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10 ママチャリと虫の知らせ
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その日はお祓いが入っていたので、イチカが装束を着て社殿の縁を歩いていると、白羽様が通路に立って、雨が降る外を見ていた。
最近気がついたのだが、白羽様の顔の、最初ぎょっとしたあの化粧は、だんだん目の周りの黒いのが薄れ、お顔が見えるようになってきた。男性とも女性ともつかない、中性的な横顔。今日は目尻に朱色が入っている。
伊邇はこの人を前にすると、言葉が出なくなってしまう。神様なんだから、スズシロや他の誰に対するよりもきちんとしなければならないのに、思考も行動も止まってしまう。白羽様は動けなくなったイチカの方をゆっくりと向き、少し笑った。
『ありがとう』
そしてふっと消えた。
白羽様が話したのは初めてだった。
ありがとう?
依頼者を待たせていたのでお祓いをする。白羽様が何かして悪いものを祓うわけではないというのはなんとなくわかった。大祓の祝詞だって、それぞれの神社の神様にお祈りするわけじゃない。スズシロが言っていたように、「システム」なんだ。
例えば、お米を研いで水を入れてスイッチを押せばご飯が炊けるみたいに。
「全然怖くないの?」
そろそろ来客対応に慣れてきたサハラが尋ねてきた。
「うん。怖くはない」
一番最初に白羽様に会った時が一番怖かった。次がヤマノケに引っ張られそうになった時。お客さんに「こんな怖い目に遭っていて、こんな怖いオバケが憑いていて」と言われても、ふーんとしか言えない。見えないから。だからあまり細かいことは聞かない。
「今日の人、すごかったでしょう?」
「そうだったの?」
「女の人がすごいこう……横目で依頼人の人を見ながら、背中から抱きついてたでしょ? なんか、茶色いうじゃうじゃしたものがまとわりついてて」
「そうだったのか。俺、見えるのと見えないのがあるから」
「そうなの……」
「じゃ、案内辛かった?」
「まあ、怖かったは怖かった。私の方を見ないでほしいとは思った」
「そうか。なんかごめんね」
「あ、でも、いいの。大丈夫。手伝うから」
焦って大丈夫だと言う彼女の、出て行けって言わないで、と言う心の聞こえるような気がした。
「あのさ、ちゃんと聞かないといけないと思ってたんだけど。もう一ヶ月近くになるだろ、うちに来て。大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。ママ、私がいなくて喜んでると思う」
「そんなことないんじゃない? 中学生の娘が一ヶ月帰ってこないって……」
「ほんとに大丈夫なの」
彼女は「大丈夫」しか言わなかった。
午後、彼女が買い物に行っている間、スズシロが来た。
『板についてきたじゃないか。お前もあの娘も』
「ほんと? なんかさ、彼女には憑いてるものが見えるみたいだけど、俺には見えないから半信半疑だよ」
『信じることだ。離れたと思えば離れている。だめじゃないかと疑えばまた憑く』
「何それ? だからさあ、そういう精神論みたいな……」
『精神という文字を見てみろ。精、つまり混じりけなきもの、そして神、と続く。精神というのは、お前自身の本来の神性を指す』
「あー……やめてやめて。難しいから」
スズシロはまたフンと鼻を鳴らした。
「ねえ、姉ちゃんもこんなことしてたの? よく覚えてないんだ。巫女みたいな格好してたのは覚えてるんだけど。なんか、よそに行ってやってたイメージが強くて」
『ああ。スイはな。あの娘はそこらにいる神成りしなかった魂を送りたがったが、祓う力はなかった』
「そうなんだ」
梅雨が開けかけていた。さっと雲が割れ、午後の日差しが境内を照らす。
『本当なら、夏至にお前は白羽様にお礼を申し上げなければならなかったのだぞ』
「あ? そうなんだ? さっき白羽様から『ありがとう』って言われたよ」
『もったいない! お前如きに。まあ白羽様ならばそう仰るだろうな。……む』
スズシロがぴくぴくと鼻を動かした。
『イチカ、あの娘に何かあったようだ。どうする?』
「は?」
『まあ、普通の人には「虫の知らせ」というやつだが、あの娘に悪いことが起きている。どうする?』
