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別れ
肆
しおりを挟む夜明け頃から細い雨が降り続いていたわくたかむの社が数日ぶりに開いた。しかし参拝客はなく、社頭はしんと静まり返っている。
鳥居の下に男が一人、神職を示す白衣に紫の袴を身に着けて傘を片手に立っている。
悲痛な面持ちで当たりを見渡せば、深い悲しみに包まれた空気を感じ取り目を伏せる。もう片方の手に持っていた手紙を一瞥すると、懐にしまって歩き出した。
男は歩みを進めて社務所を尋ねた。
ガラリと戸を開くと、中にいた数人がパッと顔を上げて深く一礼する。小さく手を上げて首をめぐらせば、奥から男が一人でてきた。
探していたその男がこちらに気が付き、慌てて駆け寄ってくる。
「禄輪!」
「すみません真言さん、忙しかったですか」
「問題ないさ。それより先日の神葬祭ありがとうな。助かった」
肩をそっと叩いた真言に禄輪は小さく首を振った。
ふと、真言の背中に隠れるように小さな子供がいるのに気付いた。禄輪はその場に膝を付いて視線を合わせると声をかけた。
「芽、こんにちは」
返事はなく、真言の腰にしがみついたまま微動だにしない。
禄輪は目尻を下げて笑った。
「芽さま、禄輪ですよ」
「芽~、正月にお年玉あげたろ。まさかおじさんの事忘れたのか?」
おどけた口調でそう言った。本当は先日の神葬祭でも会っていたのだけれど、あえてそれには触れなかった。
この子達にそれを思い出させるのは今はあまりにも酷すぎる。
頑なに顔を見せない芽に小さく笑って立ち上がった。
「真言さん、今から少しいいですか?」
「すまん、この後芽さまを神修へお送りする予定なんだ」
よく見れば芽は初等部の生徒を示す紺色の制服を身につけていた。
「夏休みは先週で終わってるんだが、バタバタしたもので今日からのご登校なんだよ」
「そうでしたか。なら後で結構です。隆永さんと薫にも用があるので、さきに会って来ますね。隆永さんは?」
「宮司は本殿に」
「様子はどうですか」
声を低くして尋ねれば、真言は眉根を寄せて力なく首を振る。そうですか、と禄輪は息を吐いた。
行きましょうか、と芽の手を握った真言が歩き出す。手を引かれて歩き出した芽とは最後まで目が合わなかった。
社務所にいた神職たちに軽く挨拶をして禄輪は本殿を目指した。
本殿の入口には一足の雪駄が並べられている。その隣に自分のを並べて入口で一礼すると中へ足を踏み入れた。探していた背中は祭壇の前にあった。何かをする訳でもなく、ぼんやりと祭壇の鏡を見つめている。
「隆永さん」
名前を呼べば僅かに肩が振るえて振り返る。焦点の合わない目がぼんやりと自分を見上げた。
「祈祷中ですか? 出直しましょうか」
「祈祷……? ああ……」
返事もはっきりとせず、またぼんやりと祭壇を見上げた。
「ちゃんと休んでますか? 顔色悪いですよ」
「ああ……眠ってるよ。本当に、毎日ちゃんと……いつも、このまま一生目が覚めなければいいのにって思いながら」
つうと雫が頬を流れて落ちた。隆永はそれに気付いていない。
「……冗談でもそんな事口にしないでください。言祝ぎを口にしないと」
禄輪が眉を寄せてそういえば、ふっと瞳に力が戻って隆永は目を瞬かせる。
「ごめん今、俺なんて言った? て、あれ禄輪、お前いつ来たの」
本当に心から不思議そうに自分を見上げた隆永にかける言葉を失う。
「ああそうだ、幸の神葬祭はありがとうな。俺がやるって言ったのに、真言のやついつの間にか禄輪に頼んでたみたいで。まあ芽も薫もベッタリだったから正直助かったよ」
はは、と笑った隆永は重たい腰を上げて立ち上がる。
「で、どうした? 俺に用? 折角だからお茶飲んで行ってよ、幸も正月にお前に会えなくてガッカリしてたから顔見せてやって────」
言葉に詰まった隆永が笑った顔のまま固まった。笑っているはずなのに、またその頬に涙が流れる。
あなたの言う通りだ、と禄輪は懐に入れた手紙にそっと触れて眉根を寄せた。
「隆永さん、担当直入に言います。薫を俺のところに預けませんか」
「……薫を?」
「はい。正直、今の状態の隆永さんがちゃんと薫を正しく導いてやれるとは思いません。薫のような呪を多く持った子供は、幼少期の修行が一番重要なのは分かってらっしゃいますよね」
隆永の目から光が消える。またうつろな表情でぼんやりと自分を見た。
