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04 目と徳
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黄昏時だった。伊邇は穢れ縄の張られた森の内側から、何かが近づいてくるのを見ていた。ほんとにヤマノケなんているのか、とスズシロに言ったら、スズシロがじゃあ見てみるか、と言ってきたのだ。ただし、必ず私の言うことを聞け。面白半分で見るようなものじゃない。
『ほら。来たのがわかるだろう』
スズシロが鼻先を向けた。確かに何か、小山ほどもある黒い塊がこちらに近づいてきている。何か声も聞こえる。唸るような、ちょっとお経のような低い長い声。
『行くぞ。声を聞くな。姿をはっきり見てはならぬ。囚われてしまう』
スズシロはぱっと身を翻したが、イチカは目が離せなかった。
本当にあんな大きなものが、あんな古い、頼りない縄一本で防げるのか?
のっそりのっそりとそれは近づいて、縄に足を止めた。横から回り込んだりしないのか? 黒いものはゆらゆらと左右に体を揺らす。声が少し大きくなった。何と言っている?
『イチカ‼︎』
スズシロの怒号にはっと我に返った。いつの間にか自分で縄に触れそうなくらい近づいていた。
『見るなよ。目を合わせてはならぬ』
スズシロの声に従って、慌てて目線を下げる。軽く駆け出したスズシロの後を追って走る。痛いくらいの視線を背中に感じるが、気にしないようにただスズシロの尻尾を見つめた。息をつめて走って走って、家から一番近いスーパーの前までやって来た。人の姿を見て、少しほっとする。
『囚われるところだった。お前があいつに取られたらもう取り返す術はなかった』
ぞっとした。本当に、知らず知らずにあの縄まで近づいていた。まだ呼吸は整わない。ひたいの汗を拭きながら、スーパーの前のベンチに腰掛ける。人前でスズシロと話はできない。ただ頷いた。
「………あの」
はっと声の方をふり仰ぐ。色白の少女が眉根を寄せてイチカを覗き込んでいた。
「ええと……サカキ、くん、ですか?」
「…… あ。はい」
転校生の彼女だった。佐原咲耶。
「ちょっと聞きたいことがあって。変な風に思わないで欲しいんですけど……あの、何かやってますか? すごいお守りを持っているとか」
「え?」
「最近、ご祈祷を受けたとか。そういう」
「んん?」
聞かれたことが飛び過ぎていて、イチカはとっさにかなり怪訝な顔をしてしまった。何しろさっきまでおかしな「神もどき」を締め出していたのだ。
「ごめんなさい! 何でもないです」
「いや、こちらこそごめん。何?」
スズシロが口を挟んだ。
『イチカ、この娘、魍魎が見えているな』
は?
「試しに、あの電信柱の下の女の件かと聞いてみろ」
彼女はそれじゃ、と言って立ち去ろうとしていた。
「あの! 電柱の……女の人のこと?」
半信半疑だった。イチカには何も見えない。何のことだかわからないが、とにかくスズシロの言うことを反復した。彼女が振り向いた。
「やっぱり見えるの⁈」
「いや……」
「ね、あの……ちょっと話を聞いてもらっていい?」
「え? ……別にいいよ。えーと、ここじゃなんだから、うちの神社に行く?」
神社の境内には、例によってスズシロと白羽様がいた。社の裏手の縁に腰を下ろす。もう日が暮れかけている。スズシロと白羽様はその夕闇にもはっきりと見えた。
白羽様は今日はまた、最初に見た時と同じように社殿の真前に突っ立っていた。でも彼女にはそれは見えないらしい。
「……いつも、頭がおかしいとか、目立ちたがって嘘ついてるとか、霊能者気取りとか言われて……」
佐原咲耶はイチカの隣に座って、ぽつりぽつりと話し始めた。
「昔からそうだったの。幽霊なんでしょうね、見えるの。さっきも、電信柱のところに、血だらけの人がいたよね。事故で死んだ人、よく見る。足元の花、見てたね。自分のためのだって気づいたのかな」
「それで、何で俺に話しかけたの?」
「あなたの周りだけ、すごくきれいだったの。教室ですぐわかった。ね、あのクラスの、窓際の前から二番目の女の子、ね、赤ちゃん付けてるでしょ。あの子の水子なのかわかんないんだけど、あれのせいでいろんなのが集まって来てたのが、あなたの周りだけ何にもなかったの。それで、何かすごいお守りとか、お札とか持ってるからなのかなって」
