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新妻・卯月の仙台暮らし
穏やかじゃないです。 <亀田>
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暫く呆然としたまま固まっていた俺は、視界が回復し手を離した富樫に声を掛けられ、漸く意識を取り戻した。
「あの、すみません。だいぶん、良くなりました」
「……そうか。じゃあ、行こうか」
スマホには庄子部長からメールが届いている。既に会社に辿り着いたようだ。俺は慌てて、仕事に頭を切り替えて会計を済ませる。それから、富樫を伴って会社に向かった。
しかし移動中、心中穏やかとは言い難かった。
長い時間呆けていた為か、居酒屋の廊下にもレジにも、既に卯月とその連れの男の影は無かった。走って行って捕まえ、コイツは誰だと問い詰めたい衝動に駆られる。
だが一刻も早く富樫を会社に連れて行き、証拠を抑えねばならない。彼女に考える余裕を与えて、冷静になられては困るのだ。そんな事になっては―――これまでの苦労が全て、水の泡になる。このまま遠藤に、安穏とした日々を送らせていい筈がない。ここで決めないと、相手はヌルリと鰻のように籠から逃げ出してしまうかもしれないのだ。
おそらく、資料整理や報告で今夜は徹夜になるだろう。
今回の作業には、人手が無い。部下を巻き込めないのだ。作業出来る人間は、現時点で俺と庄子部長のみ。富樫の直属の上司とは言え、総務課長のような穴だらけの人間に今、漏らせるような話じゃない。
総務部の問題だからと言って、ここで手を離し庄子部長一人に任せる事も出来ない。公に口に出来ない仕事だ。深夜の社内で、男性上司と女性社員の二人切りでこなすのは避けなければならない。
万一遠藤や、気が変わった富樫に、別の問題をでっち上げられては困るのだ。セクハラを受けたとか、パワハラを受けたとか―――今の富樫の様子を見ている限り、そんな心配はなさそうだが、自分の身可愛さに……若しくは好いた男を庇う為には何でもしよう、と言う気になられでもしたら、一気にややこしいことになる。
それは事前に庄子部長とも打合せ済みで、だからこそ富樫が俺を居酒屋へ誘った時に、彼にスマホで実況中継することになったのだ。部長が心配していたのは、富樫が俺を罠に嵌める事だと言う。俺を抱き込む為にハニートラップを仕掛けて来たり、セクハラを受けたと訴えられる可能性を示唆されたのだ。
実は、富樫のような真面目でやや堅物な感じの女がまさか……と、俺は思った。
が、そんな女が、現在遠藤と良からぬ仲にあると噂されているのだし『実際怖いのは、そう言う内に籠った地味な女なんですよ』と、庄子部長ににこやかに諭されて、ひやりと背中が冷たくなる。明らかに俺より庄子部長の方が、女心に詳しそうだ。それ以上反論はせずに、大人しく指示に従う事にした。
無言で富樫と並んで歩く道すがら、俺の脳裏には驚いたように目を丸くする卯月の顔と、勝ち誇ったような短髪の体格の良い男の、垂れ目がちな細められた双眸が浮かぶ。卯月の肩に、躊躇いも無く置かれた大きな手。一体アイツの、あの親し気な態度は何なんだ! 卯月も卯月だ。何故振りほどかない? 何故されるがままになっているんだ?!
いや、違う。卯月はそんな女じゃないんだ。何か事情がある筈だ。
以前俺は卯月の父親である大谷さんを、彼女の彼氏か何かだと勘違いしたことがある。親戚とか……そう、例えば母親の教え子で、兄同然に付き合っていた男だとか。いや、それはそれで、面白くない。それにそんな奴が仙台にいるなんて話、一つも聞いていない。
そこまで考えてハッとする。これから怒涛のように作業が押し寄せて来るだろう。卯月に連絡を入れる機会は、おそらく今しかない。
卯月は俺の帰宅を待っているかもしれない。今日は帰れない旨の連絡を入れなければ。俺はスマホをポケットから取り出した。
しかし、もし。彼女が俺を待っていなかったら?
