3 / 9
3
しおりを挟む
やっとの思いで仕事を片付けて会社を出たのは定時を大幅に過ぎてからだった。
特に達成感なんてものはなく、あるのは抜け切らない日々の疲労と倦怠感と謎の虚しさ。
駅のホームでいつもの電車に乗って、最寄りの駅の一駅前で降りる。
どうせ仕事が終わらないことはわかってたから、予約は最後の時間で取っておいた。たとえその時間を過ぎたとしてもきっと文句を言われることはないけど、間に合いそうで安心する。
唯の働く美容室までは、駅から歩いて5分だ。
ドアを開けると心地いいベルの音がカランと鳴った。
「あ、お疲れ。間に合ったんだ」
レジの置かれた小さなカウンターの中にいた唯が、俯いていた顔を上げてふわりと笑う。
一瞬前までは無表情だった顔が自分を見つけて笑みを浮かべる様を見るのはなんだか気分がいい。
綺麗な唯の顔でそれをされると余計に。
「お疲れ。なんとかな」
言いながらスーツの上着を預けて、特に案内も待たずいつもの席に座る。
店内には他に人がいる様子はなかった。
「お前だけ?」
「うん、てかいつもそうだって」
「いいって言ってんのに。申し訳ないんだけど」
「何が?そうしたいからしてるだけ」
こんなやりとりも何回目だろう。
俺が来る時店にはいつも唯しかいない。
いつも通り俺と喋りたいから、とかそんな馬鹿みたいな理由だけで他のスタッフを早めに帰らせて夕方以降は予約も入れないようにしているらしい。
ただの雇われの身でありながらそこまで好き勝手できるのが不思議だけど、「売上に貢献してるから店長俺にやさしーの」と唯は前に言っていた。
そりゃこんなのがいたら通うしかないし、さらには腕も良いから唯は人気がある。
「俺、瑞季との間に他人が入ってくるの嫌だから」
手際良く準備をしながら平然と放たれた言葉。
今コイツはどんな顔をしてそんなことを言っているんだろうと鏡越しにその表情を窺うと、俺の視線に気づいた唯がこっちを向いた。
「なに?」
目が合って、そうすることが当たり前だというようにやわらかく微笑まれる。まるで甘やかすようなその表情に、俺ならコイツに何もかもを許してもらえるんじゃないかって、自惚れと期待が入り混じる。
人当たりはいいけど唯のそれは上辺だけだ。
そういう素の表情を見せるのが俺だけだって知ってる。
関係を持った相手には何故か冷たくなることも。
「…べつに。熱烈だなと思って」
もしもいつか、お前が俺のことを受け入れて、俺たちの関係が変わったら。
その時は俺にも冷たくなんのかな、お前。
それがあんまり想像できないって思うのは、やっぱりただの思い上がりかもしれないけど。
月に一回の頻度で、俺は唯に髪を切ってもらう。
いかにも繊細そうな指先がやわらかく俺の髪を梳いてハサミを入れる。丁寧なその手つきにまるで愛されているような気になるのはきっと俺だけじゃなく、コイツを指名する客のほとんどが同じようにこの瞬間だけの夢を見るのだろう。
考えると相応しくない不快感が腹の底で渦を巻く。
実際には何の感情も伴わないその指先が苦しい。
「次は、別のとこで切ろうかな」
逃げ出したいな、と思った。
飼い殺しのような恋から、自分だけのものではないその指先から。
唯に髪を切ってもらうようになってから5年、叶う見込みのない恋をしてからはもうすぐで10年になる。
きっかけが欲しいならタイミングとしては十分だった。
「えー、ダメ」
切られた髪が床に散る。
派手な色をした唯の髪とは違う、なんの面白みもないありふれた黒髪。
お揃いにしようって唯が言ったから、色を抜いて金に染めたこともあった。今はもう見る影もない。
「瑞季の髪に触っていいのは俺だけだから」
頭を撫でるように、指先が髪の間を通り過ぎて行く。こぼれ落ちて、また最初から。
その言葉も手つきも全部、多分きっと俺だけに向けるもので、なのに手に入らない。それならもっと、この手が届かないくらい遠くにいてくれればいい。
「俺、お前のものじゃないんだけど」
「知ってる」
髪を梳いていた指先が離れたかと思えば、今度は左耳に触れた。
少し低い唯の体温が耳のふちをなぞって、耳朶に辿り着く。
