アクアリウムの底で眠る

おつきさま。

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その日は昼頃から雪の予報だった。
毎朝惰性で付けているテレビのお天気キャスターが言った通り、昼休みの途中から窓の外に白い欠片がチラつき始めた。花びらに似たそれははらはらと重力のままに落ちて、地面に触れた瞬間形をなくす。

「見て、天野。降ってきた」
「…ああ、本当だ。どうりで冷え込むと思った」

向かいあって座る天野は持ってきた弁当を食べ終わるといつも本の世界に入る。対する俺は情緒もなくスマホを触りながら、たまにこうして思いつきの話題を口にする。

「結構降るらしいよ、雪。今日は下校が早くなるかもな」
「そうなるだろうな。交通機関に影響が出る前に帰りたい」
「天野は電車だっけ」
「そう。だから切実だよ」
「ははっ、そりゃそーだ」

数回のやりとりの後、会話が自然に終わると天野の視線は再び本の上へ戻された。それを見届けて俺もまた外の景色を眺める。天野の言った通り窓の隙間から入り込む冷気が朝よりも冷たい。景色は良くてもこういう時窓際の席は損だなと思う。
必要以上の会話はなく、ページを捲る乾いた紙の音と、どこか遠くに感じる昼休みの喧騒が混ざり合って不思議と心地良い。目を閉じて耳を澄ませると世界の輪郭に触れるような気さえする。
俺の好きな時間だ。

「天野といると落ち着く。図書室にいるみたいで」
「なにそれ、初めて言われた」
「じゃあ俺だけかも」
「そうだよ。芹沢はたまに、文学的なことを言うよな」
「それこそ初めて言われた」
「そう?前から思ってるよ」

目を伏せた天野が小さく笑う。
それを素直に綺麗だと思った。








予想は当たり、5時間目の終わりに下校を早める旨が伝えられた。
降る雪はいつの間にか大きくなっていて、地面に着いた後もすぐには溶けない。落ちてくる雪が重なって、降り積もって、いつもの景色を覆い隠してやがて世界を染め上げる。
アスファルトの道路は濡れているだけでまだそこまで雪は積もっていない。代わりに家の敷地内や公園など舗装されていない場所は冬らしい景色になっていた。
ぼんやりと薄明るい道を歩く。
雪が降るとあらゆる音が遠のいて、何もかもがぼやけたように曖昧になる。見知った場所であるはずなのに知らない世界に迷い込んだような気持ちだ。
寒いから早く帰りたい。
そう思ってたはずなのに、なぜだか俺の足は近くの公園に向かった。人気のないそこにはまだ誰の足跡もついていないまっさらな雪が広がっている。
それをダメにしてしまうことを勿体無いと思いつつ、踏みしめた白が靴裏でさくりと音を鳴らした。
例えば、散った花びらの上を歩くこと。
プレゼントにかけられたリボンを解く瞬間と、飾り付けられたケーキに入れるナイフ、真新しいスニーカーの一歩目。
そして、清潔な雪を汚す瞬間。
じわりと水に落とされた絵の具のように滲む僅かな罪悪感。
きっと兄ちゃんだったら無駄の一言で切り捨ててしまうようなものが、俺には正しい感情に思えた。
綺麗なものが失われることを悲しめるのは、きっと人間だけに与えられた特別な情緒だ。
公園の真ん中で傘を閉じて、衝動のまま寝転んだ。
粒の大きいやわらかな雪が降ってきて、俺の頬を撫でてははらりと消えていく。そのうちじわじわと溶け出した雪が制服を濡らして、体温を奪われていくのがわかった。寒いと思う感覚も感情もあるのになんだか動く気にならない。




密閉された空間の中で、大量の百合の花を敷き詰めて眠ると人は二度と目覚めないらしい。
そんな嘘か本当かもわからない話を思い出す。
同じ色の雪に身を埋めて、このままここで眠って仕舞えば結果も同じになるだろうか。
なんて。
普通にこの寒さだけでもいつか死んでしまえるのに、無駄に綺麗なものに例えようとして。天野が言った文学的というのは多分こういうところなんだろう。うわー、恥ずかしい。誰もいないのに顔を覆いたくなった。だけど雪に触れる指先は悴んで、自分のものじゃないみたいに感覚が遠い。寒さはもう突き刺すような痛みに変わっていた。

(あと、少しだけ…)

