アクアリウムの底で眠る

おつきさま。

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飼育される魚を哀れだと思う。


本物の海も知らずに、人工的にそれを再現しただけの偽りの水槽を正しい世界だと思い込んで生きていく、可哀想な生き物。
なあ、お前と同じだ。幸。








弟が生まれたのは、俺が9歳になった年の冬だった。
ただそれを産み落としただけの母親とは名ばかりの女は、退院した後俺に全てを押し付けて後はもう見向きもしなかった。
わかりやすい言葉を使えば俺達の両親はクズだ。
ホストだった父に惚れ込んだ母親が金を注ぎ込んで都合のいい女になって、籍だけは手に入れたようだけど心まではもらえなかった。
振り向いて欲しくて子供を作っても蔑ろにされて、行為の最中に昂って求められただけの台詞を間に受けて、懲りずに幸を孕んだ。中に出したいだけだと子どもの俺でもわかるのに。あの馬鹿な女にはそれがわからない。だからいつまでも手に入らない男の愛を求めて、理想と現実の食い違いにヒステリックになった先でいつも俺を殴った。
父親であるはずの男は他の女の家を渡り歩いて、思い出したように帰ってきては気まぐれに女を抱いたり、殴ったり、金を毟り取ったりする。
どっちもどうしようもないゴミだ。



親も世界も、何もかもが嫌だった。嫌いだった。
幸が泣く度に世話もまともにできないのかと殴られた。
仕事が増えて、殴られる理由も増えて散々だった。
大体、赤ん坊なんて泣くのが仕事で俺がどれだけ尽くしたところで泣く時は泣く。
それを俺のせいにされても。
弟がいなければ俺はもう少しだけマシな生活を送れていただろう。
弟が嫌いだった。
ギャンギャン泣いて、そのくせ自分のせいで俺が殴られてることすら知らずに、きゃっきゃとよく笑う。それが余計にうざく思えた。
何笑ってんだよ、呑気でいいなお前は。
お前がそんな風に笑っていられるのはいつまでだろう。きっとそんなに長くない。
五月蝿くて、面倒くさくて、あーあこいつがいなければって思いが日に日に増した。
ある時、弟を抱えて家を出た。
喚き散らして酒に溺れた女がようやく寝静まった真夜中のことだった。
逃げようとしたんじゃない。
殺そうと思ったのだ、弟を。
この街で一番でかい川の上に架かる橋から落とそうと思った。
どうせこの先生きていても、良いことなんか何もない。お前は幸せになんかなれないし、不幸にしかなれない。生まれてくる場所を間違えたんだ。
もしここで俺が殺さなくても、あの狂った名ばかりの親にいつか殺されるかもしれない。
死ななかったとしたらそれこそ地獄だ。
これから十何年、大人になって自由を手に入れるまでずっと痛い思いをすることになる。

「お前もさ、別に生きてたくないだろ?言葉がわかんなくたって、あの家が異常なことくらいわかるだろ。どうせいつか殺されるなら、俺が今殺してやるから」

弟を抱えた腕を橋の向こうに突き出す。
このまま手を離してしまえば、この小さくて弱い生き物は成す術もなく冷たい水面に叩き付けられて、あの黒い闇に沈んでいく。
きっと息ができない苦しさも、自分が死ぬということもわからないまま、何もできずに死んでいく。
でもそれでも、あんな所で生きていくよりは苦しくないはずだから。


「……なあ、それとも一緒に死んでやろうか。二人で飛び込めば、お前も怖くないかな。最後に、兄ちゃんらしいことをしてやるのもいいかもな?」


はっ、と何もかもが馬鹿みたいで嘲るように笑ったら。
ゴミみたいに小さくて、この世界の何も掴めなさそうな手が俺に向かって伸ばされた。
あまりに短くて、だからやっぱり届かないのに、弟はそれをぶんぶん振って、それで。
花が落ちるように楽しげに笑ってみせた。
屈託なく、汚れなく、この世の幸せしか知らないみたいな顔をして。