「……分かってるよ、そんな事」
「分かってるなら尚更、私に預けてください。幸さんもそれを望んでます」
「幸が……?」
「ええ。今年の正月が明けた頃に、手紙を頂いたんです」
隆永には学生時代、良く面倒を見てもらっていた。と言っても十は歳が離れていたから、自分が初等部の高学年になる頃には隆永は二年の専科の過程を終えて実家の社の禰宜になった。
会う機会はぐんと減ったが、顔を合わせれば小生意気な子供だった自分の相手をしてくれた。
大人になってもその名残でお互いの社を度々訪れていた。
結婚してからは隆永の妻の幸も同じように自分を可愛がってくれて、二人の間に双子が産まれてからは双子の遊び相手にもなった。
自分は生まれ持った言祝ぎが高く、呪を垂れ流してしまう薫にも関われる数少ない大人のひとりだった。それもあって、幸からは良く薫についての相談が書かれた手紙を受け取っていた。
最後に受けとった幸からの手紙には、自分の亡き後薫の事を頼みたいという旨がしたためられていた。
縁起でもないことを言ってはいけない、そう書いた手紙を書いたはいいものの、忙しさのあまり送るのを忘れていた頃に届いたのが幸の訃報だった。
"禄輪くんも知ってると思うけど、あの人私の事大好きでしょ? だから多分私が居なくなったら、手の施しようがないほどのダメ人間になると思うのよねぇ"
記憶の中の彼女が苦笑いで肩を竦めてそう言う。手紙にはそうも書かれていた。
「幸さんの意志を尊重しませんか」
「……いいよ、別に。禄輪の好きにして」
反対される事はあっても、あっさりと了承するとは思ってもみなかった。思わず戸惑い気味に「え?」と声を上げると、隆永は自嘲気味に笑う。
「もうさ、全部どうでも良くなったんだ」
「隆永さ……」
「だって、そうでしょ。こんな言い方もなんだけど、幸が反対しなければ、ここにはいなかった子なんだから」
あまりにも冷めた横顔だった。自分の知っている神々廻隆永はこんな顔をする男だっただろうか。
「俺は幸が二人とも産みたいって言ったから方法を模索した。殺さないでって言ったから、生かして強く育てる道を選んだ。薫が宮司に選ばれて反対する声が上がっても、皆を必死に説き伏せた」
ふ、と隆永が鼻で笑う。
「でも、もう幸はいないんだよ。ならもうどうでもいい。俺、疲れたんだ」
アンタは父親でしょう、そう怒鳴ろうとしたはずなのに上手く言葉が出てこなかった。
幸がどれほどの存在だったかを知っている。そして大切な人を失った時の気持ちを知らない訳では無い。深い悲しみの中にいる隆永を責める言葉なんて、口に出せるはずがなかった。
深く頭を下げて本殿を出た。隆永はまたぼんやりと祭壇を見上げていた。
薫の居場所も真言から聞いていたのでその足で離れへ向かった。
離れへ向かう道のりは相変わらず人気がなくどことなく寂しい。瓦屋根や木の柱が雨に濡れて重苦しい雰囲気の離れの玄関に立ち、禄輪は迷うことなく戸を引いた。
覚悟していた衝撃は来なかった。というのも、薫の母親、幸が急逝してからというもの薫の精神が安定せずに呪の調整が乱れていると言うのを聞いていたからだ。
残穢が渦巻くことも無く、家の中は耳鳴りがするほど静かでひっそりとしていて、どことなく冷たい空気が流れている。
禄輪は余計に険しい顔を浮かべて雪駄を脱ぎ捨てると廊下を早足で歩いた。
薫の部屋はもぬけの殻だった。一瞬気が急いだけれど、直ぐに幸の私室へ向かう。幸の部屋の前まで来るとその異常さに気がついた。
「結界……」
幸の部屋だけを囲うように強い結界が施されていた。
神職の誰かが施したのかと怒りを覚えたが、直ぐにそうでは無いと分かった。結界と呼ぶには未完成で所々に綻びがある。一番下の階級の神職が張ったとしてももう少しマシなものが作れるだろう。
それに結界は外敵から守り、内部の浄化に特化しているはずなのに、その結界はそのふたつのどちらの効果も感じられない。感じられるのは抑止と抑制、中にあるものを外に出さず閉じ込める役割を付加されているようだった。
そんな事をする人物は、ここには一人しかいない。
禄輪はそっと襖の側まで歩み寄った。
「薫」名前を呼んだその瞬間、激しく結界が揺らいだ。波打つそれを撫で付けるように触れる。そして、