瞬きさえも億劫でそのまま目を閉じる。
冷たくて静かな世界だ。
もう俺以外の誰もいないのかもしれないと閉じた目蓋の裏側に終末を思い描く。
もしも本当にそうなったら、普段できないことでもしよう。
コンビニとかスーパーで好きなものを好きなだけ手当たり次第に漁るアレとか。日常が機能しなくなった世界の中で、金も払わずそれを罪だと言う誰かもいないまま。漫画や映画の中でよく見るような、世界の崩壊を象徴するようなシーン。
満足した瞬間にものすごい虚無感に襲われそうだけど、その時は隣に兄ちゃんがいればいいと思う。
兄ちゃんさえいれば俺はどこでだって生きていける。今までもそうだった。


「えっ!ちょ、はあ!?」


誰かの声が響いた。
馬鹿みたいな妄想も、雪が生み出す心地いい静けさも、唐突にそこで終わった。
今聞こえたのが兄ちゃんの声だったなら、俺はきっと運命とか未来とかそういう曖昧で不確かなものも何もかも信じられたのに。
だけどまあ、現実はそんなに都合良くは出来ていない。

「おいお前!生きてンの?」

慌ただしく近づいてくる気配にぱちりと目を開ける。黒いキャップにサングラス。雪の降る日には不釣り合いな格好をした男が、立ったまま覗き込むように俺を見下ろしていた。知らない人だ。兄の物とは似ても似つかない、キャップの隙間から零れる髪が目を惹いた。ぼやけた白の中でただ一つ彩度を失わない鮮烈な赤色。

「あ、生きてます」

冷え切って硬くなった身体を起こそうとしたら、雪の中に手をつく前にその人が腕を引いて立たせてくれた。

「冷った!?お前どんだけそうしてたんだよ、馬鹿なん?引くンだけど」

確か初対面のはずなのに随分ストレートに物を言われた。でもそうは言いながらも目の前のお兄さんは俺を傘の中に入れてさっきから髪や服に積もった雪を手で払い落としてくれている。お節介で優しい人だ。

「てかなんでこんなとこで寝てンだよ」
「…えーと、なんとなく?ここで寝たら気持ちいいかなって」
「なにそれ希死念慮?後で雪遊びに来た子どもがお前の死体見つけたら悲惨だろーが」
「いや、別に死のうとしたわけじゃ」

ない、はずだ。多分。ほんの一瞬、百合の花が頭を掠めただけ。

「あっそ?傍から見たら死んでるか自殺志願にしか見えねーけどな。まあいいや、来いよ迷惑野郎」
「ええ!?ちょ、」

無理矢理に手を引かれて着いた先は近くにあるファミレスだった。雪のせいか店内は人も疎らで、入店を知らせるチャイムが鳴った後すぐに広めのテーブルに案内された。ごゆっくりどうぞ、と頭を下げた店員はそのまま厨房に戻って行く。

「…えーっと?すみません、どういう状況ですか」
「あ?お前があまりに冷てーからあっためてやろうっていう俺の優しさだよ。腹減ってる?」
「あ、いえ。昼飯は食べたんで」
「そ。んじゃ適当にドリンクバーとスープバー頼むからお前あったかいの持って来い。俺ココアな、もちろんホットで」

有無を言わさず押し切られてとりあえずカップに入れたホットココアと自分用のオニオンスープを持って戻ると、ここまで割と横柄な態度だったお兄さんは意外にもそれを「ありがとう」と言って俺の手から受け取った。やっぱこの人口調がアレなだけで普通にいい人なんだよなあ。

「お前名前は?」
「芹沢幸です」
「幸ね。俺は京汰きょうた
「京汰さん」
「堅苦しいな。呼び捨てでいいし敬語いらねーよ」
「いや、でも。年上ですよね?」

初対面の年上相手にいきなりそんな距離を詰められるものか。なんでこのお兄さんはこんなにグイグイ来るんだろう。

「うん25。年齢とかどうでもよくね?そういうのめんどい」
「ええー、じゃあせめて京汰くんで」
「まあいいか。おら幸、風邪引くからもっとスープ飲んどけよ」
「あ、はい。いただきます」

言われた通りにスープを飲むと何故か目の前に座る京汰くんは満足そうに笑った。いつのまにか手の感覚も戻ってきて、じんわりとした温かさに身体が包まれる。正常な体温が戻ってくるとさっきまでの自分の奇行に気付く。

