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・後日談・ 俺とねーちゃんのその後の話
35.隣で見る夢は <清美>
しおりを挟む小刻みに震える細い肩に手を掛け、壁側を向いている体を仰向けに、こちらにゆっくりと開かせる。
ねーちゃんは、咄嗟に右腕で顔を隠した。左腕の二の腕は、俺の右手で固定されていて、動かせないから。
真っ白になった、ちっとも働かない自分の脳に体の動きを制御されたまま、俺はその様子をただ眺めているしか無かった。ショックを受けているのではない。同情している訳でも。ただ、その光景に、訳も分からず打ちのめされていた。
「ねーちゃん……何で泣いてるの……?」
ねーちゃんは右腕で顔を隠したまま、無言で首を振った。唇を噛んで、漏れる声を堪えている。
俺は慎重に行動した。左手でねーちゃんの右腕を掴み、そっとその小さな顔から外した。
泣きはらした縁の赤くなった2つの大きな瞳が現れた。
苺ダイフクだ。
なぜだか、そう思った。
よほど混乱していたのかもしれない。
「清美……泣いてるの……?」
目を見開いて呆けた様子のねーちゃん。
そのとき初めて気が付いた。
頬にぬるついた、温かものが伝う気配に。思わず左手で触れると、同じように俺も泣いているのだと、気いた。
「……泣いているのは、ねーちゃんだよ」
俺はその二の腕から手を放した。そして壁際の棚に備え付けられていた藤製のティッシュケースを引き寄せ、ティッシュを綺麗に四ツ折りにして、ねーちゃんの目元と濡れた髪に押し当てた。
「清美のほうが、スゴイよ」
「うん」
俺はねーちゃんの顔を押さえるように優しく拭きつつ、違う手でティシュを引き抜き自分の顔をガシガシと拭った。
「ふふ」
ねーちゃんが小さく笑った。
良かった。少しほっとして、俺の緊張も解ける。
目を見交わして改めて手を繋ぎ、布団に入る。
満たされる。
そう思った。
依然、何も解決していないのに、繋いだ手から伝わる体温が、俺の空っぽだった心を温める。まるで凍っていた心臓が解け始めたみたいに。強張っていた心が解れていく。
ああ。
俺は今、間違いに気が付いた。
本当に簡単な事だったんだ。
ずっと、俺は知っていた。
だけど、自分の中にある真実から、頑なに目を逸らしていた。
ぎゅっと力を籠めると、ねーちゃんも一拍遅れて握り返して来た。
目を瞑ると、瞼の端から涙が零れた。
さっきのとは、少し違う。
あたたかな、熱いウロコが、ぽろりぽろりと剥がれるみたいに。
ふと眦に触れるものに気がついて、俺は目を開いた。
ねーちゃんが左手を俺の右手に預けたまま、俺に向き合って涙を流す俺を見ていた。あたたかな優しい視線が、俺を包み込む。
「さいごに……」
そうねーちゃんの唇が動いたような気がした。
ゆっくりとそれが俺の顔に近づいてきて、指で触れていた眦に触れ、それから唇に重なった。
柔らかい。
こんなに柔らかかったっけ……?