「掛けまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に、御禊祓へ給ひし時に生り坐る祓戸の大神等、諸の禍事罪穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を聞食と、恐み恐み白す」
祓詞を奏上すれば、揺らいだ結界は光の粒となって空気中に溶けていく。襖に手をかけたその瞬間、「来ないでッ────」中から悲鳴に近いか掠れた声が聞こえた。
「来ないで、来ないで……!」
「薫落ち着け、禄輪おじさんだ。覚えてるか? よくお父さんに会いに来て、二人とも一緒に遊んでたろ。今年の正月明けに、お年玉のお礼の手紙くれたよな」
「来ないでッ」
まるでこちらの声は届かない。ただひたすらに拒絶する言葉は、禄輪には悲鳴のように泣き声のように聞こえた。
かわまず襖を開ければ、激しく動揺する空気を感じ取った。
首を廻らせれば部屋の奥の箪笥の影に布団を頭から被ってくるまった小さな影を見つける。そばに寄らずとも分かるほどに震えていた。
そばに歩みよって膝を付いた。怯えた目が布団の隙間から自分を見あげる。
「薫……」
手を伸ばせば逃げるように身を縮めた。
「ダメ、ダメ……来ない────ッ」
不自然に言葉を止めた薫。そっと布団を剥がせば、両手で自分の口を覆って大粒の涙をこぼす薫と目が合った。
薫は片方の手で禄輪の膝を押した。その目が「近付くな」と訴えている。
「薫、大丈夫だ。私は大丈夫だ。これまでもそうだっただろ? ほら」
薫の手を取り優しく握った。小さな手の甲を優しくさすれば、怯えたように身を引こうとする。痛くないように、でも決して離さず手を握り続ける。
やがて薫の力がゆっくりと抜けていく。
「禄輪のおじさん……」
「ああ、そうだ。薫の事が心配で様子を見に来たんだよ」
そう言って微笑みかければ、薫の瞳からはたはたと大粒の涙が零れた。
「お……お母さんがッ……」
「ああ……」
「お母さんが、ぼくの、せいでッ」
「それは違う。幸さんが亡くなったのは薫のせいじゃない」
薫は首を振った。
「お母さんが、布団から出れないのは……体が弱いからだって……でも違ったの、お母さんは僕のせいでッ……!」
「薫、違う。そうじゃない」
「僕がお母さんを殺したんだッ!」
「薫ッ!」
震える肩ををきつく抱きしめた。
この幼さで母親を失った悲しみを耐えられるはずがないのに、こんな時ですら自分の声を抑えて泣く薫に言葉が出てこなかった。
「もう嫌だ、こんな力。また誰かを傷つけるくらいなら、もう、僕を殺して……ッ」
まだ十にも満たない子供が"自分を殺して"と口にしてしまうほど、この環境は薫を苦しめていたんだろう。
隆永は本当にそれに気付けなかったんだろうか、本当にもう何もかもどうでも良くなってしまったんだろうか。
「……言祝ぎを口にしなさい」
小さなその頭を抱きしめて耳元で囁いた。
「薫、私と一緒に来なさい。そして力の使い方を覚えなさい。誰にも何も言わせないだけの力を身に付けなさい。お前の母親は、それを誰よりも望んでいる」
泣き疲れて眠った薫を抱き上げ立ち上がる。
畳の上に巾着が落ちた。半開きになっていた巾着の口から金平糖が転がる。禄輪は黙ってそれを拾い上げると、静かに歩き出した。
「薫、今日からここで暮らすんだ。ほだかの社、絆架神社。私が管轄する社だよ」
その年の夏の終わり、薫は禄輪につれられてほだかの社へやってきた。
「今は体をゆっくり休めなさい」
「……はい、禄輪のおじさん」
薫は以前よりも口数が減って、ぼんやりすることが多かった。そんな姿に不安を覚えたが見守ることしか出来なかった。
「これからは私と、呪を抑え声で言祝ぎを作る稽古をしよう。お前にとってとても大切な稽古だよ」
「はい、禄輪のおじさん」
その翌年の春からは禄輪のもとで稽古を再開した。薫は相変わらず言葉数が少なく、社の神職とも関わりを持とうとしなかった。
「君が禄輪が初めてとったお弟子さんだね。初めまして、薫くん」
「私たち、禄輪くんのお友達なの。あ、この子は息子の祝寿。たまに遊びに来るから、良かったら仲良くしてね」
禄輪と一緒に過ごしているうちに、彼の周りにはいつも沢山の人がいるのが分かった。そして禄輪はお節介で、周りにいる人達もまたそうだった。
「やだもう薫くんガリッガリじゃない! ちょっと禄輪くんちゃんとご飯食べさせてる!?」
「神職なんて爺さんだらけで気がついたら精進料理みたいなメニューばっかりになるんだから、しっかり栄養あるもの食べさせなよ」
