひたすら勉強する。
つい先程、来光くんと慶賀くんと私の3人で手伝っていた仕事が終わって、禰宜から「手が空いたので自由にしていいですよ」と言われた。
「自由にしていい」というのは本当の自由時間という訳ではなく「自由に自学自習していい」という意味だ。ここで奉仕し始めた初日にそれを知らずに本当にのびのび過ごしていた私達はしっかり禰宜に叱られた。
小上がりにあるテーブルを借りて私たちは各々に勉強道具を広げた。
私はノートを広げると、志らくさんにもらった動画をスマホで再生する。
「巫寿ちゃんは舞の勉強?」
隣に座った来光くんが興味深げに手元を覗き込んできた。
「うん。お手本の映像を貰ったから、自分の動きと見比べてみようと思って」
完成されたお母さんの舞と未完成の私の舞を見比べることで、自分の舞の足りない部分を見つけるという作戦だ。
果たして模倣だけで鼓舞の明をマスターできるのかどうかは微妙なラインだけれど、お母さんの技術は他の舞を舞う時にも活かせるはずだ。
来光くんにも見えやすいようにスマホを少し傾ける。「綺麗だねぇ」と息を吐いた来光くんに、思わず口角があがる。
俺にも見せて!と慶賀くんが身を乗り出した。
ゴホン、と禰宜が咳払いをして慌てて口を抑える姿にくすくす笑う。すすす、と静かに横に座った慶賀くんにも見えやすいようにスマホを傾けた。
ほぇ~と感嘆の声をもらす慶賀くんにやっぱり嬉しくなる。誰が見てもお母さんの舞は息を飲むほど美しいという事だ。
舞が終わってスマホの電源を落とすと、二人は「え?」と不思議そうな顔をして私を見た。
「巫寿のは? 見ねぇの?」
「見比べて研究するんだよね?」
至極当然の質問に目を逸らす。
二学期の奉納祭で皆に神楽舞を見られた時は全然恥ずかしくなかった。いや、少し恥ずかしかったけれど、舞台の上で披露できるくらいはたくさん練習したし、練習した分自信にも繋がった。
でも鼓舞の明の舞は練習を初めて数週間だ。自分がまだそこまで上手くないのは自覚しているし、お母さんと比べると明らかに劣っているのは分かっている。
でもお母さんと比べられて自分の下手くそさを皆に認知されてしまうのがかなり恥ずかしい。
私のそんな気持ちに気付いたのか、来光くんがニヤニヤ笑いながら頬杖をつく。
「第三者に見てもらうことで、新たに気付くこともあると思うんだけどなぁ」
「それは、そうだけど……」
来光くんってたまに凄く意地悪だ。
慶賀くんと泰紀くんの親友なだけある。
「巫寿って"私は全然"とか"まだまだ"とかよく言うけど、もっと自信もった方がいいと思うぞ?」
「そうそう。もっと言祝ぎを高めないと。あの聖仁さんのお墨付きなんだから胸張りなよ」
みんなの励ましの言葉や褒め言葉は素直に嬉しいしありがたい。けれどそれが私の自信につながるかと言うとそういう訳ではない。
自分でもつくづく面倒くさい性格だなとは思うけれど、とにかく私は昔から何事においても自信がなかった。
何か一つでも注意されたり指摘されるとたちまち落ち込んでしまうし、立ち直るのにも結構時間がかかる。
神修に来てからなんて毎日自信を失う日々だったし、今もまだ知らないことは沢山あって直面する度に不安になる。
色んな人から口酸っぱく「言祝ぎを高めなさい」と言われてきた。
思えば学校のみんなも神職さまたちも結構自己肯定感が高い。何か上手くいった時は「できて嬉しい」ではなく「まぁ、できると思ってたけど!」と皆に自慢するし、周りもそれを普通に受け入れて称え合う。叱られても気にしない────慶賀くん達だけがそうなのかもしれないが────し、落ち込むのはほんの一瞬で、すぐに気持ちを切り替えるのがとても上手だ。
言霊の力を持って生まれた子供は幼少期から言祝ぎを高める練習をすると聞いたことがあるけれど、きっとこういう根本的な物の考え方から教わるんだろう。
私も教わっていたらなにか違ったんだろうか、なんて一瞬考えて、すぐに両親の思いやお兄ちゃんの苦労を思い出し頭を振った。
「笑ったりしないよ。ただ巫寿ちゃんの力になれたらなって」
