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天狗の初恋

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「……っ」


はっと目を開けると、夜間灯のオレンジ色の光が目に入った。体を起こしながら辺りを見渡す。真っ暗で、まだ夜中であることが分かる。

頬に違和感を感じて手をやれば、掌が濡れた。私は泣いていた。胸に残る切なさと苦しさは、夢のせいだと直ぐに分かった。

あれは、マサシさんと葵の夢なんだ。

服の袖で目元を拭うと、雅楽の音色が耳に届く。電気をつけて時計に目をやれば、深夜の二時を示している。裏の社が開く時間だ。

きしきしと廊下が音を立てているのが聞こえて、足音が近付いてくる。


「……麻ちゃん? まだ起きてる?」


ひそめられた声が届き、慌てて襖を開けた。

まだ水色の袴姿の三門さんが少し驚いたような表情で立っていた。


「ごめんね、起こしちゃったかな。電気が付いていたから少し気になって」


慌てて首を振れば、頭の上に掌がポンと乗せられる。


「眠れない?」


先ほど見た夢を思い出し、正直にひとつ頷く。


「じゃあ、僕と社頭に出ようか。裏のお社が開いたから、ちょっと探検してみよう賑やかで、とても楽しいよ」


そう提案してくれた三門さんに、まだ少しだけ怖さがあったけれど一つ頷きコートを羽織った。

三門さんに背中を押され、オレンジ色の光で溢れる本殿の前に出てきた。

人とは違う容姿をした妖たちに、やはり慄き息を飲む。そんな私の気持ちを察してか、三門さんは私の右手を握って歩き出した。

ふと、胸の中に温かくて少し切ない、名前を付けるとすれば「懐かしい」が当てはまるような、そんな感情が芽生える。

目を瞬かせ、そして握られた手をじっと見つめる。

なぜ懐かしいなんて、突然思ったのだろうか。


「これはこれは、三門さま。今日も良い月夜ですなあ」


いち早く私たちの姿を見つけた老人の姿をした妖が声を掛けてくる。思わず三門さんの陰に隠れた。


「こんばんは、子泣き爺。いい月夜だね」

「おやおや、三門さまの後ろから懐かしい匂いがしますぞ」


びくり、と肩を震わせる。三門さんが私の肩に手を置いて、そっと前に押した。お爺さんは目を真ん丸にして驚いた顔になる。


「おおっ、なんと久しい顔じゃ! あんなに小さかったお嬢さんはどこへやら!」


しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして、嬉しそうに破顔したお爺さん。


「懐かしいのう。泣いたことをばれてしまうのが恥ずかしくて、よく『子泣き爺が泣いたんだよ』と濡れ衣を着せられたものだ」


お爺さんは私の頬に手を伸ばすと、そっと優しくなでた。

餅のほっぺは健在じゃ、と喜びながら私の頬を突く。困惑気味に三門さんを見上げれば、三門さんは楽し気に笑っていた。


「爺、麻ちゃんが困っているからやめてあげて。それに、しばらくは結守の巫女をしてくれるから、また会えるよ」

「おお! お嬢さんがユマツヅミさまの巫女さまに! なんと喜ばしい事じゃ」


一層喜んだお爺さんは「皆に知らせねば」と、頭を下げると足早に去っていった。

茫然としながらその背中を見送る。

三門さんは「ね? 言ったとおりでしょ?」と片目を瞑った。


「麻ちゃんが五歳の時に、ここへ参拝に来る妖とはほとんど交流しているんだ。小さかったから、覚えていないのかもしれないけれど、皆ととても仲良くしていたんだよ」


そう言って歩き出した三門さんに慌ててついていく。

たしかに先ほどあったお爺さんも、私のことをよく知っているそぶりだった。

けれどどうして私はこんなにも、妖たちのことを覚えていないのだろうか。五歳ごろの記憶なら多少曖昧な部分もあるけれど、覚えていることだってある。けれど三門さんや妖についてのことは、これぽっちも覚えていない。

