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1巻

1-3

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 全身を理人さんの手が甘くみだらに這い回る。
 私に触れる手つきは優しく、でも、誰も触れたことのないところを次々と暴き、官能を覚えさせる。恋人でもない人に触られているのに、なぜだか嫌ではない。
 私は体を揺らし、くねらせて、与えられる快感にただ耐えた。

「ん、はあ……、あっ、んんっ……」

 頭がパンクしそうで、唯一触られていないところが濡れているのを感じた。

(恥ずかしくてどうにかなりそう……)

 でも、全身が熱くて熱くて、その熱を冷ましてほしくもなる。
 ふいに手を止めた理人さんは、そんな私を見下ろした。
 欲望にギラつく瞳に射すくめられる。
 ひくりと蜜を垂らしているところが震えた。
 そこを指で擦られる。

「ああんっ」

 待ち望んでいた刺激に声をあげた。
 私を見つめたまま、理人さんは唇の端を上げて、指を上下に動かす。ぬるぬるになっている割れ目の間を何度も辿たどるように動かされると、あられもない声が洩れ、耐えきれず首を振った。
 恥ずかしいのに、腰は浮き、彼の手に秘部を押しつけるようにしてしまう。
 指が滑って、一番上の尖りに触れると、ビリッと電流が走ったような快感に、体がねた。

「あっ、や、だめ……、やんっ、あ、あ、ああっ……」

 今度はそこを集中的に攻められて、その手から逃れようと、身をよじる。でも、理人さんは許してくれなくて、さらに、乳首を食み、吸い上げた。

「あ、ああーーーッ」

 なにかが弾けて、真っ白になった。
 いつの間にか反っていた背中が脱力して、ベッドにパタンと落ちた。全力疾走した後のように心臓が早鐘を打っている。そんな私をなだめるように、こめかみに、頬に、唇にキスを落とすと、理人さんは指を私の中に入れてきた。

「……っぅ!」

 引きれるような痛みに思わずうめくと、理人さんは目を見張った。あわてて指を抜く。

「ちょっと待て。お前、処女なのか?」
「……はい」

 この歳で処女なのをとがめられているようで、私は目をらした。
 理人さんは額に手を当てて、つぶやいた。

「そうか、箱入りのお嬢様だったな……」

 後悔しているような理人さんの様子に、ここで止められてしまうと、契約を破棄されてしまいそうで、そして、なぜだか彼にもっと触れられたいとも思ってしまって――私は縋るように言った。

「大丈夫です。気にしないで、進めてください!」
「気にするに決まってるだろ! 処女は抱かない主義なんだ。お前もこんなところで大事なものを捨てるなよ」
「でも、契約が……」

 困って目を伏せると、私が気にしていることを察して、理人さんはニヤッと笑った。

「しょうがないな。これで我慢してやるよ」

 私は体をひっくり返されて、よつんいにさせられた。
 脚の間に、硬く熱く太いものが入ってくる。

(これって……)

 その正体に気づき、顔が熱くなる。それも理人さんが腰を動かし始めると、それに構っている場合ではなくなった。
 割れ目の間を彼のもので擦られると、とんでもない快感が生まれて、その奥がキュンキュンする。

「気持ちいいか?」

 耳もとで低い声でささやかれる。その吐息にも反応して、腰が跳ねる。
 なぜだか胸が高鳴る。
 背中にぴったり合わさった彼の肌を心地よく感じてしまい、自分を疑う。

(どうして?)

 考えようとするけれど、耳をかじられ、胸をねられ、とても思考できない。

「ああッ、あ、あん! はっ、はぁ、やんっ……」

 私の嬌声きょうせいに、ふっと笑い、理人さんは動きを速めていった。
 激しく揺さぶられて、またどうしようもない熱が溜まってくる。その快感に耐えきれず、手の力が抜けて、顔を伏してしまう。
 理人さんにお尻を突き出した姿勢でさらに攻められ、猫が伸びをするように背を反らして、私は達した。
 そこに何度か体を打ちつけ、私を抱きしめながら、理人さんが止まった。脚の間のものがビクビクとうごめくのを感じた。

「はぁ……」

 色っぽい息をつきながら、理人さんが身を起こした。脚の間から彼のものが抜かれた。
 支えきれず、ペタンとお尻を落として、私は快感に震える体を持て余した。
 彼はゴムの処理をすると、ティッシュで私の秘部の愛液を拭き取る。

