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オリエンテーション
弐
しおりを挟む「ぴかぴかの高校一年生の諸君、こっちだよ!」
朝拝が済んで、本殿から出たところで薫先生が私たちのことを迎えに来た。
白衣の前合わせを着崩して、紫袴の裾を袴紐に引っ掛けた姿。初日のちゃんとした格好とは大違いだ。
「薫センセ~! ずるい、またサボってたじゃん!」
慶賀くんがぶうと唇を突き出して文句を言った。
確かに思い出してみれば、他のクラスの先生たちは生徒と一緒に出席していたのに、薫先生の姿はなかった。
「あはは、俺はセンセイだから面倒……朝拝には出なくても罰則がないんだよ。いいだろういいだろう。これが大人になるということだよ少年」
今、面倒なって言いかけてなかった……?
「罰則がないから出なくていいってわけじゃないと思うんですけど……」
「固いな来光は。バレなきゃいいんだよ、バレなきゃ。人生上手いこと手ぇ抜いて楽しんだもん勝ち。楽しいって字は楽とも読むんだぞ」
へらりと笑った先生は、来光くんの頭をぐりぐりと撫でる。
「それにしても薫先生どうしたんですか。俺たち今から教室に戻るところですよ」
確かに、これから朝のホームルームで、一限目はオリエンテーションだったはずだ。
「朝のホームルームは別に伝えることないから無しね。1限目のオリエンテーションは毎年大したことしてないし、ちょっと楽しいことしたくない?って事で、出かけるよ」
ひひひ、と笑った薫先生。
楽しいこと?と首を傾げていると、皆は「ひっ」と息を飲んで我先にと逃げ出す。
え、え?
逃げていくみんなの背中と薫先生の顔を交互に見る。
蜘蛛の子を散らすようにあっという間に消えてしまった皆。
「あはは! 相変わらず逃げ足だけは早い代だなあ。でも────逃がさないぞ~」
楽しげに笑っていた薫先生の雰囲気が一変した。
口角だけをにっと上げて、据わった目で皆が逃げていった方角を見回す。
そして深く息を吸った。
「……言巻も綾に畏き、是の稲荷神の御前に恐み恐みも白さく、家族達一同、身の罪穢れを祓い清めて祈願白す事の由は、我が稲荷神の神使霊狐の霊徳に依りて悪しき事の災難に罹る事なく、楽しく勇ましく家内睦まじく打揃いて家業を勤み励みて、家門は朝日の昇る如く立栄えしめ、子孫は長久に耐ゆる事なく、先祖の御祭朝な夕な美しく仕え-奉《まつ》らしめ給えと恐み恐みも白す」
祝詞を唱えたのはすぐに分かった。低い声ながらも伸びのある、木琴が響くような美しい響きだった。
「先生……?」
薫先生は「まあ見てなよ」とばかりに私にウィンクする。そしてまた深く息を吸った。
「高天原に神留座す、皇親、神漏伎神漏美の命以て、八百万神等を神集に集へ給い、神議に議り賜いて、我皇孫の命は、豊葦原の水穂国を安国と平けく、知所食と事依し奉りき────」
長い祝詞を詰まりもせずに、まるで一息で歌うように読み上げる。
一体これは、なんという祝詞なのだろう。
やがて、薫先生はふう、と息を吐いた。
「────……神徳微大無量悉帰我、稲荷大神守給え幸給え、稲荷大神守給え幸給え、稲荷大神守給え幸給え」
稲荷大神……?
