1 / 45
1
しおりを挟む
日向直にとって、放課後の教室ほど安らぎと孤独を感じる場所はない。できることなら残りたくはないが、他に行くあてがあるわけでもなく。
窓の外を走る陸上部員——。もうすぐ大会だ。彼らのように心血注ぐものがあればよかったのに。気がつけばもう高校三年生。打ち込むべきことといえば受験勉強くらいか。しかし進路すら決まっていないのに、目標もない状態で何をどう頑張ればいいのか。
はぁ……と、直はため息をついた。すかさず友人三人の視線がとんできた。
「あ、ため息なんかついちゃって。運が逃げてくよ」と美結に指摘される。
「わかった。陸部の青木くん見てたんでしょー。彼氏いるくせに、この浮気者ー!」と真希が校庭に目をむけた。
「陸部のエースで成績もトップ。おまけに眉目秀麗って完璧すぎない? あぁ、なんていうか。罪だわ」といって、優香は机に座った。
「あれ、そんなセリフ今朝みた」
そういって美結は、スマートフォンの画面を皆に見せる。
「……『エースであることは罪だといわれたが、笑えない』ってなにコレ。自慢にしか聞こえないんだけど。もっと謙虚なことつぶやけよ!」と優香は画面にうつる投稿を読みあげると、足を組んだ。短いスカートの下から太ももがはだけている。
「でっ直は、最近どうなのよ?」
「え、どうってなにが?」
「音也とうまくいってんの?」
直は、少し間を置いてうなずく。友人たちは、テンションをアゲているが彼女の顔は晴れやかでない。
「なんかあったの、まさかケンカ中?」
「ううん、そうじゃない」
「じゃぁ、なんよ。その浮かない顔」
「いや……その」と直は口ごもる。
「あぁーあ。私もはやく新しいカレシつくらないと。このままじゃ、夏休みになっちゃうよ! いいひといないかな。こう、おとななひと」
そうぼやいた優香に真希がいった。
「じゃさ。教育実習生のひとどう?」
「あっ、夜部ね! ないない。なんか前髪長いし、暗いじゃん。しかもあのだっさいメガネ。ぜったいオタク」
「しっ。優香、それ偏見」
「だって、やべぇ先生っていわれてたよ。美結、顔みた?」
「残念、みてないよ。ねぇ、直はみた?」
「……知らない。そもそも教育実習生なんてきてたんだね」
「たった二週間は短いよねぇ」
「でもさ、じつは、憧れるんだよね~。先生と学生の恋愛って。小説とか映画でよくあるじゃん。ほら、この前のドラマも教育自習生と生徒の純愛だったし。なんかロマンチック……」
「優香、いい方がエロい」と真希。
「私も、パス。それ犯罪だよ」と美結。
「それは、やべぇ夜部せんせいだからでしょっ」
——盛り上がっていく会話に取り残されている気がする。
直は、自分がこの場に居続けなければならない理由がみつからない。椅子から腰をそっとあげた。
「えっ、直どしたー?」
「ちょっと……トイレ」
「直、だいじょぶ?」
「胃下垂めー。うらやまし。それ以上痩せるなよー」と、優香は全然心配ではなさそうだ。
教室をあとにした直は、胸の奥にあった風船から一気に空気が抜けた。彼女はまるで、おいしくないものを食べたような顔でとぼとぼ歩く。
女子トイレの鏡に映る顔をじっと見つめていると、背後にひとりの男子が立っていることに気がついた。
まさか。いつのまに——まぶたを見開いた直の肩に腕をまわし、彼は抱擁する……。首筋にキスをされた。直は片手で口をふさいだ。催涙弾をあびたような瞳は潤いを増していく。恐怖心と、嫌悪感と。声が出せないほどの不快感に見舞われて、彼女は視界をぎゅっと閉ざした。
しばらくしてまつ毛をそっと持ち上げると、鏡には誰もうつっていなかった。それは直の幻覚だった。
*
二日後の放課後。校舎の裏手でひそかに会話する女子生徒と男子生徒のカップルがいた。ごくありふれた、青春の一ページを切り取ったようなよくある風景……。
「このまえの映画、つまんなかった?」と、音也は壁によりかかっている直にきく。
——あぁ、あの映画か。とメランコリックな気分がよみがえる。ちまたで人気の高校生カップルの純愛物語というから観てみれば。主人公の女子高生が作中で三回レイプされたあげく、クライマックスでは性交した恋人に一方的な別れを告げられる、という悲恋の物語だった。官能的な生々しいシーンを思い出すと、直は気分が悪くなった。
「そんなことないよ。どうして?」
「だって途中でいなくなって、ずっと戻って来なかっただろ」
「それは、トイレだっていったでしょ」
「それだけ?」
「そうだよ」
「今週の日曜日さ、なんか予定ある?」
「ううん。ないよ」
「おれの家にこない?」
その質問に直は返事ができない。音也は彼女の近くへ一歩ふみだした。直はあとずさったが、背後はコンクリートの壁だった。
「ね。家こない?」
——これは俗に若者言葉でいう『壁ドン』というやつである。音也が手をつくと直は黒目をわずかにそむけた。
