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02 神様と眷属

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 翌朝だった。イチカはおっかなびっくりだったが、掃除をしようと境内に出た。誰もいなかった。
 まあ当然だ。まだ二月、梅の蕾も漸く赤くなってきた。空気が冷たく清々しい。ほっとした。昨日のあれは、きっとパンク系の人が験担ぎにでも来ていたんだろう。
 ちょっと奇抜な格好をしていたくらいで、人じゃないと思った自分が馬鹿らしくなった。

 広くもない境内の掃除を終えて、昨日できなかった分も丁寧に柏手かしわでを打った。パンパンと響く。気分がいい。一礼してふっと社殿を見上げた。

「ひっ」

 社殿の屋根の内側、地垂木じだるきのところに、昨日の白いヒトが蜘蛛のように張り付いていた。化粧が少し変わっている。黒目線が入っているように見えるのは昨日と同じだが、今日はそれに加えて頬に緑の色が引かれていた。
 後ずさる。合ってしまった目が離せない。三段の階段を踏み外して転げ落ち、そのまま身を翻して家の中に逃げ込んだ。本当はこれから社殿の中を拭き清めなければならない。でも、無理。無理無理無理。人間じゃない。絶対人間じゃない。あんな、反り返った木組みのところに、手足を突っ張るでもなく虫みたいに留まっているなんてできるわけがない。あの奇妙な化粧。

 誰かに会いたくてすぐに制服を着て登校した。よほど変な顔をしていたのか、洋平からえらく心配された。
 家にまっすぐ帰るのが怖くて、洋平の家でご飯までご馳走になって、でも泊まるのは流石に申し訳なくて、八時近くに家に帰った。もう掃除も参拝もしたくない。逃げるように居間に入り、電気を付ける。

 ピンポーン

 どきっとした。え。こんな、帰ったばかりで? 見計みはからったみたいに? いやいや。きっとクロネコか急便だ。田舎だから、家に電気が付いたので届けに回ってくれたんだよ……何か頼んだかな。

 ピンポーン

「……はい!」

 クロネコや急便なら、「宅急便です」と言う。でも古い磨りガラスの入った玄関サッシの向こうの人物は何も言わない。

 ピンポーン

 あることに気づいてぞっとする。ドアチャイムが鳴っている、それなのに、磨りガラスの向こうの人物の影はぴくりとも動いていない。どうやってチャイムを押しているんだ……。

 そっと玄関を離れる。はい、と言ってしまったが、もう開ける気にならない。じりじりと、足音を立てないように……。背を向ける。そっと居間に戻ろう。

 と、その時、「ガラリ」と鍵のかかっていたはずの玄関の引き戸が開いた。そしてその向こうに、犬のような生き物がいた。

『おい、ずいぶんだな、伊邇イチカ
「………」

 目の前の光景が飲み込めなかった。さっきまでは人影がたしかにその向こうに立っていたのに、戸が開いてみれば白い犬のような生き物がいて口をきいている。開かないはずの戸を開け放って。叫ぶことすらできない。ただ腰が抜けた。

『お前、お清めをサボっただろう。見ていたぞ。白羽シロハ様は穏やかな方だからまだお怒りではないが、気の短い方なら今ごろ障りがあってもおかしくはないのだぞ』
「………」
『む。何だ? 私を覚えておらんのか。甲斐のないやつだ』

 犬のような生き物はついと家の中に上がり込むと、腰を抜かしてへたりこんでいる伊邇の頬をぺろりと舐め、手の匂いをふんふんと嗅いだ。尻尾が随分太くて長いことに気がついた。これは狐かも知れない。白い狐?

