アクアリウムの底で眠る

おつきさま。

文字の大きさ
上 下
4 / 6

4

しおりを挟む

年が明けて一月の後半にもなれば高三はもう自由登校になっていて、教室にいる生徒の数も疎だ。
俺の場合指定校推薦でとっくに進路は決まっていたけれど、家に一人でいると余計なことばかり考えてしまうから毎日制服を着て登校している。
天野も俺と同じで別に受験はないけれど、単純に勉強と教室が好きだという理由で特に休みもせずに登校している。
とりあえず学校に来れば天野に会えるという日常に今の俺は大分助けられていた。



12月のあの日。
家を出て行くといった俺に兄ちゃんはあの後、「なら俺が出て行くからこの部屋はお前にやる」と言った。
もともと仕事部屋として別のマンションを借りていたのは知っていたし、頻繁にそっちに帰っていたのも知っているけれどまさかの提案だった。
そうして次の日から兄ちゃんは家に帰って来なくなった。いや、兄ちゃんにとってあそこはもう家という扱いじゃなくなったのだろう。
そうなって初めて、引っ越すって表現にもならないほど兄ちゃんがこの家に私物を置いていないことに気付いた。普段使いのトートバッグを一つ持って行ったきり帰って来ないんだから。
きっと兄ちゃんは最初からそのつもりだったんだろう。
俺の為に買ったマンションで、いつか自分は出て行くつもりだったから帰って来なかったし、荷物も多くは置かなかった。

なんだよそれ、と思う。

兄ちゃんはいつも勝手だ。
いつも一人で勝手に決めて、全部俺に与えて、自分のことは何にも教えてくれなくて。
あんなバカでかい家に一人で住めって俺に言う。
なんにもわかってない、なんにも。
俺は兄ちゃんにとって何だったんだろう。






「おい、芹沢。」
「…あ、ごめんなに?」
「いや、どうした?そんな一点を見つめて。顔が強張ってる」
「ごめん、なんでもないよ」

前に座る天野が心配そうな怪訝そうな顔で俺を見つめていた。
そういえば弁当を食べている途中だった。

「最近多いな、何か悩みでもあるのか」
「うん、まあちょっと」
「そうか。ほら、今日は唐揚げだから。芹沢に一つやるよ」
「いやいや、悪いって。唐揚げはデカすぎる」
「いいよ。欲しそうにしてたろ」

そう言って天野の弁当箱に入ってた美味しそうな唐揚げがそっと俺の弁当箱に移された。

「ゔぇ、俺そんな物欲しそうな顔してた!?」
「してたな」
「うっそ、まじでごめん」
「ははっ、嘘だよ。でも謝るってことは欲しかったのか」
「…誘導尋問かよ。だって天野の唐揚げおいしいんだもん」

俺めちゃめちゃ食い意地張ってるやつみたいじゃん嫌すぎる。

「ありがとう、作った甲斐があるよ。元々芹沢にもあげようと思ってたからいいんだ。」
「そうなの?」
「ああ。その代わり、交換でいいか?」
「どうぞどうぞ!なんでも好きなもの選んで」
「なんでも好きなものを?ほんとに?」
「うん」

頷いた俺に天野は迷うことなく弁当箱の中に入っていたハンバーグを持って行った。

(…あ、)

俺の大好物。
なんて心の狭いことをつい一瞬思ってしまったのは、いつもなら天野は気を遣って俺の好きなハンバーグは取らないからだった。
今日は気分が違ったのかな、と思いながら誤魔化すように白米を口に運ぶと天野が笑った。

「ははっ、芹沢顔に出過ぎじゃないか」 
「え?」
「悪い。わざとハンバーグをもらったんだ。まあ箸をつけたからこれはこのまま頂くけど」

ハテナを浮かべる俺を他所に天野はもぐもぐと口の中に入れたハンバーグを咀嚼している。

「うん、やっぱり芹沢のハンバーグは美味しいな。」
「ありがとう…?え、てかなに、意地悪?」
「ちょっと試してみたかったんだ。ねえ芹沢。欲しいものは欲しいって、ちゃんと言わないと」

なんの話だよ、と言おうとした声はつっかえて音にはならなかった。だって俺を見る天野の顔があまりに真剣だったから。
よく澄んで、何もかもを見透かすような強い瞳。
それが俺だけを見ている。

「弁当のおかずくらいなら察してやれるけど、それ以外は流石に無理だ。そもそも対象が俺じゃないんだろうし。」
「なに、言って」
「もっとちゃんと、欲しがってみればいい。お前はいつも自分の気持ちを後回しにして他の誰かを優先するだろ。それは芹沢の美点だけど、臆病さでもある。欲しいものは欲しい、嫌なものは嫌、譲りたくないものは譲らない。芹沢はそういう我儘を覚えた方がいいな」

天野はなんの話をしてるんだろう。
弁当の話?俺の生活態度の話?

