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1巻
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その後、図書館、談話室を案内したシャレードは、ここで終わりだと告げた。
シャレードは読書も好きで、よく図書館に行く。本を読んで、見知らぬ場所、見知らぬ人に想いを馳せたり、自分では考えも及ばない知識が増えたりするのが楽しいのだ。
ふとそれを漏らすと、ラルサスが「私もです!」と同意してくれたので、うれしくなって微笑んだ。
こんなことを自然に話せる相手は今までいなかった。
シャレードがせっかく楽しい気分だったのに、談話室を出たところで、ばったりカルロに会ってしまった。
相変わらず、両脇に女子生徒を侍らせている。
「おぉ、愛しの婚約者殿」
そう言いながらカルロはこれみよがしに、女の子たちの肩を抱いた。彼女たちは勝ち誇ったような笑みを浮かべてシャレードを見た。
「ごきげんよう、カルロ様」
感情を揺さぶられることなく、シャレードはスカートを摘まんで、優雅に挨拶をした。
「そちらにいらっしゃるのはラルサス王子ではないか。シャレードの相手をしてくださったのか?」
「いいえ、私がシャレードに校内案内をお願いしたのです」
カルロの言い方にラルサスは眉を上げたが、こんなところで事を荒立てるわけにいかないと判断してか、にこやかに答えた。
彼の笑みに、カルロの両脇の女の子たちが惹きつけられ、それを感じたカルロは苦虫を噛み潰したような顔になる。
「シャレードの案内など、つまらなかったでしょう? 堅苦しくておもしろみがないから」
「とんでもない。とても楽しい時間でしたよ」
あざけるようにシャレードを見たカルロに対し、ラルサスは穏やかに微笑んでみせた。
反対に、カルロはラルサスの答えを気に入らなかったらしく、不機嫌そうに彼を見る。
「ラルサス王子がシャレードをお気に召されてよかったです。私の婚約者ですが」
嫌味っぽくそう言うと、カルロはプイッと顔をそむけて、去っていった。
(王族の取る態度ではないわね……)
あきれたようにその後ろ姿を見送るラルサスを見て、シャレードは申し訳なくなった。
「見苦しいところをお見せして、申し訳ございません」
侮辱されたシャレードに謝られ、ラルサスは首を横に振った。
「いいえ、あなたの態度は立派でしたよ。あの王太子の婚約者というお立場は大変そうですね」
他国の王太子の批判にならないように言葉を選び、ラルサスはシャレードをなぐさめた。
いたわられるとは思っていなかったシャレードは少し目を見開いたものの、それ以上は感情を見せず、黙って頭を下げた。
でも、シャレードの心がほんのり温かくなった。
「ラルサス様~!」
「次の授業は音楽ですわ。ご一緒しましょう!」
「私もご一緒したいですわ!」
休みのたびに群がってくる女子生徒を、ラルサスはやわらかな笑みを浮かべながら、それとなく躱していた。
そして、シャレードに声をかけてくる。
「氷の公女なんてつまらないでしょ?」「あんな冷たい人は放っておいて、私たちとお話ししましょうよ」という、不満げな女子生徒の声が聞こえる。
シャレードは、自分の美貌と感情をあらわにしない様子から、周囲に『氷の公女』と呼ばれているのを知っていた。
彼女は公爵令嬢なので、王族を除くともっとも地位が高い。いくら校内とはいえ、女子生徒が侮っていい身分ではないが、カルロが粗雑に扱う様子から、他の者もそれに倣うようになってしまった。婚約破棄されるという噂が広まってからは、なおさらだ。
それに加え、ラルサスがシャレードを気にする様子から、彼女への風当たりがさらに強くなった。
(どうして私に構うのかしら?)
ラルサスと話すのは楽しい。しかし、そのせいでやっかみを受けるのは勘弁してほしい。
とはいえ、国賓のラルサスを無下にするわけにはいかず、シャレードはクラスメイトとしての姿勢を崩さず、淡々と彼の相手をした。
*――***――*
「なにか手がかりはあったのか?」
「それがいくら調べても、例のものは関所を通った形跡がないのです」
ラルサスが尋ねると、商人の格好をした男が答えた。
彼は留学中滞在するための館を貴族街の一角に借りていて、その書斎で、自国の情報員から報告を受けているところだった。
ラルサスは父王の命で、留学の傍ら、密輸の調査をすることになっていた。
ヴァルデ王国では、媚薬をはじめとした悪質な薬がひそかに持ち込まれ、被害が拡大しているのだ。調査するうちに、ここファンダルシア王国の高位貴族が関わっているという疑いが出てきた。
ファンダルシア王国に正式に抗議を入れているのだが、証拠がないと突っぱねられていた。それで仕方なく、ラルサスが留学という名目で乗り込んで、証拠集めをしているというわけだ。
「そうは言っても、すべての輸出物はこの国を出る際と、うちの国に入る際にチェックを受けているはずだろ?」
「はい、殿下。両方とも調査していたのですが、やはりどこにも痕跡がないのです」
男の言葉に、ラルサスはあごに手を当て思案した。それを、子どもの声が妨げる。
『ラルサス~、僕、飽きた』
