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第一章
第20話 ローザ、一夜の過ちをする2
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雲一つない空には、明るい月が出ている。
そんな夜だった。
ローザとブラッドリーは、長城のうえにいた。
「さ、行きましょう!物見台の兵にはこちらを見ないように言っておきましたから!」
「え、ええ……!」
ブラッドリーはためらうことなくローザの手を握り、長い蛇のような壁のうえを歩き出す。
手を引かれているローザは、大いに戸惑っていた。
まるで人が変わったかのようなブラッドリーの振る舞いにも、手の温かさにも。
(……あの黒い壺に入ってるプラムーシロップ、お酒が入ってたんだ!)
ローザはようやく思い当たった。
お酒を飲むのは初めてのことだったが、今のブラッドリーを見ると、聞いたことのある症状と適合していると思った。
今思えば、ブラッドリーは食事の際にワインの一つも飲まない。
きっと物凄くお酒に弱いのだろう。
(明るくなったのは良いけれど、だいじょうぶかしら……?)
「……」
じっーとブラッドリーがローザを見ているのに気づく。
「な、なにか?」
「いや、不安そうだな、と思って……」
たしかにローザは不安だった。
だが、ブラッドリーはその不安を吹き飛ばすようにニカッと笑う。
「大丈夫です!ちゃんと剣持って来ましたから、何があってもローザさんのことは守りますよ!」
「……ありがとうございます」
(もしかして、お酒のせいで明るくなったんじゃなくて、ブラッドリー様って根っこのところは明るい人なのかしら……?)
お酒のせいなのか、繋いだ手の体温が移ったのか、ローザの身体は熱かった。
どこまでも続くような長い壁を、真ん丸の月が照らしている。
ふたつの国の境界のうえを、ふたりは歩いていった。
並んで歩くのには、充分な広さがある。
まるで世界にふたりぼっちになったような感覚になるけれど、繋がれている手は頼もしくて、夜風が気持ちいい。
ローザの心臓はトクントクンと心地よいリズムで脈打つ。
アーサーとはまた違ったときめきをローザは感じていた。
「あ、クマだ」
「え?」
ブラッドリーが指さした先には、本当にクマがいた。
というか、近いし、でかい。
真っ黒なそのクマは、5メートルはあろうかという壁から顔をだしていて、ほんの10メートルほど先にいた。
「ひっ……!」
ローザの喉から悲鳴が漏れるのと、クマが急に飛び跳ねて、ローザたちに爪を振るうのは同時だった。
ローザは反射的に目を閉じるが、衝撃は来なかった。
恐る恐る目を開けると、目の前にブラッドリーが立っていて、鞘も抜かない剣でクマの一撃を受けていた。
「こいつ食べますか?」
「え?」
ブラッドリーは余裕の軽口を叩く。
それは余裕ぶっているのではなかった。
信じられないことにクマの腕のほうがプルプルと震えていて、受けているブラッドリーは微塵も震えていなかった。
「クマ鍋にします?」
「い、いいえ……」
ブラッドリーはうなずくと、目にも止まらぬ身のこなしを見せ、鞘に収めたままの剣でクマの頭を叩いた。
巨大なクマはそのたった一撃で、子犬のような鳴き声をあげると全速で逃げていく。
「イタズラ好きの子グマでしょう。こうしておけば人里には近づかなくなるはずです」
「子グマ!?あれで!?」
「ええ、今日リュックが言っていたハイブリッドクマかもしれません」
リュックが言っていたことは知らないが、ローザはとにかく命が助かってホッとして、その場にへたりこんだ。
「どうしました?」
「いえ……」
不思議そうな顔でブラッドリーが覗き込んでくる。
どうやら巨大なクマに襲われる程度のことは、ブラッドリーにとって普通のことらしい。
(……この人って、本当にひとりで王都を救ったのかも)
ローザは目の前の美丈夫への認識を改めた。
「とにかく、助けてくれてありがとうございます。何かの魔法を使ったんですか?身体強化魔法とか?」
巨大なクマを一蹴できるほどの身体強化魔法なんて聞いたこともないが、それならまださっきの不可解な出来事も納得できる。
「いえ、俺は魔法はひとつも使えません」