本当に覚えていなかっただけなのだろうか。


「参道へ行ってみようか。出店がたくさんあって楽しいよ」


そう言ってまた私の手を取り歩き始めた三門さん。

たくさんの妖が三門さんの姿を見るなり、頭を下げて声をかけてくる。三門さんはひとりひとり丁寧に返事を返しながら、交流を楽しんでいるように見えた。


「あらやだ、三門さまじゃない! 社頭にでてくるなら、昨日のうちに言っとくれっていつも言っているじゃないの!」


本殿に一番近い場所で、お菓子の屋台を開いている女性が、三門さんへ声をかけた。太い眉毛に、口を開けるたびに見えるお歯黒が特徴的な妖だった。


「こんばんは、青女房。すまないね、でも今日は特別だから」

「特別?」


怪訝な顔を浮かべた青女房と呼ばれた妖は、三門さんの後ろにいた私を見つけるや否や、「まあまあまあ!」と興奮気味に身を乗り出す。

「麻だね、あのちびっこの麻なんだね!」

「冬休みの間はうちの巫女さんだよ」

「麻が結守神社の巫女さま! こりゃたまげた、なんて嬉しいんだろう!」


真っ黒な歯を見せて満面の笑みを見せた青女房。


「ほら、なにそんなところで突っ立っているんだい。こっちへおいで!」


手招きされ、これまた困惑気味に三門さんを見上げる。行っておいで、と背中を押され、恐る恐る歩み寄る。

青女房は、屋台のテーブルに置かれていたお菓子を袋に詰め始める。


「ほら、麻は金平糖が好きだったろう? それとどんぐりあめ、あとは砂糖菓子。ああ、今流行っている梅塩味の細切り揚げキュウリもいれとこうかね」


どんどん紙袋に詰め込んでいった青女房は、五つの紙袋を私に渡して満足げに微笑む。


「朝餉に障るとまた怒られてしまうから、三門さまとお食べ」


昔はよく怒られていたもんだ、と懐かしそうに目を細めた青女房。貰ったお菓子を胸の前で抱きかかえ感謝の気持ちを込めて頭を下げる。


「また顔を見せておくれよ」


真っ黒な歯をにいっと見せて笑った青女房に小さく微笑み返して頷けば、乱雑に頭を撫でられた。

それからいろいろな出店を回って妖たちと交流して、たくさんの私の昔話を聞いた。本当に楽し気に話す妖たちを見ていると、これまでに抱いてきた印象とは全く違った彼らの本当の姿が少しだけ分かっ気がした。

出店を一通り回り終えた私と三門さんは、参道から離れて鳥居へと続く石階段に並んで座った。


「どうだった? 楽しかった?」


大きく頷いて、たくさんの妖から貰ったお菓子や不思議な玩具を胸の前で抱きしめる。とてもおかしくて不思議で、胸が今でもまだドキドキしている。


「良かった、今日はもう眠れそう?」


そう言われてハッと思い出す。私が見た葵とマサシさんの夢だ。

口を開きかけて、慌てて俯く。


「大丈夫、ゆっくりでいいからね。言いたいことを頭の中に思い浮かべてから話してごらん。そうすれば、言霊の力をコントロールしやすいから」


深呼吸して、言われた通りに頭の中で言いたいことを思い浮かべる。

ゆっくりと口を開いた。


「ふ、不思議な夢を……みました」

「夢?」

「天狗の葵の、夢です」


言い切って、ほっと息を吐く。

三門さんは難しい顔をして腕を組む。


「もしかしたら、葵の強い思いが込められた言葉に影響されたんじゃないかな」


そこで「あ」と声をあげた。

────話したい、目が合いたい、助けてあげたい。

それは葵が私に言っていた言葉。切なげで、苦しそうに、でも諦めきれないような必死さを含んだ声で、たしかにそう言っていた。


「妖の言葉は、普通の人に比べてとても影響力が強いんだ。だから、その思いが強ければ強いほど、言霊の力を持つ僕たちはしばしばそれに引き込まれてしまうことがある。麻ちゃんが見た夢も、葵の言葉に影響を受けたんだと思うな」


じゃあ葵は、今この時でさえあんなにも切ない思いをしているのだろうか。胸が引き裂かれるような痛みを感じながら、マサシさんの側に寄り添っているのだろうか。

なんて、なんて悲しいんだろう。


「ほら、まだ葵の言葉に影響されているよ」


三門さんは私の頬に手を伸ばし、いつの間にか流れていた涙を袖でぬぐった。


「麻ちゃん、妖の言葉に振り回されるのはあまり良くない。ここにいる妖たちのように、善良な妖ばかりではないんだ」


きゅっと唇を結んで俯く。じゃあ本当に、私にはもう葵に何もしてあげれることはないんだ。


「あれれ、三門さまから青女房さんのところのきゅうりチップスの匂いがする!」

「三門さまだけで独り占めなんてずるいぞ!」

「ねえねえ三門さま、一緒にかごめかごめしようよ!」



そんな声が聞こえたかと思うと、三門さんが「うわっ」と驚いた声をあげて前のめりになった。小さな妖たちが、三門さんの背中にのしかかっている。何とか全員を受け止めた三門さん。

