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「おら、これでいいんだろ!」

 書類をサイファーさんに投げたアレンが手を首の後ろに回してニヤリと笑うと、サイファーさんはそれに目を通して「確かに」と呟いた。さらに。

「この誓約書には、ここに居られる皆様全員のサインが必要となります。ご決断下さい」

 信じられない光景を目の当たりにした私は、失望しながらも辛うじてサイファーさんに尋ねた。

「け、決断なんて出来るわけないじゃないですか! そんなことしたら、今までのことが全部水の泡になってしまうのですよ……?」
「ルナ様。アレン様から譲渡誓約書にサインを頂くには、こうする他にございません」
「で、でも……ダメですよこんなの! だって、だってアレンはヴェロン様まで手にかけてたんですよ!? それすらも目を瞑れってことですか!?」

 必死でそう訴えても、サイファーさんは黙り込んで何も返してこなかった。それでも私はラグナさんに目を向けた。

「ラグナさん! 貴方様もアレンを見過ごさなきゃいけないんですよ!? アレンはちゃんと、法廷で裁かれなきゃいけないんですよね!?」
「……そうだな」

 私の叫びだけが虚しくリビング内に響き渡る。みんな沈んだ表情をして、誰も目を合わせてくれなかった。

 どうして?
 なんでみんな何も言ってくれないの?
 ここで私達が抵抗しなければ、アレンを野放しにしてしまうのに……。

 レオですら唇を噛む仕草をして黙っている。すると、アレンが陰惨な笑みを溢して静寂を破った。

「おいルナ。今まで散々傍観しか出来なかった馬鹿なお前が、いきなりしゃしゃり出てくんじゃねぇよ。誰もお前には味方なんかしたくねぇんだと。空気読めや」

 何よ……!
 風向きが変わった途端、息吹き返しちゃって。

「うるさい。貴方、殺人未遂なんかしといてタダで済むと思ってんの?」
「だからタダで済むんだろ? そこの書類ちゃんと読んだ? あ、意味が理解できねぇのか! お前も馬鹿だもんな!」

 私の全身が怒りで強張り始めた――その時。

「全員動くな。一体これは何の騒ぎだ?」

 聞き慣れない声に振り返ると、リビングの入り口に黒いスーツを着た大男が2人立っていた。その強面な顔付きはどう見ても一般人には見えない。

「貴様らが騒いでいるせいで、他の部屋から苦情が届いている。中には、宿泊をキャンセルする者まで出ている始末だ。貴様らのしていることは営業妨害に該当する。ブレネスキは高級ホテルを謳っている以上、品格の低下を招きたくない。これは損害賠償問題だぞ」

 発言の内容から察するに、2人がホテルの関係者ということは理解出来たけれど、その様相は完全にの人だ。

 サイファーさんが2人の元へ行き、軽く頭を下げる。

「大変申し訳ございません。私から事情をご説明させて頂きます。責任者の方はどちらにいらっしゃいますか? こちらからお伺い致しますので――」

「その必要はない」

 彼の言葉を遮ったのは、やたらと重いハスキーな声だった。すると大男が二手に分かれ、背後から異様な雰囲気を放つ女性が現れた。

「ブレネスキの責任者はこの私だ。ここで話を聞こうじゃないか」

 真っ白なスーツに身を包み、腰まで伸びた長い紫色の髪をサイドテールにまとめた彼女は、口に煙草を咥えていた。
 鼻筋の通った端整な顔には、ナイフで刻まれたような痛々しい古傷がいくつもあり、その黒く霞んだ瞳からは光が完全に消え失せているように感じる。

 な、何、誰この人?
 怖過ぎる……。

 彼女の出現によって、リビング内の気温が急激に低下したような錯覚に陥った。サイファーさん以外の全員が彼女に対して目を伏せる中、アレンだけは違う反応を見せた。

姉御あねご!」
「誰かと思えばアレンじゃないか。探す手間が省けたな」
「あ……集金の件ですよね!? それは後で耳揃えてお支払いしますから、大丈夫っす!」
「そうか」

 ヘラヘラと媚びた笑いを浮かべたアレンは彼女に駆け寄ると、主人に甘える犬のように歓喜していた。

「そんなことより、こいつら俺に寄ってたかって、あーだこーだとくだらないイチャモンつけてくるんすよ~! 何とか言ってやって下さいよ姉御~!」
「顔触れを見る限り、只事ではなさそうだが」
「いや、そんな別に大したことじゃないっすよ~」

 アレンが苦笑いした瞬間、彼女はアレンをチラリと一瞥した。

「大した事かどうかは私が判断することだ。黙ってろ」
「……すいません」
「ひとまず落ち着いて話が聞きたい。当事者共の代表は誰だ」
「私です」

 手を挙げたサイファーさんが前に出ると、煙草を吹かした彼女は「そこへ座れ」と言ってソファを顎で指した。

「かしこまりました。では、他の者はここから一旦退室させましょう」
「待て。負傷者がいる以上それは看過出来ん。事情聴取が終わるまで、この部屋からはねずみ一匹たりとも退室するのは許さん。妙な動きを見せれば、この場で即座に射殺する」

 チェルソを見た彼女の言葉を聞いて、大男がゆっくりと腰のホルダーから拳銃を取り出してきた。

 ……え?