「そうだぞ! 裾踏んですっ転んだら笑っちまうかもしれねぇけど、真剣な奴のことは絶対笑わねぇ!」
二人の言葉には絶対に偽りなんかないと分かる。チーム出仕の皆は、本当に優しくて頼りになることを知っている。
そこまで言われてしまうと、ただ「自信がなくて恥ずかしいから」という理由で隠した今の私の方がもっと恥ずかしい。
覚悟を決めて息を吐いた。物凄くゆっくりスマホを差し出すと「出し渋んなぁ」と笑われた。
「────巫寿と巫寿のかーちゃんが舞ってるリズムが違うのは何で?」
「あ、僕もそれちょっと気になった」
動画を見せたあと、二人は率直な感想という雰囲気でそう聞いてきた。
「あ、それはね」と正直にまだ鼓舞の明がマスターできていないからだと打ち明ける。
鼓舞の明がマスター出来れば、自然の力に刻まれたリズムが分かるらしいのだけれど……。
「なるほど~、鼓舞の明って難しいんだな」
「僕の書宿の明とは使い方が全然違うね」
腕を組んだ来光くんに尋ねる。
「書宿の明ってどうやって使うの?」
「結構簡単だよ。文字を書く時にめちゃくちゃ気持ちを込めるだけ。例えば凄く疲れてて眠りたいのに眠れない時とかに「眠れ」って書いたら一瞬で落ちる。名前を書くと対象を絞れるし、かなり精度も上がるよ」
へぇ~、と目を丸くする。
やっぱり鼓舞の明とは全然違う。授力によってその力の使い方は異なってくるらしい。
「じゃあさじゃあさ! "瞬間移動するための御札"とかも作れんの!?」
身を乗り出して興奮気味に尋ねた慶賀くんに、呆れ気味に息を吐いて眼鏡を押し上げた。
「またそんな馬鹿なことを考えて……。理論上は出来るけど、もの凄く具体的に書かないと頭だけ取り残されたり海の中に着いたりするよ」
想像してゾッとしたのか慶賀くんは顔を青くして黙り込んだ。
でも"瞬間移動する御札"なんてものも、理屈ではできちゃうんだ。あらためて授力は奥が深いんだなぁと実感する。
「僕の書宿の明の師匠に教わったんだけどさ、授力って自分のために使うよりも人のために使うことの方が多いんだって。書宿の明は御守や御札の作成に使うし、鼓舞の明は人のために舞うでしょ? どの力も全然違うように思えて、根っこの部分は意外と同じなんだって」
"人のために使う"
来光くんの言葉がすっと胸に染み込んだ。
確かに私の授力は自分のために使う事はできない。人のために舞うことで効果が発揮される。
思い返してみれば、練習中は誰かのためだとかそういう事は考えずに、授力を使えるようになりたいという気持ちが先走っていた気がする。
人のため……。そうか、人のため。誰かのため。
明日の練習はそれを意識して取り組んでみよう。
「……ふたりともありがとう。足りないものが分かってきた気がする」
「どういたしまして。マスターしたら一番に見せてよ」
そう笑った来光くんに「もちろんだよ」と大きく頷いた。
「にしてもアレだな! リズムがないとちょっと滑らかなロボットダンスみたいになるんだな!」
アハハッ、と笑った慶賀くんに固まる。沸騰直前のヤカンのようにぶわりと顔が熱くなった。
「笑わないって言ったじゃん……!」
そう抗議の声を上げると「あ、ヤベッ」と慶賀くんが肩を縮める。
そんなふうに騒いでいると、いきなり後から手で頭を挟まれてグイッと机のノートに向けられた。隣の二人の同じように、なんなら私よりも若干手荒に机に向きあうよう押さえつけられる。
「……神職は死ぬまで研鑽」
禰宜の低い声が背中から聞こえて、私達は青い顔で何度もこくこくと頷く。急いで姿勢を正すとペンを握りしめノートにかじりついた。
「うわっ、なんかピチピチしてんだけど!」
「なぁなぁネクタイどーやって結ぶんだ?」
「スラックスって温かいんだね。かなり動きやすいし」
「なんか新鮮だね」
各々にそんな感想を口にしながら鏡の前でくるくる回る皆は着慣れない制服に何処か浮き足立っているようだった。
という私も初めてのブレザータイプの制服に少しドキドキしている。
中学の制服はセーラー服だったもんなぁ。
