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出会い

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やがて枯葉は全て落ち、代わりに細かい雪が降る季節になった。


「おい幸、あいつはどうした」


店を開けて少しした頃に厨房から清志が顔を出した。帳簿をつけていた幸は「知らない」と素っ気なく答える。

清志はもうここひと月ほど、幸に「あいつはどうした」と毎朝聞いてくる。あいつとはもちろん隆永の事だ。ひと月ほど前に「ちょっと仕事で忙しくなる」という話を聞いてから、もう一度も店へ顔を出していない。

隆永に出会う前の日常に戻ったはずなのに、店の中はやけに静かで広くなったように感じた。

仕事が忙しいって、こんなに何ヶ月もかかるものなの? どうせそんな事言って、どこかで遊んでるに違いない。だってお正月や七五三ならまだしも、この時期に神社がそんなに忙しいなんて聞いたことがない。

電卓のイコールを強めに叩いて鼻を鳴らす。

別に待っている訳では無いけれど、黙って来なくなるなんて良くしてあげていたお父さんに失礼だ。


「あいつに連絡はしないのか」

「連絡先知らないし。それに知っててもしません!」


幸に睨まれた清志はいそいそと厨房の中へ逃げていく。テーブルの上に頬杖をついて唇を尖らせた。

その日の閉店後、幸はコートを羽織りマフラーを巻きながら厨房に顔を出した。


「お父さん。山田のおばあちゃんからさっき電話あって、家の電球変えて欲しいんだって」

「今から行くのか? もうかなり暗いぞ。俺が行こうか」

「明日来てくれって言われたんだけど、お台所の電球らしいから早く換えてあげたくて。お父さん明日の仕込みあるでしょ? 私行くから」


気を付けろよ、という清志の言葉を背中で聞きながら幸は店の外に出た。

外に出た瞬間吐く息が染まる。まだ十二月が始まったばかりだと言うのに、雪はうっすらと道路に積もった。この時期に積もるのは6年ぶりらしい。

滑らないように気をつけながら、地面を踏み締めて歩く。空気が住んでいるからか夜空が綺麗だ。オリオン座がよく見える。

それにしても、と幸は当たりを見回した。星は見えているが今日は新月らしく月が出ていないせいで往来はひっそりと薄暗い。

なんだかやな感じだなぁ、と身を縮めて足早に通り過ぎた。

電球を替えてくれたお礼にと夕飯をご馳走になって、帰路に着く頃にはすっかり夜も深まっていた。足元を照らす街灯の光は頼りなく、どうしてか無性に不安になる。

隆永と初めて二人で買い物に行った日を思い出した。あれから隆永は律儀に毎回買い物に付き合って荷物持ちを買って出てくれる。

『もう暗いし一人じゃ心配だから』そう言った隆永の言葉を思い出す。


「なんでいて欲しい時にいないのよ……」


本人がいなければ文句を言っても仕方が無いのだけれど、ここひと月近く顔を見せない恩知らずを思い浮かべてそう独りごちる。

暗くて心細くなってるだけだ、早く帰ろう。

そう思って歩くスピードを早めたその時、静かだった往来に誰かが雪を踏みしめる足音がした。数からして、二三人だろうか。

遠くからこちらに向かってゆっくり歩いてくる音がする。

良かった、ここを歩いているのは私だけじゃないんだ。

幸はホッと息を吐いた。足音はやがて早くなる。走っているのだろうか。

溶けかけた雪で滑りやすくなっているのに、よく走れるなぁ。

呑気にそんなことを考えて何となく興味本位で振り返った。足音からして多分十メートルくらい後ろにいるはずだ。

しかし振り向いた先には暗闇と、街灯が照らすゆきの積もった道路の一部だけが広がっている。


「え……? でも今足音……」


暗闇に目を懲らす。やはり何も見えない。

「おかしいな」と前を向こうとしたその時、サクサクサクサク────とまた雪の上を走る足音が聞こえた。