精霊のフィルが、難しい話は退屈だとぼやいたのだ。
フィルはラルサスに付いている精霊で、手のひらに乗るサイズの男の子の姿をしている。ほのかに光りながら、ふわふわと彼の顔の辺りを飛んでいた。
フィルはラルサスの頭に着地すると、髪の毛を掻き回して遊びはじめた。
彼の姿はラルサス以外には見えないので、情報員からは風もないのに、ラルサスの髪が不自然に揺れているように見えることだろう。
『重要な話をしているんだ。もう少し我慢してくれ』
『いつまで続くの~?』
『もう少しだ』
念話でフィルをなだめながら、ラルサスは口を開いた。
「出入りの形跡がないということは、関所を通らないルートで持ち込まれたか、チェックされていないかだな」
ラルサスが言うと、情報員はうなずいた。
「そうですね。ただ、この国とはハーネ大河が国境となっているので、関所を通らずこっそり渡るのは困難かと。もちろん、見張らせてはいますが」
「だとすれば、やはりチェックされていない荷物か。やはり貴族が絡んでいる可能性が高いな」
高位貴族の荷物なら、チェックも甘くなるだろうとラルサスは思った。
「そうですね。ラルサス様がここを拠点にしてくださったおかげで、貴族街に出入りしやすくなりました。広く情報を集めることにします」
「貴族の荷物を重点的に探ってくれ。私もそれとなくあやしい人物を探しておくよ」
「そうしていただけると助かります」
それには苦手な社交を頑張らなければならないと思い、ラルサスは眉を寄せた。
情報員が帰ったあと、フィルが軽口を叩いた。
『ラルサスはモテモテだから女の子たちに聞いたらいいじゃん』
『適当なことを言うな。割と面倒くさいんだぞ?』
『ハハハ、知ってる~』
ラルサスのぼやきにフィルは笑って答えた。
ラルサスは女嫌いなわけではないが、必要以上に女性が群がってくるのには辟易する。
婚約者を決めていないこともあって、自国では彼を巡って女の戦いがしばしば繰り広げられ、ラルサスはうんざりしていた。
(ピンとくる子がいなかったんだから、仕方ないじゃないか)
ヴァルデ王家の人間には、彼のように精霊付きで生まれてくる者がしばしばいた。
その者は精霊によって不思議な力を行使でき、直感的に自分の運命の相手がわかった。運命の人を伴侶に迎えると、その子どもも精霊付きで生まれる割合が高いことから、精霊付きは自由結婚を許されていた。
しかし、精霊の力は絶大なので、その存在は国家機密として秘匿されている。他国の者はおろか、ヴァルデ王国の者もその存在を知らない。
(それにしても、初めて気になった子がここの王太子の婚約者とはね……)
シャレードの美しい容貌を思い浮かべて、ラルサスは溜め息をついた。
初めて会ったとき、時が止まった気がした。
澄みわたる湖のごとく静かな瞳。
湖畔に咲いた可憐な花のような唇。
月の光を集めた銀の髪。
絹のようにきめ細かな白い肌。
それらが奇跡的に集まって、彼女の輝く美貌を作っていた。
ラルサスはその美しさに吸い寄せられるように、目を離せなくなった。
一瞬にして、彼女にとらわれたのだ。
会話を交わすごとに、外見だけでなく、その聡明さや視野の広さ、勤勉さ、我慢強さなどが見えてきて、ますます惹かれずにはいられなかった。
しかし、シャレードはこの国の王太子の婚約者だ。
『もしかしてシャレードのことを考えてる? あのカルロっていうヤツ、気に入らないし、ラルサス、奪っちゃえば?』
『そんなことできるか!』
フィルが気軽に言う。精霊の勝手な言いぐさに、ラルサスは声を荒らげた。
(奪えるものなら奪いたいさ)
そんな想いはさすがにフィルにも告げられず、ラルサスは苦い笑みを浮かべた。
*――***――*
シャレードは授業で習った古アダシャ王国の歴史に興味を持ち、調べてみようと図書館に赴いた。
ここの図書館は常に利用者が少なかったので、シャレードにとって落ち着ける空間だった。
歴史書の棚へ行くと、そこには先客としてラルサスがいた。
シャレードの心臓がとくんと跳ねる。
「ラルサス様も古アダシャ王国について調べているのですか?」
声をかけると、ラルサスは振り返って、頬を緩めた。そうした優しげな微笑みを向けられると、シャレードは落ち着かなくなる。
「今日の授業がおもしろかったので、もう少し調べてみようと思ったのです。気になると調べずにはいられない質で」
自分も同じだと思って、シャレードの表情が和らいだ。
「古アダシャ王国の文化はヴァルデ王国に通じるものがありますね」
「そうなんです。同じルーツの可能性がありそうで、興味深いです」
「この彫像なんかはまさに……」
ラルサスはそう言って、手に持っていた本をシャレードに見せた。
同じ本を覗き込む二人の距離は近かった。
(むやみに彼に近づいてはいけない。私はこの国の王太子の婚約者なのだから)
そう思いながらも、シャレードは立ち去ることができず、一緒にラルサスと古アダシャ王国の文献を探して読んだり、意見を交換したりして、心満たされるときを過ごした。
「あら、もうこんな時間」
シャレードはふと時計を見て、慌てた。
今日は公務があるのだ。
「ラルサス様、私はこれで失礼します」
後ろ髪を引かれるような想いを秘め、シャレードが告げると、ラルサスは見るからに残念そうな顔をした。
