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第二章
第37話 ローザ、安心して、不安になって……
しおりを挟む「ブ、ブラッドリー様……?」
ベッドに腰掛けていたローザは立ち上がり、制するように両手を前に出すと、ブラッドリーは己を取り戻したように立ち止まった。
しかし、表情は苛ついている自分を隠すかのようにうつむいてしまう。
「……なぜあいつを殺すのを止めたのですか?それも二度も」
「え?」
あいつというのは、ウィルのことだろう。
二度というのは、久しぶりに再会したウィルがローザを抱きしめてきた時と、つい先日ウィルと戦った時のことだろう。
たしかにブラッドリーは二度ウィルを殺そうとしていた。一度目の時はそこまでとは思わなかったが、二度目のバーサーカー状態の時は本気だったのだろうと思う。
そして、二度ともローザがブラッドリーを制止していたのだった。
ブラッドリーは苦しげに続けた。
「……本音を言えば、俺はあいつを殺してしまいたかった。だが、あなたが懇願するから我慢したのです」
真情を吐露することに恥ずかしさを覚えているのか、ブラッドリーの顔は赤かった。
「そ、そうですか……。あの、殺さないでくれて、ありがとうございます……?」
ローザは何と言うのが正しいのかわからず、とりあえずお礼を申し上げた。とにかく願いを聞き入れてくれたのは間違いないのだから。
「……何でもします、と言いましたね」
ブラッドリーに懇願する時、たしかにローザはその言葉を口にしていた。
ブラッドリーが一歩近づいてくる。
「え、ええ……!」
思わず怯えたように一歩下がると、ブラッドリーはまたも歩みを止めた。痛みをこらえるかのような表情をしている。
まるでオオカミが空腹に唸るかのような声音で、ブラッドリーは話を続けた。
「……では、愚かな質問をすることをお許しください。やはり、あいつのことが好きなのですか?政略結婚をした私よりも、男として……!」
「そんな……!ウィルはそんな相手じゃありませんわ。弟みたいなもので……。それに、もう何もしないって今日約束しましたし……」
「呑気なのもいい加減にしてください!」
「きゃっ!?」
暴発するかのような一瞬の怒りと共に、ローザは距離を詰められて、壁際に追い込まれていた。
触れてこそいないものの、壁に手をついたブラッドリーの大きな体の影に、スッポリ入る形になって、身動きができない。
怖かった。
ローザはブラッドリーを至近距離から見上げるしかできない。
「……男というのは、皆愚かなものです。あの男の言う通り、あなたが手に入らないのなら、どうなってもいいという激情に駆られることもあるのです……!約束など、反故にしてでも……!」
ローザの息が浅くなり、心臓の鼓動が速くなる。
「で、でも……、ブラッドリー様はそんなこと、しませんよね……?」
自然と懇願めいた口調になってしまい、それを聞いたブラッドリーは自嘲するような笑みを浮かべた。
「……しますよ」
「……!」
冷酷とも言える声が耳に届くよりも速くローザの体は浮き、腰を抱かれて引き寄せられていた。
ブラッドリーのたくましい身体に密着し、耳元で低い声がささやいてくる。
「……俺は出自も知れぬ卑しい身分の出です。公爵令嬢として暮らしてきたあなたに田舎暮らしを強いて、恥じることもありません。俺の本性は野蛮なのです。加えて、自分でも制御できない呪いのような力……!いつ俺があなたを傷つけるか知れたものではありません……!」
顔は見えないが、それは苦悶するような声だった。
いや、まるで怖がってさえいるような……。
ローザは、ブラッドリーの頭に手を回して抱きしめた。
「……だいじょうぶです。ブラッドリー様になら、傷つけられても構いません」
それはきっと“戦場の聖女”、“救国の癒し手”として過ごした過去がそうさせる、聖女の残滓。
目の前で苦しんでいる者を救おうという、聖女としての清らかな振る舞いではあった。
だが、今この時において、それは悪手だった。
「……本当に、なにもわかっていないんですね」
「え?」
残忍ささえ帯びた声音でささやかれた次の瞬間、ローザは傍らのベッドに横たえられていた。そうして、両腕を頭の上で、片手で簡単に押さえつけられてしまっている。
「……っ!」
叫びだしてしまいそうだった。だけど、ローザにはそれができない。
ブラッドリーは、今にも泣き出しそうな顔をしていたからだ。
神々の寵愛を受けたかのように美しいブラッドリーをそうさせているのは誰か?