「あの、京汰くん。さっきはすみませんでした、驚かせちゃって。それとありがとうございます」
「ホントだよ、まじでビビったっつーの。二度とやんなよ?あと敬語やめろって」
「あ、はい。じゃなくて、うんわかった!」
「はーい、よくできました」

いい子いい子、とあからさまな子ども扱いで頭を撫でられる。こんな店の中で恥ずかしい、はずなのにどうしてか羞恥心よりも先に満たされる何かを感じてしまった。やさしく労わるような、兄ちゃんの手ではありえないそれが多分俺はずっと欲しくて。優しさとか愛とか、言葉にすると随分大袈裟に聞こえるそういうものに飢えていたのだとわかる。

「は!?おま、泣いてっ!?」

じわりと張った水の膜が、あ、と思う一瞬の間に縁から落ちて頬を流れた。
あの雪のように跡も残さず消えてくれればいいのに、人間の体温で雪は溶かせても涙を蒸発させることはできない。だから目に見える形で落ちた雫は京汰くんの目に留まってしまった。

「泣いてない」
「いやいや、ボロボロ出ちゃってンだけど?」
「うっさい」
「お前急に生意気だな」
「…すみません」
「いやいーけどさ。ホラとりあえず拭けよ」

テーブルの端に置いてある紙ナプキンを何枚か取り出して、京汰くんはそれを雑に俺の目元に押し付けてくる。適当で、でも優しい。

「うぅ、急に泣いてごめんなさい。もう大丈夫なんで」
「ふーん?ま、無理には聞かねーけどよ。色々溜め込みすぎなンじゃねーの?お前」
「たまたまそういう日だっただけだから」
「そ。おい幸、連絡先教えろよ」
「え?」
「これも何かの縁だろ?なんかお前放っておくの怖いし」

はやく、と急かされるままにスマホを出せばQRコードを読み込まれて、今日知り合ったばかりの下の名前と年齢しか知らないような人とお友達になってしまった。

「世の女どもが喉から手が出る程に欲しがる京汰様の連絡先だから、ありがたーく思えよ?なんかあったら、いや。なんもなくても連絡して来い、特別に許してやる」

ニヤリと口の端を引き上げて笑う京汰くんは、サングラスをしていてもわかるくらいカッコいい。自信がすごいけど本人の言うことは確かに間違いじゃないんだろう。

「さっき会ったばっかなのに、そんなに俺のこと信用しちゃっていいの?」
「俺は人を見る目はあるンだよ。てかそれ言ったらお前もだしな。流されすぎじゃね?」
「え、それ京汰くんが言う?」
「ははっ、確かに。てか、んー。お前なーんか見たことある顔してンだよなぁ。なあ、誰かに似てるって言われない?」

誰か、と言われてパッと思いつくのは一人だけ。
俺なんかより遥かに美しいし烏滸がましいことこのうえないけれど、もとは同じ血で出来ている。
面影のようなものなら確かにあるんだろう。
でもまあ、YOSHINOのプロフィールは非公開なので。バレるはずもないけどそれをわざわざ言う必要もない。

「さあ、言われたことないです」
「そうか?まあいいや。じゃ、そろそろ帰るか」

そう言って伝票を持った京汰くんは俺がお金を出す隙も与えずにお会計を済ませてしまった。
「こんな金額で割り勘とか俺がダサすぎンだろ」と若干キレ気味で言われてしまったらありがとうございますと素直に奢られるしかない。

「うわ、さむ」

外に出た瞬間思わず漏らした声は白く染まって宙に消えた。雪は止むどころかさらに本格的に降り始めたように見える。傘をさして粟立つ肌を気休めにさすりながら京汰くんに向き直る。

「あの、京汰くん。今日はほんとに、色々ありがとう」
「おう。いつでも連絡してこいよ、わかったか幸」
「…う、ん。わかった」

目線を合わせるように少し屈んで、俺の頭に手を置いた京汰くんが笑う。サングラス越しでもわかる。やわらかいその目は真っ直ぐに俺のことを見つめている。変なの。俺にとっての兄ちゃんは兄ちゃんしかいないのに、なんだかそれがすごく〝お兄ちゃんっぽい〟って思ったんだ。
だから、返す言葉が一瞬喉の奥に詰まった。

「それじゃあ、風邪引くなよ。またな」
「うん!ありがとう」

京汰くんの後ろ姿が見えなくなってから、ようやく俺も家に帰ろうと歩き出す。
傘を持つ指先はもうすっかり冷え切っている。
だけど不思議とそこまで寒さは感じなかった。京汰くんがくれたあたたかさがまだ俺の中に残っている。だから大丈夫。