確実に足音は近付いているはずなのに、何も見えない。"嫌な感じ"がぶわりと大きくなり背筋を伝って鳥肌が立った。


「……っ、」


次の瞬間、脇目も振らずに走り出した。

必死に走りながら何度か角を曲がった。明らかにその後は自分の後を追ってきている。曲がる度に距離が縮まっているような気がして、上手く息ができない。

もう一度角を曲がったその時、なにかに足を取られて雪の上に転がった。濡れたアスファルトで膝を擦りむき、痛みに顔を顰める。


「……ったぁ」



傷の具合を確かめようと足に視線を向け幸は目を瞬かせた。なにかに躓いたと思った方の足の足首に細くて透明な何かがぐるぐると絡まっている。


「なに、これ」


戸惑いながらも触れてみれば、それはピアノ線のように細い糸だった。


「糸……? なんでこんなのが」


戸惑いながらもそれを解こうと手を伸ばしたその時、雪をふみしめる足音が一気にこちらに近づいた。ばくばくと心臓がうるさい。

震える手で糸を引っ張る。すると手のひらに紙で切ったような切り傷がすっと入った。

足音がもう目の前まで迫っている。生暖かい血がポタポタと雪の上に落ちた。目と鼻の先でザッと音がした。恐怖に身がすくみ咄嗟に目を閉じたその時、


「あの……大丈夫ですか?」

「へ……?」


思ってもみなかった声にパッと顔を上げた。

セーラー服を着た女の子だった。寒そうにマフラーに顔を埋めて、赤い鼻をスンとすする。片手には英単語帳を持っていて、塾からの帰り道のように見えた。


「わ、大変。足怪我してます!」

「え……あ」


幸の血だらけの膝を見て血相を変えたその子は慌てて自分のスクールバッグを探り出す。


「バンソーコーあったかな」

「あ、ごめんね。大丈夫、ありがとう」

「いえいえ! 丁度この前友達にあげたから、まだ余ってる────」


その瞬間、目の前から少女が消えた。消えたというか、暗闇に引きずり込まれていったのだ。引き込まれる瞬間に、彼女の腰に透明のあの糸が巻きついたのがはっきりと見えた。

あまりにも一瞬のことに言葉を失う。きゃあああ、と夜の闇を貫く悲鳴が響き渡った。

ガサガサ、と何かが動く音がして、ソレは街灯の白い光に映し出された。

自分の背丈ほどはあるコオロギの足のようなものが六本見えた。その真ん中には黒と黄色の縞模様の胴体があって、身体中を短い毛で覆われている。

顔の作りはなにかの動物のようで、ギョロりとした大きな光る目が体の真ん中から自分をじっと見ている。カチカチと音を立てる口には八本の鋭い牙が見えた。


「助けてッ!! お姉さん助けて!!!」


その怪物の足元に先程自分に声をかけてくれた女子高生が横たわっていた。身体中に銀糸を巻き付けられ身動きが取れないのか、必死に首だけを起こしてこちらを見ている。

頭の中が真っ白になって、でも間違いなく本能は今すぐ逃げろと言っている。走り方を忘れたように足が動かず腰の力が抜けた。

その化け物が自分を見つめている。化け物の口元がきらりと白く光った。細い線だった。無意識にその線を辿れば、自分の足首に巻きついた糸につながっている。

その瞬間気付いた、狙われていたのは私だったんだ。

背筋をつうっと冷たいものが走る。


「お姉さんお願いです助けてッ! 見捨てないで!!」


女子高生が泣き叫んだ。その声にやがて自分の置かれた状況を理解する。

自分の代わりにあの化け物に捕まった女子高生、今の状況なら糸を引きちぎって逃げ切れる可能性のある自分。

次の瞬間、ズズッと足が強く引っ張られ体が1メートルほど前に進んだ。悲鳴と同時に反射的に腰が逃げの体制を取った。


「イヤッ! お願い助けてッ! 助けて!!」


彼女の叫びが響き渡る。

カチカチカチカチ、化け物の歯ぎしりが近付いた。

今この瞬間に決めなければ死ぬかもしれない、いや死ぬ。考えが決まるのと動き出したのはほぼ同時だった。

咄嗟にたまたま作務衣のポケットに差したままにしていたボールペンを右手に掴んで振り上げた。


