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番外編・うさぎのきもち
74.見えるもの、見えないもの
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「お前には……そう見えるか?」
「あ、いえ……その」
背中に冷たい汗が流れる。鷹に狙われたうさぎの心境とでも言えば分かるだろうか? 絶体絶命、あいにく油断していた所為で隠れる場所も無い。どうしてノコノコと食べ物につられて野原に出て来てしまったのか?そんな警戒心も薄れるほど、疲れ切っていたということだろうか。
しかし亀田部長が如何にも済まなそうにボソリと呟いた言葉は、俺を全く違った方向から打倒すものだった。
「悪かったな。お前は……その、一緒に住んでいた相手が出て行ったんだよな? まだ気にしているとは思わなかった」
「うっ……!」
グサッ……!
一撃必殺! そう言えば亀田部長はダブルベッドを見て、俺に一緒に暮らしている女がいる、いや、いたことを知ってしまったのだ。しかもその時塞がりかけていた傷のかさぶたが、つい先日剥がされたばかりだと言う事を知らないのだ。どうやら俺の失礼な言葉に腹を立てている、というわけではないようなのでここはホッとするべき処なのだが―――生傷を引っ掻かれたようで、ダメージが半端無い。何もかも自業自得、なのだが。
「そうだな、戸次の言うとおり、俺は幸運な男なのかもしれん」
亀田部長はそう言って目を細めた。
「と言うか、自分の幸運に気付けた……と言う方が正しいかもな」
「『幸運に気付く』?」
「ああ。お前には俺は『仕事も出来て女扱いも上手い』ような男に見えるんだよな?」
フッと口元を歪めて苦笑する仕草も堂に入っていて、やはり俺にはその様子はまさに何でも自分の思い通りに動かして来た、そんな男そのものにしか見えない。
「他人は皆上手くやっていて自分ばかり割を食っている、なんて……俺にも覚えがあるよ。そんな風に傲慢に考えてていた時期があった」
『傲慢』と言う表現にヒヤリとする。しかし亀田部長の表情には繕うような笑顔も、見下すような威圧感も感じられない。何を考えているのか全く読めないが―――苦笑をしまい込んだその無表情からは俺に対する怒りは感じられなかった。だから俺は全身の緊張をいささか解いて、コクリと是認の頷きを返す。ここでおべっかや追従を安易に使ってはいけない、そう直感したからだ。
「仕事に関してはそうだな、漸く自分を自分の思い通りに動かすことが出来るようになった、という所か。とは言ってもマネジメントに関してはまだまだ、だ。前任の桂沢部長の足元にも及ばない。人を動かすって言うのは自分で仕事を片付けるより遥かに難しい―――お前だって感じているだろう?まだ俺が部下を掌握しきれていないってことは」
「それは……」
その事に亀田部長が気付いている、ということに俺は気が付いていなかった。そうだ、だからこそ少し前の俺はあんなに不平不満を口にしていたのだし、それに同調する人間も多かったのだ。冷たく厳しい無表情からは全く、彼のそんな煩悶は見て取れなかったからだ。
いや、『そう見える』のは当たり前なのか。そもそも部下の気持ちを気にしてオロオロしているような上司に使われるのは嫌だ。管理者とは嫌われるのが当たり前の仕事なのだ。桂沢部長が稀な存在だったと言うだけで―――それでもそんな彼女を悪く言う人間も存在したのだ。俺の直属の上司みたいな小さい男とか。そして俺もアイツと結局同じなのかと思うと、恥ずかしさに逃げ出したくなる衝動に駆られてしまう。しかし目の前の亀田部長は、特に気にした様子もなく落ち着いた口調で続けた。
「が女性に関しては、はっきり言ってお前の推測は的外れだ。女の気持ちを察すると言うのが、俺にはどうにも難しくてな。振り回されてばかりだよ。確かに数としては何人かと付き合うには付き合ったが……どれも良く分からないうちに暫くすると愛想を尽かせて向こうから『別れる』と言って来るんだ。俺は仕事を優先するのが当然だと思っていて相手にあまり関心を持つことが出来なかったんだ。来るものも拒まずだが去る者も追わずで、それが当たり前だと考えていた。そう言う人間だと分かっていて付き合ったくせに、自分を蔑ろにするなと怒るのは女の方がおかしいだろう、くらいに思っていたんだ―――酷いだろ?」
「……ヒドイ、と言うか、羨ましいですが……」
