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始まりの詞

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冷たい冷気で徐々に目が覚めた。体を起こすと肩からぱさりと毛布が落ちてぶるりと体が震える。

ぼんやりした頭で宙を眺める。

そうだ、あのままテーブルで寝ちゃったんだっけ。

毛布を手繰り寄せながらぐるりと見渡す。よく知った玉じいの部屋。常夜灯の滲んだあかりが部屋の中をぼやっと灯す。コチコチと音を立てる柱時計は夜中の12時を指していた。

茶の間と繋がる居間では、ふくれた布団が規則正しく上下している。

私に毛布をかけてくれたあと、玉じいも眠ったらしい。

自分も布団で横になろうと立ち上がり、まだ制服だったことを思い出す。着替えなきゃと立ち上がり自分の部屋ではなかったことを再び思い出す。

小さくため息をこぼして暗闇に慣れてきた目でスクールバッグを手繰り寄せた。

一旦部屋に戻ろう。お兄ちゃんの保険証も探さなきゃ。看護師さんから入院に必要なもののリストを貰ったからそれも確認しなきゃ。

そのあと、またここに戻ってこよう。今日はあの広い家で一人になりたくない。

キシキシと音を立てる廊下を抜けて外に出ると、肌を貫くような冷気に肩をすくめた。

分厚い雲の間から、鈍い月明かりが差している。雪が解けて凍った外階段を、氷のように冷たい手すりに掴まりながらのぼる。耳鳴りがするほど静かな夜だ。

スカートのポケットから鍵を出してかちゃりと開ける。外ほどは寒くないけれど、お兄ちゃんの居ないこの家はどことなく冷たい気がした。

靴を脱いで廊下を歩きながら、ぱちぱちと部屋の明かりを付けていく。最後にリビングの灯りをつけて、ほうっと息を吐いた。

一人きりは心細いけれど、やっぱり我が家は落ち着ける。

気合いを入れ直すように「よし」と呟いた。


家事を済ませ、お兄ちゃんの入院の準備や書類の準備と、もくもくと手を動かしやっと一息つける頃にはうんと夜が深まった夜中の3時頃だった。

暖かいお茶を入れてふう、と椅子に腰を下ろす。

ふと視界の端に桃色の包みが入った。あ、と手を伸ばす。桃色のランチョンマットに包まれたそれは今朝お兄ちゃんが拵えてくれたお弁当だ。

そばには置き手紙があった。見慣れたお兄ちゃんの字で「おかえり」から始まって10行以上の長い文章。

思わずくすりと笑ってしまう。相変わらずお兄ちゃんらしいな。

お弁当箱を開けるとたこさんウィンナーにちくわの磯辺揚げ、きんぴらに、カボチャの煮付け、甘い卵焼き。ちょっと茶色っぽいけれど、どれも私が大好きなおかずだ。

運動会に遠足に試験、私が頑張らないといけない時の定番のお弁当だ。

ケースからフォークを取り出して、「────っ、」そっとテーブルにフォークを置いた。

何も出来ない。私一人じゃ何にもできない。私には何一つ、お兄ちゃんにしてあげられることがない。

私が怪我をした時、お兄ちゃんは私よりも泣きそうな顔で手当をしてくれた。私が熱を出した時、励ますように笑って看病してくれた。友達に意地悪された時は、私よりも顔を真っ赤にして怒鳴り込みに行ってくれたし、私に嬉しいことがあった日には私よりも喜んでくれた。

なのに私は、私は。たった一人の家族、たった一人のお兄ちゃんなのに。いつも守られてばかり、いつも助けて貰ってばかり。もらってばかりで何も返せていない。

なんて無力で弱っちいんだろう。

はぁ、と息を吐いて目尻を拭う。

フタをして冷蔵庫へ入れようと立ち上がったその時、ヴンと音を当てて部屋の明かりが落ちた。


「きゃっ」


突然のことに悲鳴をあげた。慌ててスマートフォンを手探りで探し当て電源を入れる。画面は冷たく真っ暗なままだ。


「やだもう……なんでこんな時に」


玄関扉の上にブレーカーがある。きっとそれが落ちたのだろう。

手を伸ばして壁に触れ、ゆっくりと歩く。触れる壁はひんやりと冷たい。廊下は月明かりさえ届かないのか鼻の先も見えないほどに暗闇が広がる。

一歩踏み出せば床が軋み、腕の皮膚が粟立つ。無意識に息を潜めたその瞬間、パンッ────とガラスが割れる硬質な音が響いた。

悲鳴をあげて弾けるように振り返った。

冷たい風が部屋の中へ入り込んできた。激しくカーテンがはためく音が聞こえる。

家の中の空気が変わる。突然の両肩にのしかかるような威圧感にその場に尻もちを着いた。

一度向けられると二度と忘れられないあの感覚。廊下を曲がったその先のリビングから痛いほどに感じる禍々しい敵意、鋭利なナイフのような憎悪、剥き出しの────殺意。

咄嗟に手で口を覆った。転がるように壁に擦り寄り背中をつけて息を殺す。



『────オーイ』

目を見開いた。


『ドコニイルノ。デテオイデ』

知っている声だ。


『カエッタヨ』

抑えていた手の力が僅かに弱まる。


「お兄────ッ」


はっと我に返った。

違う、お兄ちゃんじゃない。だってお兄ちゃんは病院で今も眠っているはずだ。だとしたらあの声は、誰?