ブラッドリーはきっぱりと言った。
つまりブラッドリーは非常識にも、生身でクマを軽く一蹴してのけたのである。
人間業ではない。
「……なんでそんなにお強いのでしょう?」
ポカンとしたローザは思ったことをそのまま口にした。
「うーん……」
ブラッドリーは考え込むように唸ると、長城の縁に腰を落ち着けた。
見上げるローザからは、丁度大きな月を背にしているように見える。
「生まれつきこうなんですが……、そうですねえ。まあ、これは言ってもいいかな……?えーと、俺が元戦争奴隷だということはもう知っていますよね?」
「え、ええ……」
「実は、正確にはただの戦争奴隷じゃなくて、物心つく頃から暗殺ギルドで働かされてたんですよね」
ブラッドリーは何でもないことのように、平静な調子で話す。
「半分以上の仲間は訓練中に死にましたけど、死ぬほどの訓練のおかげというのもあるのかなあ?……信じられませんか?」
そういう顔をしていたのだろう。
ローザは慌てた。
「い、いえ……、その、あまりに唐突過ぎて……」
「ふふ、さらに信じられないことに、俺はあなたに惹かれているのです」
「……えっ!?」
月光のなかで、ブラッドリーは微笑んだ。
真紅の瞳が目をそらすことなく、ローザを射抜く。
「信じられませんか?」
「え、いや、あの、その……!」
ローザはあまりのことにパニック状態になる。
顔は真っ赤で、頭からは湯気が出ているかのように熱かった。
「俺も信じられません」
「……は?」
ローザはつい間の抜けた声を出してしまう。
「なぜなら、俺は自分の愛を信じられないからです。実感がないのです。そういうふうに振る舞っていますが、アーサーのことも本当に愛せているのか、それすらも自信がないのです」
ブラッドリーは、今度は儚げに微笑んだ。
その笑みは、真情を吐露していることを告げていた。
筆舌に尽くしがたい辛い過去。
子ども時代に愛されなかった子どもは、愛するということができるだろうか?
それは程度の差こそあれ、ローザも同じことだ。
アーサーのことを正しく愛せているだろうか?
正しい愛が何かもわからないのに……。
とはいえ、酔っているローザはマジでムカついた。
「もう!何なんですか!ブラッドリー様はいつもムダにわたしをドキドキさせて!」
立ち上がってブラッドリーに駆け寄り、その分厚い胸板をポカポカ両拳で殴る。
こともなげにローザの腕を取るブラッドリー。
「……へえ、ドキドキしてたんですか?」
ブラッドリーは勝ち誇った笑みを浮かべる。
なぜなら、ブラッドリーこそが寝室でふたりきりで寝る時、ずっとドキドキしていたからだ。
ローザは安心しきって熟睡していて、そのことにブラッドリーはいい知れぬストレスを感じてもいた。
(なんて憎らしい笑み……!)
ローザは真っ赤になった。
「放してください!」
「あまり騒ぐと兵が来ますよ」
ローザはダンスするように身体の位置をターンさせられて、壁際に押し付けられる。
城壁の外へ落ちないように腰に手を添えられて、仰ぎ見ると、黒狼は余裕の笑みを浮かべていた。
その余裕の笑みが、ローザはなおのこと気に入らない。
キッと睨みつけ、自分からブラッドリーの手を取った。
「……ブラッドリー様は不感症でいらっしゃるのよね?」
そう言って、ブラッドリーには有無を言わせずに手を引いて、問答無用で寝室へと連行した。
ローザはソファにブラッドリーをお座りさせて、あまりの勢いに気圧されたブラッドリーも大人しく座っている。
ローザは紙にペンを走らせては、手酌でプラムーのお酒を飲んだ。
なにをしているのか?と怪訝な顔でブラッドリーが覗き込もうとすると、ローザはバン!と机のうえに紙を叩きつけた。
「わたしたち、離婚しましょ?」
「……!」
声も出せずにブラッドリーは驚き、ローザの顔を仰ぎ見た。
まるで赦しを求めるかのようなその表情に、ローザは一瞬サファイア色の瞳を光らせて口元をニマニマさせるが、それはほんの一瞬。
すぐに慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「もちろん、これは教会に届け出るものではありません。極々私的なものです。わたしとブラッドリー様の秘密の約束事です」
「……秘密の約束事?」