確かにモテそうだと思ったが、やはりモテていた。しかも千切っては投げ千切っては投げ、だ。俺の小さなモテ期など亀田部長にとっては日常の出来事なのかもしれない。しかも俺のように女に振り回されるのではなく、亀田部長の方が振り回しているように聞こえる。―――『来るもの拒まず、去るもの追わず』なんて、男に生まれたからには一度くらい言ってみたい。しかも如何にも面倒臭そうに物憂げな調子で。大物の亀田部長と違って、俺のような小粒な人間はみのり一人との別れにも未練タラタラ、動揺しまくりなのだが……。亀田部長は俺の想像と違って確かに苦労はしているのだろうが、仕事以外のことに関しては聞けば聞くほど羨ましさが募ってしまう。
「今思うと、俺は本当に相手を欲した経験が無かったんだ。ああ、人として尊敬する相手はいたが……相手のことが気になってしょうがない、仕事より何より優先してしまうと言う気持ちが分からなかった。だから相手が何に怒っているのか、まるで見当がつかなかったんだ」
「えっ……それはその……」
今亀田部長が言った台詞を纏めると……つまりずっと亀田部長は女性に対してそう言う気持ちを抱いた経験が無かった、ということか?えええ?それは、つまり……
「もしかして、亀田部長にとっては奥さん……卯月さんが初恋とか言う……」
十二も年下の派遣社員が初恋なんて。しかも今聞いた話だと三十後半に付き合い始めた相手だろう?俺の中で亀田部長ロリコン疑惑がにわかに浮上しそうになった。いや、卯月さんは見たところちゃんと、成人女性には変わりないんだけど。確かに『大人っぽい』と言うよりは『可愛らしい』タイプなんだよな。
「いや、厳密に言うと違う」
真顔で否定されて、少しだけホッとする。そうだよな、これだけの男がつい最近まで初恋もまだだったなんて、ある訳がない。きっと仕事が一段落付いて、周りに目を向ける余裕が出来て、ちゃんと女性と付き合う経験を経て来たのだろう。しかし『厳密に』と言う表現が僅かに気になるが……
「たぶん俺が初めて仕事がどうでも良くなるほど夢中になったのは『ミミ』だ」
「ミミ……さん、ですか?」
卯月さんじゃなかったのか。
しかし変わった名前だ。そうまるで、うさ……
「雑種の、黒いツヤツヤした毛並みの美人でな。うータンも手触りでは負けないが、ミミはネザーランド・ドワーフ寄りの愛らしい顔つきでな……」
まさかの『うさぎ』だ……!
「出会ったのは駅前のペットショップだ。何の覚悟も無くうろついていたんだが……目が合った途端、分かったんだ。抗えない運命って言うのがある、仕事より何より大事なものがあるってことに」
それから―――『ミミ』との生活、『ミミ』の魅力を語ること、小一時間。
俺は悟った。やはり俺には人の本質を見抜く力は無かったのだと。
人は話してみなければ分からない。しかし話し合った末―――その相手のことがもっと分からなくなることもあるのだ、と。
ただ―――人と人とは『理解し合えない』かもしれない、そして『通じ合えない』こともあるかもしれない。―――という事を知る事も大事なのだろう。
俺は結局相手を自分の物差しでしか測って来なかった。この目の前の銀縁眼鏡上司が極度のうさぎ狂いだと言うことも、みのりが結婚嫌いだったと言うことも、花井さんに裏があることも見抜けなかった。
そしてその銀縁眼鏡上司がそれほど悪い人間ではないらしいってことも、何でも分かったような顔をしていたみのりが実は自分の気持ちもちゃんと把握していなかったと言うことも見抜けなかったのだ。花井さんは―――よく分からないが、彼女にも、もしかすると見えない何かが、俺の彼女を見る目が百八十度変わるような何かがあるのかもしれない。
―――などと無理矢理結論付けて、その夜の不思議な飲み会は終わったのだ。
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次話、『うさぎのきもち』最終話となります。
「あ、いえ……その」
背中に冷たい汗が流れる。鷹に狙われたうさぎの心境とでも言えば分かるだろうか? 絶体絶命、あいにく油断していた所為で隠れる場所も無い。どうしてノコノコと食べ物につられて野原に出て来てしまったのか?そんな警戒心も薄れるほど、疲れ切っていたということだろうか。
しかし亀田部長が如何にも済まなそうにボソリと呟いた言葉は、俺を全く違った方向から打倒すものだった。
「悪かったな。お前は……その、一緒に住んでいた相手が出て行ったんだよな? まだ気にしているとは思わなかった」
「うっ……!」
グサッ……!