そして微かに甘い気がする。
何か月振りだろう、ねーちゃんとキスするのは。
ちゅっと啄むように、軽く触れる唇。
ねーちゃんから触れてきたのは、初めてじゃないだろうか。
一瞬真っ白になった俺の頭は、そのあと沸騰した血液でいっぱいに満たされた。
気付いた時には、俺の体は勝手にぐるんっと回転していて、ねーちゃんを布団に押し付けるように組み伏せていた。
喉が塞がったように、声が出ない。
荒い息だけが、俺の気道を往復している。
ゆっくりと覆いかぶさり、今度は俺から、ねーちゃんの小さな朱い唇に自分の唇を合わせた。
そして暫くの間、柔らかさを堪能するように、薄甘い唇を優しく食んだ。
ねーちゃんは抵抗しなかった。
ただじっと、俺を見ている。
その瞳に恐怖の色は浮かばず、ただ包み込むような優しい光が湛えられているだけだった。
拒否されていない。受け入れられている。
そのサインを感じ取り、俺の本能が歓喜した。
俺は熱に浮かされた頭で、ただ愛しさを味わっていた。
愛しい、嬉しい……という温かな感情だけが、そのときの俺を満たしていてた。
俺は自身の唇で。
ありったけの気持ちを籠めて、彼女を慈しむ。
ゆっくりと深くなるキスが、徐々に2人の間にあった目に見えない薄い膜を溶かしていく。
長い口付けから解放された小さな唇が、ぽてっと腫れて更に朱くなった。
夢の中にいるような現実感の無い時間。
薄暗さに慣れた視力が、すっかり女性の顔になった彼女の表情を捕らえる。そのまま俺は彼女の耳に吸い付き、その体がビクリと跳ねた事に励まされて、首筋をなぞるようにキスを振らせていった。終に鎖骨まで唇が辿り着いたとき、ふっと彼女の唇から息が漏れる。
彼女の顔の両脇に付いた手を支えにして、じっとその顔を見つめた。
視線が磁石のように吸い付けられる。
俺は彼女の瞳から目を逸らさないまま、右手を浴衣の合わせに差し入れた。僅かな身じろぎを感じたが、一気にそこへ掌を差し入れ、その白い肩を晒した。暗い闇夜の中でも、彼女の頬に朱が昇るのがわかった。
俺はその肩にかぶりつこうと、再び覆い被さるように、顔を近づけ……
「……テイチャクがたりないっ!!」
……ようとして、襖の向こうのかーちゃんの叫び声に、ガツンと頭を殴られた。
その途端ハッと意識が明瞭になり、ねーちゃんと目を見交わす。
ねーちゃんも夢から覚めたように顔を強張らせていた。
それからの俺は、加速装置が装備されたかのように、素早かった。
ささっと、ねーちゃんの浴衣の合わせを直し、その肩まで布団を引き上げる。直後、俺は彼女の上からぐるんと体を反転し、自分の布団にボスンと受け身を取って、そそくさと掛け布団を引っ張った。
ドキドキと心臓が高鳴り、俺らは息を潜めて耳を澄ませた。
「……」
「……」
どうやら、かーちゃんが起きる気配は、ない。
寝言だったのだろうか。
そう確信を持てるくらい十分な沈黙を経てから、俺は上掛けを剥ぎ、そろりと四つん這いで襖のほうへにじり寄った。
「な……でホルム……がさがらないの……」
今度は苦悶するような悩ましい声が聞こえた。
四つん這いのまま、襖を10センチほど開けて覗き込むと、大の字になったかーちゃんが、むにゃむにゃと寝言を言っていた。その足がとーちゃんの胸と腹の上に乗っていて、相変わらず、とーちゃんはうなされているようだった。
「寝言だね……」
頭の上から声がした。
四つん這いになって覗き込む俺の横に立ったねーちゃんが、同じように襖の向こうを覗き込んでいた。
「ぷっ」
「ふふっ」
思わず噴き出してしまった自分の口を手で塞ぎ、俺達は瞳を見交わして頷き合った。それからそっと襖を閉めて、和室の布団へそっと引き返す。
布団に潜り込んだねーちゃんの掛け布団の端をきちんと揃えてやる。ねーちゃんは別に気にしないと言うけれど、きちんと掛けておいた方がやはりいいと思う。
何より俺がねーちゃんを宝物のように大事に思っているという表現の一つなのだから、勝手にやらせてほしい。
そして俺も隣の布団に潜り込み、肩まで布団を掛けて目を閉じた。
俺の右手とねーちゃんの左手が。
いま布団の下で柔らかく重ねられている。
逃がさないというように強く握りしめることをもせず。
膜を隔てたような距離も取らずに。
ただ肌を触れ合う距離にいられる今が、嬉しかった。
あと数時間しか寝られないけど。
きっと幸せな夢が見られる―――そんな気がした。
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