「そうです。わたしたちは愛のない政略結婚です。愛の実感の乏しいふたりが、このまま結婚してたからって、いいことあるわけないんです!だから、一旦内緒で離婚して、仕切り直しましょう!」
「内緒で離婚って……」
聞いたこともないアイデアに、ブラッドリーはポカンとする。
「わたしたちは、まずフラットな関係になるんです!そこから愛を実感できるように育みましょう!そうです!わたしたちは、まずは友達になるんです!」
「と、友達……?」
「おっとぉ!友達を馬鹿にしないでください!友達って作るの難しいんですよっ!わたしの友達は片手で足ります!」
「……少ないですね」
「うぐっ……!」
思わぬダメージ。
「まあ、俺もですけど」
ブラッドリーは、おかしそうに微笑む。
ローザはその笑顔を見て、ちょっとドキッとした。
「……しかし、友達から育めなかったら、どうするんですか?」
ブラッドリーが問う。
言外に、その時は本当に離婚するのかと問うていた。
「いいじゃないですか。その時は腐れ縁ってことで!」
ローザはまるで開き直ったかのように言い放つ。
ついにブラッドリーは大笑いした。
「……くくく、いいですね。賛成しましょう」
ローザとブラッドリーは、ローザお手製の離婚届にサインした。
満月の夜、ふたりは秘密の約束事を交わし、仮初の夫婦から友達になったのだった。
ふたりは改めてプラムーのお酒を飲み交わす。
「えへへ」
この時、もうローザはぐでんぐでんだった。
「やったー!友達一人増えたー!」
「よかったですねえ」
しみじみと応じるブラッドリー。
「えへへへ、じゃあ、一緒に寝ましょう!」
「は?」
「友達なら一緒に寝るくらい普通だよね?」
「え?」
ブラッドリーはベッドに引きずり込まれた。
ふしぎなもので、ブラッドリーには抵抗する力が出ない。
「うふふ、これからいっぱい一緒に楽しいことしようね!アーサー様とも、ヴィンとも、ニコラとも遊ぼう!セルマのこともいつか紹介したいなあ……」
ローザはおしゃべりの途中で、急にすやあと眠りについた。
朝。
ローザはブラッドリーのたくましい腕の中で青くなっていた。
そっーと抜け出そうとするが、当然無理で、ブラッドリーも起きてしまった。
ローザは戦々恐々として尋ねる。
「お、覚えてないですよね?」
ブラッドリーはぼんやりした表情で起き上がる。
「覚えてますけど?鮮明に」
証拠の離婚届を枕元から取り出して、バーン!と見せつける。
真顔だった。
「はわわわわわ……!」
ブラッドリーは怒っているだろうか、それとも呆れているだろうか。
いずれにしても、本物の離婚届をすぐに叩きつけられてもおかしくないとローザは思った。
「……くくく」
だが、ブラッドリーは笑いを堪えきれない様子で顔を伏せる。
青い顔から一変、ローザは真っ赤になった。
「……これからよろしくお願いしますね、ローザさん」
ブラッドリーはニマニマと勝ち誇った笑みを浮かべる。
「うぐっ……!」
ローザは自分でも意外なことに、これはこれで可愛いと思ってしまった。
(ヤンチャな子どもみたい……)
「うー……よろしくお願いします」
約一ヶ月前に政略結婚してから、ふたりはようやく同じベッドで正面から向かい合ったのだった。
問題は山積みだ。
だけれど、ベッドのうえでふたりは見つめ合う。
距離がなんとなく近づいていく。
「……朝ご飯、行こ?」
ふたりの間に、どこからともなくアーサーがぴょこんと出現した。
「アーサー様!」
大慌てでブラッドリーは飛び退くが、ローザは即アーサーに吸い寄せられていく。
その様子を見て、ブラッドリーは思わずため息を吐いた。
「……お父様、行こ?」
アーサーの小さな手が差し出され、ブラッドリーはその温かい手を取る。
アーサーのもう片方の手は、ローザが握っていた。
「うふふ……いたっ!」
「……どうしたの、ローザ?」
「二日酔いですね。あんなにガブガブ飲むからですよ」
ローザの頭痛をアーサーは心配し、ブラッドリーは呆れた。
「うう……、ブラッドリー様は痛くないんですか?」
「私はあなたのようには飲んでませんから」
ブラッドリーの表情には、もはや一寸の笑みもなかった。
(うう、冷たい……)
ブラッドリーは、しかし、無愛想につぶやく。
「ゴードンに二日酔いに効く料理を頼みましょう」
(や、やさしい……!)