苦しめているのは、ローザなのは明白だった。
驚きに見開いたサファイア色の瞳を、真紅の瞳が上から見下ろしている。
「あなたは想像だにしないでしょう……。あなたを失うくらいなら、俺はあなたからすべてを奪って、あなたのすべてを自分のものにしてしまいたい……。いっそのこと、支配してしまいたいという黒い欲望を抱いていることを……」
「……ん!」
ローザは身じろぎするが、すこしも身体を動かすことは敵わなかった。
完全にブラッドリーのコントロール下にあった。
身体が燃えるように熱くなろうとも逃げることも敵わず、ブラッドリーの低く、深い声をただただ浴びざるを得ない。
「あなたの生命も、運命も、すべて汚して、俺から離れられなくさせてしまいたいのです……!あなたを、俺のモノにしてしまいたい……!」
そう苦しげに言い切ると、ブラッドリーの瞳は悲しげに揺れた。
「……所詮、俺はあの男と何ら変わりありません。いえ、洗練されていない分、もっと悪いでしょう。奪うことしか能のない……!それが本性なのですから……!」
ローザはブラッドリーの心の内を聞いて、白い喉を震わせた。
溶けそうになる脳で、ローザは言葉を紡いだ。
「あ、あの……、もしかして、わ、わたしを女として見ているということですか……?」
「……なにを今更」
ブラッドリーは不意を突かれて、思わず呆れた声を出した。
「当たり前じゃないですか」
「だ、だって、最初に会った時ガッカリしてたし……!」
「……そんなことはありません」
「わたしって、顔も身体も子どもっぽいし……。ニコラのほうがいろいろすごいし……」
そう言われて一瞬ブラッドリーの瞳が、自然と押し倒しているローザの全身を上下した。
「……そんなことはどうだっていいことです」
ローザは目を見開いて、羞恥と怒りのないまぜになったような表情を浮かべた。
「ど、どうでもよくないですっ!ニコラはまだ14歳なんですよっ!?それなのにいろいろ負けてるだなんて……!それに……、その、あの……!」
「……なんですか?この際全部言ってください」
なんだか気勢が削がれていくが、ため息交じりにブラッドリーは言った。
すると思い切ったようにローザは言った。
「ブ、ブラッドリー様には、リュックさんがいるじゃないですかっ!」
「……はあ!?」
(何を言い出すんだ、この人は……!?)
「ご、誤解しないでください!わたしは良いと思います。貴族にはそういう方は多いですし、武人にも多いと聞いています。それに、リュックさんかわいいですし、もう大人ですし……!」
「ちょ、ちょっと……!」
慌てて制止しようとするが、ローザは止まらない。
「いいんですっ!本当に好きな人と結ばれるのが一番だと思います。わたしたちにはアーサー様だっていますから、世継ぎは問題ありませんし……!だから、無理なさらないでいいんですよ……?だって、相思相愛の仲なのでしょう……?」
なぜかローザは今にも泣き出しそうになって言うのだった。
なぜだ……?辛いのは俺の方だ!
「……ちがいます」
暗澹たる気分でブラッドリーは言う。
「は?」
「俺とリュックはそんな仲じゃありません。なんでそうなるんですか?」
いっそのこと泣きたい気分だった。
男として見られていないのではないか?と常々思っていたが、まさかここまでとは……!
明後日の方向過ぎる。
「……だって、いつもブラッドリー様とリュックさんがふたりで会う時、鍵閉めるじゃないですか」
執務室でふたりが密談する時、たしかに毎回鍵が閉められていた。
「あれは万一にも機密が漏れないようにしているだけです。……もしかして、根拠はそれだけですか?」
なんだその程度かと、ブラッドリーは内心ホッとした。
これならまだ傷は浅いかもしれない。
早期に挽回できるかも。
「みんな噂してますし……」
「みんな!?」
「ええ、侍女たちの間でもちきりです」
そう言えば、とブラッドリーは思う。
(ここのところ廊下でリュックと話していると、やたらと侍女たちがチラチラ見てはキャーキャー言っている気がしたが、そんな理由があったとは……!)
「まあ、わたしとニコラがつい盛り上がっていたのを耳にした侍女たちが好き勝手にアレンジして話しているようなのですが……」
「あなたたちが噂の発生源じゃないですか……!」
ブラッドリーはもういい加減ローザを引き起こした。ハッキリ言わないと通じないだろう。
ローザの小さな両手を手にとって、ベッドのうえで向かい合い、目を合わせて話した。
「あの、ローザさん、俺が本当に好きなのはですね……!」
「はい?」
話そうとした。
話そうとしたのだが、ベッドにチョコンと座る透明なサファイア色の瞳の主に見つめられては、つい剣先が鈍るということもある。
「……リュックではありません」
「まあ!そうなんですの?」
「ええ……」
「では、ロイさん?それともコーディさんという線も……!?」
「……男ではなく、女性が好きです」
「えっ!?」
なぜそこで殊更意外そうにするのか意味がわからない。
「ブラッドリー様は、女好きだったんですか……?」
「いや、その言い方は語弊が……」
「たしかにロイさんもそんなようなことを言っていましたが……」
「……」
またロイか!と内心思ったが、ブラッドリーはいよいよ覚悟を決めて核心的な一言を言おうとした。
「はい、もう女好きでいいです。それでですね、その、俺が本当に好きなのはですね……!」
「……うう……怖い夢見たの……」
ブラッドリーとローザの間に、急に枕を持ったアーサーが出現した。
「……っ!?」
ブラッドリーは心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
「あらあら……!だいじょうぶですか?どんな夢ですか?」
だが、ローザは驚くこともせず、一瞬でブラッドリーからアーサーへと関心を移行させてしまったのである。
「……大きくて黒いオオカミに、ローザが食べられちゃう夢」
「まあ!だいじょうぶですわよ!ローザは食べられておりません!」
(……ず、ずいぶん暗示的な夢を見るじゃないか!)
