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やりたい事
参
しおりを挟む次の日の朝、制服には着替えたけれど神修行きの車には乗れなかった。グズグズしているうちに時間が過ぎて、家を出ても間に合わない時間になっていたからだ。
少しその事にほっとしている自分もいて、着たばかりの制服は脱いでハンガーに掛けた。
ふう、と息を吐きながらベッドに寝転ぶ。
もうすぐ一時間目が始まる時間で、どうしてかソワソワして気持ちが落ち着かない。
そんな時トークアプリがメッセージを受信した音がして開けると宛先はお兄ちゃんからだった。
『もし今日来てくれるなら、適当に小説持ってきて欲しいな。』
お兄ちゃんらしくない端的で短いメッセージだ。分かった、と返事を入れると弾みをつけて立ち上がった。
新しい着替えに小説を数冊いれたトートバッグを肩にかけて部屋を出る。外階段を降りる足音に気がついたのか、玉じいが部屋から顔を出した。
「玉じい」
「おはよう。昨日は学校に帰らなかったのか」
うん、とひとつ頷くと玉じいは手を伸ばして私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「今から病院か。学校は」
「……お兄ちゃんからすぐ持ってきてって荷物頼まれて。だから」
本当は学校には間に合ったはずだし、頼まれた荷物はすぐじゃなくても良かったんだけれど言い訳がましくそう言った。
玉じいはそれに気がついているのかいないのか、困ったように眉を下げると「気をつけてな」とぐしゃぐしゃにした私の髪を撫でた。
お兄ちゃんの病室に着くと、薄緑色の仕切りカーテンは締め切られていた。そっと顔をのぞかせると、横になってすうすうと寝息を立てている。
顔を合わせるには少し気まずかったので、お兄ちゃんには申し訳ないけれどちょっとだけ安心する。
頼まれた小説はサイドテーブルにおいて、小棚に新しいパジャマを仕舞う。花瓶の水が減っていたのに気付いて手を伸ばしたその時、
「────母、さん」
お兄ちゃんの声が聞こえてはっと振り返る。
けれどお兄ちゃんは変わらず眠っており、寝言かな、と息を吐いた。
「父……さん、ダメ……行かないで」
眉根を寄せたお兄ちゃんが苦しげにそう零した。
「母さん、逃げて……」
ばくん、と心臓が大きく波打つ。
「やめろ、やめろッ……」
きつく閉じられた双眸から大粒の涙が頬を伝った。何かを求めるように必死に手を伸ばす。咄嗟にその手を強く掴んだ。
可哀想な程に震えている。まるで氷のように冷たかった。
「助けて、誰かッ……」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……! 起きて!」
その両肩を強く揺する。ハッと息を飲む声がしてお兄ちゃんは目を見開いた。
少し混乱しているのか視線をさ迷わせ、私と目が会った瞬間顔をくしゃりと歪めた。私が握っていない方の手を顔の上に乗せて、すん、と鼻をすする。
「ごめんごめん、大丈夫だよ。ちょっとでかいゴキブリに追われる夢見ただけ」
「お兄ちゃん……」
「そんな顔するな。可愛い顔が台無しだぞ」
お兄ちゃんは隠した腕で強く目を擦るとパッと手を離した。
いつもみたいに「俺は大丈夫だよ」と笑うけれど、赤くなった目は誤魔化せていなかった。
未だにお兄ちゃんが倒れたあの日、魑魅に襲われたあの瞬間を夢に見る。身体中を掻き回す不快な感覚、私の喉を握り潰そうとする腕、肌に突き刺さる殺意。
飛び起きた時には全身汗でびっしょり濡れていて、全力疾走したあとみたいに心臓はバクバクとうるさかった。
生まれて初めて死ぬかと思った経験は、どんなに月日が流れようと脳裏に色濃く刻まれている。
お兄ちゃんだって忘れるはずがないんだ。
私は三歳でその頃の記憶はほとんどない。でもお兄ちゃんは六歳だった。ちょうど物心着く頃だろう。忘れたくても忘れられるはずがない────お父さんとお母さんが目の前で襲われる光景を。
「嘘、つかないで」
「ほんとに俺は大丈夫だから」
大丈夫な人がこんなに震えるはずがない。大丈夫な人が何年も夢に魘されるはずがない。大丈夫な人がこんなに今にも泣き出しそうな顔をするはずがないんだ。
一体どれほどの荷物を背負って、私を守ってきてくれたんだろう。これまでにどれほどの辛いことを一人で抱え込んでいたんだろう。
両手を回しても届かなかったはずの背中は、いつのまに私と少ししか変わらない大きさになっていたんだろう。
握りしめたお兄ちゃんの手を額に当てた。
自分で選んだ道、目指したい背中もあった。正直今この瞬間ですら、その選択を選ぶことに迷いがある。諦めたくない、まだもう少し頑張りたい。
でもその選択が、私のたった一人の家族を悲しませることになるなら。何十年と苦しめることになるのなら。
「お兄ちゃん、私……学校辞める」
声が震える。涙が出そうだ。
でも私が泣けばお兄ちゃんは持った悲しい顔をする。もっと苦しむことになる。
そうならないように選んだ道なんだ。だから、泣くな。
お兄ちゃんは目を見開いて私を見た。
「……ごめんな、巫寿。ごめんなッ……」
謝らないで、泣かないで。