(それとも、)

思い浮かべた時点で自分にとってそれが答えだと言ってるようなものだった。
つまり俺が、欲しくて欲しくてどうしようもなくて、何に置いても譲りたくなんてなかったもの。

「ハンバーグだってそうだ。大好物なんだから、お前はさっきハンバーグ以外は好きにしていいってそう言うべきだった。それくらいの小さい我儘も我慢してどうする?なんでも好きなものを選んでいい、なんて選択権を全て相手に委ねたら、相手がどれを選んでもお前にそれを拒否する権利はもうないんだよ。なんて、それは少し大袈裟か」

たかが弁当の話がどこまで飛躍するのだろう。
なのに面白いくらい天野の言葉が突き刺さる。
だって身に覚えがありまくりで、ついでにその「好きに選んでいい」の理論が通じるなら、俺は一つとびきりのワガママを言えることに気づいた。
人生で一番のワガママはこの間使ったはずだったのに。

「まあ、つまり。自己主張が苦手で最近様子のおかしい友人のことが心配だっていう話だ」
「うん。ありがとう天野、十分伝わったよ。唐揚げもう一個もらっていい?だってお前俺のハンバーグ丸々一個持って行ったから」
「勿論。それが言えたことに安心したよ」
「どうも。ねえ天野、ところでさ、欲しいってワガママを言ってそれがダメだった時はどうしたらいいかな」
「それは、」

唐揚げの横に置いてあるプチトマトを口に入れて、数回の咀嚼の後。天野の視線は斜め上を向いてから俺の方に戻ってきた。

「その時一緒に考えようか」
「ははっ、お前やっぱいい奴!」








『今日会えない?』

思い立ったが吉日、というか俺のこのへなちょこ勇気が萎れる前に!と学校を出る前に兄ちゃんにメッセージを送った。
家に帰って靴を脱ぐと同時にピローンと鳴った通知音に急いでスマホを取り出すと、意外なことに『仕事終わったらそっち行く。20時過ぎくらい』と了承の返事が来ていた。
なんかもっと、断られると思ってた。
変に身構えて損した、と安堵の息を吐いてOKのスタンプを一つ返しておく。


とりあえずお風呂に入ったりご飯を食べたり、普通に過ごしていたらいつのまにか20時になっていた。そろそろかな、と思った時丁度廊下の向こうから玄関の開く音がした。

「兄ちゃん!」

待ち切れなくて玄関まで行くと、そこには約一ヶ月ぶりの兄ちゃんがいて、思わず泣きそうになった。
一人で生きて行くとか言ったの、どこの誰だよって。

「えっと、あの、おかえり」

おかえりで合ってるかな。
一応もうここは兄ちゃんの家じゃない感じになってるし、否定されたら傷つくんだけど。とか俺の余計な心配を他所に兄ちゃんはいつも通り一言「ああ」ってそれだけを言って部屋の中に入っていく。
ねえ兄ちゃん、俺はたったそれだけのことに安心なんかしちゃったよ。





「なんか飲む?」
「いやいい。用件は?」

ソファに座って一言目にそれ。
一ヶ月ぶりに会った弟に対してもっと他に言うことはないのか、という呆れと少しの憤り。あとは全部悲しい気持ちでいっぱいだ。
ワガママを言えって言ったって、こんな相手に何を言っても無駄だろ。頑張ろうって決めた気持ちがポキリと折れそうになりながら、自分の手を強く握りしめた。


「兄ちゃん」


これが最後なら、どうにでもなれ。


「兄ちゃんはさ、いつも俺を助けてくれたよね。」


話す内容は特に決めていなかった。
兄ちゃんを前にした時に出てくる言葉を、素直にそのまま伝えるのが一番いいと思ったから。
生まれてからずっと。
その手だけが、俺を助けて、掬い上げてくれた。
守ってくれた。