「いや、どうするって。何とかなるもんなの?」
慌てて立ち上がったイチカを見て、スズシロも玄関に向かいかけた。
『わからない。どこにいるかはわかる。行くか?』
「行く」
スズシロはまた風のように走り出す。イチカは祖父が愛用していたママチャリでその白い背中を追った。
彼女は近所のスーパーに行ったはずだったが、スズシロはそこを素通りする。やがて、ぼろぼろで同じデザインの家々が並ぶ、サハラの家のある集落に着いた。
「あ、家……に戻ってるだけ?」
『違う』
白い狐が一軒の家の前に座り、イチカを振り向いた。サハラの家だった。
『聞け』
その家の前に来ただけで、何か不穏なことが起きているのがわかった。ひびの入った薄い壁越しに声が聞こえる。
「いやっ!」
「うるせえ!どこに逃げてたんだよ!」
バシッと何かを叩く音。
「やめて! やめて!」
イチカは弾かれたように玄関の茶色いドアを拳でノックした。
「あの! 開けてください!」
中からはまだ女の子の叫び声と、おかしな音がする。
「スズシロ! なんとかできないのか」
『できない。我々は物理的な干渉はし合えない』
「……」
体当たりを多少したところで破れそうなドアではなかった。イチカは家の脇に回り込み、窓が開いているのを見つけてそこから入り込んだ。サハラの啜り泣く声。男の怒号。
「ちょろちょろ逃げやがって!」
「来ないで……」
声のした部屋を見ると、男がサハラを部屋の隅に追い詰めていた。彼女の髪は乱れ、唇から血が出ているのが見えた。
「おい!」
何も考えずに叫ぶ。男がぎょっとしたように振り返った。
「イチくん!」
サハラがすかさず男の脇をすり抜けてイチカの方に走る。条件反射でその手を取り、とにかく近くにあったドアを開けた。勝手口だったようだ。外に出た。走る。表に停めていた自転車にまたがってサハラに手を差し出すと、サハラは後ろに乗ってぎゅっとイチカの背を抱いた。全力で漕ぎ出す。
男は追ってバタンとドアを開けたが、まるで結界でもあるみたいに敷地から出ようとはしなかった。それでも何かを振り切りたくて、イチカはペダルを出来るだけ早く漕ぎ続けた。
神社に転がり込むように戻ってきて、家の中に入ってみると、サハラはぼろぼろだった。殴られたせいか、目の上も頬も腫れて赤黒いあざができているし、口元に血もついたまま。髪はぐしゃぐしゃに乱れている。服もめちゃくちゃだ。力任せに引っ張られたのか、Tシャツの首周りが伸びきってしまって肩が出ている。裸足。彼女はまだ泣いていた。
「……あれ、誰?」
「ママの、彼氏……」
彼女が襲われそうになっていたことはイチカにもわかった。
「大丈夫? とりあえず、2階行きなよ。着替えたりとか」
「うん」
彼女がシャワーを使っているような音が聞こえた。まずは、良かった。
「ありがとう、スズシロ」
『私は知らせただけだ』
スズシロは猫みたいに顔を手で拭いた。イチカが手を伸ばして頭を撫でると、まんざらでもない顔をする。
『犬扱いするな』
「ふふ」
物理的に干渉できないとスズシロは言った。でもこうして触れればスズシロの、柔らかな毛や温かい体に触れることができる。どういうことなんだろう。
「どうして俺には触れるの?」
『お前が触れようと思い、私が触れられても構わないと思っているからだ。神界と人界は互いの承認がなければ干渉はしない』
「全然関係ないってこと?」
『神界は人界がなければ成立しないし、人界もまたしかりだ。二つの世界は互いに支え合っているが、理が違う』
「?」
『まあ、約束事が違うから、普通の状態ならあえてそれを踏み越えたりはしないということだ』
「はあ」
『気のない返事をするな』
そうしているうちに、着替えたサハラが階段を降りてきた。
最近気がついたのだが、白羽様の顔の、最初ぎょっとしたあの化粧は、だんだん目の周りの黒いのが薄れ、お顔が見えるようになってきた。男性とも女性ともつかない、中性的な横顔。今日は目尻に朱色が入っている。
伊邇はこの人を前にすると、言葉が出なくなってしまう。神様なんだから、スズシロや他の誰に対するよりもきちんとしなければならないのに、思考も行動も止まってしまう。白羽様は動けなくなったイチカの方をゆっくりと向き、少し笑った。
『ありがとう』
そしてふっと消えた。
白羽様が話したのは初めてだった。
ありがとう?