一撃必殺! そう言えば亀田部長はダブルベッドを見て、俺に一緒に暮らしている女がいる、いや、いたことを知ってしまったのだ。しかもその時塞がりかけていた傷のかさぶたが、つい先日剥がされたばかりだと言う事を知らないのだ。どうやら俺の失礼な言葉に腹を立てている、というわけではないようなのでここはホッとするべき処なのだが―――生傷を引っ掻かれたようで、ダメージが半端無い。何もかも自業自得、なのだが。
「そうだな、戸次の言うとおり、俺は幸運な男なのかもしれん」
亀田部長はそう言って目を細めた。
「と言うか、自分の幸運に気付けた……と言う方が正しいかもな」
「『幸運に気付く』?」
「ああ。お前には俺は『仕事も出来て女扱いも上手い』ような男に見えるんだよな?」
フッと口元を歪めて苦笑する仕草も堂に入っていて、やはり俺にはその様子はまさに何でも自分の思い通りに動かして来た、そんな男そのものにしか見えない。
「他人は皆上手くやっていて自分ばかり割を食っている、なんて……俺にも覚えがあるよ。そんな風に傲慢に考えてていた時期があった」
『傲慢』と言う表現にヒヤリとする。しかし亀田部長の表情には繕うような笑顔も、見下すような威圧感も感じられない。何を考えているのか全く読めないが―――苦笑をしまい込んだその無表情からは俺に対する怒りは感じられなかった。だから俺は全身の緊張をいささか解いて、コクリと是認の頷きを返す。ここでおべっかや追従を安易に使ってはいけない、そう直感したからだ。
「仕事に関してはそうだな、漸く自分を自分の思い通りに動かすことが出来るようになった、という所か。とは言ってもマネジメントに関してはまだまだ、だ。前任の桂沢部長の足元にも及ばない。人を動かすって言うのは自分で仕事を片付けるより遥かに難しい―――お前だって感じているだろう?まだ俺が部下を掌握しきれていないってことは」
「それは……」
その事に亀田部長が気付いている、ということに俺は気が付いていなかった。そうだ、だからこそ少し前の俺はあんなに不平不満を口にしていたのだし、それに同調する人間も多かったのだ。冷たく厳しい無表情からは全く、彼のそんな煩悶は見て取れなかったからだ。
いや、『そう見える』のは当たり前なのか。そもそも部下の気持ちを気にしてオロオロしているような上司に使われるのは嫌だ。管理者とは嫌われるのが当たり前の仕事なのだ。桂沢部長が稀な存在だったと言うだけで―――それでもそんな彼女を悪く言う人間も存在したのだ。俺の直属の上司みたいな小さい男とか。そして俺もアイツと結局同じなのかと思うと、恥ずかしさに逃げ出したくなる衝動に駆られてしまう。しかし目の前の亀田部長は、特に気にした様子もなく落ち着いた口調で続けた。
「が女性に関しては、はっきり言ってお前の推測は的外れだ。女の気持ちを察すると言うのが、俺にはどうにも難しくてな。振り回されてばかりだよ。確かに数としては何人かと付き合うには付き合ったが……どれも良く分からないうちに暫くすると愛想を尽かせて向こうから『別れる』と言って来るんだ。俺は仕事を優先するのが当然だと思っていて相手にあまり関心を持つことが出来なかったんだ。来るものも拒まずだが去る者も追わずで、それが当たり前だと考えていた。そう言う人間だと分かっていて付き合ったくせに、自分を蔑ろにするなと怒るのは女の方がおかしいだろう、くらいに思っていたんだ―――酷いだろ?」
「……ヒドイ、と言うか、羨ましいですが……」
