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出会い
壱
しおりを挟む「……どこここ」
まだ幼さの残る面持ちの小柄な少年────神々廻薫は眉根を潜めて、辺りを見回した。
目の前にはさらさら流れる小川に朱色の反橋、鯉と亀が泳ぐ小池があって、手入れされた松の木がその場所を囲い隠すように植えられた庭園だった。
"大鳥居を過ぎて道なりに進み、もう一度鳥居をくぐったら学舎が見える。迷うことはないさ"
送り出された時にそう言われたが、学舎どころか二つ目の鳥居すらまだ見つけていない。
辺りを見回した薫は一つため息を吐くとその場に座り込んだ。
手頃な石ころを拾い上げて川に向かって放り投げる。音を立てて落ちたそれをぼんやり眺めた。
────このまま行かず隠れてたら、退学とかになったりしないかな。
忌々しげに己がみにつけるダサい制服を見下ろしてもう一度ため息をつく。
生まれてこの方"学校"というものに通ってこなかったし、そもそもそれ自体に興味がなかった。生きていくために必要なことは全てオッサンが教えてくれたし、その生活にも不満はなかった。
今さら同年代がいる環境に入って学ぶことなんて何がある?
自分がこの学校へ編入するために色々と奔走してくれたらしいが、こっちからすればありがた迷惑だ。
膝の上で頬杖を付いて川面の反射を眺めた。
もうどうでもいい。きっとどこに行こうと、俺の処遇は変わらない。期待するのは止めた。望みを抱くことも。
自分が生まれ落ちる前から、そうなるように定められた運命なのだから。
────1991年、秋。
都心から車で一時間半の山の麓にある小さな町に少し寂れたアーケード街があった。
そのほとんどは錆びたシャッターが降りて看板は雨と砂埃で薄汚れている。日に焼けた張り紙が風に煽られてぱたぱたと音を立てていた。
なんとか営業している店も昔なじみの客ばかりで夕暮れ前には早々に店を閉めているらしい。だから夕飯時になると、そこを歩くのは野良猫か乾いた落ち葉だけになるのだとか。
「なんだ、ここも閉まってるじゃん」
ただでさえよそ者は浮いてしまうこの街で、神職であることを示す白衣に紫色の袴を身につけた和装の青年は顎に手を当てて唸り声を上げる。
たまたま下校中だった部活帰りらしき女子高生二人組が、その一風変わった男の後ろ姿をちらちらと気にしながら通り過ぎる。
視線に気がついた青年は振り返って微笑んだ。「わっイケメン!」「芸能人かな!?」女子高生達は頬を赤らめて手を振る。
気前よく手を振り返した青年────神々廻隆永は「どうしたものかねぇ」と歩き出した。
今日は仕事の依頼でここへ来ていた。
本来ならばわざわざ隆永が出向くほどのことではなかったが、今日はたまたま社務所内が騒がしく、かかってきた電話を珍しく隆永が対応し、そして今日はどうしてもこの時間に外に出ていたかったので「ああ、では私が赴きます」と二つ返事で答えた。
今はその帰りで、山の近くまで来たなら蕎麦を食って帰らねばと思い立って、依頼客にいくつか美味い蕎麦屋を教えてもらった。
残念ながら最後の一軒も営業を終えて暖簾を下ろしていたのだけれど。
ブーッブーッとマナーモードにしていた携帯がなって、ぱかりと開ける。画面には【扇屋 真言禰宜頭《ねぎがしら》】の文字があり、げっと顔をしかめる。
見なかったことにして着信を取り消すと、また鬼のように電話がかかってくる。隆永は仕方なく通話ボタンを押した。
『隆永権宮司! 今どちらですか!?』
「──っ、そんなに叫ばなくても聞こえてるっての」
『私の質問に答えてください! 今どちらですか!?』
「えっとー、あきる野市」
『はぁ!? なんでそんな所にいるんですか!?』
教えてもらった蕎麦屋は全滅だったので、とりあえず営業している飯屋を探すことにした。
電話先でギャンギャンと騒ぐ真言に小指で耳を塞ぎながら隆永は歩き出す。
『もしかして帳簿のいちばん新しい欄に書いてある依頼に行ったんですか!?』
「そうそう。帳簿付けないと巫女頭が怒るから、今回はちゃんと書いたはずだけど?」
『誰が担当したのか名前が抜けてたら、意味無いでしょう!? というか何ですか"怪虫駆除"って。貴方がわざわざ行く案件ではありません! 聞いてます!?』
いつもの説教が始まって、「はいはい、聞いてます聞いてます」と聞き流しながら一軒の小さな店の前まで来た。暖簾と手入れされた看板が出ている、ということはここはまだ営業中らしい。