「兄ちゃんが中学生の頃、もう俺が痛い思いをしないようにって、わざとお母さんを怒らせてさ、死んじゃうかもしれないのに包丁に切られて、そのまま警察まで俺の手を引いて走ってくれたよね。あの家から逃げ出す理由をくれた」

切られた兄ちゃんの腕から赤い血が止まらなくて怖かった。怖くて怖くて俺は泣いていた。
兄ちゃんが死んじゃうんじゃないかって、それが一番、それだけが怖かった。
真冬の夜、兄ちゃんは真っ白な息を吐きながら必死に俺の腕を引いて、何回も何回も「大丈夫」ってそう言った。
どんなに俺の足が遅くても、繋いだ手だけは離さなかった。

「まだ全然大人になんかなり切れてないのに、今の俺と同じ歳で、小学生だった俺を一緒に連れて行ってくれた。あの時本当は自由になれたのに、俺を一人にしないでいてくれた」

俺たちを仕方なく引き取った母の妹だという叔母さんは、痛いことはしなかったけど俺たちのことをいつもゴミを見るような目で見ていた。ことあるごとに暴言を吐かれて、存在を否定されて、それでも俺はご飯が食べられて兄ちゃんが隣にいてくれるならそれだけでよかった。
高校を卒業して、あの家を出て、兄ちゃんはやっと自由になれるはずだったのに、普通に生きて行くことができるはずだったのに。
兄ちゃんと一緒がいいなんて馬鹿な俺のワガママを許して、卒業式の後、少ない荷物と俺の手だけを引いてあの家を出た。
途中でこの手を離されたらどうしようなんて俺の不安を知っているかのように、強く強くいつまでも俺の手を握っていた。


兄ちゃんはいつだってそうやって、大事な時は俺の手を引いてくれた。


「俺、ちゃんとわかってるんだよ。兄ちゃんが、俺のことあんまり好きじゃなくて、多分本当はちょっと嫌いなんだって。俺はずっとお荷物で兄ちゃんの人生を邪魔してきたから、当たり前だって思うよ。でもさ、」


好きに生きろ、と兄ちゃんは言った。
あの時と同じ、兄ちゃんはまた俺に選択を委ねた。


「俺にはやっぱり、兄ちゃんしかいないから。この間は強がったけど、許されるなら、俺はずっと兄ちゃんのそばにいたいよ。いっしょがいい、ずっと…っ、俺だけの兄ちゃんがいい。俺の好きに生きろって言うなら、俺の答えはそれだけ」


兄ちゃんはそれでいいの?俺がそう言っても好きにしろって言うの?


「だから次は、兄ちゃんの番。兄ちゃんの気持ちを聞かせて。」


何を言われたって受け止めるって、それくらいの覚悟ならしてきたつもりだ。
なのに兄ちゃんは俺の望む答えをくれなかった。

「お前が俺のいないところで自由に生きていくならそれでいい」
「それは、兄ちゃんはもう俺とは一緒にいたくないって意味?」
「ちげえよ。」
「じゃあなんで」
「なんでもだ。お兄ちゃんの言うことは聞けよ、大人になったんだろ」
「っ、なんだよ、それ…」

いつもいつも、ひとりだけ大人ぶって。
俺にはなんにも教えてくれなくて。
与えるだけ与えて後は満足そうにしちゃって、結局俺の気持ちなんかどうだってよくて。
俺はただ、死ななければいいだけの存在で。
ただ生きてれば後はもうどうでもいいって?

