恋と呼べなくても

Cahier

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 約四時間後、時刻は午後十三時半になろうとしている。勉強にひとくぎりをつけて、ふたりは昼食を取ることにした。
 
 直は、持参した弁当をダイニングテーブルの上に置く。頭脳疲労もどこふく風、にやにや嬉しそうである。不気味に微笑む直と目が合った真は、「君、弁当が好きだよね」と視線を逸らした。

「真から開けてみて」 
 
 真は、前回のようにとつおいつせずに蓋を開けた。そして彼の視線は小刻みに動いた。
「ねぇ、毎回こんなてのこんだもの作るの?」
「てがこんでるって。お弁当作りは時間との勝負だよ」
「卵焼きが、なんか赤いんだけど」
「それ紅生姜入りなの」
「卵焼きに、紅生姜?」
「うそ、食べたことないの!?」
「ない」 
「えー!!」
 直に激しく推されて、真は朱色の模様が美しい卵焼きを食した。すぐに彼は、どうしようもないという顔で破顔する。

「直は、どこで料理を覚えたの?」
「小学生のときかな。お母さんがちょっと大きい病気になって。手術で入院したんだけどね。そのあいだのご飯を自分で作ることになって」
 突拍子もなくでた母親の話に、真の表情が真顔になった。
「お母さんが入院してるあいだに料理を覚えて、退院したらびっくりさせようと思ったの。それがきっかけで、料理するようになったんだよね」
「それは、さみしかっただろう」 
 真は、声を低くしてつぶやいた。直は首を横にふった。
「お母さんは元気になって帰ってきた。私は、料理ができるようになった。なにも不幸なことなんてない」
「そうか」 
 うん、とうなずいた直は「いただきます」といって、同じ紅生姜の卵焼きを食べた。
 
 それにしても、直はいつも気持ちのよい食べっぷり。しかも、むちゃぐいな印象とか行儀の悪さがない。現に真は「直は、食べ方がきれいだ」と指摘した。彼女は、耳の先が赤くなって恥ずかしんだ。
  
 弁当を完食したあと、「真は料理するの?」と直は対話を持ちかけた。
「するよ」
「ほんとにっ、なにをっ、なにを作るの?」
「卵かけごはん」といって、キッチンに置かれてある炊飯器を指差した。
「それ、料理っていわない」
「立派な和食だよ。かつ、食糧自給率に貢献してる。米と鶏卵は自給率ほぼ一〇〇パーセントだよ」と理屈をこねる。
「おなかこわさないでね。私、生卵であたったことあるよ」
「胃が丈夫だから平気」
「そうなの。栄養、ちゃんと摂ってる?」
 お世辞にも健康的とはよべない真の細い体が、直は以前から気がかりだった。
「サプリ飲んでる」
「サプリメントで補うのは、悪いことじゃないけど、食事の代替にはならないってお母さんがいってた」
「そういう仕事してるの?」
「薬剤師だよ」
 真は、そうかとつぶやいて「安心して。ちゃんと食べてるから。でなきゃ脳が働かないだろう」と教えてくれた。
 不安のやわらいだ直は、コップの水を一口飲んだ。
「直のほうこそ」 
 彼女は、まばたきをして首をかしげた。
「え? あぁ。私は、家族みんなそう。親の遺伝と胃下垂なんだよ」
「なるほど」
「真は納得してくれるんだね。カウンセラーの田中先生は、過食嘔吐してるんじゃないかって思ったみたい」
「過食嘔吐してる人は、外見やふるまいでわかる。僕から見て、直は、そうじゃないって思ってたけど」
「だけど……私のこと、やっぱり、やせてると思う?」
「あぁ、思う」 
 真はためらわず即答した。直はうつむく。彼は、「ごめん。気にさわった?」と訊く。
 直は頭を左右にふって否定すると、中学時代について語り始めた。
 
「走るのが好きだったから中学一年のとき、陸上部にはいった。入部してすぐ、『細いね。うらやましい』って先輩たちにいわれたの」 
 直は言いにくそうに黙る。真は続きを待った。
「それからすぐに『痩せすぎて気持ちわるい』に変わった。先輩たちの前を横切ると、足をひっかけられるようになって。ユニフォーム着ると『みすぼらしいから、大会までに五キロ太れ。できなかったらクビにする』とかいわれたりね」
「中学生でそんな稚拙なことやるのか」
「……はじめて出場した大会のお昼休みだった。先輩たちに連れていかれて……おさえられて……口の中に菓子パン押しこまれた……」
「まてまて。完全にいじめじゃないか」
「うーん。人間関係めんどくさくなって。一年で退部しちゃった」
「だれにも相談できなかったの?」
「友達には、少し話した。そしたら、ケンカになった」
「どうして」
「友達は、太ってることが理由でいじめられたことがあったんだって。その苦しみにくらべたら、私はずっと恵まれてるって」
「そんなの価値観と劣等感の押しつけだね」
「現実は、共感してもらえなかったら手を差しのべてくれるひともいない。そうわかった。だからあのときは、助けを求めるのもあきらめたんだ」
「でも性的アイデンティティのことでは、あきらめなかったよね。研究室にしつこく通ってる」
「それは……丸汐研の雰囲気が好きだからだよ。路頭に迷ってた私に道をしめしてくれたよ。だからこうして頑張って勉強してる」
「あそう。でもいまのままじゃ確実に落ちるよ」 
 さらっと、むごい現実を突きつけられた直の首から力が抜け落ちたのを見て、真は肩で笑った。
「大丈夫。まだ時間は十分ある」
 真は控えめにはげました。彼からそういわれると、直は手に余る困難も乗り越えることができるように思えた。

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