私が向かって行くよりも先に、化け物が足首の糸を引き寄せる。激しく体をうちつけて転んだが、痛みに顔をしかめる前に体勢を起こした。

体勢を起こした瞬間、化け物の間合いに入った。グワッと開いた口の奥に深緑色の唾液と谷の底のような暗闇が広がる喉の奥が見えた。

圧倒的な「死」の気配に痙攣でもしているかのように手が震えた。できる限りの力を込めてボールペンを握りしめた。


「うわぁああッ!」


化け物の目に向かってそれを振り下ろした。

ズレることなく眼球のど真ん中に突き刺れば、金属を擦り合わせるような悲鳴を化け物が発した。

化け物の足元に蹲る彼女を守るように咄嗟に覆いかぶさった。

化け物は激しくその場で足踏みをした。暴れているようだ。こんな化け物にも痛覚はあるらしい。その様子では下から這い出る事は出来そうになくて、強く目を閉じだその時。



神火清明しんかせいめい 神水清明しんすいせいめい 祓い給え 清め給え────!」



寒い冬の日に外に出て、一番に吸い込む空気のようにその声澄んでいた。

一瞬背中が熱くなって、自分達に覆いかぶさっていた気配が弾け飛ぶ。顔を上げるよりも先に自分の体がふわりと浮いて、心地よい温もりに包み込まれる。


「幸……!!」


耳に馴染む声が焦ったように自分の名前を呼んだ。

ずっとうるさいと思っていたのに、いざ居なくなるととても寂しいのだと今実感した。そしてその声が、自分にどれだけ安心感をもたらしてくれる声になっていたのかが分かった。


「隆永さん……っ!」


焦りと怒りと安堵と、色んな表情を混ぜた顔をしている。その顔を見ると涙が滲んで、まだ恋人でもないのになんて考えは吹き飛び、ただその首に手を回して抱きついた。

そうしているだけでもう大丈夫な気がした。


「全員で囲め! 絶対に逃がすな!」


普段は聞けないような気の張りつめた声で彼はそう叫んだ。

どうやら他にも応援が来ているらしい。



「大丈夫、俺が守る」



耳元でそう囁いた声はまるで子守唄のように優しく温かかった。

息つくまもなく化け物を囲った隆永とその部下らしき人達によって、化け物は退治された────らしい。

素人の幸には何がどうなったのか全く理解出来ず、ただただ隆永にしがみつくことしか出来なかった。


「幸さん? 幸さん?」


名前を呼ばれているのに気が付きハッと顔を上げる。隆永は困ったように眉尻を下げて笑った。


「大丈夫? 家の鍵ある?」


隆永は目線で前を示す。いつの間にか自分の家の前まで戻ってきていたことに気がついた。


「鍵、ある」

「良かった。一旦下ろすよ」


そう言われて地面に足が着いた瞬間、まるで人形のようにストンとその場に座り込んだ。それに一番驚いたのは隆永だった。


「幸さん!?」

「あ、ちょっと……腰抜けちゃったみたい」


隆永は一瞬悲痛な表情を浮かべて幸の腰に手を回した。

「触るよ」と詫びを入れて幸のポケットに手を入れる。鍵を探り当てた隆永はかちゃりと鍵を開けた。

店の中へ入るとすぐに今日に足でパイプ椅子を引っ張り出してきて幸を底に座らせた。


「ありがとう」

「ごめん」


感謝と謝罪の言葉が被った。幸は目を瞬かせた。


「えっと……何の謝罪?」

「幸さんを危険な目に合わせた。そうならないようにするためのこの力なのに」


隆永は自分の手のひらを見つめて力なく笑う。

薄々気付いてはいたけれど、やはりそうなのか。隆永には自分とは異なる、特別な力がある人らしい。


「あれは何だったの……?」

「土蜘蛛って呼ばれる妖だ。最近ずっと追いかけていて、やっと巣のありかを見つけたところだったんだ。今晩に修祓するはずが、こんなことになって……」


妖、と反復する。


「お義父さ────親方さんには俺から事情を話すよ。暫くはうちのものを定期的に見回りさせる。あと、今幸さんには"残穢"っていう悪い物がついてるから、後日それを清めるお祓いも出来るように頼んでおく。それから……」