薫先生は崩した前合わせの内側から、紙の札を取り出して口に食む。そして胸の前でパン!とキレのいい音を立てて手を合わせた。
その瞬間、先生からぶらりと冷たい冷気が流れ出した気がした。ぞわりと体中の毛が逆立つような感覚に、咄嗟に腕を抱きしめる。
薫先生は、合わせた指先がぶるぶると震え出すと目をかっと見開き笑った。
「あいつらを一人残らず捕まえろ」
呟くようにそう言った薫先生。食んでいた紙の札が白く光り、次の瞬間方々に散った。
圧迫してくるような空気感が解けて、無意識に止めていた息を吐き出す。
「く、薫先生……? 今のって」
「狐さん達に少し可愛いお願い事しただけだよ。さ、巫寿も出かけるよん」
ほらほら、と両肩をガッチリホールドされて歩くように促される。
狐? お願い事?
一層こんがらがって首を傾げる。
「恵生も、そんな後ろ歩いてないでこっち来なって」
振り返ると、みんな逃げていったと思っていたが、恵生くんだけがそこに残っていた。
恵生くんはヘラヘラと笑いながら手招きする薫先生に険しい顔を向ける。
「薫さん、依頼された仕事を他人に任せるのは職務放棄だと思います」
「おいおい恵生。ここでは薫センセイだろ? それに職務放棄じゃなくて、お前たちに経験を積ませるためのジュ、ギョ、ウ!」
苦虫を噛み潰したような顔をした恵生くんは渋々歩き出した。
入学式の日と同じように、私たちは御神馬様がひく車に乗ってどこかへ向かって移動し始めた。
どこへ行くのかと尋ねても、薫先生は「着いてからのお楽しみだよ」とはぐらかす。
そして勝手知ったる様子で館の天井を「よっ」と押し上げる。背伸びをしながらがさごそと探ると、そこからチョコレート菓子を取り出した。
そんな所にお菓子隠してるんだ……。
恵生くんも無言で窓の外を眺めているので、仕方なく私も外の景色を見る。
車は森の深い場所を走っているようだった。
二十分程度走ったところで、車の揺れがやんだ。
それと同時に、外から「いて!」「うわ、急に離すな!」というような声が聞こえた。
「お、ジャストタイミング。みんなお揃いのようだね」
うーんと伸びをした薫先生は、ご機嫌にそういうと車を降りる。
あわててその後を追って外に出た。
車から飛び降りたその瞬間、目の前に真っ白い壁が現れてボスっと体ごと体当たりする。体を包み込む柔らかい毛に目を瞬かせた。
ゆっくり離れて、その大きな白いもふもふの正体を見上げる。その巨体と目が会った瞬間、思わず「ひっ」と息を飲んだ。
それは真っ白な毛並みをもつ大きな狐だった。黄金色の瞳につり上がった目。犬よりもシャープな鼻先、大きな耳に太い尻尾。
「巫寿、大丈夫?」
尻もちを着いた私に手を差し出したのは嘉正くんだった。
「か、嘉正くん……っ! ば、ば、化け狐っ」
「大丈夫大丈夫。落ち着いて。化け狐じゃないよ、薫先生の使役してる霊狐だから、俺たちに危害を加えたりしないよ」
よいしょ、と私を引っ張って立たせる。
黄金色の瞳にじっと見下ろされ、胸がどきどきとうるさい。
「くそーっ!! おろしやがれこのバカ狐!!」
この声は、慶賀くん?