「楽しい時間はあっという間ですね」
(私もとても楽しかったわ)
うなずきかけたシャレードだったが、立場にふさわしくないと思い直し、ただ笑みを浮かべた。
「カルロ様、公務のお時間です」
中庭でお気に入りの男爵令嬢とイチャついていたカルロを見つけ、シャレードは声をかけた。
ラルサスとの楽しい時間を中断しないといけなかった仕事がこれだった。
侍従が言っても聞かないので、カルロを公務に連れていくのは何年も前からシャレードの役目になっていた。
「取り込み中だ」
シャレードの方を見もせずに、カルロが言い捨てた。
いつものことだ。
そこで引き下がるわけにはいかず、シャレードは冷静に言葉を連ねた。
「本日はホークハルト皇国の使節団がいらしていて、陛下が必ず同席するようにと……」
「めんどくさいなー。俺にはなにも関係ないじゃないか」
「関係ございます。ホークハルト皇国は重要な貿易相手です。将来、カルロ様が御即位された際に関係を良好に保つためにも……」
「あー、うるさいっ! 行けばいいんだろ! ……マルネ、またな」
これみよがしにマルネと呼んだ男爵令嬢に深いキスをして、カルロはようやく立ち上がった。
馬鹿にしたようにマルネがシャレードを見る。
悲しく虚しい想いに気分が沈むが、シャレードにも矜持があるので、顔には出さない。
そして、まだぶつくさ文句を言うカルロを王宮に誘導していった。
(どうして私たちはこんな関係になってしまったのだろう)
シャレードはそっと息を吐いた。
幼いころに決められた婚約のため、二人はともに王宮で同じ家庭教師のもとで学んだ。
シャレードはなにをやっても優秀で、勤勉だった。カルロのほうが一つ歳上にもかかわらず、事あるごとにサボろうとするので、当然ながらシャレードとは差ができた。
カルロはそれがおもしろくなく、だんだんシャレードにひどく当たるようになった。
「カルロ様もちゃんと授業を受けたら、私なんかより……」
「それは嫌味か、シャレード?」
「そういうわけでは……」
シャレードが弁解しようとするも、苛ついたカルロは、鼻を鳴らして去っていくのが常だった。
カルロを励ましているつもりが、咎めていると思われ、シャレードは疎まれるようになった。
もともとカルロはわがままで誰の言うことも聞かなかったが、成長するにしたがって、さらに横暴になっていった。
王妃はカルロに甘く、王は妻の機嫌を取ろうと彼を注意することはない。しっかり者のシャレードに、カルロを頼むと言うばかりだ。
(損な役割だわ)
シャレードだって、そう思う。不満がないわけでもなかったが、公爵家に生まれたからにはそういうものだとあきらめていた。それが義務だと思っていた。
父の公爵は「バカは御しやすくていいじゃないか。結婚したらこっちのもんだ」とせせら笑い、即位するまで王太子をしっかり捕まえておけと言う。公爵自身、男の甲斐性だと愛人を囲っているので、カルロの女性問題も気にならないようだった。
母は我関せずというスタンスで、弟は相談するには幼い。
孤独なシャレードは、つらさ、悲しさ、悔しさをごまかすうちに、どんどん表情を失っていった。
ズキッ。
カルロと歩きながら、シャレードは胸の痛みを感じて、立ち止まりそうになる。
ストレスのせいか、このところ、たまに胸が痛む。体調もよくなく、めまいがすることもあった。
文句を垂れ流すカルロをなだめつつ、これが自分の役目だから仕方がないと唇を引き結んだ。
その様子をラルサスがあきれた顔で見ているのにも気づかず。
「ディルルバの練習に付き合っていただけませんか?」
数日経ったある日の放課後、図書館でラルサスに行き合ったとき、そう誘われ、シャレードは大きな目を瞬いた。
「一人で弾くのも味気ないし、かといって大人数ではわずらわしい。そう思ったとき、ディルルバに興味を持ってくれたシャレードを思い出したのです」
なにげない様子で言うラルサスに、シャレードは逡巡した。
ディルルバの音色は聴いてみたいが、誘いに乗っていいものか判断しきれなかったのだ。
「孤独な留学生の接待をしてくださいよ」
「接待……」
冗談めかして言ったラルサスの言葉をシャレードは繰り返した。
絶えず女子生徒に囲まれているラルサスが孤独かどうかはさておき、留学生の世話をするのは王太子の婚約者である自分の役目だろう。
(そう、これは公務みたいなものよ)
そう自分に言い訳して、シャレードはうなずいた。
「わかりました。いつがよろしいでしょうか?」
「それでは、明日の放課後はいかがでしょう?」
「承知しました。楽しみにしております」
シャレードは静かな瞳に光が灯ったのを自覚せず、それをラルサスに向けた。
翌日の授業が終わると、二人は連れ立って音楽室に行った。
ラルサスが侍従に頼んだディルルバはすでに用意され、床にはマットも敷いてある。
「これがディルルバです」
「思ったより大きいのですね」
興味津々で、シャレードはディルルバを見た。
ディルルバは、二、三歳の幼児ほどの大きさがある胴に弦が張ってある楽器だ。
ラルサスは本体と同じくらい長い弓を取り上げ、シャレードに見せた。
「この弓で弾くのですよ」
興味深げに眺めるシャレードはいつもよりあどけない表情をしていた。