やわやわと触れるその手にくすぐったさを覚えて、文句を言おうとした瞬間。
「瑞季。穴、塞がっちゃうよ」
かり、と痛くない程度の強さで、引っ掻くように爪を立てられる。
静かな声の中にどこか咎めるような色を感じた。
床に落ちた髪へと向いていた視線を上げて、鏡越しに唯を見る。
いつもと同じ、なにを考えているのかわからない顔。
表情が抜け落ちるとその美しさは一気に温度を失って作り物のようになる。
外ではいつもへらへらと笑みを浮かべている姿を思えば、こんな顔も俺にだけ見せる隙のようなものなのかもしれない。
「いーよ、別に。もう付けられないし、付けないから」
就職と同時に外したピアスは今も家の引き出しの奥で眠っている。
会社的にピアスの着用がダメだからっていうのは本当で、だけどそれが理由の全てじゃない。
髪色をお揃いにしようって言ったのは唯で、ピアスを一緒にあけようって言ったのは俺だった。
お互いの左耳に穴をあけあって、ファーストピアスは一つのものをふたりで分けてつけた。唯の耳にはあの頃からずっと変わることなくお揃いのピアスが嵌め込まれている。
どれだけ穴が増えても、俺の知らない誰かを抱いても、ずっと。
「…あ、そ。塞がったら俺がまたあけてやるよ」
「お前話聞いてた?」
「聞いてた聞いてた」
「うざ。…塞がったらもう終わりだから、いいんだよ」
いつからかなんて覚えてないけど、その頃には俺はもうお前のことが好きだった。
まっさらなお前の皮膚に針を刺して傷をつけた瞬間の、あの罪悪感ときっと正しくない充足感を今でも覚えてる。
俺が唯へと向ける感情の全てはきっと全部そこにあった。
だから。
この穴が塞がったら、全部終わりにする。
ピアスを外したあの日にそう決めた。
特に達成感なんてものはなく、あるのは抜け切らない日々の疲労と倦怠感と謎の虚しさ。
駅のホームでいつもの電車に乗って、最寄りの駅の一駅前で降りる。
どうせ仕事が終わらないことはわかってたから、予約は最後の時間で取っておいた。たとえその時間を過ぎたとしてもきっと文句を言われることはないけど、間に合いそうで安心する。
唯の働く美容室までは、駅から歩いて5分だ。
ドアを開けると心地いいベルの音がカランと鳴った。
「あ、お疲れ。間に合ったんだ」
レジの置かれた小さなカウンターの中にいた唯が、俯いていた顔を上げてふわりと笑う。
一瞬前までは無表情だった顔が自分を見つけて笑みを浮かべる様を見るのはなんだか気分がいい。
綺麗な唯の顔でそれをされると余計に。
「お疲れ。なんとかな」
言いながらスーツの上着を預けて、特に案内も待たずいつもの席に座る。
店内には他に人がいる様子はなかった。
「お前だけ?」
「うん、てかいつもそうだって」
「いいって言ってんのに。申し訳ないんだけど」
「何が?そうしたいからしてるだけ」
こんなやりとりも何回目だろう。
俺が来る時店にはいつも唯しかいない。
いつも通り俺と喋りたいから、とかそんな馬鹿みたいな理由だけで他のスタッフを早めに帰らせて夕方以降は予約も入れないようにしているらしい。
ただの雇われの身でありながらそこまで好き勝手できるのが不思議だけど、「売上に貢献してるから店長俺にやさしーの」と唯は前に言っていた。
そりゃこんなのがいたら通うしかないし、さらには腕も良いから唯は人気がある。
「俺、瑞季との間に他人が入ってくるの嫌だから」
手際良く準備をしながら平然と放たれた言葉。
今コイツはどんな顔をしてそんなことを言っているんだろうと鏡越しにその表情を窺うと、俺の視線に気づいた唯がこっちを向いた。
「なに?」
目が合って、そうすることが当たり前だというようにやわらかく微笑まれる。まるで甘やかすようなその表情に、俺ならコイツに何もかもを許してもらえるんじゃないかって、自惚れと期待が入り混じる。
人当たりはいいけど唯のそれは上辺だけだ。
そういう素の表情を見せるのが俺だけだって知ってる。
関係を持った相手には何故か冷たくなることも。
「…べつに。熱烈だなと思って」
もしもいつか、お前が俺のことを受け入れて、俺たちの関係が変わったら。