狐さんの影から様子を伺うと、もう一匹の大きな狐が制服の首根っこを加えて慶賀くんをぶらぶらと揺らしていた。
「慶賀くん……?」
「助けて巫寿! 離せよクソ霊狐ーっ!!」
うぎゃー!と暴れる慶賀くんを見下ろした狐はフンと鼻を鳴らす。
すると首を軽く振って慶賀くんを投げ飛ばした。きゃあ! と言う私の叫びと、慶賀くんの悲鳴が重なる。どさりと土の上に転がった慶賀くんは蛙が潰れるような声を上げた。
慌てて駆け寄ろうとして足を踏み出すと、目の前にまた大きな白い壁が現れる。同じく白い毛並みを持った大きな狐。あたりを見回せば、合計で4匹もいた。
「よしよし、全員揃ってるね? コン太ゴン太キンちゃんギンちゃん、お疲れ」
薫先生が声をかけると狐たちはポン!と音を立て白い煙をあげる。
驚いて目を瞑る。
しばらく経っても何も起きず、恐る恐る目を開くともうそこにな何もいなくなっていた。
「卑怯だぞ薫先生! 霊狐を使うなんてっ」
頭に葉っぱを生やした慶賀くんがそう噛み付く。
「何言ってんだよ慶賀。霊狐は霊狐でも、あいつらは管狐、逃げたきゃ祓えばいいんだよ」
「誰が明階一級が従えるような管狐を祓えるんだよコンニャロー!」
いーっと薫先生に向かって歯をむきだした慶賀くんを、薫先生は「もぉ、カリカリしないの。カルシウム足りてないからいつまでもチビなんだよ」と火に油を注ぐような言い方で宥める。
とにかく、私たち以外の四人はあの狐たちに首根っこを加えられて、ここまで連れてこられたらしい。
「はいはーい、じゃあみんな揃ったところで、楽しい仕事の時間だよ。あはは!」
楽しそうなのは薫先生だけで、他のみんなはげんなりした顔で深いため息をついた。
仕事? 一体これから何をするの?
「この山の近くに街があって、良く子供たちが遊びに来るんだって。で、丁度ひと月前から森に入った子供たちが手足に怪我を追う事件が立て続けに発生してる。それこそ、腐っちゃうくらい酷い怪我なんだって」
説明された内容に目を見開く。
「それでつい一昨日森に入った三人の子供が、今朝発見された」
発見、と聞いてほっと息を吐いたのは私だけだった。
みんな険しい顔をする。
「嘉正くん、子供たちは無事発見されたんだよね?」
「……違うんだよ巫寿。発見された、というのはその子たちの体が発見されたと言うだけなんだ」
体が発見さた、だけ……ということは、その子たちはもう。
は、と息を飲む。
「はいじゃあ、ここまでの情報で分かったことは? 慶賀」
名前を呼ばれた慶賀くんは、いつになく真剣な顔で考える素振りを見せた。
「鬼門の方角に向かって地を確認したら、草木が踏みつけられていなかった。この辺りに大きな妖はいないということ、つまり小型の妖……とか?」
「いいね、他には? 泰紀」
「残穢が濃くて粘土質っぽい気がする。もしかしたら、この地に住む守り神が祟り神になった……?」
「素晴らしい、エクセレント。さあ、どんどん行こう、つぎ来光」
わざとらしく拍手した薫先生は、来光くんに手を差し出す。
「えっと……被呪者の呪いは手足の怪我または腐敗だから、蛇神の祟り」
「大正解、素晴らしいよ少年たち。昨年きっちり課外授業を受けさせた成果がしっかりと実を結んだねえ」
うんうん、と嬉しそうに頷く薫先生。
「じゃあこれらによってこの依頼ですべき事はなんだろうね、嘉正?」
「ここら一帯の修祓と蛇神の鎮魂、それで落ち着かなければ祓い、鎮魂出来れば祭祀を執り行います」
「その通り。じゃあ今嘉正が言ったのに有効な祝詞は? 恵生」
恵生くんはひとつため息を吐いて答えた。
「天迷々、地迷々、吾時を識らず、天濛々、地濛々、吾蹤を識らず、左渾鹿鳥と為す。右鳥䳯三と為す。吾是大鵬、千年万年王」
「言うまでもなく完璧。よし、じゃあよーいスタート!」
流れるようにそう言って、みんな目を瞬かせる。