依頼者を待たせていたのでお祓いをする。白羽様が何かして悪いものを祓うわけではないというのはなんとなくわかった。大祓の祝詞だって、それぞれの神社の神様にお祈りするわけじゃない。スズシロが言っていたように、「システム」なんだ。
例えば、お米を研いで水を入れてスイッチを押せばご飯が炊けるみたいに。
「全然怖くないの?」
そろそろ来客対応に慣れてきたサハラが尋ねてきた。
「うん。怖くはない」
一番最初に白羽様に会った時が一番怖かった。次がヤマノケに引っ張られそうになった時。お客さんに「こんな怖い目に遭っていて、こんな怖いオバケが憑いていて」と言われても、ふーんとしか言えない。見えないから。だからあまり細かいことは聞かない。
「今日の人、すごかったでしょう?」
「そうだったの?」
「女の人がすごいこう……横目で依頼人の人を見ながら、背中から抱きついてたでしょ? なんか、茶色いうじゃうじゃしたものがまとわりついてて」
「そうだったのか。俺、見えるのと見えないのがあるから」
「そうなの……」
「じゃ、案内辛かった?」
「まあ、怖かったは怖かった。私の方を見ないでほしいとは思った」
「そうか。なんかごめんね」
「あ、でも、いいの。大丈夫。手伝うから」
焦って大丈夫だと言う彼女の、出て行けって言わないで、と言う心の聞こえるような気がした。
「あのさ、ちゃんと聞かないといけないと思ってたんだけど。もう一ヶ月近くになるだろ、うちに来て。大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。ママ、私がいなくて喜んでると思う」
「そんなことないんじゃない? 中学生の娘が一ヶ月帰ってこないって……」
「ほんとに大丈夫なの」
彼女は「大丈夫」しか言わなかった。
午後、彼女が買い物に行っている間、スズシロが来た。
『板についてきたじゃないか。お前もあの娘も』
「ほんと? なんかさ、彼女には憑いてるものが見えるみたいだけど、俺には見えないから半信半疑だよ」
『信じることだ。離れたと思えば離れている。だめじゃないかと疑えばまた憑く』
「何それ? だからさあ、そういう精神論みたいな……」
『精神という文字を見てみろ。精、つまり混じりけなきもの、そして神、と続く。精神というのは、お前自身の本来の神性を指す』
「あー……やめてやめて。難しいから」
スズシロはまたフンと鼻を鳴らした。
「ねえ、姉ちゃんもこんなことしてたの? よく覚えてないんだ。巫女みたいな格好してたのは覚えてるんだけど。なんか、よそに行ってやってたイメージが強くて」
『ああ。スイはな。あの娘はそこらにいる神成りしなかった魂を送りたがったが、祓う力はなかった』
「そうなんだ」
梅雨が開けかけていた。さっと雲が割れ、午後の日差しが境内を照らす。
『本当なら、夏至にお前は白羽様にお礼を申し上げなければならなかったのだぞ』
「あ? そうなんだ? さっき白羽様から『ありがとう』って言われたよ」
『もったいない! お前如きに。まあ白羽様ならばそう仰るだろうな。……む』
スズシロがぴくぴくと鼻を動かした。
『イチカ、あの娘に何かあったようだ。どうする?』
「は?」
『まあ、普通の人には「虫の知らせ」というやつだが、あの娘に悪いことが起きている。どうする?』
「いや、どうするって。何とかなるもんなの?」
慌てて立ち上がったイチカを見て、スズシロも玄関に向かいかけた。
『わからない。どこにいるかはわかる。行くか?』
「行く」