その時、二日酔いによって死滅するローザの脳細胞が、最期の閃きをもたらした。
ローザの脳裏に書庫が思い浮かぶ。
書庫には、歴史書や魔法書のほかに、明らかに場違いな育児書が混じっていた。
ブラッドリーは昨夜、こう言った。
『俺は自分の愛を信じられません。実感がないのです。そういうふうに振る舞っていますが、アーサーのことも本当に愛せているのか、それすらも自信がないのです』
ということは、そういうふうに振る舞うための努力はしているのだ。
たしかに、子ども時代に愛されなかった子どもは、愛の実感がないかもしれない。
だけど、それでも、愛することはできるのだ。たとえ、振る舞いだけでも。
自分に実感がなくとも、子どものためにそう振る舞うことは、すでに愛ではないか。
(……不思議なことに、そう振る舞うことでわたしたちはアーサー様に愛をもらい、まともになれるのです。愛がわからなくとも、愛することで、いずれ……)
そのいきなりの天啓にローザはなんだかうれしくなって、バンザイした。
手を繋がれていたアーサーがちょっと浮く。
「きゃはは!」
「朝から何をはしゃいでいるんですか……」
「ブラッドリー様も一緒にやってください!」
ローザが笑いかけると、ブラッドリーは呆れながらも、勢いよく手をうえに上げた。
アーサーが宙に浮いて、楽しそうに笑う。
ローザもブラッドリーも、アーサーの楽しそうな様子に思わず顔を見合わせ微笑んだ。
「ブラッドリー様、今度、ハイキングに行きましょう!プラムー狩りですわよ!」
「まだ飲むつもりですか?」
「プラムー!」
アーサーが両手を上げて喜ぶ。
「うふふ、プラムー!」
ローザも一緒に喜ぶ。
そして、ローザとアーサーは期待を込めたキラキラした目で、ブラッドリーを見上げた。
「……プラムー」
ブラッドリーは渋々ふたりの期待に応え、ローザとアーサーはそんなブラッドリーにニマニマする。
ブラッドリーは照れたようにブスッとしたが、アーサーの手を放すことはない。
スタートラインに着くかのように並んで歩く3人は、まるで本物の親子のようだった。
そんな夜だった。
ローザとブラッドリーは、長城のうえにいた。
「さ、行きましょう!物見台の兵にはこちらを見ないように言っておきましたから!」
「え、ええ……!」
ブラッドリーはためらうことなくローザの手を握り、長い蛇のような壁のうえを歩き出す。
手を引かれているローザは、大いに戸惑っていた。
まるで人が変わったかのようなブラッドリーの振る舞いにも、手の温かさにも。
(……あの黒い壺に入ってるプラムーシロップ、お酒が入ってたんだ!)
ローザはようやく思い当たった。
お酒を飲むのは初めてのことだったが、今のブラッドリーを見ると、聞いたことのある症状と適合していると思った。
今思えば、ブラッドリーは食事の際にワインの一つも飲まない。
きっと物凄くお酒に弱いのだろう。
(明るくなったのは良いけれど、だいじょうぶかしら……?)
「……」
じっーとブラッドリーがローザを見ているのに気づく。
「な、なにか?」
「いや、不安そうだな、と思って……」
たしかにローザは不安だった。
だが、ブラッドリーはその不安を吹き飛ばすようにニカッと笑う。
「大丈夫です!ちゃんと剣持って来ましたから、何があってもローザさんのことは守りますよ!」
「……ありがとうございます」
(もしかして、お酒のせいで明るくなったんじゃなくて、ブラッドリー様って根っこのところは明るい人なのかしら……?)