「じ、自分でします!」

 飛び起きてそう言ったのに、彼は私の脚を持ち、楽しそうに念入りに、内腿うちももつたっていた愛液まで拭き取ってくれた。
 私は恥ずかしさで顔が爆発するかと思った。

「体は大丈夫か?」

 ごろんと私の横に寝転んで、理人さんが私を抱き寄せ、顔をのぞき込んできた。その甘いしぐさに経験値のない私はどうしてもときめいてしまう。

「だ、大丈夫です」

 恥ずかしくてうつむくと、理人さんは私の体を撫で、つぶやいた。

「葉月の体は綺麗だな。触り心地もよくて」

 お世辞だとわかっているのに、うれしくなってしまう。私の息が治まるまで、理人さんはまるで楽しむかのように、私の体を撫でていた。


「シャワー浴びるか?」

 そう聞かれて、すごく浴びたかったけど、ここからいち早く逃げ出したい思いの方が強くて、私は首を振る。

「いいえ、このまま帰ります!」

 それなのに、引き止めるように抱きこまれた。

「送っていくのが面倒だから、泊まっていけよ」
「ひとりで帰れます!」
「婚約者になるんだろ? 朝帰りのひとつやふたつしとかないと」

 そう言われて、反論できない。

「明日、なにか用事があるのか?」

 明日は土曜日だから、特に予定もない。

「……ないです」
「じゃあ、問題ないじゃないか。シャワー浴びてこいよ。洗面所の棚にたぶん、誰かが置いてった化粧落としとかなんかがあるはずだ」

 さらりとそんなことを言う理人さんに、聞いておかないといけないことを思い出した。

「理人さん、今交際している人は……」
「いないよ。いたら、こんなこと引き受けない。今までも、後腐あとくされない関係だから、安心しろ」

 さわやかに微笑む彼に、安心するべきか、後腐あとくされない関係とは? と突っ込むべきか迷ったけど、私は下着を拾い上げて、教えてもらった浴室に逃げ出した。


 浴室で私は困惑していた。問題は下着だった。
 引っつかんできたショーツはぐっしょり濡れていて、お風呂上がりにこのまま履くのは躊躇ためらわれた。

(洗いたいけど、干して乾かす間、どうすればいいのかしら……?)

 理人さんの部屋に自分の下着が干してある絵を思い浮かべて、ないないと首を振った。

「化粧落としあったか?」
「きゃあ! ノックもなしに入ってこないでください!」

 いきなりドアが開いて、私は手にショーツを持ったまま飛び上がった。
 驚いた私に驚いたらしい理人さんだったけど、私の手の中のものを見て、ニヤッとした。

「そのままじゃ使えないだろう。洗ってやるよ」

 私の手からショーツを奪い、横にあった洗濯機に放り込む。理人さんはついでにと、カゴに入っていた自分の服も入れ、落ちていた私のブラも拾い、洗濯機に入れた。

「あ、あの……」

 手で胸や下半身を隠しながら、理人さんに話しかける。

「着るものをなにか貸していただけませんか?」
「あぁ、それでこれを持ってきたんだ。とりあえず、着られるかと思って」

 理人さんが差し出してくれたのは、Tシャツと紐付きの短パン。もちろん、彼のサイズだから大きいけど、紐を締めれば履けそうだ。

「ありがとうございます」

 ありがたく受け取って、今度はそれで体を隠す。
 そんな私を見て、理人さんは開けっぴろげに笑った。

「可愛いな、その反応。さんざん見たあとなのにな」

 おもしろがる彼をにらんでいると、ふいにあごをグイッとつかまれて、チュッとキスをされた。

「~~~~っ!」

 私が顔を沸騰させている間に、理人さんは「早く入らないと風邪引くぞ?」と出ていこうとした。

「あ、棚を開けていいですか?」
「なんでも勝手にしたらいい。タオルは下の棚にある」

 慌てて聞いた私に、そう答えて、彼は去っていった。

(女たらしっ!)