「こらこら、早く行かないと二限目間に合わないぞ。10分で片付けれたら帰りにスタバ寄ってあげるよ。みんなで協力するように」
「……~っ、くそー!! なんでいっつもこんなにめちゃくちゃ何だよーっ!」
地団駄を踏んだ慶賀くんは弾けるように走り出す。
「絶対スタバ奢れよ、薫先生!」
泰紀くんも「絶対だかんな!?」と念押しして、来光くんの腕を掴み駆け出して行った。
「巫寿、一緒に行動しよう。一人じゃ危険だ」
嘉正くんが私にそう声をかけてきて、何が何だか分からない状態だった私はほっと胸を撫で下ろす。
「あ、待って待って。巫寿はセンセイとね。流石に優等生の嘉正でも、何にも知らない状態の巫寿は任せられない」
薫先生が後ろから私の頭にぽんと手を乗せる。
「……分かりました」
「うい。ほら恵生も行った行った」
しっし、とまるで犬を追い払うかのように手を振った薫先生。
嘉正くんは私に歩み寄り、「気を付けて。薫先生の傍を離れちゃダメだよ」とまるで幼い子供に言い聞かせるように言うと森の奥へと駆け出して行った。
「さて巫寿。俺達も行くぞ。歩きながら出血大サービス、この薫センセイが何でも質問に答えちゃう」
イェイ、と目元でピースを決めた薫先生。
歩き出した先生の後を慌てて追いかけた。
「あの、じゃあさっきの大きな狐とか、あとメイカイ? とか、蛇神ってなんですか? 私たちは今から何をするんですか?」
「ちょいちょい待って、一個ずつ一個ずつ」
「あ、ごめんなさい……。あの、大きな白い狐は何だったんですか?」
「あれは管狐という狐の妖だね。俺が捕まえて使役────主従関係を結んだ妖だ。言わば家来みたいなもんだ。一学期の詞表現実習で習うからら楽しみにしてて」
祝詞を唱えるだけで、そんなことまで出来てしまうんだ……。
いずれは自分も習うと知って、早速先行きが不安になる。
「えっと、あとなんだっけ。明階について?」
「あ、はい。それはなんですか?」
「本庁が定めている階位と神職身分って感じかなぁ。上から浄階、明階、正階、権正階、直階、出仕ってのがあって、神職の学識に応じて割り振られるんだ。中等部を卒業した時点では出仕、高校一年生の学期末テストをパスすれば直階になれるって感じかな。で、神職身分は上から特級、一級、二級上、二級、三級、四級。これは年齢には関係なく、功績と力量で決められる。まあ、普通に勉強して奉仕してれば、正階三級まではあがれるかな」
ということは、薫先生は明階一級だから上から二番目の階位と身分ということになる。
いつも気が抜けた笑い方をして、朝拝もよくサボるみたいだし、何を考えているのか分からない人だと思っていたけれど、もしかするととんでもなくすごい人なのかもしれない。
「巫寿たちの先生はすごいんだぞ~」
「はは、そうですね……」
自分で「すごい」と言うあたりはどうかと思うけれど、確かに優秀な神職であるのは間違いないのだと思う。
「最後の質問ね。これから対峙する邪神について」
そういった薫先生はおもむろに立ち止まると、バサッと豪快に生い茂る草の中に手を突っ込んだ。
え? と疑問を抱くまもなく、先生は何かを引きずり出そうと腕を引っ張る。
「くそっ、往生際が悪いな、残穢のくせに────っと!」
バサッ!と草木が揺れて先生が何かを引っ張りあげた。
「きゃあっ」
"それ"を目の前に突き出され悲鳴をあげて尻もちをついた。
それはどす黒い皮膚を持つ蛇だった。体の周りに黒いもやを纏い鋭い牙をむき出す。蛇の頭を掴む薫先生の腕に絡みつき、ものすごい力で締め付けようとしていた。
「蛇神ていうのはその名前の通り、蛇の神様だ。昔、この辺りの住民は蛇を土地神として信仰していたみたい」
「そ、それは……」
「残穢だね。残穢は分かる?」
「妖が残していく悪いものだって」
「そうそう、大正解。今回の残穢は蛇神の祟り、蛇神から溢れる祟りが体を成して、ここに来る人達に噛み付いて呪っていたわけだ」