お酒のせいなのか、繋いだ手の体温が移ったのか、ローザの身体は熱かった。
どこまでも続くような長い壁を、真ん丸の月が照らしている。
ふたつの国の境界のうえを、ふたりは歩いていった。
並んで歩くのには、充分な広さがある。
まるで世界にふたりぼっちになったような感覚になるけれど、繋がれている手は頼もしくて、夜風が気持ちいい。
ローザの心臓はトクントクンと心地よいリズムで脈打つ。
アーサーとはまた違ったときめきをローザは感じていた。
「あ、クマだ」
「え?」
ブラッドリーが指さした先には、本当にクマがいた。
というか、近いし、でかい。
真っ黒なそのクマは、5メートルはあろうかという壁から顔をだしていて、ほんの10メートルほど先にいた。
「ひっ……!」
ローザの喉から悲鳴が漏れるのと、クマが急に飛び跳ねて、ローザたちに爪を振るうのは同時だった。
ローザは反射的に目を閉じるが、衝撃は来なかった。
恐る恐る目を開けると、目の前にブラッドリーが立っていて、鞘も抜かない剣でクマの一撃を受けていた。
「こいつ食べますか?」
「え?」
ブラッドリーは余裕の軽口を叩く。
それは余裕ぶっているのではなかった。
信じられないことにクマの腕のほうがプルプルと震えていて、受けているブラッドリーは微塵も震えていなかった。
「クマ鍋にします?」
「い、いいえ……」
ブラッドリーはうなずくと、目にも止まらぬ身のこなしを見せ、鞘に収めたままの剣でクマの頭を叩いた。
巨大なクマはそのたった一撃で、子犬のような鳴き声をあげると全速で逃げていく。
「イタズラ好きの子グマでしょう。こうしておけば人里には近づかなくなるはずです」
「子グマ!?あれで!?」
「ええ、今日リュックが言っていたハイブリッドクマかもしれません」
リュックが言っていたことは知らないが、ローザはとにかく命が助かってホッとして、その場にへたりこんだ。
「どうしました?」
「いえ……」
不思議そうな顔でブラッドリーが覗き込んでくる。
どうやら巨大なクマに襲われる程度のことは、ブラッドリーにとって普通のことらしい。
(……この人って、本当にひとりで王都を救ったのかも)
ローザは目の前の美丈夫への認識を改めた。
「とにかく、助けてくれてありがとうございます。何かの魔法を使ったんですか?身体強化魔法とか?」
巨大なクマを一蹴できるほどの身体強化魔法なんて聞いたこともないが、それならまださっきの不可解な出来事も納得できる。
「いえ、俺は魔法はひとつも使えません」
ブラッドリーはきっぱりと言った。
つまりブラッドリーは非常識にも、生身でクマを軽く一蹴してのけたのである。
人間業ではない。
「……なんでそんなにお強いのでしょう?」
ポカンとしたローザは思ったことをそのまま口にした。
「うーん……」
ブラッドリーは考え込むように唸ると、長城の縁に腰を落ち着けた。
見上げるローザからは、丁度大きな月を背にしているように見える。
「生まれつきこうなんですが……、そうですねえ。まあ、これは言ってもいいかな……?えーと、俺が元戦争奴隷だということはもう知っていますよね?」
「え、ええ……」
「実は、正確にはただの戦争奴隷じゃなくて、物心つく頃から暗殺ギルドで働かされてたんですよね」
ブラッドリーは何でもないことのように、平静な調子で話す。
「半分以上の仲間は訓練中に死にましたけど、死ぬほどの訓練のおかげというのもあるのかなあ?……信じられませんか?」
そういう顔をしていたのだろう。
ローザは慌てた。
「い、いえ……、その、あまりに唐突過ぎて……」
「ふふ、さらに信じられないことに、俺はあなたに惹かれているのです」
「……えっ!?」
月光のなかで、ブラッドリーは微笑んだ。
真紅の瞳が目をそらすことなく、ローザを射抜く。
「信じられませんか?」
「え、いや、あの、その……!」
ローザはあまりのことにパニック状態になる。
顔は真っ赤で、頭からは湯気が出ているかのように熱かった。
「俺も信じられません」
「……は?」
ローザはつい間の抜けた声を出してしまう。
「なぜなら、俺は自分の愛を信じられないからです。実感がないのです。そういうふうに振る舞っていますが、アーサーのことも本当に愛せているのか、それすらも自信がないのです」
ブラッドリーは、今度は儚げに微笑んだ。
その笑みは、真情を吐露していることを告げていた。
筆舌に尽くしがたい辛い過去。
子ども時代に愛されなかった子どもは、愛するということができるだろうか?