「…なんだよ、は、ははっ」


ぱたり、となにかが頬に落ちた。
生温くて塩辛いなにか。
気が抜けて腕を引っ込めると、いまだに伸ばされたままだった弟の手が顔に触れた。
それがまるで俺の頬を濡らす滴を拭おうとしているみたいで。


「馬鹿だな、お前。殺されそうだったんだぞ今」


きょとりと瞬くまるい瞳が無邪気に俺を見上げて、やっぱり笑う。
そんなご機嫌な生き物に俺もついわらった。


「生きたいか、幸」


初めて弟の名前を呼んだ。
俺が付けた、不釣り合いな名前。
幸せになんかなれない、なれるものならなってみろよって皮肉と挑発を込めて。
こんな世界でもまだお前が笑うなら、俺が守ってやろうか。







俺が中学に上がって、幸もそこそこデカくなった頃。
付きっきりで面倒を見る必要がなくなったのと、一応世間体を気にする思考は残っていたらしい女に言われて、俺は真面目に学校に通うようになった。
まだ小さい幸に手を出せば簡単に死んでしまうことがわかるからか、女が殴るのは基本俺で幸が殴られた所は見たことがなかったし、守ってきた自負があったから俺はすっかり油断していた。
ある時家に帰ると玄関に入った瞬間から、女の怒鳴り声と物が倒れる音、そして子どもの泣く声がした。
走って向かった先で小さい幸が殴られているのを見た瞬間、血の気が引いた。
いつも馬鹿みたいに笑ってたはずの幸の顔が血まみれで、見たことがないくらい泣きじゃくっていて、それでも俺の顔を見た瞬間、酷く安心したようにぺしゃりと笑って見せた。


こいつが笑っていられるのは今のうちだとわかっていた。
でもいざその時を前にしたら、俺はこいつに、ただいつまで何も知らずに馬鹿みたいに笑っていて欲しかったのだと気付いた。
それがどれだけ難しいことか、俺が一番知っている。








夜は碌なことがない。
閉じた押し入れの向こう側には醜い世界が広がっている。
音楽だけが逃げ場所だった。
親がセックスをしている時も、喧嘩をしている時も、女が殴られてる時も。
小さい弟を腕の中に閉じ込めて、出来る限りの力で耳を塞いで、無意味だと知りながら歌を歌った。
覚えたメロディを口ずさんで、何もかもなくなれと願った。
この腕の中の存在さえ、消えて仕舞えばいいのにって。
そうすれば、お前は今よりマシなはずだ。
お前のことを、救い出してやりたかった。



その場だけで庇っても意味がない。
その後も何回か幸は俺のいない所で殴られるようになった。
女は外に出ると人が変わったように良い顔をした。
外面と容姿だけはいいから誰に何を言ったって俺たちの声は届かなくて、わかりやすい傷を見せても面倒ごとだと目を瞑られる。
この世の中にはクズしかいない。
助けを求めた事実が女に行くだけで、実際にはそこから助け出されないのだからもっと酷い目に遭わされて終わるだけだった。
俺はそれでもいいけど、それが幸にまで行くのはダメだ。
信じてもらえないなら言い逃れできない証拠を作ればいいと、ふと気付いた。
酒を飲んだ女の地雷をわざと踏んで、わかりやすい場所に包丁を置く。死なない程度のデカい傷になるように狙って傷を付けさせた。
結果は上々。
切られて血だらけの腕なんて派手でいいじゃないか。真冬の夜、靴も履かずに幸と裸足で駆け出した。警察だ、警察に行く。そうしてこれを見せて、あの女を捕まえさせて、施設でもなんでも、幸が傷付かない場所に行けるならどこだっていいと、ただひたすらに走った。
まだまだ小さい弟の手だけは離さないように、必死だった。