どきっとした。窓際の二番目の若林というクラスメイトは、高校生と付き合ってると噂のあったやつで、去年急に二週間ほど学校に来なくなった。産婦人科に入院していたという噂が立っていたが、詳細はわからなかった。
「でもわかった。神社の子だったからなんだね」
『まあ、イチカは神社の子だからなわけではないんだがな。霊格が高いので魍魎ごときが近寄れないだけだ』
スズシロがまた言った。もちろんスズシロの言葉は彼女には聞こえない。
「ねえ、お祓いとかできるの?」
彼女は少し首を傾げるようにしてイチカの顔を覗き込んだ。暗がりで見るその表情はとても魅力的だった。
「いや、俺は……」
『できるできる。できると言え』
いや。スズシロ……。
「まだ、やったことないけど」
「でもできるようになる?」
『できると言っているだろう』
「正直、自信はないけど……なんとかなると思う」
「本当? また相談させてくれる? あのね、この神社に来たら、すごく楽になった。守られてる感じ。また来てもいい?」
イチカが頷くと、彼女は心底ほっとしたという顔をした。
「サカキくん、宜しくね」
「あ。イチカって言うんだ。イチでいいよ」
「ふふ。私はサハラでいいよ、イチくん」
すっかり暗くなっていたので、彼女の家の近くまで送った。彼女はかなりイチカにくっつくようにして歩いた。こんなかわいい女の子と、並んだことさえなかったので、イチカはドキドキしっぱなしだった。
彼女の家はぼろぼろの市民住宅だった。
「ありがとう。また月曜日ね」
イチカが手を振ると、彼女はにっこり微笑んで手を振りかえしてくれた。
『あの体質であの家ではそれは大変だろうな』
スズシロがまた家に上がり込んでいた。
「何? 何で? なんかいんの?」
『くだらない地縛霊やら餓鬼やらがウジャウジャいたぞ。お前には見えなくて幸運だな』
「なんで俺にはそういうのが見えないの? また『封じてる』とかそういうのなの?」
『違う。お前は神か神に近いものが見える目を持っている。あの娘は魑魅魍魎が見える目を持っている。それだけの話だ』
「同じじゃねえの?」
『全然違う』
スズシロはキレ気味に説明を始めた。
『三角形を想像しろ。富士の山でもいい。富士の十合目、てっぺんが神だ。白羽様や五十日祭を終えた人間だった魂、付喪神たちがいる。次に私のような神の眷属や神獣がいる。まあ九合目から八合目ってところだ。そしてその次が妖怪の類い。これが五合目くらいまでを占める。その下が魑魅魍魎、霊性の低い餓鬼だったり、神成りしなかった魂たち、つまりお前たちがユーレイと呼んでいるやつらだ』
「はあ」
『お前はてっぺんから七合目くらいまでのものが見える。神格がある程度高いものたちだ。お前自身の霊格が高いから。人の目線を想像しろ。目線の高さが合う人間の顔がよく見えるだろう。そのかわり、足元の子供の顔は子供が上を向かないとお前には見えない』
「じゃあ、あの子は五合目より下に目線があるからってこと?」
『そういうことだ。神々が顔を見せようと俯いてやらなければあの娘にはそれが見えない。ちなみに一般の人間にはその富士山自体が見えないというわけだ』
「へえ……」
『ついでに言っておくとお前の霊格が高いのはお前の祖先の行いによる。まだお前自身の徳はさほど積まれていない。今日少し足しになったという程度だ』
「あっ! 今日のって仕事って言ってたよな。何か報酬はあるのか?」
『お前自身の徳だと言っているだろうが』
「徳? 何それ」
『この土地を守り、神を助けることでお前自身の霊格が上がる。死んで神になった時に上位の神になれる』
「いいことないじゃん」
『お前は理解が浅い。霊格が上がれば、例えばあの娘みたいに魍魎が見えて苦しんでいる者は見ずに済むようになる。代わりに妖怪などは見えるようになるが、格段に数が減るのでかなり楽になるはずだ』
「!」
彼女の笑顔がぱっと頭に浮かんだ。
「じゃあ、彼女に俺の『仕事』を手伝ってもらったら、彼女は幽霊を見なくなるってこと?」
『端的に言えばそうなる』
だが簡単ではないぞ、とスズシロは言った。
『ほら。来たのがわかるだろう』
スズシロが鼻先を向けた。確かに何か、小山ほどもある黒い塊がこちらに近づいてきている。何か声も聞こえる。唸るような、ちょっとお経のような低い長い声。
『行くぞ。声を聞くな。姿をはっきり見てはならぬ。囚われてしまう』
スズシロはぱっと身を翻したが、イチカは目が離せなかった。
本当にあんな大きなものが、あんな古い、頼りない縄一本で防げるのか?