スカートのプリーツを整えながら鏡の中の自分をちらりと盗み見て緩みそうになる頬に慌てて力を入れた。
スカートは白と臙脂色のチェック柄、同じ色のリボンにワインレッドのセーター。胸元に学校のエンブレムが入ったブレザーは焦げ茶色でとても大人っぽい。
私達が調査をしている西院高校の制服だ。
なぜ西院高校の制服に着替えているのかと言うと、私達はこれから学校内に潜入するからだ。
『明るいうちに学校内を詳しく調べたいね』
来光が復活した翌週の月曜日、会議室に集まって本格的に調査を再開した私達の意見はそれで一致した。
とは言っても前回の調査が"学生が帰宅した夜に"という条件だったので、そんな事が可能なのだろうかと首を傾げる。
ダメ元で禰宜に尋ねたところ、「昼休みの50分間のみ、西院高校の学生服を着て目立たないように」という条件で内部調査の許可が降りた。
だから私たちはこれから、西院高校の昼休みに合わせて学校に乗り込む。
「阿呆らしい。服装ひとつで浮き足立って、先が思いやられる」
制服に着替えた恵衣くんがネクタイを締めながらそう悪態をつく。
またそんな言い方して、と苦笑いをうかべる。
「なぁネクタイの結び方分かんねぇ。誰かググッてくれ~」
「なんか固結びになったんだけど!」
「こうして……こう? あれ? やっぱりこう?」
何をどうしたらそうなるのと突っ込みたくなるほどぐるぐる巻きになったネクタイに右往左往する皆。
鏡の前で首を捻る嘉正くんに歩み寄った。
「巻き付けた方を裏から通すんだよ」
そう助言すれば意外そうに目を瞬かせる。
「ネクタイの結び方知ってるの?」
「あ、うん。お兄ちゃんがね、高校生の頃は制服がネクタイだったんだけど……"毎朝結んで欲しいから覚えて"って」
「あー……なるほど。あのお兄さんなら言いかねない」
でしょ、と肩をすくめる。
「巫寿、結べるなら俺のやって~」
「え、巫寿できんの? なら俺のも頼んでいい?」
顔中にネクタイを巻いた慶賀くんと泰紀くんが横に並ぶ。笑いながら「いいよ」と手を差し出した。
しかしネクタイを受け取ろうとしたその瞬間、別の手がそのネクタイを横からひったくる。
「神職たるものそれくらい自分でやれ」
険しい顔をした恵衣くんだった。
「なんだよ恵衣! だって神職はネクタイなんてしねぇだろ!」
「どんな事にも冷静かつ完璧に対応するのが神職に求められる資質だ。出来ないことをやろうとせず人に任せるのはただの堕落者だ」
「やった事ねぇんだから出来ねぇのは当たり前だろ! じゃあお前が結べよ!」
「はァ? なんで俺が!」
「じゃあ巫寿に頼むし~」
言い合う二人にあたふた顔を見る。
「あの、ネクタイって初めて結ぶ時は時間かかるし今日は私が」
「うるさい黙ってろ」
そんな物言いに私もカチンときた。
「そんな言い方しなくても!」
思わずそう声を張ったその時、「ええ加減にしぃや!」と襟首をいきなり掴まれた。
ビックリして顔を上げると、呆れた顔の千江さんが私たちを見下ろしている。どうやら言い争う声を聞いて様子を見に来たらしい。
「ネクタイひとつで何を言い争っとんの。昼休みしか許可されていないんやろ? さっさと用意して行き」
肩を竦めた皆が「はーい」と小さく返事をする。
「巫寿ちゃんも三馬鹿と同じテンションで言い争っとったらあかんよ。恵衣くんもほんまその物言いどうにか出来んかね」
「僕を一緒にしないでくれますか!?」
来光くんの嘆きを聞き流した千江さんは私と恵衣くんの頭に軽く手刀を落とす。
「恵衣くんは慶賀の、巫寿ちゃんは泰紀のを結んだり。ほんでさっさと出発! 今度は禰宜が角生やして怒りに来るで!」
禰宜を怒らせるとまずいことはこの約二ヶ月でしっかりと学んだので、恵衣くんも流石に「なんで俺が」とは言い返さなかった。
その代わり般若のような顔をして文字のごとく慶賀くんのネクタイを締め上げる。
「ぐぇっ」と慶賀くんの悲鳴が聞こえて皆は憐れむような目を向けた。
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