先生の手のひらの中でうねうねと暴れる蛇の形をした残穢。
この蛇が噛み付くだけで手足が腐っていくと思うと、背筋を冷たい汗が流れる。
「よし、じゃあこれを祓ってみよう」
「祓う……? 私がですか?」
「巫寿以外に誰がいるのさ」
「で、できません! 私、祝詞とか分からないし、それに、そんな力」
「ダメダメ、"呪の力"が強いよ。発する言葉は"言祝ぎ"を強くしなさい」
そう言われてハッとする。そういえば、前にも禄輪さんに同じことを言われた。
「まあでも、やりたくないならやらなければいい。うちはそういう校風だからねぇ」
そう言われて言葉につまる。胸の前でぎゅっと手を握った。
「どうすれば、いいんですか……?」
私がそう聞けば、薫先生は少し口角を上げる。
「恵生が暗唱した祝詞はまだ難しいだろうから、もっと簡単なものに挑戦してみよう。「蕨の恩型」と呼ばれる呪歌だよ」
「呪歌……?」
「そう。歌の形式になった呪文で、今回は蛇除け効果がある蕨の恩型と呼ばれる歌を一首覚えよう」
薫先生は目を閉じて深く息を吐き呼吸を整える。
そして僅かに唇を開いた。
「あふ坂やしけみが峠のかぎわらび、其むかしの女こそ薬なりけり」
その瞬間、薫先生の腕に絡み付いていた蛇の体から、黒い煙が蒸発するように発せられ、やがて跡形もなく空気中に溶けて行った。
あの時と同じだ。
禄輪さんと初めて会った日、魑魅と対峙して禄輪さんが祓ってくれた時と同じ────。
「はい、いっちょあがり」
薫先生は何も無くなった掌をひらひらさせて見せた。
「じゃあこんな調子でバンバン祓っていこうか」
「えっ」
そういった薫先生はまた生い茂る草に手を突っ込むと、蛇神の蛇を引っ張りあげる。
顔の前に突き出され、また「ひっ」と悲鳴をあげる。
「大丈夫、大丈夫。文言さえ覚えれば誰でも出来るから」
「え、えっと……あふ坂やしけみが峠のかぎわらび、其むかしの女こそ薬なりけり……?」
「おお、一回聞くだけで覚えたの? 耳がいいのは良い事だよ、優秀だなぁ」
興奮気味にそういった薫先生は蛇をぶんぶんと振り回す。
必死に身を捩って距離を取った。
おほん、とわざとらしく咳払いをすると蛇をマイクのように持つ。
「えー、祝詞を奏上する際の心得は沢山あるけど、まず一番に覚え無ければならないのは、言祝ぎの高め方」
「言祝ぎの高め方?」
「人を呪う時、楽しそうに明るい声で「呪ってやる」なんて言わないよね。反対に、人を祝福する時に低い怖い声で「おめでとう」なんて言わない。言祝ぎも呪も、声色だけで強めたり弱めたりできるということ」
ああ、だからなんだ。
禄輪さんが魑魅を払った時、皆が報告際の祓詞を唱えた時、薫先生が霊狐を呼ぶ祝詞を唱えた時。
どの時も、全員、湧き出る清水のような清らかな声で言葉を紡いでいた。
あれは言祝ぎを高めるために、あえてそうしていたんだ。
「だから今後、祝詞を奏上する際は、たかーく、伸びやかーな声で唱えること」
薫先生はもう一度「たかーく、伸びやかーに」と言いながら蛇をびよびよと伸ばす。
少し蛇が可哀想な気がしてきた。
「じゃあ早速、やってみようか」
そう言われて、ばくんと胸が波打つ。
「緊張すると呪が高まる。赤ん坊に子守唄を聞かせるつもりで奏上してみな」
リラックスリラックスと背中を叩かれ、少しだけ緊張がほぐれた気がした。
高く、伸びやかな、明るい声を意識して────。
「……あふ坂やしけみが峠のかぎわらび」
身体中の力が、喉の奥に集まってくるような気がした。その熱が、力が、私の口が紡ぐ言葉に移っていく気がする。喉の奥が熱い。
「────其むかしの女こそ薬なりけり」
次の瞬間、私の周りを囲うように白い波動が生じた。
え? と目を瞬かせる。
振り返れば、それは水面に落ちた水滴が波紋を生むように、私を中心に大きくなりながら周囲一帯に広がっていく。
