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3時間目③

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王都南のモローニ伯爵邸からコリーヌの住む王都市街まで、コリーヌは伯爵家の馬車に乗っていた。ハーバート・モローニ伯爵とともに。
今日は元々授業の後に彼からディナーに誘われていたのだ。王都の異国料理を出す美味しいレストランがあるらしい。

口をへの字にしているコリーヌは先程の授業の際、苦しくなるまで脇腹を擽られた事で腹を立てていた。
コリーヌはもういい大人だ。
それなのにあんな醜態を子供であるチャールズに晒してしまって、…これならチャールズと直接実技をしている方がまだ恥ずかしくないかもしれない。

「すまない、コリーヌ、ちょっと声を出させようと思ったんだ。泣かせてごめん」
コリーヌは涙が滲む位笑い転げてしまった。一体どんな顔をしていたか…
本当に恥ずかしい。
「痛くはなかったよな?」
顔を逸らしているコリーヌを心配そうに見つめてくるハーバートになんだか既視感を感じた。

前に同じような事を聞かれたような気がするわ…
いつの事だったかしら?
ふと記憶の何かに引っかかったが、そんな事より今はハーバートに文句を言いたい。

「言ってくれれば、演技でもするわっ。なのにあんな強引に…。それに、私ももう大人なんだから擽ったりなさらないで下さい!」
少し強い口調で文句を言う。
いつまでも彼にとって私は『妹』という枠から出ないという事を再認識させられてしまう。だって子供みたいに擽られるなんて。
授業でキスしてきたり、手にキスしたり、あ、愛している、とか言ってきたりするのも、全部全部、からかって心の中で笑っているのだわ!
落とし穴をしかけた時みたいに!

「すまない。気を付けよう」
「……謝ってくれたから、今回の事は許します。」
いつまでも怒っていてもしょうがない。
もう…いつになったら私の事を大人の女性だと認識してくれるのかしら。と内心でため息をついた。

「でも、今日は授業を手伝ってもらって有難うございます」
コリーヌは自分の無茶な要求にもハーバートが文句を言わずに従ってくれたことで、素直に礼を言った。
最初は人形で解説しようと思っていた体位の解説も、実際の男女の体勢を客観的に見ることで、チャールズも分かりやすかったのではないだろうか。男性としての個人的な意見もとても参考になると思う。

「君の授業は個性的だけど、とても分かりやすいし良く調べられていて、チャールズも勉強になると思うよ。私も性の事で女性からの視点の話が聞けるから、とても有意義だと感じている。」
ハーバートからそう言われると、コリーヌも悪い気はしない。
「そう…良かったわ…」
だけど、心が少し軋む。
もしかしてハーバートは、『恋人との閨を充実させよう』と毎回授業に出ているのかもしれないという考えが湧いたからだ。
私の知らないところで彼に素敵な恋人がいて、その人のためにもう一度閨の知識を入れておこうと思ったのかしら…
最初は私の授業に信用が足りないから監視しているのだと思っていたけど、そうじゃなくて、恋人のためだったら…
今ハーバートは付き合っている人がいるのかしら?
ただの乳兄弟の私にそんな事は報告しないわよね…


ハーバートは少し考えこんでいるコリーヌを見て、先週に息子のチャールズから言われた事を思い出していた。
先週のコリーヌの授業が終わった後、ハーバートは馬車回しまでコリーヌをエスコートする際、彼女の指にキスした。
この国での手へのキスは昔よりプライベートな意味が強くなっている。つまりそれは敬愛という意味ではなく、相手への好意を表す行動だということだ。
そうしたら、コリーヌに「もう!冗談はよして!」と笑い飛ばされたのだ。

え?