 張り詰めた緊張感が最大限まで引き上げられると、サイファーさんは「……かしこまりました」と、指示に従ってソファへ腰を下ろした。
 そして向かいにどっしりと座った彼女に、事の顛末を話し始めた――。

 私はすぐ隣にいたホーキンさんに極力声を抑えて、ひっそりと話しかけた。

「ちょっと……ホーキンさん」
「ん?」
「あの人、誰なんですか? アレンとも顔見知りっぽいし……」
「あいつはビアンカ・ロカテッリだ。このホテルのオーナーだが、本当の顔は国内のマフィア組織の中で一番規模がデカいロカテッリ・ファミリーの女頭目さ」
「女頭目?」
「ボスだよボス……! 表舞台に顔なんか滅多に出さねぇが、裏でこの国を実質的に操ってんのはアイツだ。早い話が国内で一番キレさせたらヤバい女ってこと」
「どうしてそんな人が……。で、でも、そのビアンカさんは、もちろんこの計画を知ってるんですよね……?」

 計画の全貌を知らなかった私は、ここに至るまで驚かされることばかりだった。だから、もしかしたらサイファーさんはビアンカさんをここに呼んで、アレンを懲らしめようとしてるんじゃないかと予想した。

 ところが。

「いや、奴は計画に参加してねぇ」
「……参加してない?」
「考えてもみなよお嬢ちゃん。あんな顔面凶器が小物のアレン嵌め落とす計画なんかに協力するわけないっしょ?」
「た、たしかに」
「とんでもねぇ招かれざる客が来ちまった。今までデケェ態度とってたアレンの精神的支柱は、ビアンカだったんだ」
「もしかして、アレンの言っていた『バック』って……ロカテッリ・ファミリーのこと?」
「そういうことだろうな。親分はあんな平然とした顔で話してっけど、今が危機的状況なのは間違いねぇ……これは、かなり厄介なことになるかも」

 ふと、ビアンカさんと話すサイファーさんを見たら、彼の額にはうっすらと汗が滲んでいた。

「そんな……」

 これまで、どれだけ追い込んでもアレンの態度が改善されなかったのは、ビアンカさんという“凶悪かつ強力な後ろ盾”があったからだった。
 しかも、それはサイファーさんやホーキンさんですら知らない事実だったらしい――。

「以上です。お騒がせして、大変申し訳ございません」

 サイファーさんが事情を話し終えたと同時に、ビアンカさんが指を2本挙げると、ソファの後ろに控えていた大男が煙草を彼女の指の間に刺して火を点けた。

「ふ~……なるほどな。無期懲役とは中々大層な話じゃないか」

 脚を組むビアンカさんの隣にアレンが座り、彼女の顔色をうかがうように覗き込む。

「どう思います~姉御!? 滅茶苦茶だと思いませんか!? こんな連中、軽くやっちまって下さいよ~!」

 アレンの狙いはまさか……。
 ビアンカさん達に私達を始末させて、全部無かったことにしようとしてるとか?
 さ、さすがにそんなこと、するわけないよね……?

 しかしビアンカさんはアレンを見遣ることなく、サイファーさんを睨み続けていた。そんな彼女から放たれる人間離れした威圧感を、彼は真っ向からずっと耐えている。

「サイファー。アレンがバストーニ家と縁が切れた場合、その後どう扱うかは何も決まっていないのだろう。だが、おのずとこいつの世話をするのは私になるんじゃないのか?」
「はい。その通りでございます」
「ならば、アレンを拘束する手錠はもう不要ないな。おい、事務室から鉄筋バサミ持ってこい」

 ビアンカさんが肩越しに指示を出すと「はい、かしこまりました」といって、大男は部屋を小走りで退室した。

「さっすが姉御! ホント痺れますわ~!」

 ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべるアレンに、みんなは何も口を出すことが出来ずにいた――。