「わお」
そう呟いた薫先生を見る。
手に持っていた蛇は跡形もなく姿を消した。
「なるほど、そういう事か」
薫先生が呟いたその瞬間、頭から冷水を被せられたような寒気が全身を襲った。
あれ、この感覚って。
そう思った次の瞬間には、意識は深い暗闇のそこに引きづり込まれた。
「────あっ。薫先生、巫寿が起きた!」
小刻みに体が揺れる感覚に、次第に意識がはっきりしていく。
うっすら目を開けると、慶賀くんが至近距離で私の顔を覗き込んでいるのに気が付いた。
「おはよー! 大丈夫? 巫寿」
「……慶賀くん? どうして」
そこでゆっくりと体を起こすと、肩にかけられていた誰かのブレザーがパサりと落ちた。
そのブレザーを抱き寄せながらゆっくりと辺りを見回す。乗ってきた車の中だった。薫先生に嘉正くんたちもみんな乗っている。
「巫寿、あんまり無理しない方がいいよ。倒れたばっかりなんだからまだ横になっていたほうがいい」
嘉正くんにそう声をかけられて、自分が森の中でまた倒れたことを思い出した。
そして嘉正くんがカッターシャツ姿であることに気がつく。
「あ、嘉正くん……ブレザーありがとう」
「気にしないで。着くまで膝に掛けとくといいよ」
そう言って微笑んだ嘉正くんに、少しだけ頬が熱くなる。
「巫寿、これ食べな」
薫先生にそう呼ばれて振り返ると、振り向きざまに口の中にポイッと何かを入れられる。
驚いてかたまっていると、すぐに口の中でじんわり溶けて甘い味がした。
「……金平糖?」
薫先生は透明の小瓶に入った金平糖をかしゃかしゃと鳴らした。
「巫寿がぶっ倒れたのは霊力が激減したからだよ。手っ取り早く回復するには食事が一番良い方法なんだよね。これからは常にポケットにお菓子入れときな」
これあげる、と瓶を投げて寄こした薫先生。
咄嗟に手を差し出しキャッチした。
「でも、学校なのに」
「薫センセイが言ってるんだから。別に他の生徒も持ってるし、気にしなくていいよ」
え? と周りに座るみんなの顔を見る。
慶賀くんと泰紀くんは制服の至る所のポケットから、まるでマジックみたいに沢山の飴やガムを取り出した。
嘉正くんもブレザーの内ポケットから練り梅をだす。
本当に皆、各々にお菓子を常備しているらしい。
「それにしても、今回でよく分かったけど、どうやら巫寿は生まれつき備わっている"言祝ぎ"の性質が非常に高いらしいね」
顎に手を当てた薫先生は続けた。
「分かりやすく言うなれば、霊力はおちょこ一杯分くらいしかないけど言祝ぎの性質は琵琶湖一個分くらいはあると思う」
ええ! と驚きの声を上げたのは私以外の皆だった。
いまいちピンとこず、ただそれが普通とは異なることだけは何となくわかった。
私がよく分かっていないのに気がついたのか、嘉正くんが口を開く。
「霊力────言霊の力と呼ぶ人もいるね。霊力には言祝ぎと呪の二つの要素が組み合わさってできてるのは知ってる?」
あ、と"かむくらの社"で禄輪さんから教わったことを思い出す。
『ああ。言葉を祝うと書いて言祝ぎだ。言霊の力は"言祝ぎ"と"呪"の二つの要素が組み合わさって出来ている。プラスとマイナスみたいなものだ』
確かそう言っていた。
「生まれたての赤ん坊は言祝ぎが強くて、成長するにつれて二つの要素は均衡になって行く。だから神職になる者は言祝ぎが強くなるように幼少期から修行するんだよ」
「どうして言祝ぎを強めないといけないの……?」
「うっかり人を殺しちゃうことがあるからだよ」
そう言ったのは薫先生だった。
「言祝ぎの要素が強ければ、もし間違って誰かに「死ね」と言ってしまっても、その人間は重症を負う程度で命は助かるだろうね。けれど呪の要素が勝っていれば、それは完全な言霊になる」
つまり、その言葉だけで本当に、人を殺せてしまうということ?