スズシロはまた風のように走り出す。イチカは祖父が愛用していたママチャリでその白い背中を追った。
彼女は近所のスーパーに行ったはずだったが、スズシロはそこを素通りする。やがて、ぼろぼろで同じデザインの家々が並ぶ、サハラの家のある集落に着いた。
「あ、家……に戻ってるだけ?」
『違う』
白い狐が一軒の家の前に座り、イチカを振り向いた。サハラの家だった。
『聞け』
その家の前に来ただけで、何か不穏なことが起きているのがわかった。ひびの入った薄い壁越しに声が聞こえる。
「いやっ!」
「うるせえ!どこに逃げてたんだよ!」
バシッと何かを叩く音。
「やめて! やめて!」
イチカは弾かれたように玄関の茶色いドアを拳でノックした。
「あの! 開けてください!」
中からはまだ女の子の叫び声と、おかしな音がする。
「スズシロ! なんとかできないのか」
『できない。我々は物理的な干渉はし合えない』
「……」
体当たりを多少したところで破れそうなドアではなかった。イチカは家の脇に回り込み、窓が開いているのを見つけてそこから入り込んだ。サハラの啜り泣く声。男の怒号。
「ちょろちょろ逃げやがって!」
「来ないで……」
声のした部屋を見ると、男がサハラを部屋の隅に追い詰めていた。彼女の髪は乱れ、唇から血が出ているのが見えた。
「おい!」
何も考えずに叫ぶ。男がぎょっとしたように振り返った。
「イチくん!」
サハラがすかさず男の脇をすり抜けてイチカの方に走る。条件反射でその手を取り、とにかく近くにあったドアを開けた。勝手口だったようだ。外に出た。走る。表に停めていた自転車にまたがってサハラに手を差し出すと、サハラは後ろに乗ってぎゅっとイチカの背を抱いた。全力で漕ぎ出す。
男は追ってバタンとドアを開けたが、まるで結界でもあるみたいに敷地から出ようとはしなかった。それでも何かを振り切りたくて、イチカはペダルを出来るだけ早く漕ぎ続けた。
神社に転がり込むように戻ってきて、家の中に入ってみると、サハラはぼろぼろだった。殴られたせいか、目の上も頬も腫れて赤黒いあざができているし、口元に血もついたまま。髪はぐしゃぐしゃに乱れている。服もめちゃくちゃだ。力任せに引っ張られたのか、Tシャツの首周りが伸びきってしまって肩が出ている。裸足。彼女はまだ泣いていた。
「……あれ、誰?」
「ママの、彼氏……」
彼女が襲われそうになっていたことはイチカにもわかった。
「大丈夫? とりあえず、2階行きなよ。着替えたりとか」
「うん」
彼女がシャワーを使っているような音が聞こえた。まずは、良かった。
「ありがとう、スズシロ」
『私は知らせただけだ』
スズシロは猫みたいに顔を手で拭いた。イチカが手を伸ばして頭を撫でると、まんざらでもない顔をする。
『犬扱いするな』
「ふふ」
物理的に干渉できないとスズシロは言った。でもこうして触れればスズシロの、柔らかな毛や温かい体に触れることができる。どういうことなんだろう。
「どうして俺には触れるの?」
『お前が触れようと思い、私が触れられても構わないと思っているからだ。神界と人界は互いの承認がなければ干渉はしない』
「全然関係ないってこと?」
『神界は人界がなければ成立しないし、人界もまたしかりだ。二つの世界は互いに支え合っているが、理が違う』
「?」
『まあ、約束事が違うから、普通の状態ならあえてそれを踏み越えたりはしないということだ』
「はあ」
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