のっそりのっそりとそれは近づいて、縄に足を止めた。横から回り込んだりしないのか? 黒いものはゆらゆらと左右に体を揺らす。声が少し大きくなった。何と言っている?
『イチカ‼︎』
スズシロの怒号にはっと我に返った。いつの間にか自分で縄に触れそうなくらい近づいていた。
『見るなよ。目を合わせてはならぬ』
スズシロの声に従って、慌てて目線を下げる。軽く駆け出したスズシロの後を追って走る。痛いくらいの視線を背中に感じるが、気にしないようにただスズシロの尻尾を見つめた。息をつめて走って走って、家から一番近いスーパーの前までやって来た。人の姿を見て、少しほっとする。
『囚われるところだった。お前があいつに取られたらもう取り返す術はなかった』
ぞっとした。本当に、知らず知らずにあの縄まで近づいていた。まだ呼吸は整わない。ひたいの汗を拭きながら、スーパーの前のベンチに腰掛ける。人前でスズシロと話はできない。ただ頷いた。
「………あの」
はっと声の方をふり仰ぐ。色白の少女が眉根を寄せてイチカを覗き込んでいた。
「ええと……サカキ、くん、ですか?」
「…… あ。はい」
転校生の彼女だった。佐原咲耶。
「ちょっと聞きたいことがあって。変な風に思わないで欲しいんですけど……あの、何かやってますか? すごいお守りを持っているとか」
「え?」
「最近、ご祈祷を受けたとか。そういう」
「んん?」
聞かれたことが飛び過ぎていて、イチカはとっさにかなり怪訝な顔をしてしまった。何しろさっきまでおかしな「神もどき」を締め出していたのだ。
「ごめんなさい! 何でもないです」
「いや、こちらこそごめん。何?」
スズシロが口を挟んだ。
『イチカ、この娘、魍魎が見えているな』
は?
「試しに、あの電信柱の下の女の件かと聞いてみろ」
彼女はそれじゃ、と言って立ち去ろうとしていた。
「あの! 電柱の……女の人のこと?」
半信半疑だった。イチカには何も見えない。何のことだかわからないが、とにかくスズシロの言うことを反復した。彼女が振り向いた。
「やっぱり見えるの⁈」
「いや……」
「ね、あの……ちょっと話を聞いてもらっていい?」
「え? ……別にいいよ。えーと、ここじゃなんだから、うちの神社に行く?」
神社の境内には、例によってスズシロと白羽様がいた。社の裏手の縁に腰を下ろす。もう日が暮れかけている。スズシロと白羽様はその夕闇にもはっきりと見えた。
白羽様は今日はまた、最初に見た時と同じように社殿の真前に突っ立っていた。でも彼女にはそれは見えないらしい。
「……いつも、頭がおかしいとか、目立ちたがって嘘ついてるとか、霊能者気取りとか言われて……」
佐原咲耶はイチカの隣に座って、ぽつりぽつりと話し始めた。
「昔からそうだったの。幽霊なんでしょうね、見えるの。さっきも、電信柱のところに、血だらけの人がいたよね。事故で死んだ人、よく見る。足元の花、見てたね。自分のためのだって気づいたのかな」
「それで、何で俺に話しかけたの?」
「あなたの周りだけ、すごくきれいだったの。教室ですぐわかった。ね、あのクラスの、窓際の前から二番目の女の子、ね、赤ちゃん付けてるでしょ。あの子の水子なのかわかんないんだけど、あれのせいでいろんなのが集まって来てたのが、あなたの周りだけ何にもなかったの。それで、何かすごいお守りとか、お札とか持ってるからなのかなって」
どきっとした。窓際の二番目の若林というクラスメイトは、高校生と付き合ってると噂のあったやつで、去年急に二週間ほど学校に来なくなった。産婦人科に入院していたという噂が立っていたが、詳細はわからなかった。
「でもわかった。神社の子だったからなんだね」
『まあ、イチカは神社の子だからなわけではないんだがな。霊格が高いので魍魎ごときが近寄れないだけだ』