「兄ちゃんの気持ちは?兄ちゃんの意思は?っ、嫌なら嫌って言えばいいじゃん!俺のこと、いらないならそう言えよ…っ!そばにいてもいいなら、兄ちゃんの言葉でそれを許してくれよ!あの時から俺は、一回も兄ちゃんの気持ちを聞いてない!なんでいつも、そうやって…っ、」

泣きたくなんてないのに涙が勝手に出てくる。
ああ嫌だ。いかにも子どもっぽくて、弱虫で。
悔しくて握りしめた手のひらに爪が食い込んで痛い。このまま血が出ればいいと思った。


「おれって、にいちゃんにとってなに…?」


立ち上がった俺を兄ちゃんの瞳が無感情に見上げている。
薄く開いた唇が何かを躊躇うように閉じて、そしてもう一度開かれる。


「水槽の魚」


白く滑らかな頬は笑おうとして失敗でもしたように僅かな引き攣りを見せた。
兄ちゃんのそういう「隙」を見るのは初めてかもしれない、なんて場違いな感想を抱く。

「なに、」
「なあ幸。お前のしあわせってなに」
「…兄ちゃんが、そばにいること」

俺の返答に兄ちゃんはわかりやすく笑ってみせた。

「バーカ、だからだよ。」

意味がわからない。
だからってなんだ、だからって。接続詞めちゃくちゃかよ。心の中でキレていたら、労わるような手つきでそっと頭を撫でられた。
近い距離で目が合って、濃い黒の瞳がほんの一瞬痛ましそうに揺らめくのを見る。


「そんなの幸せじゃねえよ」


言い聞かせるようにもう一度俺の頭を撫でてから、兄ちゃんは部屋を出て行く。




「なんだよ、それ…っ、」



ぐっと握った手の中で、ぷつりと食い込んだ爪が今度こそ皮膚を貫く音がした。
ぬるりと滑る感覚は多分血だった。
 


「っ俺のしあわせを、兄ちゃんが勝手に決めんなよっ…!!」



なんでいつも、俺の声は兄ちゃんに届かないんだろう。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます

まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。 貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。 そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。 ☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。 ☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。

ある日、人気俳優の弟になりました。

雪 いつき
BL
母の再婚を期に、立花優斗は人気若手俳優、橘直柾の弟になった。顔良し性格良し真面目で穏やかで王子様のような人。そんな評判だったはずが……。 「俺の命は、君のものだよ」 初顔合わせの日、兄になる人はそう言って綺麗に笑った。とんでもない人が兄になってしまった……と思ったら、何故か大学の先輩も優斗を可愛いと言い出して……? 平凡に生きたい19歳大学生と、24歳人気若手俳優、21歳文武両道大学生の三角関係のお話。

あと一度だけでもいいから君に会いたい

藤雪たすく
BL
異世界に転生し、冒険者ギルドの雑用係として働き始めてかれこれ10年ほど経つけれど……この世界のご飯は素材を生かしすぎている。 いまだ食事に馴染めず米が恋しすぎてしまった為、とある冒険者さんの事が気になって仕方がなくなってしまった。 もう一度あの人に会いたい。あと一度でもあの人と会いたい。 ※他サイト投稿済み作品を改題、修正したものになります

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

嫌われ者の長男

りんか
BL
学校ではいじめられ、家でも誰からも愛してもらえない少年 岬。彼の家族は弟達だけ母親は幼い時に他界。一つずつ離れた五人の弟がいる。だけど弟達は岬には無関心で岬もそれはわかってるけど弟達の役に立つために頑張ってるそんな時とある事件が起きて.....

ある日、人気俳優の弟になりました。2

雪 いつき
BL
母の再婚を期に、立花優斗は人気若手俳優、橘直柾の弟になった。穏やかで真面目で王子様のような人……と噂の直柾は「俺の命は、君のものだよ」と蕩けるような笑顔で言い出し、大学の先輩である隆晴も優斗を好きだと言い出して……。 平凡に生きたい(のに無理だった)19歳大学生と、24歳人気若手俳優、21歳文武両道大学生の、更に溺愛生活が始まる――。

箱崎の弟

猫宮乾
BL
兄弟アンソロ寄稿作品の再録です。兄×弟。出張から帰ってきた兄にアナニーがバレていて、お土産にバイブを渡されるお話です。ハッピーエンドです。近親苦手な方はご注意下さい。

それってつまり、うまれたときから愛してるってこと

多賀 はるみ
BL
 俺、一ノ瀬 春人(イチノセ ハルト)と四歳年上の兄の柊人(シュウト)は、比較的仲が良かったと思う。  それがいつの頃からか、兄に避けられるようになった。  おそらく、兄の部屋を覗いてしまった、あの夜の後ぐらいからだと思う……  ねぇ、シュウ兄。あんた、俺のことが好きなんじゃないの……?  ガチ兄弟BL 兄✕弟

処理中です...