冷えた体を温める為に、家に帰ってすぐ熱いお風呂に浸かった。濡れた髪はドライヤーでしっかり乾かして、無駄にスマホを触ったりもせず布団に入ってすぐ落ちるように眠った。
なのに次の日目を覚ました瞬間に俺を襲ったのは、鈍い頭痛と唾を飲み込むのも躊躇うほどの喉の痛み。そして、見るだけで気分が悪くなってくる38.3と表示された体温計。

「げほっ、」

風邪引くなよって昨日京汰くんに言われたばっかりなのに、見事に風邪を引いてしまった。正直にそれを伝えたらあの人はきっとブチギレるんだろうなって簡単に想像できてしまって、それが少し面白かった。一つだけ幸いだったのは今日が土曜日で学校が休みだってこと。わざわざ欠席の連絡をする必要も授業のことを気にする必要もない。それだけで気は楽だ。

「のど、いたぃ」

呟いた声は笑えるくらい掠れてて、頭の中は熱でぐちゃぐちゃだ。
瞬きすらしんどい体を引きずってどうにかリビングに向かう。とりあえず冷えピタをおでこに貼り付けて、食欲なんて欠片もないけど薬を飲む為にヨーグルトを口に入れる。何も食べないよりは良いはずだ。それから箱に書かれた用量通りに薬を飲んで、とりあえず諸々を持ってベッドに戻る。

「はあ…づがれだ、」

ぐらぐらする、なんて安定しない世界。
あんなに眠ったはずなのに目蓋は勝手に落ちてくる。せっかくの休みなのに勿体無いなあと思うけど、このしんどさなら意識が無い方が幸せだ。薬も飲んだし次に起きた時にはきっと良くなってるはず。

(そうしたら、なんかおいしいご飯が食べたいなあ)









「…っ、は、ぁ」

自分の呼吸があまりにうるさくて目が覚めた。
意識の浮上と同時に開いた目には何も見えなくて、数秒経ってから部屋の中が真っ暗なことに気付く。わざわざ時間を確認しなくてもその経過がわかった。
それくらい寝たはずなのに体調は良くなるどころか悪化している。見たら余計つらくなりそうだからとりあえず体温計は使わないでおくとして。
確か意識を手放す前、次に起きた時には良くなってるはずなんて思っていたのに。
全然薬が効いてないことに対して今すぐ製薬会社を訴えてやりたい。たとえ悪いのは全部昨日の俺だったとしても。

「…っあー、」

息をするだけでこんなに苦しいことってあるんだ。
もう一回眠ってしまえればいいのに、一度手放した眠気は簡単には戻ってきてくれないうえにトイレに行きたくなってきた。そういえば今日一回も行ってないかも。そう意識した途端、尿意がどんどん増していく。

「…はぁ、」






無事に用を足して、流れる水を無意味に数秒間見つめてからトイレを出た。電気をつけていない廊下は真っ暗で、だけど今はそれがやけに落ち着く。目が慣れてしまえば窓から入る月明かりだけで充分だと思えた。
早く戻って休もうと思うのに2、3歩進んだところで体力が尽きてその場にずるずると崩れ落ちた。
皮膚の表面は寒さに粟立っているのに体の内側は熱くて熱くてたまらない。ガンガンと痛む頭の中で何かが暴れている気がする。
少しでも楽になりたくて寝転ぶと、ぺたりと頬に触れた真冬の廊下の冷たさが気持ちよかった。
気持ちいい、でも寒い。
どっちつかずの感覚に翻弄されている。
ガタガタと震える体とは裏腹に、熱さにやられた涙腺が勝手に瞳に水の膜を張って瞬きの度に溜まったそれがあふれてくる。

「…も、しぬ、」

判然としない意識の中でそれだけを確かに思う。
もっと部屋がトイレに近ければ、這ってでもあの暖房の効いた部屋に戻れるのに。トイレは玄関のすぐ手前で、今俺は自室から一番遠い場所にいた。
兄ちゃん、家が広すぎて俺死にそうだよ。
最後にもう一回あいたかったなぁって瞳を閉じかけた時、背後で玄関の開く音がした。
俺はもう振り返る元気すらないけれど、この家に帰ってくる人間なんて俺以外には一人しかいない。
えー神様、最後にやさしさ見せてくれたの?なんて。心の中でだったらまだふざける元気もあるのにな。