スズシロがまた言った。もちろんスズシロの言葉は彼女には聞こえない。
「ねえ、お祓いとかできるの?」
彼女は少し首を傾げるようにしてイチカの顔を覗き込んだ。暗がりで見るその表情はとても魅力的だった。
「いや、俺は……」
『できるできる。できると言え』
いや。スズシロ……。
「まだ、やったことないけど」
「でもできるようになる?」
『できると言っているだろう』
「正直、自信はないけど……なんとかなると思う」
「本当? また相談させてくれる? あのね、この神社に来たら、すごく楽になった。守られてる感じ。また来てもいい?」
イチカが頷くと、彼女は心底ほっとしたという顔をした。
「サカキくん、宜しくね」
「あ。イチカって言うんだ。イチでいいよ」
「ふふ。私はサハラでいいよ、イチくん」
すっかり暗くなっていたので、彼女の家の近くまで送った。彼女はかなりイチカにくっつくようにして歩いた。こんなかわいい女の子と、並んだことさえなかったので、イチカはドキドキしっぱなしだった。
彼女の家はぼろぼろの市民住宅だった。
「ありがとう。また月曜日ね」
イチカが手を振ると、彼女はにっこり微笑んで手を振りかえしてくれた。
『あの体質であの家ではそれは大変だろうな』
スズシロがまた家に上がり込んでいた。
「何? 何で? なんかいんの?」
『くだらない地縛霊やら餓鬼やらがウジャウジャいたぞ。お前には見えなくて幸運だな』
「なんで俺にはそういうのが見えないの? また『封じてる』とかそういうのなの?」
『違う。お前は神か神に近いものが見える目を持っている。あの娘は魑魅魍魎が見える目を持っている。それだけの話だ』
「同じじゃねえの?」
『全然違う』
スズシロはキレ気味に説明を始めた。
『三角形を想像しろ。富士の山でもいい。富士の十合目、てっぺんが神だ。白羽様や五十日祭を終えた人間だった魂、付喪神たちがいる。次に私のような神の眷属や神獣がいる。まあ九合目から八合目ってところだ。そしてその次が妖怪の類い。これが五合目くらいまでを占める。その下が魑魅魍魎、霊性の低い餓鬼だったり、神成りしなかった魂たち、つまりお前たちがユーレイと呼んでいるやつらだ』
「はあ」
『お前はてっぺんから七合目くらいまでのものが見える。神格がある程度高いものたちだ。お前自身の霊格が高いから。人の目線を想像しろ。目線の高さが合う人間の顔がよく見えるだろう。そのかわり、足元の子供の顔は子供が上を向かないとお前には見えない』
「じゃあ、あの子は五合目より下に目線があるからってこと?」
『そういうことだ。神々が顔を見せようと俯いてやらなければあの娘にはそれが見えない。ちなみに一般の人間にはその富士山自体が見えないというわけだ』
「へえ……」
『ついでに言っておくとお前の霊格が高いのはお前の祖先の行いによる。まだお前自身の徳はさほど積まれていない。今日少し足しになったという程度だ』
「あっ! 今日のって仕事って言ってたよな。何か報酬はあるのか?」
『お前自身の徳だと言っているだろうが』
「徳? 何それ」
『この土地を守り、神を助けることでお前自身の霊格が上がる。死んで神になった時に上位の神になれる』
「いいことないじゃん」
『お前は理解が浅い。霊格が上がれば、例えばあの娘みたいに魍魎が見えて苦しんでいる者は見ずに済むようになる。代わりに妖怪などは見えるようになるが、格段に数が減るのでかなり楽になるはずだ』
「!」
彼女の笑顔がぱっと頭に浮かんだ。
「じゃあ、彼女に俺の『仕事』を手伝ってもらったら、彼女は幽霊を見なくなるってこと?」
『端的に言えばそうなる』
だが簡単ではないぞ、とスズシロは言った。
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