俺の好意は伝わっていない?彼女にとって俺は乳兄弟の兄のまま…なのか?
何故だ?アプローチする度に彼女は可愛い顔を赤くさせて目を潤ませるというのに、なぜ分かってくれないんだ?伝わらないんだ?
あの時約束したよな?「もし、将来一人でいたら、俺が嫁に貰ってやる。」って、今お互い独り者だよな?俺たちは。
忘れているのか?もし、忘れていたとしてもこんなにアピールしているのに?
そう思って動揺していると、コリーヌが馬車に乗り去ってから、後ろからその様子を見ていた息子のチャールズに「父上、コリーヌ先生の最初の授業で『好意を伝える時は必ず分かりやすい言葉を使って』と言われていたでしょう」とあきれた顔で言われた。
くそ!息子に指摘されるとは…

だから今日の授業は冷静になれるように、コリーヌが訪問する少し前にハーバートは一度自身を慰めていた。
効果はてきめんだ。性的な言葉がコリーヌの可愛い口から放たれても、ムラムラは少なかった。
彼女を困らせないように口を出さず、授業を手伝い、どさくさに紛れて彼女に好意を伝えまくった。
俺からの愛の言葉にコリーヌは顔を赤くしていたけど、性交渉時の愛の囁きの例言と思われているかもしれないし、そもそも性交渉のポーズが恥ずかしくて顔色を変えている可能性もある。
彼女の気持ちは恥ずかしがっているだけなのか、それ以外の気持ちがそこにあるのか俺には量れない。
だからハーバートはもう直接伝えようと思ったのだ。授業外で愛を告白するのが一番良いだろうと。
丁度、貴族の知人に珍しい異国の料理を出すレストランを教えて貰ったので、コリーヌを誘った。
彼女もその店が気になっていたらしく、すぐに了承してくれた。
よし、二人きりで食事に行くぐらいには好かれているはずだ。そこは間違いない。

ハーバートはニコリと微笑を浮かべる。
コリーヌもそれを受けて少しだけ笑い返す。
表面上は穏やかに二人は馬車で過ごしていた。


だがモローニ伯爵は店選びを失敗していた。
チャーニーズという東方の国の料理が食べられる店は、何だかとても忙しない雰囲気で活気がある場所だった。
独特の料理の香りに、料理人達の喧噪と、ガチャガチャと食器が鳴る音、更にリャーメンという麺を啜る音が入り混じる空間では、愛や恋が語れる雰囲気は微塵もなかった。
ここは決して大衆向けの店ではない。貴族御用達の高級感はある。
丸いテーブルの真ん中のクルクル回る台に置かれた料理を手元に回して持って行くのは面白いが、しかし愛を伝える場所には向かない。
異国の『箸』という食器にも苦労させられ、ハーバートは小さな鳥の卵が箸から何度か飛んで行く失態をした。
見たことのない料理に目を爛々と輝かせているコリーヌは、ディナーを男と二人きりで食べているというのに色気より食い気が勝るのか、ハーバートの前でも好奇心が隠せない表情をして目新しい料理を注文しては食べている。

まぁ、そんな所も可愛くて仕方がないと思うのは、惚れた欲目なのか。

店内で彼女に愛を告げようと考えていたハーバートは、当てが外れたが思いの外楽しい時間を過ごした。
飛んでいく鳥の卵をコリーヌは笑って許してくれた。


チャーニーズの店からコリーヌのアパルトメントは徒歩で10分程なので馬車を待たせて、腹ごなしに二人で一緒に歩いて行くことにした。
今、王都は社交シーズンで夏の終わりだ。
街灯が灯され、その規則的な光は王都2番街の街並みを美しく彩っていた。
石畳の道をハーバートはコリーヌに腕を差し出してエスコートして歩く。

「まぁっ!…モローニ伯爵?」
少し離れたところで馬車に乗り込もうとしていた貴族の御婦人が嬉しそうに声を掛けて来た。
ハーバートは少しだけコリーヌを道の端で待っているように言って、その御婦人に挨拶しに行った。