その時は俺にも冷たくなんのかな、お前。
それがあんまり想像できないって思うのは、やっぱりただの思い上がりかもしれないけど。
月に一回の頻度で、俺は唯に髪を切ってもらう。
いかにも繊細そうな指先がやわらかく俺の髪を梳いてハサミを入れる。丁寧なその手つきにまるで愛されているような気になるのはきっと俺だけじゃなく、コイツを指名する客のほとんどが同じようにこの瞬間だけの夢を見るのだろう。
考えると相応しくない不快感が腹の底で渦を巻く。
実際には何の感情も伴わないその指先が苦しい。
「次は、別のとこで切ろうかな」
逃げ出したいな、と思った。
飼い殺しのような恋から、自分だけのものではないその指先から。
唯に髪を切ってもらうようになってから5年、叶う見込みのない恋をしてからはもうすぐで10年になる。
きっかけが欲しいならタイミングとしては十分だった。
「えー、ダメ」
切られた髪が床に散る。
派手な色をした唯の髪とは違う、なんの面白みもないありふれた黒髪。
お揃いにしようって唯が言ったから、色を抜いて金に染めたこともあった。今はもう見る影もない。
「瑞季の髪に触っていいのは俺だけだから」
頭を撫でるように、指先が髪の間を通り過ぎて行く。こぼれ落ちて、また最初から。
その言葉も手つきも全部、多分きっと俺だけに向けるもので、なのに手に入らない。それならもっと、この手が届かないくらい遠くにいてくれればいい。
「俺、お前のものじゃないんだけど」
「知ってる」
髪を梳いていた指先が離れたかと思えば、今度は左耳に触れた。
少し低い唯の体温が耳のふちをなぞって、耳朶に辿り着く。
やわやわと触れるその手にくすぐったさを覚えて、文句を言おうとした瞬間。
「瑞季。穴、塞がっちゃうよ」
かり、と痛くない程度の強さで、引っ掻くように爪を立てられる。
静かな声の中にどこか咎めるような色を感じた。
床に落ちた髪へと向いていた視線を上げて、鏡越しに唯を見る。
いつもと同じ、なにを考えているのかわからない顔。
表情が抜け落ちるとその美しさは一気に温度を失って作り物のようになる。
外ではいつもへらへらと笑みを浮かべている姿を思えば、こんな顔も俺にだけ見せる隙のようなものなのかもしれない。
「いーよ、別に。もう付けられないし、付けないから」
就職と同時に外したピアスは今も家の引き出しの奥で眠っている。
会社的にピアスの着用がダメだからっていうのは本当で、だけどそれが理由の全てじゃない。
髪色をお揃いにしようって言ったのは唯で、ピアスを一緒にあけようって言ったのは俺だった。
お互いの左耳に穴をあけあって、ファーストピアスは一つのものをふたりで分けてつけた。唯の耳にはあの頃からずっと変わることなくお揃いのピアスが嵌め込まれている。
どれだけ穴が増えても、俺の知らない誰かを抱いても、ずっと。
「…あ、そ。塞がったら俺がまたあけてやるよ」
「お前話聞いてた?」
「聞いてた聞いてた」
「うざ。…塞がったらもう終わりだから、いいんだよ」
いつからかなんて覚えてないけど、その頃には俺はもうお前のことが好きだった。
まっさらなお前の皮膚に針を刺して傷をつけた瞬間の、あの罪悪感ときっと正しくない充足感を今でも覚えてる。
俺が唯へと向ける感情の全てはきっと全部そこにあった。
だから。
この穴が塞がったら、全部終わりにする。
ピアスを外したあの日にそう決めた。
20
お気に入りに追加
52
あなたにおすすめの小説
俺の彼氏には特別に大切なヒトがいる
ゆなな
BL
レモン色の髪がキラキラに眩しくてめちゃくちゃ格好いいコータと、黒髪が綺麗で美人な真琴は最高にお似合いの幼馴染だった。
だから俺みたいな平凡が割り込めるはずなんてないと思っていたのに、コータと付き合えることになった俺。
いつかちゃんと真琴に返すから……
それまで少しだけ、コータの隣にいさせて……
初夜の翌朝失踪する受けの話
春野ひより
BL
家の事情で8歳年上の男と結婚することになった直巳。婚約者の恵はカッコいいうえに優しくて直巳は彼に恋をしている。けれど彼には別に好きな人がいて…?