目が合わない。あれほど私の顔を覗き込んではにたにたと笑っていたはずの隆永が一度も自分を見てくれない。どこか気まずそうに、床に視線を向けるばかりだった。

何よりも一番気になったのは────。


「名前、もう呼んでくれないの?」


え?と困惑した顔の隆永がやっと顔を上げて目が合った。目が会った瞬間、やっぱりあの時感じたように心の中にはふわりと心地よい安心感が広がって肩の力が抜ける。

幸は隆永を見上げて笑った。


「さっき、"幸"って呼んだのに。もう幸さんになってる」

「あれは咄嗟にというか」

「嬉しかったのに」


隆永は目を見開いて自分を見つめた。


「それに隆永さん、さっきから"家のものを"とか"頼んどく"とか。その間隆永さんは、そばに居てくれないの?」

「でも、俺といるとまたあんな事が」

「私さっきね。怖くて怖くて"あーもう死ぬだ"って思った時、隆永さんの声が聞こえて心の底から安心したの。大丈夫だって思ったの」


いつもは自分の手を掴んでくるばかりだった骨ばった大きな手を、今度は自分から掴んだ。

温かい。心地よい。安心する大きな手だ。


「ずっと鬱陶しいって思ってた声が、聞こえないとすごく寂しくて不安になるんだって気付いた。隆永さんの声が、私に届くところにいて欲しい」


隆永は椅子に座るさちの前に膝を着いた。目線が合う。いつもは飄々としているくせに今にも泣きそうなほど目は真っ赤だった。


「……そんなに近くにいても、いいの?」

「いてほしくなっちゃったみたい」


肩を竦めて笑えば、力強く抱き寄せられた。その広い肩に幸は頭を寄せた。


「俺の声が届く所に、いつまでもいてくれますか」

「……はい」


思えば初めて出会った日のプロポーズをされたその瞬間、隆永の声が心地よくて引っぱたくのがワンテンポ遅れたんだと思い出した。





「────幸、本当に大丈夫?」

「もう、隆永さんしつこいよ。大丈夫だって」

「だってこれからある意味妖怪みたいな人間と毎日寝起きするんだよ?」

「ダイジョーブ! 私お年寄りには好かれる性格なの」


結婚の挨拶、両家の顔合わせ、結納、結婚式……と、まるで流れるように数あるイベントは過ぎ去り、ついに今日幸は神々廻家の前、わくたかむの社の鳥居の下に立っていた。

何度か足を運んではいたが、何度ここへ来てもその大きさには驚かされる。


「でも……」


眉根を寄せた隆永に、幸は微笑んだ。


「分かってるよ。結婚式の日ですらあんなに針のむしろ状態だったんだもん。なんとなく想像はつくよ」

「……なるべくそばに居るようにする」

「仕事あるでしょ? それに何人かは私の事、"土蜘蛛の目玉を抉った凄い一般人"って思ってくれてるから好意的なの」

「それは、好意的なのか?」


もちろん好意的な意味もあるが、その大半は恐れを抱いているなんて幸の預かり知るところでは無い。

結婚を承諾した日に、隆永の家の特殊性については聞かされた。実際に妖に襲われた幸はすんなりとまでは行かないけれど、あらかたは理解したつもりだ。

隆永や真言らが持っている"言霊の力"というものは遺伝するものでは無いけれど、両親がともに保有していれば九割は子供に引き継がれるらしい。

もちろん幸はこれまでそんなものとは無縁の世界で生きてきた。幽霊ですら見たことがない。例の土蜘蛛が見えたのは、土蜘蛛自体の妖力ちからがとても強かったかららしい。

サラブレッドの隆永と一般家系の幸の婚姻に反対意見が多数あったのは、そういう理由も含まれているらしい。

隆永は何も教えてくれなかったが、歓迎されていないことは何となく察しているし仕方の無いことだと分かっている。

仕方の無いことだと分かってはいるけれど、だからと言って姑や家のものたちに好き勝手言われて虐げられるつもりもない。


「それに嫌になったら実家に帰るし」

「……本気?」

「ふふふ」


隆永はやれやれと肩を竦めて幸の腰に手を回した。


「頼もしくて助かるよ。よろしくね、奥さん」

「こちらこそよろしくね、旦那さん」


二人は寄り添いあって歩き出す。

桜吹雪のように雪が舞った、出会って二度目の冬だった。








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