『私は鈴白スズシロ。お前が7つの時まで見えていたはずだ』
「す……すず……しろ」
『白羽様の眷属。思い出せ。もう元服だろうが』

 スズシロ。

 ──スズシロー、こっちだよー
 ──伊邇、何と遊んでるんだ?
 ──あのワンコだよ、うちで飼ってるんでしょ? おじいちゃんのワンコでしょ?
 ──伊邇、お前には見えてしまうのか……。

「あ!」
 
 スズシロだ。昔家で飼っていたワンコ……。

『思い出したか。お前は私のことを犬だと思っていた』

 じいちゃんはイチカがスズシロと遊んでいるのを知って、何か物々しい儀式をした。結界を張って供物を用意し、祝詞をあげる本格的なやつだった。
 それからスズシロはいなくなってしまい、イチカはものすごく悲しかった。死んでしまったんだと思った。

「スズシロ!」

 思わず撫でると、スズシロはフンと鼻を鳴らした。

『以前は子どもであったのでな、犬扱いも許したが、大人になったのだから容赦はせんぞ。私を犬と一緒にするな。私は白羽様の眷属の鈴白である。私の言葉は白羽様のお言葉と心得よ』

 怖くはなくなったが、喋る狐なんてそれ自体が尋常ではない。伊邇はスズシロをとりあえず居間に招き入れると、話を整理することにした。

「これは、夢? 俺頭がおかしい?」
『なかなか現実的な発想をするな。よいぞ。まあ夢と思っても構わないが、私としては事実を受け入れる方をお勧めする』
「スズシロはどうして喋ってんの? 何で今日来たの?」
『言っただろう。私は白羽様の眷属だからだ。お前がこの二、三日、白羽様に失礼なことをするから忠告に来た』
「白羽様……」
『お姿を見て逃げ出しておったろうが。今朝など白羽様はお前を驚かさないようにと身を潜めておられたのに』

 姿を見て逃げ出した?

『昨日の暮れにも。いくら清めるためとはいえ、白羽様をどかせるとは』
「あっ! もしかしてあの白髪しらがの人⁈」
「こら! 無礼を申すなと言うに」

 ぱっとあの屋根の内側に貼り付いていた真っ白な歌舞伎役者みたいな姿が思い浮かんだ。白羽様ってあれか? 

「あの人は何なの?」
『お前、この神社の名前を知らないのか』
「知ってるよ。白羽シロハ神社だろ」
『この神社の氏神様そのお方だ』
「えーっ」

 あんな……言ったら何だけど、外したビジュアルバンドみたいな人が……。

「今まであんな人いなかったよ?」
『ずっと御座おわした。お前が7つになるまでは見えていたはずだ。今見えているお姿とは違う見え方だったかも知れんが』
「ずっと……いた?」
『私だってずっといた。お前に見えていなかっただけだ』
「どうして見えていなかったんだろう? どうして七つまで見えていたのかな?」
『全く聞いていないのか? 昭衛しようえいから』

 昭衛というのはイチカの祖父のことだ。この白い狐がじいちゃんを呼び捨てにするのはなんだか不思議な感じがした。

「じいちゃんを知っているの?」
『まあ、あいつは私たちが見えなかった。幸いなことだ』

 スズシロが言うには、イチカには生まれつきスズシロや白羽様が見えていたらしい。

 でもそういうものが見えると障りがあるので、七つの時にじいちゃんが術を使ってその目を封じた。
 そのためにイチカはそれからそういうものが見えなくなって、存在すらすっかり忘れてしまったということだ。
 そのほかの普通の人に見えないのと同じように。ほかの人には、ほかの普通の・・・人には、スズシロも白羽様も見えないし声も聞こえない。

「じゃあなんで? なんでまた見えるようになっちゃったの? じいちゃんが死んだからか?」
『違う。お前が十五になったからだ』
「なってないよ! 誕生日は七月だし、次で14歳だ」
『かぞえで十五だ。正月が来たから』
「正月は先月だろ!」
『いわゆる旧正月というやつだ。節分が来ただろう』
「そんな……」

 たしかにそうだった。じいちゃんはカレンダーではなくて、旧暦で色々な行事をやっていた。

『お前が大人になったから封印が解けた。これからはお前がその力と付き合わなければならぬ』

 ──大人? おとな? 俺が?

『今日はこれで私は帰る』
「か、帰る? どこに?」
『私の社に』
「それってどこ」
『ここの境内の西側に稲荷舎いなりしゃ。があるだろうが。明日は白羽様と私の社に必ず詣でること。掃除も忘れるなよ。お前はまだきちんと生業なりわいを修めておらぬから、当分は掃除と参拝を欠かさなければ許してやる』

 狐はそれだけ言ってすっくと立ち上がると、玄関から出て行った。


 鍵を閉めなくちゃと追いかけたが、鍵は閉まったままだった。






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