その可能性に思い至り、手が止まる。気安く俺の妻の肩を抱いていた男。アイツは誰だ? 何故、二人で居酒屋にいたんだ? そうメールで真っ先に確認したい衝動に駆られる。
しかも名前呼びだった。明らかに、おかしいだろ……! いや、このまま文章にするわけには行かない。もっと遠回しに……俺は、何も卯月を信用していないと言う訳じゃない。その点は理解して貰わないと……。ああ、なんて送れば良いんだ?
そんな堂々巡りの問いかけが頭の中をぐるぐる巡って、画面に触れようとして躊躇うことを数度繰り返す。
懊悩している間に、会社に到着してしまった。
『すまないが、今日は帰れない』
パパパ、と必要最低限の、それだけを送信して。
俺はスマホを胸ポケットに収める。身分証を翳し、会社のエントランスの鍵を解除して富樫を促し、中に入ったのだった。
庄子部長と合流したその後は、まさに怒涛だった。資料をひっくり返し、富樫に確認する。コピーを取って付箋を貼り参照し易いように纏めつつ、同時に電子データを纏めた報告書を、本社の東常務に送る。
結局事情聴取のような真似をして、富樫の話を庄子部長の用意していたテープに録音した。アイシーレコーダーで撮った電子データは、裁判などの場合証拠能力が劣ると判断されるようだ。東常務は裁判になる前にカタがつく、と読んでいるようだが、何においても最悪を予想して対処するのが、肝要だ。万が一を考えて、あらゆる手を打っておかねばならない。
しかし富樫は素直に俺達の指示に従い、協力的だった。おそらく全てを吐露することで、何かが吹っ切れたのだろう。沈鬱な表情と言うより、淡々と俯瞰で物事を見るような、何処か他人事のような口調で、彼女の知り得る限りを告白したように見えた。
始業前、朝四時頃には何とか作業を終えることが出来た。庄子部長はあくまで温厚な姿勢を崩さず、富樫に対して変な圧力をかけることなく、しかし同情を示す訳でもなくいつも通り穏やかに接していた。
後から尋ねると『取り調べに、強面刑事は二人もいらないでしょう? 飴と鞭だよ』と、人差し指で頭を差しながら笑った。つまり俺がコワモテ担当……と、こう言うことらしい。全く反論出来ないが、何となく損した気分になる。
東常務に最後の報告を入れた時には、もう空は明るくなっていた。富樫には有休をとらせることとし、タクシーを呼んで家に帰らせる。ここまでが、午前五時過ぎ。やはり予想通り、家に帰っている時間はなさそうだ。
徒歩五分、と言うごく近い場所に庄子部長は家を借りていた。彼の家でシャワーを浴びさせて貰い、会社のロッカーに予備で置いてあったシャツとネクタイ、コンビニで購入した下着で着替えを済ませる。米が食いたい、と思ったが配達間際でちょうど手頃なおにぎりは、品切れだった。珈琲とサンドイッチを手にいれて、シャワーの後、漸く物を口にすることが出来、漸く自分を取り戻したような気分になる。
庄子部長は単身赴任の仮住まいだそうだ。この件が一段落すれば、直ぐに違う場所に飛ばされるらしい。彼は肩を竦めて笑いながら話していたが、多分次はそれなりの場所に栄転するのだろうな、と考えた。
鬼東が出す課題は、毎回厳しいものだ。が、それをクリアすれば、彼は報酬を惜しむ事はない。彼の考える『報酬』だけれどな。昇進には、苦労がつきものだ。嬉しい事ばかりじゃないのは、庄子部長も十分に分かっている。
着替えた後、コンビニで買った歯ブラシで歯を磨く。髭剃り一式は、庄子部長のモノを借りる事が出来た。そうして仕度を終えてから、やっと落ち着いてスマホを確認する。
しかし―――返信は全くない。
問い合わせもしてみたが―――やはり、一件もない。いや、篠岡から『お疲れさん(^^♪』と呑気なメールが届いていた。一瞬、卯月のメールかと思った俺は、それを見てガックリと肩を落とした。
「たまたま、だ。送信忘れ、とかな。それとも忙しくて、返信できなかったとか」
などと敢えて、呟いてみる。しかし『何で忙しかったんだよ。メールくらいできるだろ? あの男と一緒だから忙しいとか?』などと、心の中の誰かが、ツッコミを入れる。俺はその悪魔の声を振り払うように、首を振った。
卯月に限ってそんなこと、ある筈がない。
「きっと何か事情がある筈だ……」
「亀田君、もう出ないと―――どうした?」
庄子部長に、スマホを手にブツブツ呟くのを、見られてしまった。俺は「いえ、何でもありません」とスマホをポケットにしまい、鞄を手にした。
「寝不足かもしれんが―――頼むな。今日は、忙しくなるぞ」
「はい」
肩をポンと叩かれる。