新しい家は施設ではなかった。
あの女の妹で、俺たちの叔母に当たる人物が新しく引き取り手になったらしい。
何があったのかは知らないけれど、それが不服な結果であったことは叔母の顔が物語っていた。
叔母は母である姉のことが大層憎かったようで、事あるごとに姉への恨みを口にしてその子どもである俺たちを罵った。
けれど暴力は振るわなかったし、衣食住はきちんと提供されたおかげで大分まともな生活を送らせてもらった。
幼い幸のことまでボロクソに言うから少し心配したけど、幸はいつもあっけらかんとした顔で俺の横に立っていた。俺がいればあいつはそれでいいらしい。

 



そうして、鬱陶しく蝉が鳴く夏。

「にいちゃん、おれ、いらない?」

後ろから投げられた声。
いつもなら無視をするところで振り向いてやったのは、お前の声があまりに頼りなかったからだ。
俺と同じ色の瞳にはうっすらと水の膜が張って、道の向こうの陽炎のように揺れていた。
 
「にいちゃんと、いっしょがいい...」

まるで言ってはいけないことを言ってしまったとでも言うような顔をするから、馬鹿だなと思う。
置いて行くつもりなんて初めからなかった。
あの時お前を生かしたのは俺だから。
せめてお前が大人になって、自分のことを自由に選べるようになるまでは俺が守ってやろうと思ってた。
それがお前を生かした俺の責任で、兄と呼ばれる俺の義務で。
そうしていつか、お前がこの手を離れて行く時に、幸せなんてものを感じられるような気さえした。
なのに。


『俺にはやっぱり、兄ちゃんしかいないから』
『俺はずっと兄ちゃんのそばにいたいよ。いっしょがいい、ずっと…っ、俺だけの兄ちゃんがいい』
『俺の好きに生きろって言うなら、俺の答えはそれだけ』


雛鳥の刷り込みのように、盲目に従順に。
兄だからと言うたったそれだけの理由で無条件に俺のことを慕ってくる馬鹿な弟。
俺しかいないなんて、お前はまだ何も知らないだけだ。
狭い押し入れの中でふたりきり。
あれを世界の全てだと思い込んで、俺の存在が幸せそのものだと言う。 
馬鹿な幸。
海を知らない哀れな魚。

「あー。育て方間違えたな」

確かに、どう足掻いたってお前には俺しかいなかった。
楽観的に見ても悲観的に見てもその事実は変わらない。
だけどもう違う。
どうしてお前はそれに気付かないで、いつまでも俺の後をついてくるんだよ。
なあ幸、早く気付けよ。
そうして、俺のいない世界で幸せになれ。

「なになに?幸のこと?」

一人で座っていたはずのソファにもう一つ重みが加わってほんの少し傾いた。
横を見れば派手な赤髪を揺らした男が、好奇心を隠しもしない様子でそこにいた。

「お前には関係ない」
「えーいいじゃン。俺も幸の兄ちゃんみたいなもンじゃない?」
「この間も思ったけどお前馴れ馴れしいんだよ。あいつに近付くな」
「酷え!なンだよヨシノくん、ヤキモチ?幸の兄ちゃんは自分だけってこと?」
「あ?」

そんなこと、あるわけがない。
なのに何故か、あの日こいつと戯れて笑っていた幸の顔が思い浮かんで、腹の底がくつりと揺れた。
俺の知らない場所で笑う幸。
それは俺が望んだ世界だったはずだ。

「…てかさ、ヨシノくん。幸が最近ちょー元気ないんだけど。全然俺とゲームしてくれねえンだけど?」
「知らねーよ」
「なンでだよ、ヨシノくんのせいじゃん?」
「はあ?」
「兄ちゃんに捨てられたってすげえ泣いてたよ」

さっきまでの茶化すような雰囲気は鳴りを潜めて、途端に冷静な部分が顔を出す。
振る舞いや言動がどれだけ馬鹿っぽくても、本来のシキは他人の機微に聡く、周りをよく見ている男だった。