『ミツケタ』


暗闇の中で何かが動いているのが見えた。

気がついた時にはもう鼻先まで伸びていて、ソレは私の首に巻き付きリビングへ引きずり込んだ。


「きゃあっ……う、っあ!」


激しく床に体を打ち付けられ呻き声をあげる。身体中が痛い。何かが私の首を締め上げる。息ができない。

歯を食いしばってなんとか片目を開けそれを見た。

割れた窓ガラスの上にそれはいた。

禍々しい色の靄だった。それは形が定まっているわけでもなく、深い闇の底から掬い上げたものがひとつの場所に集まって姿を成しているようだった。

顔がどこにあるのかも分からない。輪郭も鼻も口もない。ぽっかりと空いた穴が目の場所に2つあるだけでそれはただの靄だった。

それは私を殺そうとしていた。いや、食べようとしていた。本能がそう悟った。

死が脳裏を過ぎったその瞬間、お腹の底から少しだけ力が湧いた。硬直していた身体が少しだけ動いた。首を絞めるそれを掴もうと渾身の力で手を振り上げるも、その手は虚しく宙を切る。

目を見開いた。

それは確かに私に触れているはずなのに、それに触れることができない。

靄はゆっくりと形を変えて私を飲み込もうと包み込む。


涙が滲む。声も出ない。思うように体も動かず、辛うじて開いた口で空気を取り込もうとしたその瞬間、体の中に言い表しようのない何かが入り込んだ。

空気のようなそれは身体中に不快感を撒き散らしながら駆け回り、中心から蝕むように侵食していく。まるでザッピングのように様々な思念が頭の中に流れてきた。誰かの怒り、悲しみ、苦しみ、憎悪。身体中を焼き尽くすような激しい憤怒が身を貫く。

流れ込んでくる誰かの感情に、堪えきれずにぼろぼろと涙がこぼれた。声にならない声を上げる。


苦しい、怖い。嫌だ助けて。お兄ちゃんっ……!


心の中で叫んだ、その時。


「私の娘に、手を出すな」


ベランダの柵の上に人影を見た。

今の時代テレビでしか見ないような笠を目深く被り、着古した着物姿の男だ。父親が存命なら、これくらいの年齢だろうか。彫りの深い顔立ちで、肩より少し上くらいまで伸びた波打つ長髪、優しげな垂れ目のその奥には鋭い眼光を放つ瞳がある。

あごひげに隠れた薄い唇がすっと弧を描いた。


「神の御息みいきは我が息、我が息は神の御息なり。御息を以て吹けば穢れは在らじ。残らじ。阿那あな清々し、阿那あな清々し────」


深く低い声なのに、まるで水面を滑る白鳥のような凛として澄渡る声が響く。男がパン!と両手を合わせたのと、空気が震えたのはほぼ同時だった。

それはまるで苦しむように耳障りな音で鳴き声をあげる。靄の輪郭が鉄板の水滴のようにジュワッと弾ける。

それが私の首を絞める力を弱めた。首の拘束が溶けて、床に倒れ込む。咳き込みながら顔を上げた。

男は宙を舞うようにひらりと手摺から飛び降りてリビングに降り立つ。男は手首にかけていた紐に通した鈴を手に取るとリンと一振り音を鳴らした。


「……らせるすずの音に 降り来たり天鈴鉾神あまのすずほこのかみ 現世うつしよ邪氣じゃき霞雲かすみのくもごとただよひ 邪氣につかれし者は瘴氣しょうきを吐く 吐き出されし瘴気しょうきは 幾重いくえにも重り合ひ更に巨大おおきなる異形いぎょうの者となる おにと呼ぶ 諸々もろもろわざわひ追はせしは悪鬼おに悪業也あくぎょうなり こころを捕へて離ぬ悪鬼おには 此の打ち鳴らせる鈴の音をもちて 鎮め給へ」


鈴の音が響き渡る。まるで空気を洗い流すような清廉な音色だ。

靄は暴れ回るように激しく形を変える。まるで竜巻のようなそれは、うめき声を上げながら部屋の中を暴れ回った。

カーテンがレールごと外れて宙を舞い、テーブルは壁に叩きつけられる。唯一家族で撮った写真を入れた思い出の写真立ても、父の日にお兄ちゃんに渡した金メダルも、誕生日にもらったぬいぐるみも、何もかもにヒビが入った。

両腕で頭を覆い叫んだ。


「もう、やめて……っ!」


喧騒が一瞬止んだ。男の声が明朗に響いた。


むやけくなごやかにすずしく鳴り響く鈴の音に降り来たり伊弉諾伊弉冉神いざなぎいざなみのかみ いざなぎは誘はるる神 いざなみは誘はるる神 素型異すがたかたちちがへども 手をとり逢せ同じ士心こころざしもって 声併こえあわ身抱みあわ心袷こころあわなさけむすべば新しきいのち起りはぐくみて 世に出産たまへるくすしほまれなるつとめをもっまことかみみち発生おこりあゆませたまひて 神命しんみょうゆたかはぐくまれ の神の御心みこころ宿らせ給ひて 目標めざしいたるところ 大倭やまとかみみち


最後の一言を口ずさむと、男はまた空気を裂くように鋭く二回手を打った。

その瞬間、風船が破裂するように靄が中心から弾け散った。散った靄は光の粒になり、やがて空気に溶け込んだ。最後の一粒が消えた瞬間、のしかかっていた空気が一気に消え去る。その場に倒れ込んだ。

「巫寿ッ」


男は私に駆け寄ると、抱き起こし頬を叩く。


「しっかりしろ! おい、巫寿!」


声が遠くに聞こえる。視界の隅がもやがかかったように白い。

体の奥から強く意識を引っ張られるような感覚に抗えず、静かに目を閉じた。


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