それは程度の差こそあれ、ローザも同じことだ。
アーサーのことを正しく愛せているだろうか?
正しい愛が何かもわからないのに……。
とはいえ、酔っているローザはマジでムカついた。
「もう!何なんですか!ブラッドリー様はいつもムダにわたしをドキドキさせて!」
立ち上がってブラッドリーに駆け寄り、その分厚い胸板をポカポカ両拳で殴る。
こともなげにローザの腕を取るブラッドリー。
「……へえ、ドキドキしてたんですか?」
ブラッドリーは勝ち誇った笑みを浮かべる。
なぜなら、ブラッドリーこそが寝室でふたりきりで寝る時、ずっとドキドキしていたからだ。
ローザは安心しきって熟睡していて、そのことにブラッドリーはいい知れぬストレスを感じてもいた。
(なんて憎らしい笑み……!)
ローザは真っ赤になった。
「放してください!」
「あまり騒ぐと兵が来ますよ」
ローザはダンスするように身体の位置をターンさせられて、壁際に押し付けられる。
城壁の外へ落ちないように腰に手を添えられて、仰ぎ見ると、黒狼は余裕の笑みを浮かべていた。
その余裕の笑みが、ローザはなおのこと気に入らない。
キッと睨みつけ、自分からブラッドリーの手を取った。
「……ブラッドリー様は不感症でいらっしゃるのよね?」
そう言って、ブラッドリーには有無を言わせずに手を引いて、問答無用で寝室へと連行した。
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ローザは紙にペンを走らせては、手酌でプラムーのお酒を飲んだ。
なにをしているのか?と怪訝な顔でブラッドリーが覗き込もうとすると、ローザはバン!と机のうえに紙を叩きつけた。
「わたしたち、離婚しましょ?」
「……!」
声も出せずにブラッドリーは驚き、ローザの顔を仰ぎ見た。
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すぐに慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「もちろん、これは教会に届け出るものではありません。極々私的なものです。わたしとブラッドリー様の秘密の約束事です」
「……秘密の約束事?」
「そうです。わたしたちは愛のない政略結婚です。愛の実感の乏しいふたりが、このまま結婚してたからって、いいことあるわけないんです!だから、一旦内緒で離婚して、仕切り直しましょう!」
「内緒で離婚って……」
聞いたこともないアイデアに、ブラッドリーはポカンとする。
「わたしたちは、まずフラットな関係になるんです!そこから愛を実感できるように育みましょう!そうです!わたしたちは、まずは友達になるんです!」
「と、友達……?」
「おっとぉ!友達を馬鹿にしないでください!友達って作るの難しいんですよっ!わたしの友達は片手で足ります!」
「……少ないですね」
「うぐっ……!」
思わぬダメージ。
「まあ、俺もですけど」
ブラッドリーは、おかしそうに微笑む。
ローザはその笑顔を見て、ちょっとドキッとした。
「……しかし、友達から育めなかったら、どうするんですか?」
ブラッドリーが問う。
言外に、その時は本当に離婚するのかと問うていた。
「いいじゃないですか。その時は腐れ縁ってことで!」
ローザはまるで開き直ったかのように言い放つ。
ついにブラッドリーは大笑いした。
「……くくく、いいですね。賛成しましょう」
ローザとブラッドリーは、ローザお手製の離婚届にサインした。
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この時、もうローザはぐでんぐでんだった。
「やったー!友達一人増えたー!」
「よかったですねえ」
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「えへへへ、じゃあ、一緒に寝ましょう!」
「は?」
「友達なら一緒に寝るくらい普通だよね?」
「え?」
ブラッドリーはベッドに引きずり込まれた。
ふしぎなもので、ブラッドリーには抵抗する力が出ない。
「うふふ、これからいっぱい一緒に楽しいことしようね!アーサー様とも、ヴィンとも、ニコラとも遊ぼう!セルマのこともいつか紹介したいなあ……」
ローザはおしゃべりの途中で、急にすやあと眠りについた。
朝。