 数分が経ち、大男が柄の長い鉄筋バサミを持ってくるや否や、ビアンカさんへ「お待たせいたしました」と柄の方を向けて渡した。

「アレン、手を出せ」
「はい! あざっす!」

 笑顔ではしゃぐアレンが手錠をかけられた手を差し出し、煙草の灰を灰皿に落としたビアンカさんが鉄筋バサミを開く。

 ところが突然――ビアンカさんがアレンのをバツンと切り落とした。

「……ぎぃぃゃああああああああ!!」

 アレンが耳をつんざくような悲痛の叫びを上げ、床へ転がりながらのたうち回る。切り落とされた指の付け根からは、大量の血が床に散らばっていた。
 思わずハッとした私が口を手で塞ぐと、その様をソファに座りながら、眉一つ動かさずにしばらく見ていたビアンカさんが、静かに口を開いた。

「私は立場や格好こそこんな成りだが、これでも女の端くれだ。貴様の狼藉話を耳にして何も感じないとでも思ったか?」
「いってぇぇぇぇ……!」

 痛みで転がりながら悶えるアレンが、悲壮な顔でビアンカさんを見上げる。

「それと、貴様はさっき『やっちまって下さいよ』とかホザいていたが、一体誰に向かって指図したのか解っているのか? 女の扱い方も知らん腰を振るしか能のない小僧が、分をわきまえろ」

 悲惨な光景を前にした私が驚きのあまり口を手で抑えていると、ビアンカさんが声をかけてきた。

「ルナ、でよかったか?」
「……は……はい」
「どこかの国ではケジメの一環として、自ら手の指を詰めるという文化があるそうだ。それはそこで踊ってる猿野郎が犯した非礼の詫びだ。遠慮せず持っていくがいい。不要ならそこらの犬にでも喰わせておけ」

 ビアンカさんは床に落ちていたアレンのを私の方へ蹴り飛ばしてきた。
 恐怖に縮こまっていた私がそれを見ることなく「あ……はい」とだけ返すと、ビアンカさんは再び大男に指示を出した。

「おい、あいつの手を何とかしろ。床が汚れる」
「かしこまりました」

 大男が暴れるアレンを強引に取り押さえ、彼の手を雑に応急処置する。その後、正座させられたアレンが、目の前で優雅に煙草を吹かすビアンカさんに尋ねた。

「あ……姉御、な、何で……?」
「貴様はウチから購入した麻薬を使って、ラ・コルネを嵌めようとしたらしいな。個人使用と偽って私を出し抜こうとした罪は重いぞ。だが貴様が嵌めようとした相手が、ウチが世話になっている“経営コンサルタント”だったのが運の尽きだ」
「サ、サイファーが……経営コンサルタント?」
「喧嘩を売る相手が悪かったな。奴は仕返しのためなら相手を地の果てまで追いかけてなぶり殺す男だ。まさに“バルログの化身”だよ」

 バルログ。

 遥か昔、人類が魔物達と世界の覇権を争っていたという神話に出てくる『悪魔をも喰らう狂魔人』のこと。
 余りにも強過ぎて全く歯が立たなかった魔王に対し、漆黒の鎧を着た勇者が地獄の底に眠るバルログを復活させ、その力を借りて魔王を討伐した――という物語。
 神話発祥の地方には、世界を救った勇者の銅像もあるという。

「しかも、サイファー曰く『バックには凶悪なマフィアがいる』とかうそぶいたそうだな。たった一度麻薬の取引をしただけでロカテッリ・ファミリーがバックに付くはずないだろう。図に乗るのも大概にしておけ」
「そ、そんな……で、でもバストーニ商会とも今後は『色々な取引する』って話でしたよね!? こいつらをみんな殺してくれれば何でもしますよ!」
「どこまでもめでたい奴だ。馬鹿もここまで来るといよいよ堪らんな」
「……え?」
「状況は変わったんだ。父親から商会を強奪して経営を傾かせた無能と、莫大な利益を量産してくれる経営コンサルタント……私がどちらの味方になるのが得かなど、少し考えれば猿でも判るだろうに。私はこれでも経営者だぞ?」

 忽然と笑みが消えたアレンの表情から、じわじわと悔しさが滲み出る。

「……嘘だ……! 嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁぁ……!!」

 頭を抱えるアレンの姿を見ていたビアンカさんが、憐れむように溜息を吐く。

「ふん、本当に反省せん奴だな。アレン、いい加減そこのルナに跪いて詫びろ」
「へ……?」

 彼女は着ていたジャケットの内側に潜ませていたホルダーから、六発装填式大口径リボルバーを取り出した。そして、それをゆっくりとアレンへ向けた。

「最後くらい、頭を床に擦り付けて『謝罪して見せろ』と言っているのだ」
「ひッ……!」

 身の毛もよだつ脅しに屈したアレンが、渋々と私の方へ向いて両手を付いた。そして。

「くっそおぉぉぉぉぁぁあああ!!」

 と、断末魔のような叫びを上げながら、頭を下げようとした。

「……待って」

 私がそういうと、アレンは頭を床につける前に動きを止めた。そして、酷く歪んだ顔を上げて私を睨んできた――。
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