 生まれて初めて、そんな言葉が思い浮かんだ。


 シャワーを浴びてスッキリして、ダイニングに行くと、理人さんがまた麦茶を差し出してくれた。
 喉がカラカラだったので、助かる。一気に飲んでしまうと、おかわりをいでくれた。

「俺もシャワーを浴びてくる。好きにしていてくれ。先に寝ていてもいい」

 気軽に言って、彼は私と交代で浴室に行った。
 部屋に他人がいるのに慣れている様子。余裕のない私とは大違いだわ。

(そりゃあ、彼に誘われたら、いくらでも来る女性はいるわよね)

 自分もそのひとりだと思うと、なんだかモヤモヤした。
 ソファーに脚を丸めて座って、ぼんやりする。
 パーティーに来る前は、こんなことになるとは思っていなかった。
 そして、仕事ができる男、理想的な上司という真宮部長のイメージもガラガラと崩れた。
 ――女慣れした大人の男。気さくで可愛らしいところも……ううん、なにかで私を利用しようとしているズルい男。そして、なによりエッチだ。
 先ほどの行為を思い出して、私は思わず顔を手でおおった。

(これから時々あんなことをされるのかしら?)

 契約の条件だから、仕方ないけど、なんてことに同意しちゃったんだろう……
 不思議なのは自分が本気で嫌がっていないこと。だって、誰かに抱きしめられるのが、あんなに心地よいとは思わなかった。理人さんの優しい手つきが、心にまで忍び込んできそうで怖い。

(困るわ。理人さんとはかりそめの関係なのに)

 理人さんは、なにかの目的のために、私の立場を利用するつもりだ。
 私は、一柳さんと距離を置くために、理人さんに盾になってもらうだけ。
 ただ、それだけの関係なのだ。

(早く別の結婚相手を見つけたらいいんだわ! そうしたら、この契約を解除して、そして――結局、誰か違う人に抱かれるのね……。子どもができるまで)

 私は溜め息をついた。
 膝を抱え直して、その上に顔を伏せる。

(私の人生になんの価値があるのかしら? 社長令嬢以外の価値が……)

 幼い頃から言い聞かされてきた。
「お前は良い婿むこ養子を取り、世継ぎを産むためだけの存在だ」と。
 母も同じだったようで、私を見ては、「あなたが男だったらよかったのにね」と溜め息をついた。
 成長してからは、「子どもを産んだら、あとは好き勝手できるんだから、あなたも早く結婚するのがいいわ」と言って、それを実践するように、母は趣味のお茶のお稽古や観劇に励んでいた。
 でも、私は母のようにはなれない。
 趣味だって、読書や絵画鑑賞、たまにピアノを弾くぐらいしかないし、人生を楽しむ術を知らない。
 なにより本当は、旦那様になる人と、心を通わせたいと思っていた。
 政略結婚だって、それは可能よね?
 でも、一年で見つかるかしら? 
 ううん、見つけなきゃ!


 そんなことを考えていると、不意にあごに手をかけられ、顔を上向かされた。
 目の前に端正な理人さんの顔があった。

「またうつむいてるのかよ、葉月?」

 そう言って、彼は私を見つめた。
 今日はモニターを見る時間が少なかったからか、目のクマはいつもよりマシだった。その代わり、湿った前髪が額に下りていて、無防備な姿がやけに色っぽく、目をらせない。

「仮にも俺の婚約者なんだから、気軽にうつむくな」

 理人さんは暗示をかけるように、一瞬、私にいつもの強い眼差しを投げた後、私が答える間もなく、指ですっと頬を撫でると手を離した。
 髪の毛をタオルでガシガシ拭きながら離れていき、テーブルの上のスマホを取り、見ている。

(株価でもチェックしているのかしら)

 なんとなく目でその姿を追ってしまう。
 理人さんのように自信にあふれた人から見たら、私は不甲斐なく感じられるのかもしれない。
 確かに、彼の隣には自立した大人の女性が似合う。
 分不相応な望みを持ってしまったのかもしれないと、視線が落ちた。

「なんだ、言ったそばからうつむいてるのか?」

 目をあげると、振り向いた理人さんがこっちを見ていた。

「お前はよくやってるよ、葉月。少なくとも、今ここにいる時点で度胸満点だ。自信を持て」

 ニッと笑ったその顔を呆然と見つめる。

(よくやっている……)

 誰にも言われたことのない言葉だった。

(なんでそんなこと言うの?)