「ああもう、お前らうるさい。薫は食っても太らない体質なんだよ」
ほだかの社にいると、大人たちが執拗に自分に関わろうとしてきた。
今までにはないその感覚が何だかむず痒くて、禄輪の友人が社へ遊びに来る日にはよく逃げ隠れていた。
「薫、何で挨拶しに来なかったんだ。あいつら残念そうにしていたぞ」
「別に……」
「ほらこれ、お土産なんだと。お前が好きなんだって話をしたら、わざわざ買ってきてくれたんだ。お礼の手紙、書いときなさい」
差し出されたのは小瓶に入った色とりどりの金平糖だった。
禄輪にもあの夫妻にも、金平糖が好きだなんて言ったことは無い。当たり前のように差し出されたそれに、胸の中に温かいものが流れる。
その感覚に戸惑っていると、禄輪は小さく笑って薫の頭をぽんと叩いた。
薫が十二歳になった頃、禄輪はよく出かけるようになった。
詳しくは教えてくれなかったけれど、友人たちと話している会話を盗み聞きして、とても強い妖が現れたのだと聞いた。忙しい日々が続いていた。あの友人夫妻ももう随分と会っていない。
しかし禄輪は、どんなに忙しくも必ず稽古の時間には現れて、三食のうちの一食は必ず同席して食べていた。
「おい薫、野菜を食べろ野菜を」
「……食べてるもん」
「ピーマン残すなよ、そんなんだから背が伸びないんだ。そのうち祝寿にも抜かされるぞ」
「……うるさい」
「うるさいとはなんだ、うるさいとは。こら、人参をよけるな」
「ああ、もう! 禄輪のおじさ────オッサンいちいちうるさい!」
目を見開いた禄輪がカランと箸を落とした。
薫は眉間にぎゅっと皺を寄せて避けていた人参とピーマンをガツガツと口の中にかきこむ。
「お、おま……お前、さすがにオッサンはないだろ……」
禄輪は額を押えて息を吐く。俺ってもうそんな歳なのか、なんてブツブツと呟く姿がおかしくて、薫は小さく吹き出した。
禄輪が目を見開いて薫の顔を凝視する。その視線に、居心地が悪くなってそっぽを向いた。
落ち込んでいたのかと思えば今度は機嫌よくニヤニヤと笑う禄輪に「……なに」と唇を尖らせる。
「何でもない。でもオッサンはさすがにやめろ。せめて禄輪のオッサンにしてくれ」
「……何にも変わんないでしょ」
「大違いだ! そもそも私はまだ三十前半だぞ、ほんの数年前までは二十代だったんだ。オッサンにはまだまだ程遠い!」
怒っているのか笑っているのかよく分からない顔で額を指で弾かれて、薫は「意味わかんない」と味噌汁を啜った。
そうして季節は巡り巡って、薫は十三歳になった。
最近では稽古で禄輪から注意されることもうんと減って、自分でも力の加減が分かってきた感覚がある。
言霊の力だけではなくて、必要なことは全て禄輪から教わった。
その日も座学の勉強を終えて、薫は机の上を片付けていた。
「薫、来月から学校に通いなさい」
「……え?」
あまりにも唐突な言葉に薫は目を瞬かせた。
「学校だよ、学校。同じ年頃の子供たちが集まって勉強したり運動したりする場所だ」
「いや、そんな事分かってるよ。なんで今更? ていうか学校って普通の?」
眉間に皺を寄せて聞き返せば、禄輪は首を振った。
「神役修詞中等学校。初等部から専科までの十四年生で、言霊の力を持った子供たちが集って神職になるための勉強をする場所だ」
「神修……」
「なんだ知ってたのか。ああ、それもそうか、芽が通っているしな」
芽、久しぶりに聞いたその名前に胸が騒ぎだす。最後に会ったのはもう四年前だ。
「中等部の二年に編入という形で入学が許可されたんだ。来月からだから十月からだな。二学期には少し遅れるが、三年までの勉強は教えたし問題ないだろう」
「待ってよ……俺まだ行くなんて一言も……」
「通うべきだ、薫」
ぴしゃりとそう言った禄輪に、薫は怪訝な顔で禄輪を見上げる。
「確かに必要なことは全て教えたし、"どうして今更"と思うかもしれない。けれど学校でしか経験できないこともあるんだ。俺はそれを、薫に経験して欲しい」
「……どんなこと、それ」
「それは行ってからのお楽しみだな」
乱雑に自分の頭を撫でた大きな手を苦い顔で払った。
入学案内と迎門の面が入ってるから用意を整えときなさい、そう言って禄輪は木箱を手渡した。
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