ラルサスは演奏の準備のため、靴を脱いで、マットに上がった。
床にあぐらをかいて座ると、ディルルバを縦に抱え、左肩にもたれかからせる。
「シャレードはそこの椅子に腰かけてください」
「いいえ、私もここに」
ラルサスを見下ろすのは居心地が悪いと思い、シャレードは彼と同じように座り込もうとした。
「では、マットをお使いください」
ラルサスは慌てたようにマットの上に座るように言う。
勧められたマットの上に乗ると、思いの外、ラルサスに近くてシャレードは戸惑った。
でも、楽器を弾く様子を近くで眺められるのはうれしい。
ラルサスが弓を弾いて、調律を始めた。
哀愁を帯びた音色が断続的に流れる。
「素敵な音ですね」
「ディルルバの音色は人の声に近いと言われています。私もこの音色に魅せられて弾きはじめたのですよ」
調律を終えたラルサスは、ふっと息を吐き、腕の中の楽器に集中した。
伸びやかな音とともに音楽が始まった。
テノールの男声のような音で奏でられる、ゆっくりと静かな曲が響く。
(これがディルルバの音……)
音色の美しさに加えて、目を伏せて弓を動かすラルサスの姿も美しかった。
長いまつげが影を落とし、愁いを帯びた表情は曲の切ない調子と合っていた。
あぐらという姿勢も常とは違う親密さを醸し出し、シャレードの鼓動が速まる。
しかし、そんな邪念も曲に聞き惚れていく間に消えていった。
シャレードの心はラルサスの演奏に引き込まれ、曲に夢中になった。それほど素晴らしい演奏だった。
曲が終わるとシャレードは知らずに詰めていた息をほぅと吐き、興奮して手を叩いた。
「素晴らしいです! 音色も曲も想像していたのよりずっと素敵でした!」
こんな高揚感は、覚えてないくらい久しぶりのものだった。
キラキラと目を輝かせて絶賛すると、照れたようにラルサスが微笑む。
「……気に入っていただけて、光栄です。それでは、もう一曲」
ラルサスは今の想いを曲に乗せ、即興で演奏した。
それは、さきほどのゆったりした曲調とは打って変わって、情熱のほとばしるドラマチックなものだった。
シャレードは目を伏せて、うっとりと聴き入る。
美しい音色に心を奪われ、その熱に引きずり込まれた。
日頃の愁いもなにもかも昇華していったような気がした。
演奏が終わると、シャレードは目を潤ませて、今度もまた盛大に拍手する。
感動してしばらく言葉が出なかった。
これほどまで訴えかけるような、胸が苦しくなるほど迫力のある音楽を耳にしたことはなかった。
美しいだけでない、心の奥底まで沁みわたる音色で、まるで自分が音楽と一体になったかのような心の高まりを覚えた。
興奮した彼女を見て、ラルサスは目を細めた。
「……あまりの素晴らしさに言葉を失いました。これはなんという曲なのですか?」
シャレードが尋ねると、ラルサスはちょっと首を傾げ、「『渇仰』……かな?」と答えた。
「『渇仰』! 名前通り、切なくて胸に迫るものがありました」
興奮冷めやらず、シャレードが訴える。
でも、ふと我に返って、思った以上に時間が経っているのに気づいた。
「いけない! 時間が……」
シャレードが慌てて立ち上がったとき──
くらり。
バランスを崩した彼女をラルサスが抱きとめた。
シャレードの顔は血の気が引いて真っ青になっていた。
「大丈夫ですか?」
ラルサスはシャレードを床に座らせ、身体を支えた。
「すみ……ません……」
「いいえ、立ちくらみでしょうか。少し休んでください」
ラルサスはゆったりとした口調で、シャレードを落ち着かせようとした。
しばらくすると彼女の顔色が戻る。
シャレードがもう大丈夫そうだと動こうとしたので、ラルサスは手を引き、彼女を立たせてやった。
「馬車までお送りしましょう」
「ありがとうございます」
まだ足もとがおぼつかなかったシャレードはその好意を素直に受けて、差し出されたラルサスの腕に掴まった。
「せっかく素晴らしい音楽を聴かせていただいたのに、申し訳ございません」
馬車に乗り込む前に、シャレードはラルサスに謝った。
余韻を台無しにしてしまった自分が腹立たしかったのだ。
「気にしないでください。お気に召したのなら、いつでも弾きましょう。それより、まだ調子が悪そうです。医者に診てもらったほうがいい」
「ありがとうございます。そうします」
もう一度、頭を下げて、シャレードは馬車に乗り込んだ。
*――***――*
心配しながら、ラルサスが馬車を見送っていると、視界にフィルが飛び込んできた。
『ラルサス、大変だよ! どうしよう~?』
泣きそうな顔でブンブン飛び回るフィルに、『どうしたんだ?』とラルサスは首を傾げた。
全力で演奏して疲れていたし、シャレードの様子が心配だった。しかも、もう一つ別のことに気を取られていたので、フィルのいつもの大騒ぎなら、今は勘弁してほしいと思った。
先ほど自分の演奏にうっとり聞き惚れていたシャレードを見たとき、唐突に理解した。
(私の運命の人はシャレードだ)
同じく精霊付きである父王が『自分の相手は、出会えばわかる』と言っていたが、ラルサスは今それを実感していた。だからこそ、心の整理をしたかったのだ。
(よりによって、なぜ結ばれない相手なんだ……)