ローザはブラッドリーのたくましい腕の中で青くなっていた。
そっーと抜け出そうとするが、当然無理で、ブラッドリーも起きてしまった。
ローザは戦々恐々として尋ねる。
「お、覚えてないですよね?」
ブラッドリーはぼんやりした表情で起き上がる。
「覚えてますけど?鮮明に」
証拠の離婚届を枕元から取り出して、バーン!と見せつける。
真顔だった。
「はわわわわわ……!」
ブラッドリーは怒っているだろうか、それとも呆れているだろうか。
いずれにしても、本物の離婚届をすぐに叩きつけられてもおかしくないとローザは思った。
「……くくく」
だが、ブラッドリーは笑いを堪えきれない様子で顔を伏せる。
青い顔から一変、ローザは真っ赤になった。
「……これからよろしくお願いしますね、ローザさん」
ブラッドリーはニマニマと勝ち誇った笑みを浮かべる。
「うぐっ……!」
ローザは自分でも意外なことに、これはこれで可愛いと思ってしまった。
(ヤンチャな子どもみたい……)
「うー……よろしくお願いします」
約一ヶ月前に政略結婚してから、ふたりはようやく同じベッドで正面から向かい合ったのだった。
問題は山積みだ。
だけれど、ベッドのうえでふたりは見つめ合う。
距離がなんとなく近づいていく。
「……朝ご飯、行こ?」
ふたりの間に、どこからともなくアーサーがぴょこんと出現した。
「アーサー様!」
大慌てでブラッドリーは飛び退くが、ローザは即アーサーに吸い寄せられていく。
その様子を見て、ブラッドリーは思わずため息を吐いた。
「……お父様、行こ?」
アーサーの小さな手が差し出され、ブラッドリーはその温かい手を取る。
アーサーのもう片方の手は、ローザが握っていた。
「うふふ……いたっ!」
「……どうしたの、ローザ?」
「二日酔いですね。あんなにガブガブ飲むからですよ」
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「うう……、ブラッドリー様は痛くないんですか?」
「私はあなたのようには飲んでませんから」
ブラッドリーの表情には、もはや一寸の笑みもなかった。
(うう、冷たい……)
ブラッドリーは、しかし、無愛想につぶやく。
「ゴードンに二日酔いに効く料理を頼みましょう」
(や、やさしい……!)
その時、二日酔いによって死滅するローザの脳細胞が、最期の閃きをもたらした。
ローザの脳裏に書庫が思い浮かぶ。
書庫には、歴史書や魔法書のほかに、明らかに場違いな育児書が混じっていた。
ブラッドリーは昨夜、こう言った。
『俺は自分の愛を信じられません。実感がないのです。そういうふうに振る舞っていますが、アーサーのことも本当に愛せているのか、それすらも自信がないのです』
ということは、そういうふうに振る舞うための努力はしているのだ。
たしかに、子ども時代に愛されなかった子どもは、愛の実感がないかもしれない。
だけど、それでも、愛することはできるのだ。たとえ、振る舞いだけでも。
自分に実感がなくとも、子どものためにそう振る舞うことは、すでに愛ではないか。
(……不思議なことに、そう振る舞うことでわたしたちはアーサー様に愛をもらい、まともになれるのです。愛がわからなくとも、愛することで、いずれ……)
そのいきなりの天啓にローザはなんだかうれしくなって、バンザイした。
手を繋がれていたアーサーがちょっと浮く。
「きゃはは!」
「朝から何をはしゃいでいるんですか……」
「ブラッドリー様も一緒にやってください!」
ローザが笑いかけると、ブラッドリーは呆れながらも、勢いよく手をうえに上げた。
アーサーが宙に浮いて、楽しそうに笑う。
ローザもブラッドリーも、アーサーの楽しそうな様子に思わず顔を見合わせ微笑んだ。
「ブラッドリー様、今度、ハイキングに行きましょう!プラムー狩りですわよ!」
「まだ飲むつもりですか?」
「プラムー!」
アーサーが両手を上げて喜ぶ。
「うふふ、プラムー!」
ローザも一緒に喜ぶ。
そして、ローザとアーサーは期待を込めたキラキラした目で、ブラッドリーを見上げた。
「……プラムー」
ブラッドリーは渋々ふたりの期待に応え、ローザとアーサーはそんなブラッドリーにニマニマする。
ブラッドリーは照れたようにブスッとしたが、アーサーの手を放すことはない。
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