これからが、本番だ。遠藤を呼び出し、証拠を突き付ける。会社のルールに則った処分は、既に決まっている。『懲戒解雇』―――けれども、遠藤の出方と彼の妻側の事情によっては、変わるかもしれない。相手があくまでシラを切り、返金を渋れば民事裁判での賠償請求、そして刑事訴訟も視野には入れているが―――きっと、そう言うことにはならないだろう。
東常務はおそらく、彼の妻が金を用意するだろう、と言っている。誤魔化した金は全額返金され、裁判まで行かずに手打ちで終わる。遠藤は懲戒解雇では無く、温情ある自主退職になるかもしれない。その方が会社にとっても都合が良い。裁判となれば時間と手間も膨大にかかるし、下手すると裁判費用で、赤字になることも考えられる。
これから会計の処理やら、処分の手続やら―――本社と支店の総務課、それから営業企画課で連携して膨大な作業をこなさなければならない。通常業務をこなしながら、な。
溜息を吐きそうになったが、敢えて背筋を伸ばす。
愚痴は幾らでも言える。でも、そこに留まって手を止めてはならないのだ。泥山をスコップでひたすらくみ出すような作業も、続けていればいつかは底が見える。それを目指して淡々と掘り続けるしかない。
そうして俺は、頭を仕事モードに切り替えた。そうすれば、一番気になっていることを考えずに思い悩まずに済むから、と言うのもあるかもしれない。どのみち、まだ確かめるすべはないのだ。全ては今日の仕事を終わらせてから。それから漸く、卯月とうータンの待つあの家に帰ることが出来る。
……二人(一人と一匹)が待っているかどうか、と言う所は今は敢えて考えないようにするしかない。かつて戸次に起こった不幸な出来事が一瞬頭を掠めたが、俺は再び首を振ってその想像を打ち消したのだった。
「あの、すみません。だいぶん、良くなりました」
「……そうか。じゃあ、行こうか」
スマホには庄子部長からメールが届いている。既に会社に辿り着いたようだ。俺は慌てて、仕事に頭を切り替えて会計を済ませる。それから、富樫を伴って会社に向かった。
しかし移動中、心中穏やかとは言い難かった。
長い時間呆けていた為か、居酒屋の廊下にもレジにも、既に卯月とその連れの男の影は無かった。走って行って捕まえ、コイツは誰だと問い詰めたい衝動に駆られる。
だが一刻も早く富樫を会社に連れて行き、証拠を抑えねばならない。彼女に考える余裕を与えて、冷静になられては困るのだ。そんな事になっては―――これまでの苦労が全て、水の泡になる。このまま遠藤に、安穏とした日々を送らせていい筈がない。ここで決めないと、相手はヌルリと鰻のように籠から逃げ出してしまうかもしれないのだ。
おそらく、資料整理や報告で今夜は徹夜になるだろう。
今回の作業には、人手が無い。部下を巻き込めないのだ。作業出来る人間は、現時点で俺と庄子部長のみ。富樫の直属の上司とは言え、総務課長のような穴だらけの人間に今、漏らせるような話じゃない。
総務部の問題だからと言って、ここで手を離し庄子部長一人に任せる事も出来ない。公に口に出来ない仕事だ。深夜の社内で、男性上司と女性社員の二人切りでこなすのは避けなければならない。
万一遠藤や、気が変わった富樫に、別の問題をでっち上げられては困るのだ。セクハラを受けたとか、パワハラを受けたとか―――今の富樫の様子を見ている限り、そんな心配はなさそうだが、自分の身可愛さに……若しくは好いた男を庇う為には何でもしよう、と言う気になられでもしたら、一気にややこしいことになる。
それは事前に庄子部長とも打合せ済みで、だからこそ富樫が俺を居酒屋へ誘った時に、彼にスマホで実況中継することになったのだ。部長が心配していたのは、富樫が俺を罠に嵌める事だと言う。俺を抱き込む為にハニートラップを仕掛けて来たり、セクハラを受けたと訴えられる可能性を示唆されたのだ。
実は、富樫のような真面目でやや堅物な感じの女がまさか……と、俺は思った。
が、そんな女が、現在遠藤と良からぬ仲にあると噂されているのだし『実際怖いのは、そう言う内に籠った地味な女なんですよ』と、庄子部長ににこやかに諭されて、ひやりと背中が冷たくなる。明らかに俺より庄子部長の方が、女心に詳しそうだ。それ以上反論はせずに、大人しく指示に従う事にした。
無言で富樫と並んで歩く道すがら、俺の脳裏には驚いたように目を丸くする卯月の顔と、勝ち誇ったような短髪の体格の良い男の、垂れ目がちな細められた双眸が浮かぶ。卯月の肩に、躊躇いも無く置かれた大きな手。一体アイツの、あの親し気な態度は何なんだ! 卯月も卯月だ。何故振りほどかない? 何故されるがままになっているんだ?!