耐えるように拳を握りしめる。
そんな彼に追い打ちをかけるように、フィルは衝撃的なことを告げた。
シャレードは読書も好きで、よく図書館に行く。本を読んで、見知らぬ場所、見知らぬ人に想いを馳せたり、自分では考えも及ばない知識が増えたりするのが楽しいのだ。
ふとそれを漏らすと、ラルサスが「私もです!」と同意してくれたので、うれしくなって微笑んだ。
こんなことを自然に話せる相手は今までいなかった。
シャレードがせっかく楽しい気分だったのに、談話室を出たところで、ばったりカルロに会ってしまった。
相変わらず、両脇に女子生徒を侍らせている。
「おぉ、愛しの婚約者殿」
そう言いながらカルロはこれみよがしに、女の子たちの肩を抱いた。彼女たちは勝ち誇ったような笑みを浮かべてシャレードを見た。
「ごきげんよう、カルロ様」
感情を揺さぶられることなく、シャレードはスカートを摘まんで、優雅に挨拶をした。
「そちらにいらっしゃるのはラルサス王子ではないか。シャレードの相手をしてくださったのか?」
「いいえ、私がシャレードに校内案内をお願いしたのです」
カルロの言い方にラルサスは眉を上げたが、こんなところで事を荒立てるわけにいかないと判断してか、にこやかに答えた。
彼の笑みに、カルロの両脇の女の子たちが惹きつけられ、それを感じたカルロは苦虫を噛み潰したような顔になる。
「シャレードの案内など、つまらなかったでしょう? 堅苦しくておもしろみがないから」
「とんでもない。とても楽しい時間でしたよ」
あざけるようにシャレードを見たカルロに対し、ラルサスは穏やかに微笑んでみせた。
反対に、カルロはラルサスの答えを気に入らなかったらしく、不機嫌そうに彼を見る。
「ラルサス王子がシャレードをお気に召されてよかったです。私の婚約者ですが」
嫌味っぽくそう言うと、カルロはプイッと顔をそむけて、去っていった。
(王族の取る態度ではないわね……)
あきれたようにその後ろ姿を見送るラルサスを見て、シャレードは申し訳なくなった。
「見苦しいところをお見せして、申し訳ございません」
侮辱されたシャレードに謝られ、ラルサスは首を横に振った。
「いいえ、あなたの態度は立派でしたよ。あの王太子の婚約者というお立場は大変そうですね」
他国の王太子の批判にならないように言葉を選び、ラルサスはシャレードをなぐさめた。
いたわられるとは思っていなかったシャレードは少し目を見開いたものの、それ以上は感情を見せず、黙って頭を下げた。
でも、シャレードの心がほんのり温かくなった。
「ラルサス様~!」
「次の授業は音楽ですわ。ご一緒しましょう!」
「私もご一緒したいですわ!」
休みのたびに群がってくる女子生徒を、ラルサスはやわらかな笑みを浮かべながら、それとなく躱していた。
そして、シャレードに声をかけてくる。
「氷の公女なんてつまらないでしょ?」「あんな冷たい人は放っておいて、私たちとお話ししましょうよ」という、不満げな女子生徒の声が聞こえる。
シャレードは、自分の美貌と感情をあらわにしない様子から、周囲に『氷の公女』と呼ばれているのを知っていた。
彼女は公爵令嬢なので、王族を除くともっとも地位が高い。いくら校内とはいえ、女子生徒が侮っていい身分ではないが、カルロが粗雑に扱う様子から、他の者もそれに倣うようになってしまった。婚約破棄されるという噂が広まってからは、なおさらだ。
それに加え、ラルサスがシャレードを気にする様子から、彼女への風当たりがさらに強くなった。
(どうして私に構うのかしら?)
ラルサスと話すのは楽しい。しかし、そのせいでやっかみを受けるのは勘弁してほしい。
とはいえ、国賓のラルサスを無下にするわけにはいかず、シャレードはクラスメイトとしての姿勢を崩さず、淡々と彼の相手をした。
*――***――*
「なにか手がかりはあったのか?」
「それがいくら調べても、例のものは関所を通った形跡がないのです」
ラルサスが尋ねると、商人の格好をした男が答えた。
彼は留学中滞在するための館を貴族街の一角に借りていて、その書斎で、自国の情報員から報告を受けているところだった。
ラルサスは父王の命で、留学の傍ら、密輸の調査をすることになっていた。
ヴァルデ王国では、媚薬をはじめとした悪質な薬がひそかに持ち込まれ、被害が拡大しているのだ。調査するうちに、ここファンダルシア王国の高位貴族が関わっているという疑いが出てきた。
ファンダルシア王国に正式に抗議を入れているのだが、証拠がないと突っぱねられていた。それで仕方なく、ラルサスが留学という名目で乗り込んで、証拠集めをしているというわけだ。
「そうは言っても、すべての輸出物はこの国を出る際と、うちの国に入る際にチェックを受けているはずだろ?」
「はい、殿下。両方とも調査していたのですが、やはりどこにも痕跡がないのです」
男の言葉に、ラルサスはあごに手を当て思案した。それを、子どもの声が妨げる。
『ラルサス~、僕、飽きた』
精霊のフィルが、難しい話は退屈だとぼやいたのだ。
フィルはラルサスに付いている精霊で、手のひらに乗るサイズの男の子の姿をしている。ほのかに光りながら、ふわふわと彼の顔の辺りを飛んでいた。