「っ…!幸っ!」

あれ、兄ちゃんが珍しく焦ってる。
今まで兄ちゃんのそんな声聞いたことあったっけ。あったかも。小さい頃、似たような声を聞いた気がする。あーそうだ。兄ちゃんが学校から帰ってきて、俺がお母さんに殴られてた時。いつも自分の方が酷い目に遭わされてるくせに、兄ちゃんは俺が少し殴られただけでそれよりもっと痛そうな顔をした。

「おい幸、しっかりしろ!この馬鹿」
「に、ちゃ…」

ふわりと体が浮いた。
魔法なんかじゃない、兄ちゃんが俺を抱き上げていた。
ああ、電気、つけておけばよかった。
俺なんかをお姫様抱っこしてくれちゃうかっこいい兄ちゃんの顔をちゃんと拝みたかった。
そしてそれを冥土の土産にするんだ。

「熱は?」

羽のような扱いでベッドの上に俺を下ろした兄ちゃんは、「朝しかはかってない」という俺の返事にわかりやすく眉根を寄せた。
う、怒ってる。

「いつから?」
「あさ、おきた時」
「そう。飯は」
「よーぐると、たべた」
「薬」
「…のんだ」

医者のように質問を重ねながら兄ちゃんは俺の脇に体温計を差し込んだり、乾ききった冷えピタを貼り替えたりしてくれる。ゴテゴテのシルバーリングが何個もついた指先はそれをするのに不釣り合いで、だけどかっこよかった。
ピピ、と小さな電子音が鳴る。

「39.5」
「やめて、きいたらもっと気分わるくなる…」

ああほら、俺だけ重力が5割増しでのしかかってる気がしてきた。もう絶対起き上がれないよこれ。

「幸」

兄ちゃんが俺を呼ぶ。
落ち着いた静かなその声に、何故だかいつも強制力を感じる。
うろうろと彷徨わせていた視線を大人しく兄ちゃんに向けると、夜と同じ色をした瞳が真っ直ぐに俺を見据えていた。
いつだってこっちを向いて欲しいと思ってはいるけど、この時だけは例外だ。
兄ちゃんはいつも俺を叱る時だけは視線を外さない。

「なんかあった時はすぐ呼べって、いつも言ってるよな」
「…だって、しごと」
「そんなんいいって言ってんだろ」
「…ん、ごめんなさい」

だってさ兄ちゃん。
兄ちゃんは確かに前からそう言ってくれるけど、俺はこれ以上兄ちゃんの負担になりたくないんだよ。兄ちゃんの人生を邪魔したくない。
わかってよ。

「お粥とかだったら食えんの?」
「…むり。なにも食べたくない」
「食わないと治んねえだろ。ゼリーは?なんか適当に買ってくるから、少し待ってろ」
「…やだ、」

うん、ありがとうってそう動くはずだった口からは何故か違う言葉が出てきた。
あー、やっちゃったやっちゃった。と思う冷静な自分は頭の片隅にしかいなくて、それ以外の大部分はもうすっかり熱でやられてダメになっている。
だからほら、勝手に伸びた手が兄ちゃんの袖を掴んじゃったりなんかして。アホな口は「いかないで」なんて言いやがる。ストッパーがなんにも機能してない。本音がぼろぼろこぼれ落ちる。 
全部飲み込んできたのに、子どもの頃からずっと。だって無視をされるのも拒絶されるのも、やっぱり怖いから。

「はぁ、ほんとに何もいらねーの?」
「うん」
「あっそ。じゃあわざわざクソ寒い外に行く理由もねーよ」

そう言って兄ちゃんは袖を掴む俺の手をそのままにベッドに腰を下ろした。
もう叱る様子もないのにその瞳は珍しく俺の方に向けられている。
もっとちゃんとそれを見ていたいのに。涙のせいで視界がぼやけて上手くいかない。ぱちぱちと瞬きをすれば水分はぱたりと布団の上に落下して、その瞬間だけよく見えた。

「なに泣いてんだよ」

呆れたような顔をしながら、兄ちゃんはその綺麗な指先で俺の目元を少し雑に拭った。

「…にいちゃん」
「なに、しんどい?」
「今日は、おれのことみてくれるんだ」
「は?」
「…へへっ。しあわせ」
「そんなことが?」

もうなんだっていい。
何かを考えられるほどまともな思考なんて残ってない。
いいでしょ兄ちゃん。
最初で最後の一回だから。

「そんなことが。にいちゃんがいれば、おれはしあわせだよ。いつもそう」
「へえ。やっすい幸せ」
「安くないよ。それが、いちばん遠い。にいちゃんはいつも、俺を置いていっちゃうから」