「あそぼうよ!」と三門さんの体に巻き付く子供たちもまた、狐の耳をはやしたり、河童のようないでたちをした妖の子供だった。

子どもたちのうちの一人に見覚えのある姿があり、「あ」と思わず声をあげる。その声に気が付いた子供たちが一斉にこちらに振り向いた。


「あれ、このお姉ちゃん」


緑色の体をしたおかっぱ頭の子どもがそう呟く。私が言霊の力のせいで怪我をさせてしまった河童の子供の妖だった。


「結守神社の巫女さんだよ」


へえ! と興味深々に私の周りを囲んだ子供たち。

三門さんが私の背中にそっと手を添えて微笑む。ぐっと息を飲み深呼吸して、言いたいことを頭の中で思い浮かべた。


「……こ、この前は、ごめんなさい。……痛かった、よね?」

「ううん、ちっとも痛くないよ! 一反木綿から落ちた時の方が痛かったもん! お山のてっぺんくらいから、川にドッボーンて落ちたんだよ、すごいでしょ! あとはね、ぬりかべが倒れてきたときの方が痛かったよ!」


そう言って自慢げに鼻を鳴らした河童の子は、私の手をぎゅっと握る。相変わらず冷たい手だけれど、今ではそんなに気にならない。その小さな手をそっと握り返した。


「み……皆のような存在がいるって、知らなかったの」

「巫女さまおもしろーい! 人間がいて動物や虫がいるんだから、妖だっているに決まってるのに!」

「そうだよ、動物は知っているのに妖は知らないなんて、巫女さまは面白いことを言うんだね!」


狐の耳をはやした子供が、開いている方の私の手を握る。


「ねえねえ三門さま、巫女さまと遊んでもいい?」


三門さんが気を使うように私に視線を向ける。私がひとつ頷けば、「いいよ、遊んでおいで」と彼らの頭を撫でた。

妖の子供たちとは私が幼かったころ遊んだのと同じように、花いちもんめやだるまさんが転んだなんかをして遊んだ。鬼ごっこをした時には、本当に鬼の子が角をはやして追いかけてきたものだから少し驚いてしまったけれど、とても楽しかった。

御神木の根元に腰を下ろし、青女房から貰ったお菓子をみんなで食べながらひとつ溜息を零した。


「巫女さま、疲れちゃった?」


狐耳をはやした子供が、私の顔を覗き込む。慌てて首を振るも、心配そうに顔を曇らす。


「巫女さまが困っているなら、僕たちがお助けするよ」

「そうだよ!」


私の肩に置かれた小さな手に、思わず頬が緩んだ。その頭を一人ずつそっとなでれば、満面の笑みが返ってくる。
一所懸命に私を助けたいと伝えてくる子供たちの気持ちが嬉しくて、葵の願いを少しだけ話した。大好きな人がいるのに、助けてあげられないのだと、簡単にして伝える。

一通り話し終えたところで、河童の子どもがおもむろに口を開く。


「巫女さま。その葵っていうお姉ちゃん、人になれるよ?」


私は「え?」と目を瞬かせた。


「蓬莱の玉の枝の簪! 巫女さま知らないの?」

「僕も知ってるよ! それを頭に挿したら、妖が見えない人間にも僕らの姿が見えるようになるんだよね!」


子どもたちが口々に話はじめ、慌ててストップを入れる。


「も、もう一度、教えてくれるかな」

「蓬莱の玉の枝の簪! きらきら光るとっても綺麗な枝でできてるんだ」

「ろくろ首の明里が持っているよ。この前、僕のお母さんに自慢してたのを見たもん!」


思わぬ情報に、目を見開いた。「ほんとだよ!」と身を乗り出す子供たちの手をきゅっと握りしめてお礼を言う。
境内にいるかもしれないよ、と子どもたちに手を引かれ走り出した。
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