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炭酸とバニラアイス
③
しおりを挟む「あー!コーヒー飲んでんじゃん!」
「うるさ…シフト入ってんのかよ」
お気に入りの喫茶店で、珍しくあの先輩がいないからと優雅に注文通りのブラックコーヒーを飲んでいたら、いつも通りの喧しい声が響いた。
見ると丁度バックヤードから出てきたばかりらしい先輩がいて、「もー暁人さん、美好くんはクリームソーダでいいんだって」などと勝手なことを言っている。いいわけねーだろ、俺は毎回コーヒーを頼んでるんだよ。
「よっ、美好くん」
後ろ手にエプロンの紐を縛りながら寄ってきた先輩は、今日もやたらと笑顔で機嫌が良さそうだった。遠目に見ているだけならいかにも明朗快活で人当たりの良さそうな印象しか与えないこの表情も、俺からしたら鬱陶しいだけだ。
つーかエプロンくらいちゃんと着てから出てこいよ。
「…こんにちは。向井先輩」
それでもこんな風に比較的柔らかい返事を返してやったのは、自分の中のグラグラと安定しない感情がここ最近は珍しくバランスを取れていたからで、どんなに煩わしくても最終的には絆されてしまうような何かがこの人にあったから。真面目に取り合う方が馬鹿を見るくらい、この人を相手にするといつも気が抜ける。
「うん、ゆっくりして行って」
にこりとまた愛想の良さを見せた後、流石に出勤したてだからか大人しく店主のいるカウンターの方へと戻って行った。
なんとはなしにその背中を見届けてから、手元で広げた文庫本の上に視線を戻す。
一行、二行と読み進めれば意識は直ぐに文字が生み出す世界に沈んだ。
ページを捲る度に乾いた紙が小さく音を立てる。
程良くボリュームが絞られた穏やかな曲調のクラシックと、優しいコーヒー豆の香り。
あとは邪魔にならない程度の話し声。
店内を満たすものはそれが全てで、だからこの場所が好きだった。
行き過ぎた静寂よりも適度に他人の存在を感じる空間の方が、かえって自分の存在は希薄になっていい。誰かと一緒にいたいわけじゃないけれど、一人きりでいると自分を囲う輪郭がはっきりわかるようで嫌だった。
浮き彫りになったその線を孤独と呼ぶのかもしれない。
愛されたがりの寂しがり屋だといつか怜さんに笑われたことがある。揶揄うような態度にほんの少し苛立って、愛されたがたりなのは怜さんの方でしょと言い返した。俺だけじゃ足りないんだからと普段は見て見ぬふりを決め込んできたものに自ら触れたら、怜さんは静かに笑っていた。
慈愛さえ感じるようなその淡い微笑みは、記憶の中のどれとも一致しなかった。
そうだよ、と裏切りをあっさり認めた声が忘れられない。
一体どんな感情がそうさせたのか、今になってもわからないまま、何故かあの瞬間を引き摺っている。
ガタリ、と椅子の引かれる音に飛んでいた意識が引き戻された。
いつのまにか文字の上を滑っているだけになっていた視線を上げれば、へらへらと笑う先輩が「きゅうけーい」と目の前の席に座るところだった。
またか、と呆れながら軽く周囲を見渡すと俺以外の客はいつの間にかいなくなっていて、それなりに時間が経っていることに気付く。
「ははっ、ほんといつも嫌そうな顔してくれんね」
「素直なんです、いいでしょ」
「良くないですけど?俺が可哀想って思わないの」
「勿論思わないですね」
迷いもなく返した言葉に今度は先輩の方が嫌そうな顔をしてみせた。不満を隠さない表情がやたらと幼く見えて、それが可笑しかった。ふっ、と口元に当てた手は意味を成さずに笑いが漏れる。しまった。この人の前で笑ってしまうなんて、負けたような気分になるから嫌なのに。
きょとり、とまん丸の瞳が大きく一度瞬いて、それから何故か満足そうに細まった。