フィルはラルサスの頭に着地すると、髪の毛を掻き回して遊びはじめた。
彼の姿はラルサス以外には見えないので、情報員からは風もないのに、ラルサスの髪が不自然に揺れているように見えることだろう。
『重要な話をしているんだ。もう少し我慢してくれ』
『いつまで続くの~?』
『もう少しだ』
念話でフィルをなだめながら、ラルサスは口を開いた。
「出入りの形跡がないということは、関所を通らないルートで持ち込まれたか、チェックされていないかだな」
ラルサスが言うと、情報員はうなずいた。
「そうですね。ただ、この国とはハーネ大河が国境となっているので、関所を通らずこっそり渡るのは困難かと。もちろん、見張らせてはいますが」
「だとすれば、やはりチェックされていない荷物か。やはり貴族が絡んでいる可能性が高いな」
高位貴族の荷物なら、チェックも甘くなるだろうとラルサスは思った。
「そうですね。ラルサス様がここを拠点にしてくださったおかげで、貴族街に出入りしやすくなりました。広く情報を集めることにします」
「貴族の荷物を重点的に探ってくれ。私もそれとなくあやしい人物を探しておくよ」
「そうしていただけると助かります」
それには苦手な社交を頑張らなければならないと思い、ラルサスは眉を寄せた。
情報員が帰ったあと、フィルが軽口を叩いた。
『ラルサスはモテモテだから女の子たちに聞いたらいいじゃん』
『適当なことを言うな。割と面倒くさいんだぞ?』
『ハハハ、知ってる~』
ラルサスのぼやきにフィルは笑って答えた。
ラルサスは女嫌いなわけではないが、必要以上に女性が群がってくるのには辟易する。
婚約者を決めていないこともあって、自国では彼を巡って女の戦いがしばしば繰り広げられ、ラルサスはうんざりしていた。
(ピンとくる子がいなかったんだから、仕方ないじゃないか)
ヴァルデ王家の人間には、彼のように精霊付きで生まれてくる者がしばしばいた。
その者は精霊によって不思議な力を行使でき、直感的に自分の運命の相手がわかった。運命の人を伴侶に迎えると、その子どもも精霊付きで生まれる割合が高いことから、精霊付きは自由結婚を許されていた。
しかし、精霊の力は絶大なので、その存在は国家機密として秘匿されている。他国の者はおろか、ヴァルデ王国の者もその存在を知らない。
(それにしても、初めて気になった子がここの王太子の婚約者とはね……)
シャレードの美しい容貌を思い浮かべて、ラルサスは溜め息をついた。
初めて会ったとき、時が止まった気がした。
澄みわたる湖のごとく静かな瞳。
湖畔に咲いた可憐な花のような唇。
月の光を集めた銀の髪。
絹のようにきめ細かな白い肌。
それらが奇跡的に集まって、彼女の輝く美貌を作っていた。
ラルサスはその美しさに吸い寄せられるように、目を離せなくなった。
一瞬にして、彼女にとらわれたのだ。
会話を交わすごとに、外見だけでなく、その聡明さや視野の広さ、勤勉さ、我慢強さなどが見えてきて、ますます惹かれずにはいられなかった。
しかし、シャレードはこの国の王太子の婚約者だ。
『もしかしてシャレードのことを考えてる? あのカルロっていうヤツ、気に入らないし、ラルサス、奪っちゃえば?』
『そんなことできるか!』
フィルが気軽に言う。精霊の勝手な言いぐさに、ラルサスは声を荒らげた。
(奪えるものなら奪いたいさ)
そんな想いはさすがにフィルにも告げられず、ラルサスは苦い笑みを浮かべた。
*――***――*
シャレードは授業で習った古アダシャ王国の歴史に興味を持ち、調べてみようと図書館に赴いた。
ここの図書館は常に利用者が少なかったので、シャレードにとって落ち着ける空間だった。
歴史書の棚へ行くと、そこには先客としてラルサスがいた。
シャレードの心臓がとくんと跳ねる。
「ラルサス様も古アダシャ王国について調べているのですか?」
声をかけると、ラルサスは振り返って、頬を緩めた。そうした優しげな微笑みを向けられると、シャレードは落ち着かなくなる。
「今日の授業がおもしろかったので、もう少し調べてみようと思ったのです。気になると調べずにはいられない質で」
自分も同じだと思って、シャレードの表情が和らいだ。
「古アダシャ王国の文化はヴァルデ王国に通じるものがありますね」
「そうなんです。同じルーツの可能性がありそうで、興味深いです」
「この彫像なんかはまさに……」
ラルサスはそう言って、手に持っていた本をシャレードに見せた。
同じ本を覗き込む二人の距離は近かった。
(むやみに彼に近づいてはいけない。私はこの国の王太子の婚約者なのだから)
そう思いながらも、シャレードは立ち去ることができず、一緒にラルサスと古アダシャ王国の文献を探して読んだり、意見を交換したりして、心満たされるときを過ごした。
「あら、もうこんな時間」
シャレードはふと時計を見て、慌てた。
今日は公務があるのだ。
「ラルサス様、私はこれで失礼します」
後ろ髪を引かれるような想いを秘め、シャレードが告げると、ラルサスは見るからに残念そうな顔をした。
「楽しい時間はあっという間ですね」
(私もとても楽しかったわ)
うなずきかけたシャレードだったが、立場にふさわしくないと思い直し、ただ笑みを浮かべた。