確かにモテそうだと思ったが、やはりモテていた。しかも千切っては投げ千切っては投げ、だ。俺の小さなモテ期など亀田部長にとっては日常の出来事なのかもしれない。しかも俺のように女に振り回されるのではなく、亀田部長の方が振り回しているように聞こえる。―――『来るもの拒まず、去るもの追わず』なんて、男に生まれたからには一度くらい言ってみたい。しかも如何にも面倒臭そうに物憂げな調子で。大物の亀田部長と違って、俺のような小粒な人間はみのり一人との別れにも未練タラタラ、動揺しまくりなのだが……。亀田部長は俺の想像と違って確かに苦労はしているのだろうが、仕事以外のことに関しては聞けば聞くほど羨ましさが募ってしまう。
「今思うと、俺は本当に相手を欲した経験が無かったんだ。ああ、人として尊敬する相手はいたが……相手のことが気になってしょうがない、仕事より何より優先してしまうと言う気持ちが分からなかった。だから相手が何に怒っているのか、まるで見当がつかなかったんだ」
「えっ……それはその……」
今亀田部長が言った台詞を纏めると……つまりずっと亀田部長は女性に対してそう言う気持ちを抱いた経験が無かった、ということか?えええ?それは、つまり……
「もしかして、亀田部長にとっては奥さん……卯月さんが初恋とか言う……」
十二も年下の派遣社員が初恋なんて。しかも今聞いた話だと三十後半に付き合い始めた相手だろう?俺の中で亀田部長ロリコン疑惑がにわかに浮上しそうになった。いや、卯月さんは見たところちゃんと、成人女性には変わりないんだけど。確かに『大人っぽい』と言うよりは『可愛らしい』タイプなんだよな。
「いや、厳密に言うと違う」
真顔で否定されて、少しだけホッとする。そうだよな、これだけの男がつい最近まで初恋もまだだったなんて、ある訳がない。きっと仕事が一段落付いて、周りに目を向ける余裕が出来て、ちゃんと女性と付き合う経験を経て来たのだろう。しかし『厳密に』と言う表現が僅かに気になるが……
「たぶん俺が初めて仕事がどうでも良くなるほど夢中になったのは『ミミ』だ」
「ミミ……さん、ですか?」
卯月さんじゃなかったのか。
しかし変わった名前だ。そうまるで、うさ……
「雑種の、黒いツヤツヤした毛並みの美人でな。うータンも手触りでは負けないが、ミミはネザーランド・ドワーフ寄りの愛らしい顔つきでな……」
まさかの『うさぎ』だ……!
「出会ったのは駅前のペットショップだ。何の覚悟も無くうろついていたんだが……目が合った途端、分かったんだ。抗えない運命って言うのがある、仕事より何より大事なものがあるってことに」
それから―――『ミミ』との生活、『ミミ』の魅力を語ること、小一時間。
俺は悟った。やはり俺には人の本質を見抜く力は無かったのだと。
人は話してみなければ分からない。しかし話し合った末―――その相手のことがもっと分からなくなることもあるのだ、と。
ただ―――人と人とは『理解し合えない』かもしれない、そして『通じ合えない』こともあるかもしれない。―――という事を知る事も大事なのだろう。
俺は結局相手を自分の物差しでしか測って来なかった。この目の前の銀縁眼鏡上司が極度のうさぎ狂いだと言うことも、みのりが結婚嫌いだったと言うことも、花井さんに裏があることも見抜けなかった。
そしてその銀縁眼鏡上司がそれほど悪い人間ではないらしいってことも、何でも分かったような顔をしていたみのりが実は自分の気持ちもちゃんと把握していなかったと言うことも見抜けなかったのだ。花井さんは―――よく分からないが、彼女にも、もしかすると見えない何かが、俺の彼女を見る目が百八十度変わるような何かがあるのかもしれない。
―――などと無理矢理結論付けて、その夜の不思議な飲み会は終わったのだ。
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