 上司が部下をめるよう。
 自信のない部下に発破をかけるマネジメント術。
 きっとそうだわ。
 なぜだか泣きたい気分になって、目をらした。

「寝るぞ」

 そんな私に構わず、理人さんは私の手を取ると引っぱって立たせ、当然のように寝室に連れていく。

(い、一緒に寝るってこと?)
「わ、私はソファーでも……」
「バーカ。どこに婚約者をソファーで寝かせるやつがいるんだよ。しかも、お前みたいなお嬢様を」

 理人さんの中では、「一緒に寝る」の一択らしい。
 先ほどまでいたベッドのシーツはぐしゃぐしゃにしわが寄っていて、行為の跡が生々しく、私は直視できなかった。
 それを気にもせず、理人さんはそこに転がった。同時に、手を引っぱられ、彼の上に覆いかぶさるように倒れてしまう。
 私を抱きとめると、理人さんは「積極的だな、葉月?」と笑って、私を布団で包んだ。

「ちがっ……」

 身じろぎして彼の腕を抜け出ようとするけれど、離してくれない。それどころか、ギュッと抱きしめ、不埒ふらちなことをつぶやく。

「俺、女のやわらかい体、好きなんだよなー。着せなければよかった」

 その言葉のとおり、理人さんは私の体を味わうように手をわせてきたかと思ったら、Tシャツの裾から手を侵入させてきた。直接、背中を撫でられる。

「んっ……」

 ゾクッとして、息がれる。それが自分ながらやけに甘くて、恥ずかしくなる。
 さらに、反対側の手は短パンの中に忍び込んできて、お尻を撫でた。
 下着をつけていないので、理人さんの温かい手の感触が直に伝わって、ビクンと身を震わせてしまう。

「り、理人さん!」

 あせって、止めさせようとするのに、理人さんは「あー、これはこれでエロくていいな」と笑った。
 理人さんはさわさわと私の体を撫でまくり、しばらくすると、信じられないことに、寝息を立て始めた。

(うそ! 寝ちゃったの⁉ こんな体勢で?)

 彼の手は、片方は背中に回され、もう片方は私のお尻をつかんでいる。
 両手でがっちりホールドされ、動きたくても動けない。
 しばらくジタバタしてから、あきらめた。
 子ども時代を含めても、誰かと一緒に寝るというのは初めてだ。
 ドキドキ、ドキドキと騒ぐ心臓が落ち着いてくると、とくんとくんという規則正しい心音に気づいた。
 理人さんの鼓動だ。
 そして、温かい体温に包まれて、しだいに瞼が重くなっていき、気がつけば、私は眠りに落ちていた。


   ◇◆


 翌朝、目が覚めると、見知らぬ場所にいて、一瞬戸惑った。
 青系のファブリックで統一されたシンプルな部屋。
 開かれたカーテンからはまぶしい朝の光が差し込んでいた。

(そうだ、ここは理人さんの部屋だわ)

 昨夜のことを思い出して、かーっと顔が熱くなった。
 怒涛どとうの展開すぎて、自分の取った行動が正しかったのかどうか、わからなくなる。
 それでも、一柳さんのことを思い出すだけで、ゾワッと鳥肌が立つくらいなので、最善だったと信じたい。

(それに、理人さんなら、たとえ仮の婚約者であっても守ってくれそう)

 頼れる上司の印象、そして、一柳さんから助けてくれた時の腕の温かさに、そんな期待をしてしまう。

(でも、あんなにエッチな人なのよ?)

 イメージが崩れまくったことも思い出して、やっぱり自分の感覚に自信がなくなる。
 気がつくと、彼の手の感触を思い返していた。
 私の体に優しくみだらに触れる手つき。熱い眼差し。密着する彼の肌……。
 体が甘くうずいた。

(違う、違う!)

 それを追い払うように、ブンブン首を振った。
 しばらくひとり悶えてから、ふと時計を見る。

「九時過ぎてる!」

 ずいぶんのんびり寝てしまったと、慌ててベッドを下り、ダイニングへ顔を出した。


 理人さんは、テーブルでノートパソコンに向かって、作業をしていた。
 紺に水色の差し色が入ったTシャツにオフホワイトのチノパンが、カジュアルだけど洗練されたオシャレさを感じる。
 部屋も青系だし、青が好きなのかもしれない。
 捲った袖から見える男らしい筋ばった腕、キーボードを打つ繊細な長い指に、妙に色気を感じてしまった。
 私の気配に気づいて、彼は振り返ると、くすっと笑った。

「おはよう、葉月。ずいぶん無防備に寝ていたな」

 言われた通りで、他人の家で熟睡するなんて、意外と私も神経が図太いわ、と自分に呆れながら頭を下げる。

「おはようございます。寝坊して、すみません」
「いや? 別に急ぐ用事もないし。それより、飯を食べるか?」
「ご飯ですか?」
「俺は朝にしっかり食べる派なんだ。用意してやるから、顔でも洗ってこいよ」

 そう言われて、寝起きのままなのに気づく。

(本当に無作法すぎるわ!)