「カルロ様、公務のお時間です」
中庭でお気に入りの男爵令嬢とイチャついていたカルロを見つけ、シャレードは声をかけた。
ラルサスとの楽しい時間を中断しないといけなかった仕事がこれだった。
侍従が言っても聞かないので、カルロを公務に連れていくのは何年も前からシャレードの役目になっていた。
「取り込み中だ」
シャレードの方を見もせずに、カルロが言い捨てた。
いつものことだ。
そこで引き下がるわけにはいかず、シャレードは冷静に言葉を連ねた。
「本日はホークハルト皇国の使節団がいらしていて、陛下が必ず同席するようにと……」
「めんどくさいなー。俺にはなにも関係ないじゃないか」
「関係ございます。ホークハルト皇国は重要な貿易相手です。将来、カルロ様が御即位された際に関係を良好に保つためにも……」
「あー、うるさいっ! 行けばいいんだろ! ……マルネ、またな」
これみよがしにマルネと呼んだ男爵令嬢に深いキスをして、カルロはようやく立ち上がった。
馬鹿にしたようにマルネがシャレードを見る。
悲しく虚しい想いに気分が沈むが、シャレードにも矜持があるので、顔には出さない。
そして、まだぶつくさ文句を言うカルロを王宮に誘導していった。
(どうして私たちはこんな関係になってしまったのだろう)
シャレードはそっと息を吐いた。
幼いころに決められた婚約のため、二人はともに王宮で同じ家庭教師のもとで学んだ。
シャレードはなにをやっても優秀で、勤勉だった。カルロのほうが一つ歳上にもかかわらず、事あるごとにサボろうとするので、当然ながらシャレードとは差ができた。
カルロはそれがおもしろくなく、だんだんシャレードにひどく当たるようになった。
「カルロ様もちゃんと授業を受けたら、私なんかより……」
「それは嫌味か、シャレード?」
「そういうわけでは……」
シャレードが弁解しようとするも、苛ついたカルロは、鼻を鳴らして去っていくのが常だった。
カルロを励ましているつもりが、咎めていると思われ、シャレードは疎まれるようになった。
もともとカルロはわがままで誰の言うことも聞かなかったが、成長するにしたがって、さらに横暴になっていった。
王妃はカルロに甘く、王は妻の機嫌を取ろうと彼を注意することはない。しっかり者のシャレードに、カルロを頼むと言うばかりだ。
(損な役割だわ)
シャレードだって、そう思う。不満がないわけでもなかったが、公爵家に生まれたからにはそういうものだとあきらめていた。それが義務だと思っていた。
父の公爵は「バカは御しやすくていいじゃないか。結婚したらこっちのもんだ」とせせら笑い、即位するまで王太子をしっかり捕まえておけと言う。公爵自身、男の甲斐性だと愛人を囲っているので、カルロの女性問題も気にならないようだった。
母は我関せずというスタンスで、弟は相談するには幼い。
孤独なシャレードは、つらさ、悲しさ、悔しさをごまかすうちに、どんどん表情を失っていった。
ズキッ。
カルロと歩きながら、シャレードは胸の痛みを感じて、立ち止まりそうになる。
ストレスのせいか、このところ、たまに胸が痛む。体調もよくなく、めまいがすることもあった。
文句を垂れ流すカルロをなだめつつ、これが自分の役目だから仕方がないと唇を引き結んだ。
その様子をラルサスがあきれた顔で見ているのにも気づかず。
「ディルルバの練習に付き合っていただけませんか?」
数日経ったある日の放課後、図書館でラルサスに行き合ったとき、そう誘われ、シャレードは大きな目を瞬いた。
「一人で弾くのも味気ないし、かといって大人数ではわずらわしい。そう思ったとき、ディルルバに興味を持ってくれたシャレードを思い出したのです」
なにげない様子で言うラルサスに、シャレードは逡巡した。
ディルルバの音色は聴いてみたいが、誘いに乗っていいものか判断しきれなかったのだ。
「孤独な留学生の接待をしてくださいよ」
「接待……」
冗談めかして言ったラルサスの言葉をシャレードは繰り返した。
絶えず女子生徒に囲まれているラルサスが孤独かどうかはさておき、留学生の世話をするのは王太子の婚約者である自分の役目だろう。
(そう、これは公務みたいなものよ)
そう自分に言い訳して、シャレードはうなずいた。
「わかりました。いつがよろしいでしょうか?」
「それでは、明日の放課後はいかがでしょう?」
「承知しました。楽しみにしております」
シャレードは静かな瞳に光が灯ったのを自覚せず、それをラルサスに向けた。
翌日の授業が終わると、二人は連れ立って音楽室に行った。
ラルサスが侍従に頼んだディルルバはすでに用意され、床にはマットも敷いてある。
「これがディルルバです」
「思ったより大きいのですね」
興味津々で、シャレードはディルルバを見た。
ディルルバは、二、三歳の幼児ほどの大きさがある胴に弦が張ってある楽器だ。
ラルサスは本体と同じくらい長い弓を取り上げ、シャレードに見せた。
「この弓で弾くのですよ」
興味深げに眺めるシャレードはいつもよりあどけない表情をしていた。
ラルサスは演奏の準備のため、靴を脱いで、マットに上がった。
床にあぐらをかいて座ると、ディルルバを縦に抱え、左肩にもたれかからせる。
「シャレードはそこの椅子に腰かけてください」