「ヨシノくんはさァ、幸に幸せになって欲しいみたいだけど。今のあいつはちっとも幸せなんかじゃないよ。本当はヨシノくんもわかってるンじゃねえの?」
「…はっ、お前が何を知ってるんだよ」
「少なくとも、今の幸のことはヨシノくんより知ってンじゃねえかな」

だからなんだ。
俺はあいつが生まれた時からずっと、あいつのことを見てきたんだよ。
あいつを幸せにする為だけにここまで来たんだよ。

「幸はただのガキじゃねえよ。自分の幸せくらい、自分でどうにかすンだろ。だからヨシノくんも、そんなに気負わなくていいンじゃねーの?お互い凭れかかって生きていこうぜ、な!」

あははは!と馬鹿でかい声で笑って、人の肩をバシバシ叩きやがるアホに蹴りを入れて立ち上がる。



『っ俺のしあわせを、兄ちゃんが勝手に決めんなよっ…!!』



水槽の中の魚は幸せか否か。
そこに答えなんて求めずに、ただそれを綺麗だと思えばよかったのか。
お前が笑うならそれだけでいいと思った、一番最初のように、ただ。






「さあお次はunbalanceの皆さんです!ボーカルのYOSHINOさん、今回の新曲は初のラブソングとお聞きしたんですが、今まで書いてこなかった曲を書こうと思った理由をお聞きしてもよろしいですか?」

隣に立つ女性アナウンサーが台本通りの質問を投げかける。
もちろん俺の回答も角が立たないよう事前に用意されたものがあったが、そんなものはゴミに捨てて自分の言葉で答えることにした。

「昔から、曲を書くのはいつも自分を救う為の行為だったんですけど、初めて違う誰かの為に曲を書いたら、なんかラブソングみたいになってました。結果的に今までで一番いい曲になったと思います。飾らない、俺自身の歌です」

アナウンサーがほんの一瞬目を見開くが、そこはプロだ。すぐに表情を整えて、俺に合わせた質問をしてくる。

「それは恋人に向けての歌、と捉えてもいいんでしょうか」

恋人、恋人ね。

「いや、違いますね。そんなのよりもっと大切で、鬱陶しくて、煩わしい。俺の全てです」
「そ、それは熱烈ですね」
「でしょ?今夜はそいつの為だけに歌おうと思って。」
「あのYOSHINOさんにここまで言わせるお相手、大変気になりますね。さあそれでは、unbalanceの皆さんにはステージの方に移動していただきます」

周りの反応なんてどうでもいい、お前にちゃんと届くなら。
俺の歌が好きなお前は今夜もきっとテレビの前でこれを見てるはずだ。


「さあそれでは、披露していただきましょう。unbalance初のラブソングです『幸せ』」


息を吸う。
そして吐く、音を乗せる。
今も昔も俺の歌はお前の為だけに在るよ、幸。
 


お前が笑っていられる時間が少しでも多ければいい、それが〝ずっと〟ならもっといい。
確か最初にそう思ったんだよ。
別にお前のことなんかどうでもよくて、好きでもねえけど、俺が人生で初めて守らなきゃいけないと思ったものだったから。
その時の感情が永遠に残ったまま焦燥に駆られるようにただ、今日までひたすらそればかりで生きてきた。
いつしかそれが、愛に変わっただけの話だ。


俺には兄ちゃんしかいないって。
馬鹿の一つ覚えのようにお前はそれだけを繰り返してきた。
でも多分本当は、俺にもお前しかいなかったんだ。
何も持たないで生まれてきたと思っていた。
そうしてそれがこれからも永遠に続いていくのだと。でも違った。俺にはお前だけがいた。
初めから俺にだってお前しかいなかった。
幸せなんて、お前がいないならこの世界のどこにもない。
お前もそうなら、水槽の中の魚は確かに幸せだろう。
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