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昔の話(上)
伍
しおりを挟む日記は全部消しゴムで消してから破り捨てた。他のページも全部破った、ノートもプリントも教科書の書き込みも全部破り捨てた。
塾の時間になってお母さんが部屋へ僕を呼びに来たけれど、ドアの内鍵を閉めて返事はしなかった。
お父さんが帰ってきて「いい加減にしろ!」という怒鳴り声が聞こえたけれど、枕に顔を埋めて布団に潜り込んだ。
朝が来て、また二人が戸を叩いた。今度は「学校で何かあった?」「辛いことでもあったのか?」なんて優しい声をかけてくる。
おかしいね。僕が何度上履きを無くそうと、煩わしそうに新しいものを用意するだけだったくせに。
今になって、なんでそんな風に態度を変えるんだよ。
ずっと助けて欲しかった。気付いて欲しかった。ねぇ助けてよ、助けてよ。僕おかしいんだ。人を殺せる力があるかもしれないんだ。怖いよ苦しいよ。僕はどうしたらいいの。
もう嫌だ。全部全部、嫌だ。
朝が来て、夜が来て。両親は何度もドアを叩いては時に優しく時に激怒しながら僕に話しかけた。
ドアは開けなかった。
もう自分でも何が何だか分からなかった。
「あの子、おかしいのよッ! 昔からそうだったわ! 変なものが見えるだなんて言って人の気を引こうとして、今だってきっとそうなのよ!」
「怒鳴るのはやめろ、頭が痛くなる」
「じゃあどうしろって言うの!? あなたも少しは協力してよ! 私だって働いてるんだから!」
「子育てはお前の仕事だろ!? 家事も育児もちゃんと両立させる事を条件に仕事の復帰を許したんだぞッ!」
夜中に怒鳴り声が聞こえる日々が続いた。
胃が痛い。何も食べてないからだと思うけれど、怒鳴り声を聞く度に胃がチクチクして痛かった。
「あの子は、悪魔にでも取り憑かれたのよッ!」
「いい加減にしろ! 隣に聞かれたら恥ずかしいだろ!?」
死神の次は悪魔。
はは、と乾いた笑いを浮かべる。
もうどうでもいいや。このまま死ねるなら、それでもいいかもしれない。
ぼんやりと天井を見上げながら、そんなことを考えていると目尻のの熱がこめかみを伝った。
「────あっ、ちょっといきなり何なんですか貴方!?」
「なんだお前は! 不法侵入だぞ!?」
そんな騒がしい声に目が覚めた。
何日経ったのか何週間経ったのかあるいは数時間なのか、締め切られた遮光カーテンのせいで今がいつなのか朝か夜かも分からない。
ただ今日もいつもと変わらない一日が始まるのかと思う間もなく、騒がしい声はどんどんこちらへ近付いてくる。
「うわ、こりゃすごい。間違いなく書宿の明が呪いに転じてるね。それもかなり強い。修祓専門の俺がわざわざ動員されるわけだ」
両親の声でも親戚の声でも知り合いの声でもない、若い男の声だった。
「薫さん! あなたの任務は解呪までですから、終われば直ぐに引き上げてください。そこからは我々本庁の仕事です。決して余計な事はしないでください」
「あはは、失礼だな。余計な事なんてしないってば」
扉越しに聞きなれない単語が飛び交っている。若い男の他にももう一人誰かがいる。
布団に潜り込んで枕に顔を押し付ける。
きっと今日も、お母さん達がどこからか連れてきたカウンセラーが来たんだ。そのうち「先生とお話しましょう」「悩んでることがあるんだよね?」なんて語りかけてくるに決まってる。
もう僕に構わないで。お願いだからほっといてよ。
その時、重苦しいこの部屋の空気を切り裂くような鋭い柏手がドアの向こうで響いた。
冷たい水を頭からかけられたかのように背筋が伸びるような心地がした。
「高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て 八百萬神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひ────」
不思議な言葉の羅列だった。生まれて一度も聞いたことがない。
ただその言葉と音はとても心地よかった。
身体中に纏わりついていた重いものがその音に絡まって、ひとつずつ、ひとつずつ解けていくような感覚がする。
息が出来る。あんなに苦しかったのにその音に包まれていると、息ができるような気がした。
布団から顔を出して座る。優しい音が最後の音を紡いで終わった。
きぃ、と音を立てて静かにドアが開く。差し込む光に顔を顰めた。久しぶりに見た光だった。
紫色が目に飛び込んでくる。袴だ、くすんだ紫色の袴だった。長身の男が立っていた。目鼻立ちの整った綺麗な顔をしていた。
目が合う。彼は微笑んだ。
「おいで、来光。こんな所にいたらどんどん腐っちゃうよ。時には自分から捨てることも大事だ」
薫さん、と後ろに控えていた黒いスーツの男が窘めるように声を上げた。
そんな声には耳も傾けず、男はずかずかと中へ入ってくると僕のそばに膝を着いた。
男は目を細めた。まるで何かと重ねるような、懐かしいものを見ているかのような表情で僕を見る。
「神修は、本当の自分を受け入れてくれる友達に出会える場所だよ」
頭を撫でられた。温かくて大きな手だ。気がつけばまつ毛を超えた大粒の涙が布団を濡らした。
「ずっと一人は、寂しいでしょ?」
ああ、そうだ。ずっと僕は寂しかった。ひとりぼっちは本当に寂しかった。
「本当に、いますか」
僕を見てくれて、僕を信じてくれて、僕を受け入れてくれる。そんな友達が、本当にいるんだろうか。
「いる。きっと出会える。最初は煩わしいと思うかもしれないけれど、いずれその毎日はかけがえのないものになる。俺が保証するよ」
差し出された手を取れば力強く握り返された。
その力強さが、僕をあの場所から引き上げた。僕に"きっかけ"をくれたんだ。
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