古めかしい二階建ての木造建築に瓦屋根、磨りガラスの扉の向こうから甘い餡子の匂いが漂ってくる。
看板は達筆な文字で「菓瑞」と書かれていた。
なるほど、嘉瑞を文字ったのか。めでたいしるし、という意味の言葉だ。なかなかいいセンスだな、と顎を摩った。
どうやら和菓子屋のようだ。
甘いものはそこまで好きでは無いし空きっ腹に和菓子か、とも思ったが他に空いている店は無さそうだ。腹の虫を鳴らしながら二時間半も電車に揺られるのもなと思い、店の扉に歩み寄った。
『権宮司! ちゃんと聞いてください! それで今日は何時にお戻りになるんですか!?』
「聞いてるって、多分三時間後くらいになるかな」
『三時間後!? お相手のお嬢さまはもう十分かそこらで着くって連絡ありましたよ! どうするんですか!』
「それは宮司が勝手に用意した席でしょ。俺は嫌だって言ったし。そもそもまだ嫁さん貰う気はないってあのタヌキジジィ────宮司に言っといて」
宮司、隆永の父親がいつもは険しい顔ばかりする癖にその日はやけに機嫌の良い顔で一枚の写真を見せてきた。
夕飯の席で、嫌な予感を感じてその写真を視界に入れないようにテレビに目をやると、顔の前に突き出された。
『勘弁してよ親父……』
箸を置いた隆永は鮮やかな朱色の振袖を身にまとった少女が映る写真をちらりと見て顔を顰めた。
『見合いの話が来てる。宜家の分家のお嬢さんだ、お前もあったことあるだろ。再来年から専科にあがるらしい』
『再来年から専科って……まだ十六か七じゃん。幼女趣味はないんだけど』
『相手は十代でも、お前はもう二十七だ。神々廻家長男としてそろそろ身を固めて後継を産ませろ』
一昨年に隆永が御祭神より天啓を受けて、次の宮司に選ばれてからというもの何度も何度も繰り返されていた会話だ。
神々廻家長男として家庭をもて、子供を産ませろ、可能ならば良家の子女と。父親を起点にその声は大きくなり、やがて神々廻家の長男が嫁を探しているという話は全ての社に広がって行った。
隆永さんうちの娘なんだけど、とことある事に親たちから年頃の娘を紹介される。
紹介されるまでもなく皆見知った顔だった。学生時代の同級生後輩先輩その他諸々。皆幼少期から長い時間ともに過ごして妹のように可愛がり、姉のように慕っていた友人だ。
それこそ互いがおねしょをして尻を叩かれる所なんて光景まで見てきた、それ以上の赤っ恥だって数え切れないほど共有している。
そんな人たちを今更"女"として見られるわけがなかった。
のらりくらりとやり過ごしていたが、ついに見合いの席が設けられることになってしまったのだ。
相手は神事や集会で集った時に、何度か面倒を見たことがある妹のひとりだ。
あれやこれやと断る言い訳を試みたが意味はなく、とうとう当日になりこうして仕事という理由をつけて見合いの席から逃げ出したのだ。
『相手のお嬢さまに何と申し上げればいいのか……こっちの身にもなって下さい!』
「"ごめん君のことは妹にしか思えない"って伝えといて」
からから、と立て付けの悪い扉を開けた瞬間、和三盆と餡子の甘い匂いがふわりと頬を撫でた。
ショーウィンドウに頬杖を着いて退屈そうに落書きをしていた店員が慌ててぱっと顔を上げる。
『そんなこと言えるわけないでしょう!? 大体貴方は小さい頃から……』
隆永は大きく目を見開きながら携帯を耳から話した。権宮司!?と叫ぶ声が遠くなる。
「いらっしゃいませ」
去年の春先に初めて訪れたかむくらの社の梅の花のようだった。積もる雪の中に凛と咲く梅の花は息を飲むほどに可憐で美しかったことをよく覚えている。
その梅の花が、この寂れたアーケード街の潰れかけの和菓子屋でぱっと咲いた。
春の陽だまりの温もりをふわりと感じる。
頭のてっぺんからつま先まで雷に打たれたような衝撃が走った。自分が次の宮司に選ばれた一昨年の夏も、天啓を受けた時はこんな感じがした。だからこれは天啓なのだと思った。
固まる隆永を心配したのか、彼女は不安げな顔でショーウィンドウを回って出てきた。
隆永を見上げながら首を傾げる。三角巾から零れたショートカットの黒髪がさらりと耳にかかった。ほのかに桜の香りがする。
大きな瞳が隆永を見上げた。桜色の唇が「あの、大丈夫ですか?」と鈴のような愛らしい声を紡ぐ。
隆永は気がつけば手を伸ばし、彼女の両手を掴んだ。
「……え? あの、お客さま?」
彼女の瞳が驚きと困惑で揺れる。
隆永は構わず続けた。
「────俺と結婚してください」
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