タイトル通り初夜の翌朝攻めの前から姿を消して、案の定攻めに連れ戻される話。
歳上穏やか執着攻め×頑固な健気受け
告白ゲームの攻略対象にされたので面倒くさい奴になって嫌われることにした
雨宮里玖
BL
《あらすじ》
昼休みに乃木は、イケメン三人の話に聞き耳を立てていた。そこで「それぞれが最初にぶつかった奴を口説いて告白する。それで一番早く告白オッケーもらえた奴が勝ち」という告白ゲームをする話を聞いた。
その直後、乃木は三人のうちで一番のモテ男・早坂とぶつかってしまった。
その日の放課後から早坂は乃木にぐいぐい近づいてきて——。
早坂(18)モッテモテのイケメン帰国子女。勉強運動なんでもできる。物静か。
乃木(18)普通の高校三年生。
波田野(17)早坂の友人。
蓑島(17)早坂の友人。
石井(18)乃木の友人。
邪魔にならないように自分から身を引いて別れたモトカレと数年後再会する話
ゆなな
BL
コンビニのバイトで売れない美しいミュージシャンと出会った大学生のアオイは夢を追う彼の生活を必死で支えた。その甲斐あって、彼はデビューの夢を掴んだが、眩いばかりの彼の邪魔になりたくなくて、平凡なアオイは彼から身を引いた。
Twitterに掲載していたものに加筆しました。
恋ノ炎ハ鎮火セズ
月岡夜宵
BL
すぐ炎上発言をしてしまう無自覚天然推しを守る為に消防団団長として奮闘していた一ファンの相良正樹だが、ある日推しがSNSで呟いた一文に釘付け。普段なら真っ先に消火活動に回るも手はガタガタ震えそれどころではない。他の団員の奮闘も虚しく、既に後手後手のネット内部。正樹を凍りつかせた呟き、それは。【あいつと結婚したい。おれの望みはそれだけなのに誰も認めてくれない。一生触れることも出来ないまま俺は死んでいくのか?】
業界騒然。人気絶頂中アイドルグループのメンバー『神部シンジの結婚問題』があらゆる界隈を巻き込みトップニュースに。白熱する世論を動揺したままみつめていたが、初めて覚える嫉妬、それから推しが抱える切実な気持ちを目の当たりにし、正樹は胸が痛い。神部シンジの愛する人、それが発覚したことで正樹はこの恋に見切りをつけようと決意する。自分の手で胸の炎を消そうと最後の握手会に参加。「今までありがとう」、その言葉を直接告げ、恋は終わった……はず……だったが何故かスマホの通知音が全然止まない。終わったはずの恋の火はちょっとやそっとでは消えないようで? 【顔のない愛しの幽霊(ゴースト)】と名付けられたネットニュースの真相が、今、明らかに。
炎上発言が多い人気アイドル×遠回しに推しに貢献する一ファン。
君の足跡すら
のらねことすていぬ
BL
駅で助けてくれた鹿島鳴守君に一目惚れした僕は、ずっと彼のストーカーをしている。伝えるつもりなんてなくて、ただ彼が穏やかに暮らしているところを見れればそれでいい。
そう思っていたのに、ある日彼が風邪だという噂を聞いて家まで行くと、なにやら彼は勘違いしているようで……。
不良高校生×ストーカー気味まじめ君
俺の親友のことが好きだったんじゃなかったのかよ
雨宮里玖
BL
《あらすじ》放課後、三倉は浅宮に呼び出された。浅宮は三倉の親友・有栖のことを訊ねてくる。三倉はまたこのパターンかとすぐに合点がいく。きっと浅宮も有栖のことが好きで、三倉から有栖の情報を聞き出そうとしているんだなと思い、浅宮の恋を応援すべく協力を申し出る。
浅宮は三倉に「協力して欲しい。だからデートの練習に付き合ってくれ」と言い——。
攻め:浅宮(16)
高校二年生。ビジュアル最強男。
どんな口実でもいいから三倉と一緒にいたいと思っている。
受け:三倉(16)
高校二年生。平凡。
自分じゃなくて俺の親友のことが好きなんだと勘違いしている。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる