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12 姉と死神
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サハラは少しずつ元気になって、自然に笑うようになった。相変わらず学校では女子たちに無視されていたし、イチカも人前で庇えなかったけど、彼女はそれはどうでもいいと言った。
「前からそうだったんだよね。私、女の子の友達ってできないんだ。できても本名も知らないような子ばっかりでさ」
彼女が家事をしてくれるおかげで少し時間ができたから、寝る前に2人で宿題をするようになった。
その間に少しずつ自分たちのことを話した。好きな食べ物。好きな漫画。音楽。得意な科目、苦手な科目。教師の悪口。
イチカの14歳の誕生日、彼女はケーキを焼いてくれた。うまく膨らまなくてぺしゃんこだったけど、嬉しかった。彼女は4月生まれだと言った。
ある日の夕方、急に家にヨーヘーが訪ねてきた。いつもは学校で「今日行く」とか、「ちょっと寄る」とか一言あったからあらかじめ彼女に言って靴や服を隠したけど、この時は突然だったので、玄関に彼女の小さなスニーカーが置きっぱなしだった。
「あれ……誰か、いんの?」
「あ、うん。えーと……」
サハラは台所にいるところだった。ちょっと覗いて、出てこないように合図する。
「上がっていい? だめ? もしかして彼女?」
「や……ちょっと」
「最近付き合い悪くね?」
困った。疑われないように家に上げようかどうしようか迷った時、誰かが後ろから近寄って来る気配がした。サハラ?
「あ、ども……」
ヨーヘーがイチカの背中越しの誰かに向かって、頭に手をやって軽く頭を下げる。
「おい! 出てくんなって……」
ぱっと振り向くと、知らない女の子が立っていた。
誰?
冷や汗がどばっと背中をつたった。
「お兄ちゃん、ごめんね。お友達と約束してたの? じゃ、私そろそろ帰るね」
「あ……」
誰?
色白で、切長の一重の女の子だ。髪が黒く長い。姉の服を着ている。
その子はさっと玄関にあったサハラの靴を履き、かかとをとんとんと慣らした。
「私、イチカ兄ちゃんの従姉妹です。届け物に来ただけなので……ごゆっくり」
「あ、はい」
少女はさっさとヨーヘーの横を通り、玄関から出て行った。誰……。怖い。
「今日、ちょっと体調悪くて。ごめんな、ヨーヘー」
鳥肌が立っていた。知らない女の子が家の中から湧いて来るのは……。
「たしかに顔色悪いな。ごめんな、急に来て。でも従姉妹いたんだな? ちょっと安心したよ。母ちゃんが、イッチは1人になったって言うからさあ!」
「うん、大丈夫。世話してくれる人は結構いるんだよ。ありがとな」
「明日、来れたら学校来いよ。休むなら電話くれ、課題届けてやるよ」
「うん。上がってもらえなくてごめんな」
ヨーヘーが帰ってから、サハラが恐る恐る台所から出てきた。
「さっきの子、誰……」
「俺もわからないんだ」
「怖い」
怖い。サハラの目に見えた。ヨーヘーにも見えた。でも存在するはずのない少女。イトコなんかいないし、そもそも今日、この家にはイチカとサハラしか居なかった。
「私の靴……」
「ちょっと後で探してみるから」
彼女は怖がって、その日はなかなか二階に行かなかった。イチカも正直、ありがたいと思った。11時を回った頃、やっと彼女は自分の部屋に上がった。
すぐにスズシロがよろよろと現れた。
『お神酒と……油揚げ……』
「スズシロ?」
見るからにげっそりしている。急いでお神酒と油揚げを盛って目の前に置く。
『はあ……やれやれ。お前たちのお守りも楽ではないな』
「どうしたの?」
『どうしたもこうしたも。今の時代、未成年が2人で暮らしていたら面倒なんだろう。従姉妹だと誤魔化してやったんじゃないか。靴は社殿の裏にあるわ』
「え、あっ!」
色白で長い髪の少女……
「あれスズシロが化けてくれたのか?」
『気づかなかったのか。おい、油揚げが古いぞ』
「びっくりしたー! 久々に怖い思いしたよ。なんだよ、スズシロか……」
『なんだとは何だ。人に見えるように姿を変えるのはものすごく大変なんだぞ』
「そっか。それで案内も……」
『そう。一度化けるとかなり疲れるんだ』
スズシロの白い体を撫でると、スズシロはごろんと座布団の上に丸まって自分の尻尾にくるまった。
「ありがとう、スズシロ」
『ふん』
しかし、彼女にどう説明したものか。
姉の病院には結局、イチカだけが訪ねていた。
彼女があの病室のもやを怖がるからだ。もやはゆっくり形を成しつつあった。黒い服。顔のところも、黒い布で覆われている……。
神様なんだな、と思った。ほとんど確信だった。
あれは、死神だ。
医者からは、三年も植物状態で生きているのは奇跡的だと聞いていた。仕方がない。もう姉が目を覚ますことはないんだと分かる。
「はあ……」
自然とため息が漏れた。
──俺は1人になるんだ。
それでも、前触れもなく死なれるよりは、こうして死神が立つのがわかって良かった。心の準備はできる。
立ち上がって病室を出る。いつなのだろうか。まだ死神はくっきりとはしていない。実体として見えるまであとひと月はかかるだろう。今日は町に買い物に来ていたサハラが、病院の前のバス停で待っていた。
「どうだった、お姉さん」
「ん。いつも通りだよ」
バス停の、日焼けして所々が崩れたプラスチックの水色のベンチにサハラと並んで腰を下ろす。もう9月なのに、太陽がまだぎらぎら照らしていた。アスファルトの照り返しが眩しい。姉も間もなく死ぬ。
「……イチくん?」
大丈夫だ、と返そうとしたけど、それより早くパタパタと涙がジーンズに落ちた。
「姉ちゃん、死ぬんだ。サハラにも見えたんだろ。あの死神……」
「イチくん……」
元気出して、とサハラは言った。イチくんのお守り、お姉さんにもあげよう。死神なんかじゃないよ……。
「うん」
頷くことしかできなかった。サハラが手を握ってくれた。
家に戻ってから、サハラがお守りを作ろう、と言った。
そんなもの、神様には効かない。わかってる。たぶんサハラにも。
でも彼女が、イチカを元気にしようとしてそういうことを言っているのがわかったから、一枚だけお札を作った。無駄だと思いながら作ったのに、白羽様が可哀想だと思ったのか、今まで作った中で一番よく光った。これなら夜でもこのお札の在処がわかるだろう。
「次、私も行くから、一緒に渡してあげよう」
「うん」
そういえば、姉はどうしてあんなことになったんだろうか。ちゃんと聞いたことがなかった。じいちゃんに聞いても、お祓いに失敗してしまったんだ、としか言わなかった。
もし本当にお祓いに失敗してああなったのだとしたら、もしかしたらじいちゃんにも何が起こったのかわからなかったのかもしれない。スズシロはじいちゃんには神界が見えなかったと言った。
「スズシロ」
呼んでみたが、家の中にいない。スズシロの社に足を向ける。もう日が暮れていたが、スズシロの背中は浮かぶように白く目についた。
『どうした』
「あのさ。スズシロなら知ってるのかなと思って。姉ちゃん、なんであんなになったの?」
スズシロはその猫のような瞳をきゅうと細めてイチカを見た。ちょっと怖い。
『なんでそんなことを聞く』
「いや、だって。普通におかしいだろ? 何もなくて植物人間なんてならないだろ。じいちゃんはお祓いに失敗したとしか言わなくて」
『お前の姉に何かあったのか?』
「……し」
『し?』
「し」
奥歯を噛む。なぜだか言えない。スズシロなら分かってくれてもいいのにとすら思ってしまう。
『……お前の姉は、何というかな。見えぬものまで見ようとした』
「見えぬものまで?」
『そう。そして失敗した。そういうことだ』
「それは、お祓いで?」
『そうだ』
「どんなお祓いで?」
『お前みたいな奴が来て、お前の姉がお祓いをした』
「……もっとちゃんと話してよ」
『私にもそうとしか言えない。まあ、不幸な事故ではあった』
「前からそうだったんだよね。私、女の子の友達ってできないんだ。できても本名も知らないような子ばっかりでさ」
彼女が家事をしてくれるおかげで少し時間ができたから、寝る前に2人で宿題をするようになった。
その間に少しずつ自分たちのことを話した。好きな食べ物。好きな漫画。音楽。得意な科目、苦手な科目。教師の悪口。
イチカの14歳の誕生日、彼女はケーキを焼いてくれた。うまく膨らまなくてぺしゃんこだったけど、嬉しかった。彼女は4月生まれだと言った。
ある日の夕方、急に家にヨーヘーが訪ねてきた。いつもは学校で「今日行く」とか、「ちょっと寄る」とか一言あったからあらかじめ彼女に言って靴や服を隠したけど、この時は突然だったので、玄関に彼女の小さなスニーカーが置きっぱなしだった。
「あれ……誰か、いんの?」
「あ、うん。えーと……」
サハラは台所にいるところだった。ちょっと覗いて、出てこないように合図する。
「上がっていい? だめ? もしかして彼女?」
「や……ちょっと」
「最近付き合い悪くね?」
困った。疑われないように家に上げようかどうしようか迷った時、誰かが後ろから近寄って来る気配がした。サハラ?
「あ、ども……」
ヨーヘーがイチカの背中越しの誰かに向かって、頭に手をやって軽く頭を下げる。
「おい! 出てくんなって……」
ぱっと振り向くと、知らない女の子が立っていた。
誰?
冷や汗がどばっと背中をつたった。
「お兄ちゃん、ごめんね。お友達と約束してたの? じゃ、私そろそろ帰るね」
「あ……」
誰?
色白で、切長の一重の女の子だ。髪が黒く長い。姉の服を着ている。
その子はさっと玄関にあったサハラの靴を履き、かかとをとんとんと慣らした。
「私、イチカ兄ちゃんの従姉妹です。届け物に来ただけなので……ごゆっくり」
「あ、はい」
少女はさっさとヨーヘーの横を通り、玄関から出て行った。誰……。怖い。
「今日、ちょっと体調悪くて。ごめんな、ヨーヘー」
鳥肌が立っていた。知らない女の子が家の中から湧いて来るのは……。
「たしかに顔色悪いな。ごめんな、急に来て。でも従姉妹いたんだな? ちょっと安心したよ。母ちゃんが、イッチは1人になったって言うからさあ!」
「うん、大丈夫。世話してくれる人は結構いるんだよ。ありがとな」
「明日、来れたら学校来いよ。休むなら電話くれ、課題届けてやるよ」
「うん。上がってもらえなくてごめんな」
ヨーヘーが帰ってから、サハラが恐る恐る台所から出てきた。
「さっきの子、誰……」
「俺もわからないんだ」
「怖い」
怖い。サハラの目に見えた。ヨーヘーにも見えた。でも存在するはずのない少女。イトコなんかいないし、そもそも今日、この家にはイチカとサハラしか居なかった。
「私の靴……」
「ちょっと後で探してみるから」
彼女は怖がって、その日はなかなか二階に行かなかった。イチカも正直、ありがたいと思った。11時を回った頃、やっと彼女は自分の部屋に上がった。
すぐにスズシロがよろよろと現れた。
『お神酒と……油揚げ……』
「スズシロ?」
見るからにげっそりしている。急いでお神酒と油揚げを盛って目の前に置く。
『はあ……やれやれ。お前たちのお守りも楽ではないな』
「どうしたの?」
『どうしたもこうしたも。今の時代、未成年が2人で暮らしていたら面倒なんだろう。従姉妹だと誤魔化してやったんじゃないか。靴は社殿の裏にあるわ』
「え、あっ!」
色白で長い髪の少女……
「あれスズシロが化けてくれたのか?」
『気づかなかったのか。おい、油揚げが古いぞ』
「びっくりしたー! 久々に怖い思いしたよ。なんだよ、スズシロか……」
