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 え、夫婦って……どういうこと? 

 ヴェロン様は式には出席してないけれど、婚約破棄の件を知っていてもおかしくないはず。それに、やたら顔がやつれてるし、だいぶ身体も細くなかってしまっている。何かおかしい。 

「お、親父!?」

 アレンが焦るように席から立ち上がった矢先、メイドのメルティナが廊下から顔を出した。彼女はヴェロン様の世話役で、もちろん私も面識がある。

「だ、旦那様いけません! お身体が――」
「おい、メルティナ。お前何親父から目離してんだよ」
「も、申し訳ございません……! 旦那様が『白湯をくれ』と仰られ――」
「言い訳なんざ聞きたくねぇんだよ! 親父が倒れてケガでもしたら、どう責任取るつもりなんだ!? 謝って済むのかよ、なぁ!?」

 険しい顔で激昂したアレンがメルティナに近づいて勢いよく突き飛ばすと、廊下の壁に打ち付けられた彼女が「きゃっ!」と悲鳴を上げて尻餅をついた。
 すかさず私は、メルティナに走り寄って覆い被さった。

「ちょっと何てことするのよ! 大丈夫、メルティナ?」
「ル、ルナ様……」
「邪魔だルナ! いい加減目障りなんだよ。おい、誰かさっさとこいつを摘み出せ!」

 アレンの指示を受けて、偶然廊下にいた侍従が「ルナ様、ご退出願います」と言いながら私の二の腕を掴んだ。

「ちょ、痛い、痛いって!」
「申し訳ございません、少々手荒になることをお許し下さい」

 初めて見る顔の侍従への抵抗虚しく、私はバストーニ家の屋敷を門まで締め出されてしまう。結局、ここまで来ても何も出来ず、自分の無力さが情けなくて仕方なかった。

 『愛人になる』――とまで言ったのに。

 というか、いつまで私の腕掴んでるのこの侍従?

「いい加減放してくれない? もう帰るから」

 ところが、侍従の男はキョロキョロと周りを見渡す不審な動きをしている。怪しんだ私が「ちょっと聞いてるの?」と尋ねたら、男は人差し指を自分の唇に当てた。

「静かに……だよ、ルナ嬢様」

 そ、その声は!

「も、もしかして……ホーキンさん?」
「そうだよ~ん。どうよこの変装? 全然分かんなかったっしょ?」

 このふざけたノリは、間違いなくホーキンさんだ。カツラを被って顔すらも完璧な別人に変装していた彼は、声まで変えていて全く面影がない。

「ど、どうしてこんなところに……?」
「そりゃこっちのセリフだっちゅーの! しかも愛人になるとか暴走し過ぎっしょ! 聞いててヒヤヒヤしちまったよアタシャ!」

 ホーキンさんのツッコミに対して私は「だって……」と下を向いて呟いた。それを困り顔で見ていた彼が、小さな溜息を吐く。

「まぁいいや……アンタのおかげで、こっちの“大事な目的”も果たせたからよ!」
「目的?」

 ホーキンさんはスーツの懐から、水の入った小瓶を取り出し、それを指でつまんで振りながら私に見せてきた。

を手に入れるためには、ヴェロンの部屋に侵入する必要があったのさ。ただ、部屋にはアレンとメルティナしか入れなくて困ってたのよ。ところがどっこい! 突然ここに来たルナ嬢様が騒いで侵入するスキを作ってくれたってワケ。礼を言うぜ」
「は、はぁ」

 ホーキンさん曰く、使用人の入れ替わりが激しいバストーニ家に潜入するのは容易かったが、ヴェロン様に“感染症の疑いがある”と判断したアレンの命で、メルティナ以外の使用人はヴェロン様の部屋への入室を禁じられていた。
 以前にヴェロン様の体調を気にかけていた私にも、アレンは『感染したら大変だ』と言って、顔を拝ませてもらうことすら許さなかった。

「さ、とにかく今日は帰りな。もうカウントダウンは始まってるんだぜ?」
「カウントダウン?」

 そう聞き返すと、ポケットに手を入れたホーキンさんは、ゆっくりと振り向いてバストーニ家の屋敷を薄目で睨みつけた。

「あのクソ野郎を地獄へ送る計画が秒読みに入ったのさ。安心しな。ルナ嬢様が無茶なんかしなくても、ウチの親分が必ず奴の息の根を止めてくれっからよ」

 自信満々なホーキンさんの後ろ姿が、とても頼もしく見えるのは変装のせいじゃない。背中からサイファーさんへの信頼が、満ち溢れているのが伝わってくるからだ。

「オレはまだ少し調べることがあんだよね。いつまでもここでクッチャベってると怪しまれっから、もう行くぜ」
「……はい」

 昼間だというのに薄暗い曇天の空。

 これから待ち受ける波乱を予感させるかのような天気の中、私は期待と不安が混じる複雑な気持ちを胸に秘めながら空を見上げ、バストーニ家の屋敷を出発した――。

 自宅へ到着した私が玄関のドアノブに手をかけた矢先、家の中から笑い声が聞こえてきた。

 誰か来てる?

