たしかなこと

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 廊下を歩く足が重い。こんなに自分の家が重苦しく感じるのは何年振りだろうか。
 いつも歩いているはずの廊下が酷く長く感じていた。
 海斗はもう二度と行くことはないと思っていた父親の部屋へと向かっていた。
 父親の突然の帰宅。橘が知らないはずはない。なぜ教えてくれなかったのか。そしてなぜ突然帰ってきたのか。
 歩きながら色んな考えや思いが海斗の中を巡っていた。
 ただ一つだけ。今日この時に、優希がこの家にいてくれたことが、海斗の心の支えとなっていたのだった。

 久しぶりに見る父親の部屋のドア。前に立つだけで緊張でおかしくなりそうだった。吐き気がする。
 以前、優希には強がって話してはいたが、未だに海斗の中で父親の存在は強く、そして恐怖に近いものを感じていた。
 しかし怖がってなどいられない。さっさと終えて優希に会いたい。
 大きく息を吐き、ぎゅっと拳を作り力を込めると、海斗はドアを2回ノックした。
 中から返事はない。しかしそれはいつものことであった。
 ゆっくりとドアを開ける。
「遅いぞ……そこに掛けなさい」
 入った瞬間、ソファーに座る総司から声が掛かった。そして自分が座る向かいのソファーを指差している。
「…………」
 海斗はきゅっと唇をきつく結ぶと、ゆっくりと言われた通りに向かいのソファーへと移動する。そして硬い表情のままソファーに座った。
 すると、座った途端にばさばさと何かの冊子をテーブルに放られた。
 ぎょっとしながらも冊子を見ると、どこかの外国の文字が書かれている。そして表紙には建物らしき写真が写っている。
「この中から選べ」
 足を組み、じっと無表情に海斗を見ながら総司が話した。
 一体なんのことなのかと海斗は出された冊子の一冊を手に取った。
 しかし、その中身を見た瞬間、それが大学の資料だということがすぐに理解できた。文字はフランス語。つまりパリにある大学の資料だ。
「は?」
 眉間に皺を寄せながら海斗は総司を睨み付けるように見た。
「聞こえなかったか? この中から選べと言ったんだ。前に約束しただろう。日本にいるのは高校までだ。大学からはこちらに来なさい」
 ぴくりと片方の眉を上げると、厳しい口調で総司が答える。
「…………」
 資料をテーブルに戻し、海斗は無言でじっと総司を睨み付ける。
「橘もこちらへ呼ぶつもりだ。この家は売りに出す。あぁ、そういえば、お前の飼っている犬がいたな。あれはどこかへ売るか誰かに譲るかしなさい。家には連れてこないように」
「ふざけんなっ! 俺は行かない。あいつらもどこにもやらないっ」
 淡々と話す総司の言葉にカッとした海斗は、思わず声を荒げながら立ち上がった。
「何を言っている。お前がここに残るのは高校までの約束だ。それが条件だったはずだ。口答えするな」
 しかし総司は静かに反論するだけであった。
「そんなの知るかよっ。俺は約束した覚えなんかない。アンタが勝手に決めたことだろっ。絶対にパリには行かない」
「いい加減にしろ。誰の金で生活できていると思っているんだ。ひとりで生きていると思うな。何もできないくせに。金がなければ大学も行けないんだからな」
 立ったまま睨み付ける海斗をじろりと睨み返し、総司は厳しい口調で言い聞かせた。
「だったら大学なんて行かないで働く。パリにも行かないし、自分で生きてく」
 総司を強く睨み付け、海斗はそう言うとそのまま部屋を出て行った。



 ☆☆☆



 自分の部屋のドアを勢いよく開ける。そしていつもの定位置で座って待っている優希のそばへと大股で歩いて行く。
「海斗、お帰り……っ!」
 戻ってきた海斗に優希が声を掛けた途端、海斗は正面から優希をぎゅっと抱き締めた。
 突然のことに優希は驚きで声を失っていた。こんな海斗の姿を見るのは初めてだった。
「海斗? どうしたんだ? 何かあった?」
 そっと海斗の背中に手を回しながら優希は心配そうに問い掛ける。
「……俺、ひとりになっちゃうみたいだ」
 ぼそりと呟くように海斗が答える。その声はいつになく弱く、そして悲しげだった。
 顔を優希の首元にうずめるようにしたまま海斗は動かない。
「え? 海斗……ねぇ、どうしたの? お父さんの話はなんだったの? ひとりになるってどういうこと?」
 海斗の背中をさすりながら優希は必死に問い掛ける。
「…………パリに来いって言われたんだ」
 優希を抱き締めたまま、海斗はぼそりと答えた。
「えっ!? そんなっ! 海斗、行かないって言ったじゃんっ! ずっとそばにいるって言ったじゃんっ! なんでっ?」
 信じられないような言葉に優希は思わず目を見開く。そして泣きそうになりながら声を上げた。
「……パリには行かない。親父にもそう言った……でも、橘もいなくなる。この家も売られる……ロディとテディも手放せって……」
 言葉にしながら更に苦しくなっていった。悲しいのか悔しいのか分からない。ただ、涙が出てしまいそうになるのを必死に堪えながら海斗はぼそぼそと答えた。
「え? 橘さんがいなくなるって……」
 一体何を言われたのかと優希は呆然としている。
「親父がパリに連れて行くって言っていた。……どうすればいい? 俺はともかく、ロディとテディが。あいつらを誰かに渡すなんて……」
 そっと優希から離れると海斗はきゅっと唇を結び、泣きそうな顔で俯いた。

「海斗……」
 こんなに落ち込んでしまっている海斗を見るのは初めてのことで、優希もどうすればいいのかと動揺していた。
 そしてあの大きな2匹は賢いと言っても、自分の家で飼うことはできないだろうとも考えていた。
 優希は落ち込んで俯く海斗をぎゅっと抱き締める。自分から抱き締めることは初めてだったが、こうすることしか思いつかなかった。

「……優希」
 一瞬驚いた顔をした海斗だったが、ぎゅっと優希を抱き締め返した。
 どうすればいいのか分からない。自分の力の無さに途方に暮れる。

 その時、海斗の部屋のドアをノックする音がした。
「っ!」
 まさか再び総司が来たのかと、ふたりはハッとしてドアの方を見つめた。
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