その御婦人はハーバートと年の頃が変わらなさそうな綺麗な人だった。
美しく艶めく黒髪を綺麗に巻いて、スーツジャケットに裾をアシンメトリーにしたスカートで最新の装いをしている。おそらく子爵以上の家格であろうか。
コリーヌも3年前まではブラウン男爵夫人として社交界にたまに夫と顔を出していたが、顔見知りではない人だった。
彼女は親しそうにハーバートに挨拶を受けると、扇子で顔を隠して話をしていた。
ああいった所作は、笑顔を隠すときに行われるものだ。
ハーバートと話すのが嬉しいのか、目は弧を描いている。会話の内容は分からないが、ハーバートの顔にいつもの眉間の皺はなく、朗らかに何かを話している。
彼の笑顔からは明らかに湧き出る好感と、親しさが含まれていた。

私以外にもそういう顔をするのね、…いいえ、私以上にもっと楽しくてしょうがない様な…


ああ…、分ってしまった。彼女が今の恋人なのね…

コリーヌは今や男爵夫人でも何でもない。
跡継ぎを産めなかった彼女はただの平民。元男爵夫人・未亡人という肩書きだけしか持っていない。夫が亡くなっても生家が貴族なら社交界に出入りする豪胆な人もいるが、コリーヌはそうではない。

私なんかにハーバートが好意を持つはずがないのに。
何を舞い上がっていたのだろうか。
授業中に彼にキスされたからって、何を勘違いしたのだろう。
彼に夫の会社を買い取って貰ったからといって…
その後も目を掛けてくれたからといって…
それは全部ハーバートからの乳兄弟への温情だというのに、何を勘違いしていたのだろう。

先程までコリーヌはまるでデートの様だと浮かれていた。
ハーバートとチャーニーズ料理のディナーを食べて、2人で綺麗な街を歩いて、楽しかった。
彼が好意を持って、私をデートに連れて行ってくれている。と、思ってしまった。
彼の腕に手を置いてエスコートされ高揚した気分は、美しい貴婦人と楽しそうに話すハーバートの顔を見ただけで急降下した。ドキドキと胸を高鳴らせていたのに、急に冷や水を浴びせられたように現実を思い知らされる。

彼は伯爵、私は平民。身分違いも甚だしい。
それにあの御婦人と話すハーバートの笑顔ったら…
…私は…何で舞い上がっていたの…?

コリーヌは彼らから目を逸らすと、そっと後退して、一人で歩き出した。


涙が出てくる。
コツコツと靴のヒールが石畳に響く。それが今は凄く鬱陶しい。


「コリーヌ!!一体何をしている!!?」
後ろから走って来たハーバートがコリーヌの腕を強く引っ張った。
「…っ!」
「一人で歩いて行くなんて!!危ないじゃないか!?どうして…!」
彼は怒ったような必死の顔をしていた。だが、泣きそうになっていたコリーヌの顔を見て言葉を詰まらせた。
強く掴まれて、コリーヌの腕は少し痛かった。
ここは王都2番街の外れで、角を曲がれば一般住居の多い5番街、コリーヌのアパルトメントがある場所だ。王都中央区に近く警官も沢山巡回しているため、大通りなら女の一人歩きも問題ない。
だがいくら治安の良い王都といえど、少し脇道を入れば何があるかは分からない。夜の女性の一人歩きは特に妙齢の女性は基本的には避けるのが常識だ。だから彼も血相を変えて追いかけてきてくれたのだ。

でも、良いのよ。あなたはあなたの大事な人に心を配ってあげて欲しい。
いつまでも不幸に見舞われた乳兄弟の世話なんてしなくていいのよ。

「一人で帰ってごめんなさい。でも、私はお邪魔でしょうから。モローニ伯爵。私の事はもう気に掛けなくて結構ですから。…あの、一人で帰れます。離してくださいませ」

目も合せず、コリーヌは拒絶の言葉を投げてしまった。
彼に甘えさせてもらい、まるで恋人気分を味わわせて貰って、もう十分だと弁えなければ。

腕を押さえる彼の手から力が抜けると、コリーヌは走った。
ハーバートが追いかけてくる様子はない。

「コリーヌ……っ?」

彼の戸惑った声が聞こえた気がする。
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