 疑問に思いつつ玄関を開けて中に入り、廊下から顔を半分出してリビングを覗き込んだ。

「いや~、あの時はお父様に手を掴んで頂けなかったら、河に真っ逆さまでしたね!」
「ははは、本当に危機一髪だったよ。君のヤンチャさには、当時の私も手を焼いたもんだ」

 ソファで向かい合って談笑していたのは、お父様とレオだった。予期せぬ来訪者に唖然としていたら、私にレオが気付いた。

「お、帰ってきた」
「ど、どうしたのレオ!?」

 2人の元へ歩み寄り、肩にかけていたバッグを椅子に下ろす。私の問いに、微笑んだお父様が答えた。

「彼は少し前に来たんだよ。ルナがいつ戻るか分からないよと伝えたんだが『何時間でも待ちます』と言うから、家に上がって貰ったんだ」
「すまん、何となく会いに来てしまった」

 何となくって何よ!?

 屈託のない笑顔を見せるレオ。そこへ、お父様がソファから立ち上がって襟を直した。

「私は邪魔だろう。あとは2人でゆっくり話しなさい」
「ありがとうございます。今日はお父様と話せて良かったです」

 立ち上がったレオと抱擁を交わしたお父様がリビングを後にすると、レオが私に振り向いた。

「ルナ、久しぶりにお前の部屋を見せてくれないか?」
「えぇ!? いや、い、今、すごい散らかってるし、そ、外の方が……!」

 突飛な要求に驚きながら一歩退く。

「じゃあ、一緒に片付けよう。それとも、何か“見られたくないもの”でもあるのか?」
「う、ううん! そんなんじゃないけど……」

 さすがの私も、部屋に下着を撒き散らすほどズボラな性格ではない。けれど、下着より見られたくないものが私の部屋にある。

 油絵だ。

 ガラス細工の影響で、パレルノ学園に入学した頃から油絵を描くことが趣味になった私。
 筆を持って絵を描いてる時だけは無心になれるから、何か思い詰めた時にキャンパスへ向かうことが多い。

『何か好きなことに没頭する時間を作りなさい――』

 お父様からそう言われていたこともあり、最近描き始めたを、彼に見られるのは本当にまずい。いや、見られたら私は確実に死ぬ。もちろん両親もその絵の存在は知らない。

 ブドウ農園を背景に、ウエディングドレスを着た私とタキシードを着たレオがキスしてる描写。

 叶うはずもない夢。
 せめて絵だけでもと思い、描いてみたかった。

 レオは久しぶりに再開した日以来、色恋話をまだしてこない。多分、婚約破棄された私を気遣ってだと思う。私だってレオの立場になったら、婚約破棄された幼馴染の前で自分の恋話なんて出来っこない。
 侯爵令息で頭も良く、こんな美丈夫になったレオに恋人がいないはずない。学園卒業後も、縁談なんてたくさんあっただろうし。

 こうやってレオが私のところに顔を出せるのも、彼の恋人が「幼馴染なら」って、許してくれてるのだと思う。心が広い気品溢れた人なんだなと、勝手な妄想を膨らませる私。

 そして、傷付きたくないからレオに「恋人はいるの?」なんてことは聞けない。告白されて好きになるのと、自分から好きになる感覚は、やっぱり違う。

 私の場合、前者はアレンで後者がレオだ。

 とにかく、あの絵はまだ色を入れてない下書きの段階だけれど、レオの表情をやたら入念に描いちゃってるから、見られたら絶対バレる! ――。
 
「ち、ちょっとだけ待ってて、すぐ呼ぶから!」
「お、おう」

 キョトンとした顔をするレオをリビングに置き去りにした私は、急いで自室に入って問題の絵をクローゼットへ押し込んだ。息を切らしながら、他に隠すものがないか探してアタフタしていると、部屋の扉が突然開いた。

「おい、まだか?」
「ちょ、待っててって言ったじゃん!」

 屈んでいた背筋をピンッと伸ばした私が叫ぶと、レオは、

「待つの好きじゃないんだ」

 と言いながら何食わぬ顔をして、すんなり部屋へ入ってきた――。
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