「いいえ、私もここに」
ラルサスを見下ろすのは居心地が悪いと思い、シャレードは彼と同じように座り込もうとした。
「では、マットをお使いください」
ラルサスは慌てたようにマットの上に座るように言う。
勧められたマットの上に乗ると、思いの外、ラルサスに近くてシャレードは戸惑った。
でも、楽器を弾く様子を近くで眺められるのはうれしい。
ラルサスが弓を弾いて、調律を始めた。
哀愁を帯びた音色が断続的に流れる。
「素敵な音ですね」
「ディルルバの音色は人の声に近いと言われています。私もこの音色に魅せられて弾きはじめたのですよ」
調律を終えたラルサスは、ふっと息を吐き、腕の中の楽器に集中した。
伸びやかな音とともに音楽が始まった。
テノールの男声のような音で奏でられる、ゆっくりと静かな曲が響く。
(これがディルルバの音……)
音色の美しさに加えて、目を伏せて弓を動かすラルサスの姿も美しかった。
長いまつげが影を落とし、愁いを帯びた表情は曲の切ない調子と合っていた。
あぐらという姿勢も常とは違う親密さを醸し出し、シャレードの鼓動が速まる。
しかし、そんな邪念も曲に聞き惚れていく間に消えていった。
シャレードの心はラルサスの演奏に引き込まれ、曲に夢中になった。それほど素晴らしい演奏だった。
曲が終わるとシャレードは知らずに詰めていた息をほぅと吐き、興奮して手を叩いた。
「素晴らしいです! 音色も曲も想像していたのよりずっと素敵でした!」
こんな高揚感は、覚えてないくらい久しぶりのものだった。
キラキラと目を輝かせて絶賛すると、照れたようにラルサスが微笑む。
「……気に入っていただけて、光栄です。それでは、もう一曲」
ラルサスは今の想いを曲に乗せ、即興で演奏した。
それは、さきほどのゆったりした曲調とは打って変わって、情熱のほとばしるドラマチックなものだった。
シャレードは目を伏せて、うっとりと聴き入る。
美しい音色に心を奪われ、その熱に引きずり込まれた。
日頃の愁いもなにもかも昇華していったような気がした。
演奏が終わると、シャレードは目を潤ませて、今度もまた盛大に拍手する。
感動してしばらく言葉が出なかった。
これほどまで訴えかけるような、胸が苦しくなるほど迫力のある音楽を耳にしたことはなかった。
美しいだけでない、心の奥底まで沁みわたる音色で、まるで自分が音楽と一体になったかのような心の高まりを覚えた。
興奮した彼女を見て、ラルサスは目を細めた。
「……あまりの素晴らしさに言葉を失いました。これはなんという曲なのですか?」
シャレードが尋ねると、ラルサスはちょっと首を傾げ、「『渇仰』……かな?」と答えた。
「『渇仰』! 名前通り、切なくて胸に迫るものがありました」
興奮冷めやらず、シャレードが訴える。
でも、ふと我に返って、思った以上に時間が経っているのに気づいた。
「いけない! 時間が……」
シャレードが慌てて立ち上がったとき──
くらり。
バランスを崩した彼女をラルサスが抱きとめた。
シャレードの顔は血の気が引いて真っ青になっていた。
「大丈夫ですか?」
ラルサスはシャレードを床に座らせ、身体を支えた。
「すみ……ません……」
「いいえ、立ちくらみでしょうか。少し休んでください」
ラルサスはゆったりとした口調で、シャレードを落ち着かせようとした。
しばらくすると彼女の顔色が戻る。
シャレードがもう大丈夫そうだと動こうとしたので、ラルサスは手を引き、彼女を立たせてやった。
「馬車までお送りしましょう」
「ありがとうございます」
まだ足もとがおぼつかなかったシャレードはその好意を素直に受けて、差し出されたラルサスの腕に掴まった。
「せっかく素晴らしい音楽を聴かせていただいたのに、申し訳ございません」
馬車に乗り込む前に、シャレードはラルサスに謝った。
余韻を台無しにしてしまった自分が腹立たしかったのだ。
「気にしないでください。お気に召したのなら、いつでも弾きましょう。それより、まだ調子が悪そうです。医者に診てもらったほうがいい」
「ありがとうございます。そうします」
もう一度、頭を下げて、シャレードは馬車に乗り込んだ。
*――***――*
心配しながら、ラルサスが馬車を見送っていると、視界にフィルが飛び込んできた。
『ラルサス、大変だよ! どうしよう~?』
泣きそうな顔でブンブン飛び回るフィルに、『どうしたんだ?』とラルサスは首を傾げた。
全力で演奏して疲れていたし、シャレードの様子が心配だった。しかも、もう一つ別のことに気を取られていたので、フィルのいつもの大騒ぎなら、今は勘弁してほしいと思った。
先ほど自分の演奏にうっとり聞き惚れていたシャレードを見たとき、唐突に理解した。
(私の運命の人はシャレードだ)
同じく精霊付きである父王が『自分の相手は、出会えばわかる』と言っていたが、ラルサスは今それを実感していた。だからこそ、心の整理をしたかったのだ。
(よりによって、なぜ結ばれない相手なんだ……)
耐えるように拳を握りしめる。
そんな彼に追い打ちをかけるように、フィルは衝撃的なことを告げた。
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