「もちろん巫寿達が持つその力は、全てのものを導き、助け、慈しむためにある。けれどそれだけ強い力だと言うことを常に念頭に置くように」
皆が険しい顔でひとつ頷く。
「で、話を戻すと巫寿はめちゃくちゃ言祝ぎの要素が強いからレベル1の祝詞を唱えても、効果はレベル95くらいの威力で発動するってこと。今回あの森一体が一瞬で修祓されたのも、入学式の完全浄化も巫寿のおかげだね」
すげえ!と皆が目を輝かせる。
そんな様子に、やっと少しだけ自分の力が特別であることを自覚する。
私の力って、ひょっとしてすごい力なの……?
「ま、大きい効果が発動する分、霊力使い切ってぶっ倒れる用じゃ諸刃の剣と一緒だよ。何の役にも立たないから、自惚れないように。あははっ」
一瞬でも自惚れた自分が恥ずかしくて顔を赤くして俯いた。
「ここはね、ちょっと不思議な力がある子供たちを、神主と巫女に育てるちょっと不思議な学校だよ。あはは、面白いよねぇ。だから大丈夫だよ、巫寿。俺が担任である以上、巫寿の限界を最大限以上に引き上げてやるから」
そうウィンクした薫は、よっこらしょと立ち上がった。
いつの間にか車は止まっており、森の中の静寂さとは打って変わって人々の喧騒が聞こえる。
あ! と慶賀くんが目を輝かせた。
「スタバ着いた!? 俺、今回の新作楽しみにしてたんだよねー!」
嬉々と車を飛び出た慶賀くんは続けざまに「はあー!?」と声を上げて車に戻ってきた。
「ちょっと薫先生!? 学校に戻ってきてるんだけど!?」
「そうだよ? 授業中なんだから当たり前でしょ」
「約束のスタバは!?」
はて? とでも言うかのように薫先生は首輪傾げる。
「言ったじゃんっ! 10分以内に終わらせたら帰りに寄ってあげるって!」
「俺こうも言ったよね、皆で協力するようにって。今回は残穢を払ったのは巫寿ひとりだし、蛇神の鎮魂も恵生《えい》ひとりでやったんでしょ。残念ながら条件クリアならず。あははっ」
はあ~~!? と眉を釣りあげた慶賀くんはケラケラと笑う薫先生に為す術なく地団駄を踏む。
「くそっ! いつもこうだ薫先生は! また俺らに仕事押し付けてタダ働きさせて!」
「おいおい、いつも言ってるだろ。実践を踏まえた演習、授業の一貫だって。センセイのお陰でどの世代よりも沢山経験できてるんだから、お前らは薫センセイに感謝しなくちゃいけないんだぞ~?」
あははー、と笑いながら車を降りていった先生。そして「二限目遅れるなよぉ」と遠くから声をかけられる。
「くそー!!」と叫んだ慶賀くんの声が学校中に響き渡った。
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菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
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