 すみませんと謝って、私は洗面所に急いだ。
 その後から声が追いかけてくる。

「洗濯物も乾いているはずだ」
(下着!)

 洗面所の洗濯機をのぞくと、乾燥機のせいか、ほかほか温かい下着が見つかった。理人さんの下着まで一緒に出てきて、あせって戻した。

(一人暮らしだと、こういう家事を自分でやるのよね。お風呂だって、自分で洗って)

 一人暮らしの部屋にお邪魔したことさえなかった私は、コンパクトに物が配置された水回りが物珍しく、しげしげと眺めた。

(考えたら、私って、洗濯も掃除もしたことがない。料理だって学校の授業でやったことしか……)

 そこで、理人さんが朝食を用意してくれているのを思い出し、急いで顔を洗い、誰のものかわからない基礎化粧品を使って身だしなみを整えると、ダイニングへ戻った。


 テーブルの上には、炊きたてのご飯にお味噌汁、卵焼き、焼き魚、ほうれん草のみぞれえ。そこに漬物も添えてある。お皿や器も量産品ではないこだわりのものを使っているみたいで、まるで旅館の朝食みたいと、目を見張った。
 しかも、食べずに私が起きるのを待っていてくれたんだと思うと、心が温かくなる。

「これ、理人さんが……?」
「たいしたもんじゃない」
「でも、旅館の朝食みたいです」

 思ったままを口にすると、理人さんは少し照れたように言った。

「うまいものが好きだって言ったろ? 大学時代は金がなくて、でも、下手に舌は肥えていたからさ、いかに安く美味しく飯を作るかに燃えてな。今は家庭料理なら、大概たいがい作れる」
「すごいです!」

 尊敬の眼差しで彼を見てしまう。

(それに引き換え、私はなんにもできない。ひとりで暮らすなんて、とてもできない)

 うつむき加減になった私の顎を持ち、理人さんが強い眼差しを向けた。

「こら、また無駄に落ち込んでるんだろ。なんで葉月はできないことを数えるかなぁ。どうせ自分はやったことがないとか思っているんだろ?」

 図星でなにも言えない。私は彼の意志的なくっきりとした瞳を見つめた。

「やったことがないなら、やってみればいい。それがやりたいことならな。できなければ、できるように努力すればいいだけの話だ。それは得意だろ?」
「やってみれば……努力……」

 なんの能力もない私には努力することしかできない。だから、しないといけないことは努力してきた。そういう意味では、努力は得意なのかしら?
 出逢ってから、まだ一ヶ月しか経っていない理人さんにそう言われて、不思議な気分になる。

「まぁ、どちらにしても、お嬢様をやっていたら、家事なんてする必要ないだろ。そんなことでいちいちうつむくな」

 チュッとついでのようにキスをして、「食べよう」と彼は席についた。
 気軽にそんなことしないでほしい。
 一瞬で熱くなった頬を押さえ、私も椅子に座った。


「美味しい!」

 お味噌汁を一口すすって、私は思わず声をあげた。

「お嬢様のお口に合って、よかった。それは魔法の出汁だしを使っているからな」
「魔法の出汁だし?」
「いろんなものを試して行き着いた究極の出汁だしだ。それを入れたらなんでも美味くなる」

 美味しくて当然、と得意げに語る理人さんは、少し子どもっぽくて可愛らしい。

「卵焼きにも入れているから食べてみてくれ」

 期待の眼差しを受けつつ、卵焼きに箸を伸ばす。
 理人さんの卵焼きは、出汁だしの味の中にほんのり甘みがあって、とても美味しかった。今まで食べた中で一番美味しいかもしれない。

「こちらも美味しいです。好きです、この味」
「そうだろ? 昆布や煮干し、鰹節で出汁だしを取るところからいろいろ試したんだが、結局ここの出汁だしを使うのが一番美味いという結論になってな……」

 理人さんの試行錯誤の話が微笑ましい。
 り性のようで、やるとなると徹底的にやるらしい。
 そんな感じで穏やかに話しながら、美味しい朝食をいただいた。誰かと一緒に食事をするのも久しぶりだった。
 食事が終わると、私は後片づけを申し出た。
 私だって、会社でティーカップを洗ったことぐらいはある。
 じゃあ、俺は拭くよとすんなり立ち上がる理人さん。
 なにげなく手伝ってくれる彼はやっぱり素敵な人だわと思った。


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