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7章 偶像崇拝

トップアイドルは男前

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 俺一人だけが立ち止まっていた。

 売れない歌手の前に立っていた。

 下手くそな歌を聞いていた。

 調律がされていないピアノのようにところどころで音程が跳ねる。プロ志望ならば鼻で笑ってしまうような調子はずれな歌。声も小さくて聞き取れないどころか、耳を傾けなければ声を発しているのも気付かない。けれど、とても綺麗な声をしていた。

 歌い終わった彼女と目が合う。

 彼女は気恥ずかしそうに頭を下げてログアウトしてしまった。

 次の日も彼女は同じ場所で歌っていた。誰にも見向かれず、一人ぼっちで。

 次の日も、その次の日、さらに次の日も彼女は歌っていた。誰かもわからない量産型アバターの前で歌った。

 今日も気恥ずかしそうに頭を下げてログアウトするかと思いきや、話しかけてきた。

「……いつも聞きにきてくれてるよね。ありがとう……」

 そう言ってまた頭を下げた。

「どうして毎日歌っているんだ? 俺以外に観客がいるところ見たことないぞ」

 彼女ははにかむ。

「君が聞きにきてくれるからだよ。実はもう辞めようかなと思ってたんだ。そんな時君が来てくれたからもう一日、もう一日って続けてたの」

 その笑顔は眩しかった。俺とは違う太陽の下を歩ける笑顔の持ち主。妹が親に見せるものとよく似ていた。

「……そうか。もし俺が来なくなっても続けなよ。綺麗な声してるからさ」

 その笑顔にそろそろ潮時だと思った。彼女の行動に妙な連帯感を覚えて毎日通っていたが、こんな笑顔ができる人は自分とは違う人生を歩めるはずだ。段々と彼女の良さを覚える人は増えるだろう。光る素質はあるのだから。影に落ちるしかない自分とは違ったのだ。

「え、もう来てくれないの?」

 悲しそうな顔をされる。

 どうせ互いに素顔も知らない身。

「……死ぬつもりなんだ」

 だからぶっちゃけた。

「人生に疲れたんだ。もう十分戦ったからいいかなって」

「よくないよ。私は君が死んだら悲しい」

「それ理由になってねえよ」

「理由だよ。私のファン第一号だもん、君は」

「誰がファン……いや、ファンか」

 毎日通って歌を聞いていたのだ。他から見たら立派なファンだ。

「けど死なない理由にならないな」

「……じゃあ勝負しようよ。君が死なない理由になる勝負」

「どんな?」

「私、有名になる。一年以内に私の歌を聞かない日がないようにする。だから死なないで」

 大言壮語もいいとこであった。

 だがそんな大口を覚悟を以て発言できる点は好感が持てた。

 当時の俺の周囲にはいないタイプだったから。

「期待してるからな」

 そう言って去ろうとする俺を彼女は呼び止める。

「どんな歌が好きか教えて」

 流行の歌も、昔の名曲も歌えず、ダサい俺にその質問は難題であった。

 だからその質問はストリートから聞こえてきた何かの曲で誤魔化した。その曲はどこかの売り出し中ユニットアイドルが歌うアップテンポな曲だったと記憶している。

 それから俺は彼女のもとへ通わなくなった。

 彼女を陰ながら応援するなんて格好がつく意味で通わなくなったのではない。

 その翌日、妹が車に轢かれそうになるという事件があった。たまたま一緒に出掛けていた俺は妹を突き飛ばし、代わりに轢かれた。フロントガラスに乗り上げ、宙を舞った。普段から暴力沙汰が絶えず、受け身に慣れ親しんだおかげで特に大きな怪我もなかった。問題は俺が突き飛ばした妹がその勢いで足の骨を折ったことであった。

 妹は入院することになった。

 その間、暇を持て余した妹のために両親が俺のヘッドマウントディスプレイを無断で貸し与えていたのだ。

 俺が突き飛ばしたせいで怪我をした負い目もあるため、黙認した。

 次に汐見柚子を知ったのはとあるSNSで今話題の歌手として記事が掲載された時のことである。

 わずか一か月後の出来事であった。
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