いや、違う。卯月はそんな女じゃないんだ。何か事情がある筈だ。
以前俺は卯月の父親である大谷さんを、彼女の彼氏か何かだと勘違いしたことがある。親戚とか……そう、例えば母親の教え子で、兄同然に付き合っていた男だとか。いや、それはそれで、面白くない。それにそんな奴が仙台にいるなんて話、一つも聞いていない。
そこまで考えてハッとする。これから怒涛のように作業が押し寄せて来るだろう。卯月に連絡を入れる機会は、おそらく今しかない。
卯月は俺の帰宅を待っているかもしれない。今日は帰れない旨の連絡を入れなければ。俺はスマホをポケットから取り出した。
しかし、もし。彼女が俺を待っていなかったら?
その可能性に思い至り、手が止まる。気安く俺の妻の肩を抱いていた男。アイツは誰だ? 何故、二人で居酒屋にいたんだ? そうメールで真っ先に確認したい衝動に駆られる。
しかも名前呼びだった。明らかに、おかしいだろ……! いや、このまま文章にするわけには行かない。もっと遠回しに……俺は、何も卯月を信用していないと言う訳じゃない。その点は理解して貰わないと……。ああ、なんて送れば良いんだ?
そんな堂々巡りの問いかけが頭の中をぐるぐる巡って、画面に触れようとして躊躇うことを数度繰り返す。
懊悩している間に、会社に到着してしまった。
『すまないが、今日は帰れない』
パパパ、と必要最低限の、それだけを送信して。
俺はスマホを胸ポケットに収める。身分証を翳し、会社のエントランスの鍵を解除して富樫を促し、中に入ったのだった。
庄子部長と合流したその後は、まさに怒涛だった。資料をひっくり返し、富樫に確認する。コピーを取って付箋を貼り参照し易いように纏めつつ、同時に電子データを纏めた報告書を、本社の東常務に送る。
結局事情聴取のような真似をして、富樫の話を庄子部長の用意していたテープに録音した。アイシーレコーダーで撮った電子データは、裁判などの場合証拠能力が劣ると判断されるようだ。東常務は裁判になる前にカタがつく、と読んでいるようだが、何においても最悪を予想して対処するのが、肝要だ。万が一を考えて、あらゆる手を打っておかねばならない。
しかし富樫は素直に俺達の指示に従い、協力的だった。おそらく全てを吐露することで、何かが吹っ切れたのだろう。沈鬱な表情と言うより、淡々と俯瞰で物事を見るような、何処か他人事のような口調で、彼女の知り得る限りを告白したように見えた。
始業前、朝四時頃には何とか作業を終えることが出来た。庄子部長はあくまで温厚な姿勢を崩さず、富樫に対して変な圧力をかけることなく、しかし同情を示す訳でもなくいつも通り穏やかに接していた。
後から尋ねると『取り調べに、強面刑事は二人もいらないでしょう? 飴と鞭だよ』と、人差し指で頭を差しながら笑った。つまり俺がコワモテ担当……と、こう言うことらしい。全く反論出来ないが、何となく損した気分になる。
東常務に最後の報告を入れた時には、もう空は明るくなっていた。富樫には有休をとらせることとし、タクシーを呼んで家に帰らせる。ここまでが、午前五時過ぎ。やはり予想通り、家に帰っている時間はなさそうだ。
徒歩五分、と言うごく近い場所に庄子部長は家を借りていた。彼の家でシャワーを浴びさせて貰い、会社のロッカーに予備で置いてあったシャツとネクタイ、コンビニで購入した下着で着替えを済ませる。米が食いたい、と思ったが配達間際でちょうど手頃なおにぎりは、品切れだった。珈琲とサンドイッチを手にいれて、シャワーの後、漸く物を口にすることが出来、漸く自分を取り戻したような気分になる。