「へへっ、勝ったー」
こっちが負けたような気になっている間にそっちはそっちで勝ったような気になっていたらしい。
「うざ」
ころころと変わる表情は裏なんて何も無さそうで、一々疑ったり探ったりする必要がないから楽でいい。
素直なのはこの人の方だった。
調子に乗るのが目に見えるから当然そんなことは言わないけど。
「美好くんさーなんか機嫌いいよね、最近」
「普通ですけど」
「またまた~今だって俺のことちゃんと見てるじゃん。いつもは違う方ばっか向いてるのにさ」
機嫌がいい証拠だよ、と俺の知らない事実を告げてくる。
言われてみると確かに、この人の目をこんな風に正面からきちんと見たことはほとんどないなと思い当たる。
柔らかそうな髪と同じ、色素の薄い瞳。
たっぷりとミルクを注いだカフェラテのような色合いは先輩の人となりをよく表している。
「なんで?誕生日近いから?」
「なんで知ってんだよ…この年にもなって誕生日で上機嫌になんかならない」
それは少し嘘だった。
確かに俺は最近機嫌がいいかもしれない。そしてそれが誕生日に起因しているというのも間違いじゃなかった。一々誕生日を喜ぶような年でもないけど、世界で一番大好きな人が祝ってくれるというなら話は別だ。
世間からすればただの平日で、張り切ってどこかに旅行に行こうとか、一日使って出掛けるとか。そんな大層な予定でもなく、ただ夕飯を一緒に食べようと誘われただけだけど。
怜さんが俺の誕生日を覚えていてくれたうえに自分から誘ってくれたんだと思えば待ち遠しくて、らしくもなく浮かれていた。
「…どーせ長谷川だろ、わかりやす」
ぽつりとひとりごとのように吐き出された言葉はどこか拗ねたような響きを含んでいた。
コーヒーカップに落としていた視線を上げる。
どうせまた子どもみたいな顔でもしているんだろうという予想を裏切って、見遣った先の顔になんの表情も浮かんでいないことに驚く。
(…まただ)
先輩はいつも、ふとした瞬間にこんな顔をする。
にこにこと上機嫌な顔が削ぎ落とされると常の緩い雰囲気は霧散して、途端に近寄り難く大人びた印象を与える。
怜さんのような強烈に他者を惹きつける圧倒的な存在感とは色も形も違う。
それでもつい目を奪われるような気になるのは、一度静けさを纏うと丁寧に作り込まれたその顔立ちが露になるからだ。
向井先輩は、案外綺麗な顔をしている。
それは数秒にも満たない短い間の出来事だった。
ぼんやりと、どこか物憂げに伏せられていた淡い色彩の睫毛がふるりと揺れて、次の瞬間にはもう先程までの静けさは影も形もなくからりと笑う。
「なに、お祝いでもしてくれるって?」
単純なようでいて掴みどころがないと思うのは、こういう時だ。
どれが本当の顔なのか、どこまでが嘘なのか、それを見抜ける程の親しさはないしわざわざ暴こうと思うほどの興味があるわけでもない。
不自然さには目を瞑ってそのまま会話を進める。
「そう、雪でも降りそうでしょ」
「ははっ間違いないな。でもよかったじゃん、最近は仲良くやってるみたいだし?一緒にいるのよく見るよ」
「どうせ今だけですけどね」
自嘲めいた笑い方がいつのまにか癖になっていた。
昔はもっと自然に笑えていたような気もする。
「…あーあ、長谷川に忘れられてたら、俺がお祝いしてあげようと思ったのに」
「アンタに祝われるくらいなら一人で過ごす方がマシだな」
「うーわっ、酷すぎ。サイテー」
「優しくしたらつけあがるでしょ」
「うん」
真顔で頷くからつい笑った。
素直というよりは正直すぎるのかもしれない。そんな人が時折笑顔で覆い隠そうとする何か。その上っ面を剥ぎ取ったら一体何が出てくるのか、ほんの少し気になった。
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