ブラッドリーは内心焦った。
「……よかった。……いっしょに寝ゆ……」
アーサーがベッドに潜り込んでくる。
「ええ、そうしましょう。いっしょに寝れば怖い夢なんてへっちゃらですわ!ブラッドリー様、よろしいですか……?」
「……しかたがないですね。アーサー、今日は特別だぞ?」
ブラッドリーはそう言いながらも内心思った。
(……もしかしたら、アーサーが一番の強敵なのでは?)
アーサーは目をつぶってすぐに眠りに落ちていく。
むにゃむにゃと半分夢を見ながら。
「……でもね、オオカミは本当はローザのこと大好きで、口のなかに入れて守るの……。食べちゃったら、お話できなくなっちゃうから……」
(……そんなわけないか。すまん、アーサー)
ブラッドリーはアーサーの安らかな寝顔を見て、つい微笑んでしまう。前から思ってはいたのだが、アーサーは可愛いと思う。
最近のブラッドリーは、そう素直に思えるようになっていた。
顔を上げると、ローザと目が合った。
ローザはやはり微笑み、ブラッドリーもまた微笑みを返した。
(結局この関係のままか……。全然進展しないな……)
「……おやすみなさい」
「あっ、はい、おやすみなさい」
すこし慌てたようにローザが返事をし、それでも微笑んでくれた。
ブラッドリーは安心する。
(……まあ、いいか。いや、案外これがベストなのかも……?彼女が望むのなら、それで……)
ローザの微笑みを見てから寝ると、不思議なことに悪夢を見ることはなかった。
深夜、ローザは目を見開いた。
ブラッドリーにおやすみなさいと言ったものの、眠れていなかった。
となりにはアーサーがいて、さらにそのとなりにブラッドリーがいる。
初めて大きなベッド一つで、みんなで寝ていた。
その事実だけで、胸が勝手にドキドキする。
窓から入り込む月明かりが、ブラッドリーの美しい寝顔を切り取っている。
(……そっか。わたし、ちゃんと女性だと思われてたんだ)
そっちの方面では、まったく興味を持たれていないものだと思いこんでいた。
最初の抱かない宣言やリュックとの疑惑もそう思った要因だが、なによりも何ヶ月も同じ部屋で寝ているのに一向に手を出してこないということは、そういうことだろうと解釈していた。
それにしても、さっきはずいぶん激しいことを言われた気がする。
頭がぼうっとしてよくはわからなかったが……。
それでもぼんやり思い返すと、ついつい顔が熱くなってしまう。
大きなワンちゃんなんかでは全然なかった。断じてちがう。
完全に“血に飢えた黒狼”モードだった。
そして、その欲望は自分に向けられていたのだ。
(正直、ブラッドリー様になら、悪い気はしないかも……)
「~~~!」
手足をバタつかせて悶えたくなるが、アーサーもブラッドリーも寝ているので、自重した。
(まったく……!アーサー様はいいけど、ブラッドリー様がスヤスヤ寝ているのは、なんだか腹が立ちますわ……!)
じっー!と視線で焼き殺さんばかりに、ブラッドリーの寝顔を見てやる。
……ダメだ。起きない。ただただ美しい寝顔がそこにあるだけだ。これでは深夜の美術品鑑賞会だ。
それにしても、と忙しく回転する頭でローザは思う。
(激しい発言に反した、あの苦しくも悲しそうな表情……)
ブラッドリーは、今では別人のように安らかな寝顔をしている。
それに合わせるかのように、ローザの心も落ち着いていく。温かな気持ちになって、見ているだけで安心までしてしまう。
(……つまり、欲望に支配されないでいてくれたってことよね?ブラッドリー様って、本当に気高いわ……。でもそれって、御自分のため……?それとも、もしかしたら、わたしのため……?もしも、もしも、わたしのためだとしたら、それって……)
胸のもっとも奥深いところで、トクンと音が鳴った気がした。
心が揺れるほど強い音だった。
友達だということになっているはずのブラッドリーの寝顔を見ていると、その音はどんどん強くなっていく……。
安心していたはずなのに、不安定に揺れて、ドキドキして……。
「……んん……ローザァ……」
となりで寝ていたアーサーが、体全体でギュッと腕にしがみついてきた。
(はおっ!?アーサー様……!)
ローザはアーサーの湯たんぽのような温もりによって、強制的に眠りへと引きずり込まれて行ったのだった。
トクンと鳴った音のことは、夢に溶かして。
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