『なんだとは何だ。人に見えるように姿を変えるのはものすごく大変なんだぞ』
「そっか。それで案内も……」
『そう。一度化けるとかなり疲れるんだ』
スズシロの白い体を撫でると、スズシロはごろんと座布団の上に丸まって自分の尻尾にくるまった。
「ありがとう、スズシロ」
『ふん』
しかし、彼女にどう説明したものか。
姉の病院には結局、イチカだけが訪ねていた。
彼女があの病室のもやを怖がるからだ。もやはゆっくり形を成しつつあった。黒い服。顔のところも、黒い布で覆われている……。
神様なんだな、と思った。ほとんど確信だった。
あれは、死神だ。
医者からは、三年も植物状態で生きているのは奇跡的だと聞いていた。仕方がない。もう姉が目を覚ますことはないんだと分かる。
「はあ……」
自然とため息が漏れた。
──俺は1人になるんだ。
それでも、前触れもなく死なれるよりは、こうして死神が立つのがわかって良かった。心の準備はできる。
立ち上がって病室を出る。いつなのだろうか。まだ死神はくっきりとはしていない。実体として見えるまであとひと月はかかるだろう。今日は町に買い物に来ていたサハラが、病院の前のバス停で待っていた。
「どうだった、お姉さん」
「ん。いつも通りだよ」
バス停の、日焼けして所々が崩れたプラスチックの水色のベンチにサハラと並んで腰を下ろす。もう9月なのに、太陽がまだぎらぎら照らしていた。アスファルトの照り返しが眩しい。姉も間もなく死ぬ。
「……イチくん?」
大丈夫だ、と返そうとしたけど、それより早くパタパタと涙がジーンズに落ちた。
「姉ちゃん、死ぬんだ。サハラにも見えたんだろ。あの死神……」
「イチくん……」
元気出して、とサハラは言った。イチくんのお守り、お姉さんにもあげよう。死神なんかじゃないよ……。
「うん」
頷くことしかできなかった。サハラが手を握ってくれた。
家に戻ってから、サハラがお守りを作ろう、と言った。
そんなもの、神様には効かない。わかってる。たぶんサハラにも。
でも彼女が、イチカを元気にしようとしてそういうことを言っているのがわかったから、一枚だけお札を作った。無駄だと思いながら作ったのに、白羽様が可哀想だと思ったのか、今まで作った中で一番よく光った。これなら夜でもこのお札の在処がわかるだろう。
「次、私も行くから、一緒に渡してあげよう」
「うん」
そういえば、姉はどうしてあんなことになったんだろうか。ちゃんと聞いたことがなかった。じいちゃんに聞いても、お祓いに失敗してしまったんだ、としか言わなかった。
もし本当にお祓いに失敗してああなったのだとしたら、もしかしたらじいちゃんにも何が起こったのかわからなかったのかもしれない。スズシロはじいちゃんには神界が見えなかったと言った。
「スズシロ」
呼んでみたが、家の中にいない。スズシロの社に足を向ける。もう日が暮れていたが、スズシロの背中は浮かぶように白く目についた。
『どうした』
「あのさ。スズシロなら知ってるのかなと思って。姉ちゃん、なんであんなになったの?」
スズシロはその猫のような瞳をきゅうと細めてイチカを見た。ちょっと怖い。
『なんでそんなことを聞く』
「いや、だって。普通におかしいだろ? 何もなくて植物人間なんてならないだろ。じいちゃんはお祓いに失敗したとしか言わなくて」
『お前の姉に何かあったのか?』
「……し」
『し?』
「し」
奥歯を噛む。なぜだか言えない。スズシロなら分かってくれてもいいのにとすら思ってしまう。
『……お前の姉は、何というかな。見えぬものまで見ようとした』
「見えぬものまで?」
『そう。そして失敗した。そういうことだ』
「それは、お祓いで?」
『そうだ』
「どんなお祓いで?」
『お前みたいな奴が来て、お前の姉がお祓いをした』
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