そしていつか、俺を捨てる。
お荷物だった俺のこと。

「…だから、さみしい」

いつだって俺の中に在って、だけど絶対に言わないと決めていた感情。
初めてそれを形にしたら、兄ちゃんは驚いたように目を見張った。

「にいちゃん、どこにもいかないでよ。そばにいて…いまだけ、っでも、いーから、」

視界を遮る水分はもう熱のせいにはできなかった。
ぎゅう、といまだに兄ちゃんの袖を握ったままだった手に力が入る。

「…ゆき」
「っ、ごめんなさい、わがままいった」

空いている方の手で濡れた目元を擦ったら、兄ちゃんが諌めるようにその手を取った。

「幸」

名前を呼ばれる。
ただそれだけのことが、こんなに特別だ。

「こっち見ろよ」
「ぶえっ」

気まずくて横を向いたら長い指先に顔を掴まれて、そのまま強制的に元の位置に戻された。
兄ちゃんはそのまま俺の頬をむぎゅむぎゅと押し潰して遊び始める。

「はっ、ぶさいく」

そうだった。
兄ちゃんはいつも俺が泣くとこんな風に顔を潰してきて、決まって最後にはブサイクだって笑うんだ。
昔からそう。

「なんなんだろうな、お前。ガキの頃からいっつも俺の後ろついてきて…ほんと馬鹿」

ねえなんで、そんなやさしい瞳で俺を見るの。
熱が見せた都合のいい夢だって言われた方が、まだ信じられた。
泣きそうだ。

「言えよ、幸」

いつになく機嫌が良さそうな様子で、ゆったりと目を細めて笑う。
その数秒の動作でさえこんなにもきれいだ。
今日も俺の兄ちゃんが世界で一番かっこいい。

「弱ってる弟の言うことなら、一つくらいは聞いてやる」
「なんでも?」
「おー、なんでも」
「じゃあ……抱きしめてよ。昔みたいに」

兄ちゃんへのワガママなんて山ほどあった。
なのにまるで用意してたみたいにその中のたった一つが口をついた。

「にいちゃんと、今日だけいっしょに寝たい」

ウソ、今日だけなんて嫌だ。
ずっとじゃないとさみしくて死んじゃう。
だけど俺は熱に浮かされてたってそこまで欲張りにはなれない。
それに、存在しない永遠より確かな一回の方が幸せなはずだ。


「いいよ」


なんでも、という言葉に嘘はなかったようで。
あっさり要求を受け入れた兄ちゃんは上着だけを脱いだ後さっさと布団に入ってきて、その腕の中に俺を抱き寄せた。
幼い頃のように兄ちゃんの胸に額を預けて目を閉じる。
こうやって心臓の音を聞くのが好きだった。
俺には兄ちゃんしかいないけど、兄ちゃんにも俺しかいないかもって。その時だけの夢を見た。

「…もう怖くないだろ。ここには何もねえよ」

言い聞かせるように背中を撫でられて、ぱちりと瞬く。言葉の意味を咀嚼して、それからわらった。

「怖くないよ、昔から。兄ちゃんがいたから、怖くなかった」

俺が本当に怖かったのは、兄ちゃんが死んじゃうかもしれないって思った時だけだ。
それ以外ならなんだって平気だった。
いつもこうして兄ちゃんが腕の中に閉じ込めてくれた。ここだけがほんとうの世界で、それ以外はぜんぶ偽物。兄ちゃんと二人だけの小さな世界。
それが俺の全て。
失くしたはずのものは今だけここにあった。

「にいちゃん、」
「あ?」
「すきだよ」

だから捨てないで。

どれだけ意識が朦朧としても、それだけは言わなかった。
えらいでしょ、だから褒めていいよ俺のこと。

「…馬鹿なこと言ってねえで早く寝ろ」

そう言って叩いてるのか撫でてるのかわからない強さで頭に乗せられた手がポンポンと軽く跳ねた。
きっと撫でられてるはずだと思っておく。

「…うん。おやすみなさい、兄ちゃん」

もっと兄ちゃんと話していたかったのに、眠りの底に引き摺られていく。


「おやすみ、幸」


やさしい声が聞こえた。
今まで一度も聞いたことがないような声。
その声に安心して、俺は意識を手放した。
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