庄子部長は単身赴任の仮住まいだそうだ。この件が一段落すれば、直ぐに違う場所に飛ばされるらしい。彼は肩を竦めて笑いながら話していたが、多分次はそれなりの場所に栄転するのだろうな、と考えた。
鬼東が出す課題は、毎回厳しいものだ。が、それをクリアすれば、彼は報酬を惜しむ事はない。彼の考える『報酬』だけれどな。昇進には、苦労がつきものだ。嬉しい事ばかりじゃないのは、庄子部長も十分に分かっている。
着替えた後、コンビニで買った歯ブラシで歯を磨く。髭剃り一式は、庄子部長のモノを借りる事が出来た。そうして仕度を終えてから、やっと落ち着いてスマホを確認する。
しかし―――返信は全くない。
問い合わせもしてみたが―――やはり、一件もない。いや、篠岡から『お疲れさん(^^♪』と呑気なメールが届いていた。一瞬、卯月のメールかと思った俺は、それを見てガックリと肩を落とした。
「たまたま、だ。送信忘れ、とかな。それとも忙しくて、返信できなかったとか」
などと敢えて、呟いてみる。しかし『何で忙しかったんだよ。メールくらいできるだろ? あの男と一緒だから忙しいとか?』などと、心の中の誰かが、ツッコミを入れる。俺はその悪魔の声を振り払うように、首を振った。
卯月に限ってそんなこと、ある筈がない。
「きっと何か事情がある筈だ……」
「亀田君、もう出ないと―――どうした?」
庄子部長に、スマホを手にブツブツ呟くのを、見られてしまった。俺は「いえ、何でもありません」とスマホをポケットにしまい、鞄を手にした。
「寝不足かもしれんが―――頼むな。今日は、忙しくなるぞ」
「はい」
肩をポンと叩かれる。
これからが、本番だ。遠藤を呼び出し、証拠を突き付ける。会社のルールに則った処分は、既に決まっている。『懲戒解雇』―――けれども、遠藤の出方と彼の妻側の事情によっては、変わるかもしれない。相手があくまでシラを切り、返金を渋れば民事裁判での賠償請求、そして刑事訴訟も視野には入れているが―――きっと、そう言うことにはならないだろう。
東常務はおそらく、彼の妻が金を用意するだろう、と言っている。誤魔化した金は全額返金され、裁判まで行かずに手打ちで終わる。遠藤は懲戒解雇では無く、温情ある自主退職になるかもしれない。その方が会社にとっても都合が良い。裁判となれば時間と手間も膨大にかかるし、下手すると裁判費用で、赤字になることも考えられる。
これから会計の処理やら、処分の手続やら―――本社と支店の総務課、それから営業企画課で連携して膨大な作業をこなさなければならない。通常業務をこなしながら、な。
溜息を吐きそうになったが、敢えて背筋を伸ばす。
愚痴は幾らでも言える。でも、そこに留まって手を止めてはならないのだ。泥山をスコップでひたすらくみ出すような作業も、続けていればいつかは底が見える。それを目指して淡々と掘り続けるしかない。
そうして俺は、頭を仕事モードに切り替えた。そうすれば、一番気になっていることを考えずに思い悩まずに済むから、と言うのもあるかもしれない。どのみち、まだ確かめるすべはないのだ。全ては今日の仕事を終わらせてから。それから漸く、卯月とうータンの待つあの家に帰ることが出来る。
……二人(一人と一匹)が待っているかどうか、と言う所は今は敢えて考えないようにするしかない。かつて戸次に起こった不幸な出来事が一瞬頭を掠めたが、俺は再び首を振ってその想像を打ち消したのだった。
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