「まだ、予定わからないよ」と細い声で答えると、彼は「うん。わかった」とほほえんだ。それから直のあごに手をおいて顔をむけさせる。これが俗に若者言葉でいうところの『あごクイ』というやつである。
あぁ、もう、今日は最悪だ。と、直は思った。案の定、キスをされた。彼の唇が自分の唇にまとわりつくあいだ、ずっとスカートのすそをにぎりしめていた。もしも、彼の舌が入ってくるかと思うと、恐怖で鼓動が不規則に強く打ちつける。
自分の心臓は、発作を起こしているに苦しく、痛かった。あとどれくらいたえられるだろうか…………。
「うあ!」
声のあとに聞こえたのは、バサッと資料が地面に落ちる音だった。とたんにふたりの学生は密着させた顔面を離した。
「あぁ、えっと。なんかごめんね」
口を半開きにして棒立ちするその男性は、気まずそうにメガネを触った。
音也は舌打ちした。「じゃぁね、直」と小声でそっと告げる。
「今の見なかったことにしてよね。やべぇー先生」と口角をあげて去った。
淡い斜陽に照らされた放課後の校舎は、ひっそりかんとしている。その場にとり残された女子学生と青年……。
「あの。君、大丈夫?」
彼の問いかけに、直は応答しようとしたが出来なかった。彼女はシャツの胸元をぐしゃりと握りつぶしてその場にひざをついた。
「泣いてるの?」
直のそばへやってきた彼は、様子をのぞき込んでいる。メガネに彼女の由々しい姿が反射した。
「あぁ、あぁ、あぁ、」ともだえるように、直は口を開けていた。呼吸を激しく乱し始めると、眼球がうきでて落ちそうなほど、目をむきだした。まるでのどが焼けるように痛い。
眉をハの字にさせて口を手でふさいでいると、誰かが背中をさすった。
「大丈夫だから。落ち着きなさい」
耳元で淡く低い声がした。直はまつ毛を震わせて、そっと顔をむける。
「ゆっくり、息をはいて」
直は苦しさのあまり無意識に彼の手を強く握った。握られた手を、彼はじろりと見つめ返した。
窓の外を走る陸上部員——。もうすぐ大会だ。彼らのように心血注ぐものがあればよかったのに。気がつけばもう高校三年生。打ち込むべきことといえば受験勉強くらいか。しかし進路すら決まっていないのに、目標もない状態で何をどう頑張ればいいのか。
はぁ……と、直はため息をついた。すかさず友人三人の視線がとんできた。
「あ、ため息なんかついちゃって。運が逃げてくよ」と美結に指摘される。
「わかった。陸部の青木くん見てたんでしょー。彼氏いるくせに、この浮気者ー!」と真希が校庭に目をむけた。
「陸部のエースで成績もトップ。おまけに眉目秀麗って完璧すぎない? あぁ、なんていうか。罪だわ」といって、優香は机に座った。
「あれ、そんなセリフ今朝みた」
そういって美結は、スマートフォンの画面を皆に見せる。
「……『エースであることは罪だといわれたが、笑えない』ってなにコレ。自慢にしか聞こえないんだけど。もっと謙虚なことつぶやけよ!」と優香は画面にうつる投稿を読みあげると、足を組んだ。短いスカートの下から太ももがはだけている。
「でっ直は、最近どうなのよ?」
「え、どうってなにが?」
「音也とうまくいってんの?」
直は、少し間を置いてうなずく。友人たちは、テンションをアゲているが彼女の顔は晴れやかでない。
「なんかあったの、まさかケンカ中?」
「ううん、そうじゃない」
「じゃぁ、なんよ。その浮かない顔」
「いや……その」と直は口ごもる。
「あぁーあ。私もはやく新しいカレシつくらないと。このままじゃ、夏休みになっちゃうよ! いいひといないかな。こう、おとななひと」
そうぼやいた優香に真希がいった。
「じゃさ。教育実習生のひとどう?」
「あっ、夜部ね! ないない。なんか前髪長いし、暗いじゃん。しかもあのだっさいメガネ。ぜったいオタク」
「しっ。優香、それ偏見」
「だって、やべぇ先生っていわれてたよ。美結、顔みた?」
「残念、みてないよ。ねぇ、直はみた?」
「……知らない。そもそも教育実習生なんてきてたんだね」
「たった二週間は短いよねぇ」
「でもさ、じつは、憧れるんだよね~。先生と学生の恋愛って。小説とか映画でよくあるじゃん。ほら、この前のドラマも教育自習生と生徒の純愛だったし。なんかロマンチック……」
「優香、いい方がエロい」と真希。
「私も、パス。それ犯罪だよ」と美結。
「それは、やべぇ夜部せんせいだからでしょっ」
——盛り上がっていく会話に取り残されている気がする。
直は、自分がこの場に居続けなければならない理由がみつからない。椅子から腰をそっとあげた。
「えっ、直どしたー?」
「ちょっと……トイレ」
「直、だいじょぶ?」
「胃下垂めー。うらやまし。それ以上痩せるなよー」と、優香は全然心配ではなさそうだ。
教室をあとにした直は、胸の奥にあった風船から一気に空気が抜けた。彼女はまるで、おいしくないものを食べたような顔でとぼとぼ歩く。