そう言いたいはずなのに、上手く声が出せなかった。
その話題には振れないように心配をかけないように、お互いに空元気なのは分かっていたけれど私たちは笑って過ごした。
学校に戻らなくなって皆からは「お兄ちゃんの看病、無理するなよ」と連絡が来た。薫先生は皆にそう伝えてくれているらしい。
毎日代わる代わる、黒板やノートやプリントの写真が送られてくる。
嘉正くんの無駄のないスッキリしたノート、慶賀くんの落書きとミミズ線だらけのプリント、みんなの優しさが嬉しいのに、お礼のメッセージをまだ遅れないでいる。
送られてくるノートは毎日は写して、巫女舞の練習も欠かさず続けた。
神修を辞めることは自分の意思でで決めたはずだ。
二学期からは別の学校へ転校する、神修での勉強は役には立たない、頭の中ではそうわかっているはずなのに毎日勉強は続けた。
「────じゃあお兄ちゃん、また明日来るね」
洗濯物をまとめてトートバッグに詰め込むと、小説を読んでいたお兄ちゃんにそう声をかけた。
「あのさ、巫寿。別に毎日来なくてもいいんだよ? その……巫寿のこと信じてるし」
やっぱりお兄ちゃんは初めのうちは私が学校に戻ってしまうんじゃないかと心のどこかで思っていたらしい。
そんな気はしていたし、だからこそお兄ちゃんに安心して欲しくて毎日来ていた。けれどお兄ちゃんの体が心配で来ていたのも事実だ。
ちらちらと私の様子を伺うお兄ちゃんがおかしくてプッと吹き出した。
「何言ってるの、お兄ちゃんらしくないよ。いつものお兄ちゃんなら『もっと早く来て』とか『もう帰るの?明日は何時に来る?』って言ってるよ」
「でも」
「それに、私はお兄ちゃんが心配で会いに来てるんだから毎日来るのは当たり前でしょ?」
少しだけ安心したような顔をしたお兄ちゃんは「そっか」と目を細めた。
「じゃあ朝から晩までいて欲しいな~」
「もー、調子に乗らない」
べっと舌を出しておどけた顔をしたお兄ちゃんは肩を竦めた。もう、と息を吐くともう一度トートバッグを肩にかけ直す。
「じゃあ、ほんとに帰るね。また明日」
「あ、待って巫寿」
お兄ちゃんが手をさし伸ばした。直ぐに何を言おうとしているのかが分かって、ひとつ頷くとベッドサイドに腰かけた。
お兄ちゃんは私の両頬に手を添えると、そっと額を合わせた。
「────巫寿が危ない目に会いませんように。巫寿が怖いものを見ませんように。巫寿が楽しい一日を過ごせますように」
紡がれる言葉は優しい温もりを帯びて私の体を包み込む。
「行ってきますのおまじない……まさか祝詞だとは思わなかったな」
「……矛盾してるよな。巫寿にはこの世界に関わるなって言っておきながら、俺はこうして毎日祝詞を奏上してるんだから」
小さく首を振って笑った。
「このおまじない────祝詞のおかげで、魑魅に襲われた時に助かったんだよ」
「俺はこれからも巫寿を守れるなら何だってする」
「……でも、無理はしないで」
分かってるよ、とお兄ちゃんは私の頬をつねった。
お兄ちゃんの退院が迫ってきて埃っぽくなったお兄ちゃんの部屋を綺麗に片付けた。
私には「部屋を片付けろ」とか「洗濯物はすぐに出しなさい」とかしつこく言うくせに、自分の部屋はものでごちゃごちゃしていて、読みかけの本が床に積んであったりする。
やれやれと肩を竦めながら、床に落ちている靴下を拾い上げた。
入るな、とは言われたことがないけれどこうしてゆっくりとお兄ちゃんの部屋の中を覗いたのはうんと久しぶりな気がする。
本棚には小難しい小説や新書が並んでいて、昔からお兄ちゃんは勉強が得意だったなと思い出す。
それなのに私のために大学には進学しなかった。進学校で内部推薦の話もあった。学費のかからない国公立も手堅いだろうと言われていたらしいけれど、高校を卒業するとそのまま一般企業に就職した。
親しい友達が皆大学へ進学する中での就職、お兄ちゃんからは「大学に行ってまで勉強したいことがないから」と聞いて「勿体ないなぁ」とぼんやり思っていたけれど、今ならその言葉が本音じゃないのがよく分かる。
けれど私がそれに触れたら、きっとお兄ちゃんはまたすごく困った顔をして「俺は大丈夫だから」って言うんだろう。
そんな事が聞きたいわけじゃないのに、本音はきっと私には見せずに我慢して笑う。
ひとつため息をこぼた。
出しっぱなしの服を畳んで、タンスの引き出しを開けると見慣れた浅葱色の布が出てきて目を見開いた。引っ張り出すと神職の浅葱袴で、家の洗剤とおなじ匂いがした。
間違いなくお兄ちゃんのものだ。
でもおかしい、お兄ちゃんは初等部を卒業したあとは中等部には上がらずに地元の中学校へ進学したと聞いている。
神修の高等部を卒業してやっと「正階三級」の階位が取れる。浅葱色の袴だ。
もしかしてお兄ちゃんは、独学で昇階位試験に合格して正階を取ったんだろうか。
家のことも私の面倒も自分の勉強もしながら────お母さんたちの遺言と私のことを守るために……?
袴をぎゅっと握りしめる。
「むちゃくちゃだよ……」
六歳の小さな体でどれだけ大きな決意をしたんだろう。どれだけのものを背負ってきたのか、私には計り知れなかった。
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