女子トイレの鏡に映る顔をじっと見つめていると、背後にひとりの男子が立っていることに気がついた。
まさか。いつのまに——まぶたを見開いた直の肩に腕をまわし、彼は抱擁する……。首筋にキスをされた。直は片手で口をふさいだ。催涙弾をあびたような瞳は潤いを増していく。恐怖心と、嫌悪感と。声が出せないほどの不快感に見舞われて、彼女は視界をぎゅっと閉ざした。
しばらくしてまつ毛をそっと持ち上げると、鏡には誰もうつっていなかった。それは直の幻覚だった。
*
二日後の放課後。校舎の裏手でひそかに会話する女子生徒と男子生徒のカップルがいた。ごくありふれた、青春の一ページを切り取ったようなよくある風景……。
「このまえの映画、つまんなかった?」と、音也は壁によりかかっている直にきく。
——あぁ、あの映画か。とメランコリックな気分がよみがえる。ちまたで人気の高校生カップルの純愛物語というから観てみれば。主人公の女子高生が作中で三回レイプされたあげく、クライマックスでは性交した恋人に一方的な別れを告げられる、という悲恋の物語だった。官能的な生々しいシーンを思い出すと、直は気分が悪くなった。
「そんなことないよ。どうして?」
「だって途中でいなくなって、ずっと戻って来なかっただろ」
「それは、トイレだっていったでしょ」
「それだけ?」
「そうだよ」
「今週の日曜日さ、なんか予定ある?」
「ううん。ないよ」
「おれの家にこない?」
その質問に直は返事ができない。音也は彼女の近くへ一歩ふみだした。直はあとずさったが、背後はコンクリートの壁だった。
「ね。家こない?」
——これは俗に若者言葉でいう『壁ドン』というやつである。音也が手をつくと直は黒目をわずかにそむけた。
「まだ、予定わからないよ」と細い声で答えると、彼は「うん。わかった」とほほえんだ。それから直のあごに手をおいて顔をむけさせる。これが俗に若者言葉でいうところの『あごクイ』というやつである。
あぁ、もう、今日は最悪だ。と、直は思った。案の定、キスをされた。彼の唇が自分の唇にまとわりつくあいだ、ずっとスカートのすそをにぎりしめていた。もしも、彼の舌が入ってくるかと思うと、恐怖で鼓動が不規則に強く打ちつける。
自分の心臓は、発作を起こしているに苦しく、痛かった。あとどれくらいたえられるだろうか…………。
「うあ!」
声のあとに聞こえたのは、バサッと資料が地面に落ちる音だった。とたんにふたりの学生は密着させた顔面を離した。
「あぁ、えっと。なんかごめんね」
口を半開きにして棒立ちするその男性は、気まずそうにメガネを触った。
音也は舌打ちした。「じゃぁね、直」と小声でそっと告げる。
「今の見なかったことにしてよね。やべぇー先生」と口角をあげて去った。
淡い斜陽に照らされた放課後の校舎は、ひっそりかんとしている。その場にとり残された女子学生と青年……。
「あの。君、大丈夫?」
彼の問いかけに、直は応答しようとしたが出来なかった。彼女はシャツの胸元をぐしゃりと握りつぶしてその場にひざをついた。
「泣いてるの?」
直のそばへやってきた彼は、様子をのぞき込んでいる。メガネに彼女の由々しい姿が反射した。
「あぁ、あぁ、あぁ、」ともだえるように、直は口を開けていた。呼吸を激しく乱し始めると、眼球がうきでて落ちそうなほど、目をむきだした。まるでのどが焼けるように痛い。
眉をハの字にさせて口を手でふさいでいると、誰かが背中をさすった。
「大丈夫だから。落ち着きなさい」
耳元で淡く低い声がした。直はまつ毛を震わせて、そっと顔をむける。
「ゆっくり、息をはいて」
直は苦しさのあまり無意識に彼の手を強く握った。握られた手を、彼はじろりと見つめ返した。
4
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
最終死発電車
真霜ナオ
ホラー
バイト帰りの大学生・清瀬蒼真は、いつものように終電へと乗り込む。
直後、車体に大きな衝撃が走り、車内の様子は一変していた。
外に出ようとした乗客の一人は身体が溶け出し、おぞましい化け物まで現れる。
生き残るためには、先頭車両を目指すしかないと知る。
「第6回ホラー・ミステリー小説大賞」奨励賞をいただきました!
全力でおせっかいさせていただきます。―私はツンで美形な先輩の食事係―
入海月子
青春
佐伯優は高校1年生。カメラが趣味。ある日、高校の屋上で出会った超美形の先輩、久住遥斗にモデルになってもらうかわりに、彼の昼食を用意する約束をした。
遥斗はなぜか学校に住みついていて、衣食は女生徒からもらったものでまかなっていた。その報酬とは遥斗に抱いてもらえるというもの。
本当なの?遥斗が気になって仕方ない優は――。
優が薄幸の遥斗を笑顔にしようと頑張る話です。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる