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・番外編・仮初めの恋人
4.別行動(★)
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自室のベッドで寝転がりながらワイポッドの音楽をイヤホンで聞いていた。うつ伏せになって大きな犬のぬいぐるみに顎を載せて、漫画雑誌を読んでいる。
素敵な恋愛物語。
ドキドキしたり、ハラハラしたり。
ヒーローが優しくて誠実で、ヒロインを一番に欲してくれる。
誤解があっても結局両想いだって最後には分かって、溜飲が下がる。
そんな恋物語が好きだった。
でも現実のほうがもっと素敵。漫画の中のヒーローより私の先輩はカッコ良いと思う。
そして、現実のほうがもっと残酷。先輩が私に与える苦しみや植えつけた嫉妬心は、夢中になったどんな物語より激しく私を苛んだ。だからこそ優しくされた時、微笑んでくれた時の快感は―――私を中毒になるほど夢中にさせてしまう。
先輩は今頃何処にいるのかな?
今日は家族で食事に出かけるそうだ。
学校以外で会う事のできる、土曜日の練習の後と日曜日は特別な時間だった。だけど先輩は家族をすごく大事にしているようなので、今日は我儘を封印して大人しくしているのだ。
スポっ。
「漫画ばっか、読んでんじゃねーよ」
私の片耳からイヤホンを勝手に抜き取った男が、ついでに嫌味を吹き込んだ。
キッと睨みつけてその手からイヤホンを取り戻すと、口の悪いソイツは断りも無く私のベッドに腰を下ろした。
「あんただって、読んでるでしょ。部活もせずにフラフラしてさぁ」
「お前だって、茶道部の幽霊部員だろ?出席したってお菓子食ってダベッてるだけだろう」
ムッと口を曲げた幼馴染の克己は、私の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「やめてよっ!もー、なんなの」
バシッと手を払いのける。
こんな風に乱暴に遣り取りするのは、小学校の頃から当り前のコトだ。だから気を悪くするでもなく克己はかえってニヤニヤしていた。
「映画、見に行かね?」
「胡桃と行きゃあ、いいじゃん」
私が先輩と付き合い始めた頃、克己は私の友達の胡桃と付き合い始めた。
お嬢様でおしとやかな胡桃はずっと克己を好きだったのだけれど、いい加減で乱暴な克己は気付いているのか気付いていないのか胡桃の事を放ったらかしにしていた。
胡桃のために二人が一緒に行けるイベントを企画したり、男女数人でカラオケに行ったり、克己の個人情報を横流ししたりと―――私は忠実な恋愛サポーターとして貢献した。
代わりに胡桃は、私の先輩に対する熱い思いや付き合ってからの不安や愚痴を聞いてくれるという、大きなお返しをしてくれている。
つまり、私達は『ウィン=ウィン』の関係―――互いに助け合い利益を与え合う良い関係を保っているのだ。
私が先輩に告白して成功をした事に励まされて、胡桃も克己に告白する事を決意した。
こうして、胡桃の恋は無事成就したのだ。
だから克己は映画にはまず、胡桃を誘うべきである。
「今、行きたいんだ!胡桃は今日から家族旅行だから。お前も見たいって言ってただろ?スペースウォーズの久しぶりの最新作!」
「う……まあ、ねえ」
確かに見たかった。でも先輩に会う時間も削りたく無かった。
この間の変わったミニシアター系の映画を見た後では、先輩をその映画に誘う気持ちは萎えてしまった。趣味が違い過ぎる事は明白で、私の趣味に付き合わせてますます距離が離れてしまうのは避けたかった。だから中々見に行く機会に恵まれなかったのだ。
「今日、8時30分からのヤツ。おばさんにはさっき言っといた。11時終わりだけど終わったらすぐ帰るって約束したし」
「ええ~」
嫌そうな素振りをしながらも先輩のいない時間を持て余していた私は、ちょっと乗り気になっていた。どうせ先輩と見に行けるワケないしな。娯楽超大作とか、趣味じゃ無いと思う。それに映画見る時間あったら、先輩とは別のところでイチャイチャしていたいし……。
「おい」
克己が妄想を逞しくしている私の頬っぺたを摘まんで引っ張った。
「いひゃいっ!」
「気持わりぃ顔、すんな。なんか変な妄想してるだろ」
頬っぺたを奪還し、私はヒリヒリする部分を擦って言った。
「じゃあ、いこ。夜ごはんどーする?食べた?」
「おばさんが食べてけって言ってたぞ、もう用意できたから呼んで来いって言われた」
「それを先に言ってよ!」
お腹ペコペコなんだから……!
** ** **
駅ビルにあるシネコンに辿り着いた。
「俺、実は3D見るの初めてなんだ」
「うっそー、遅くない?」
「だから、なんかスゲーワクワクして来た」
克己は嬉しそうにチケット売り場に並んでいる。かくいう私もずっと見たかった映画だし3D映画を見た経験も一度切りだったから、はやる心を宥めつつウキウキと列に並んでいた。
チケット買ったら売店でポップコーンを買って、飲み物は……キョロキョロと売店を目で探した。すると見覚えのある長身を見とがめて、大きな声を出しそうになってしまう。
その人は柔らかい猫っ毛で、いつもは無造作な感じに緩いパーマを掛けた髪をセットしている。けれども今はその髪をきちんと撫でつけて、見たことも無いような隙の無い格好をしていた。白いシャツにカッチリしたスーツを着こなし、それから精悍な容貌と均整の取れた体に似合わない、華奢な女もののバッグを手に持っていた。
見間違えようもない―――周囲の女の子たちも振り返ってコソコソ噂をしている。
いつもの彼なら、こなれたジーンズにTシャツ、革製品のアクセサリーにエンジニアブーツを絶妙に着こなしている所だ。それが野性的な容貌にしっくり来過ぎていて、待ち合わせではいつも彼を見つけるとあまりの格好良さにドキリと胸が跳ねてしまう。高校では品行方正に見えがちなブレザーを程良く気崩していて、色気の漂う立ち姿に毎日と言って良いほど見惚れてしまう。けれども共通しているのは、どちらも最低限学生と分かる装いだと言う事だ。
それが……今はどこから見てもお金持ちの御曹司かエリートビジネスマン―――そんな風にしか見えない。
そういえば直接確認したことは無いけれども先輩の家はお金持ちで、お父さんがやり手の実業家だっていう噂を聞いたことがある。
先輩と付き合う以前、ある友達が「じゃあ、将来結婚する時は政略結婚だったりするのかな?ひょっとして、もう婚約者がいたりして!」って言い出して「漫画じゃあるまいし」と他の友達が一蹴していたのを思い出した。
先輩がお金持ちの家の息子かどうかなんて、どうでもよかった。そんなオプションが無くても、先輩のカッコ良さは変わらない。
だけど『婚約者』って単語には胸がざわついた。
現にどんどん彼女が変わるのは『婚約者』がいて今の彼女との付き合いは全て遊びなのだという説も―――シツコク残っていた。『忘れられない人がいる』って言う噂の方が優勢だったけれど。
今目にしている彼は、別世界の人みたい。
いつも私の隣で手を繋いで笑いかけてくれる人とは―――別人に見える。
「おい、進んでるぞ」
立ち止まった私の背をポン、と叩いて克己が言った。
ノロノロと歩き出し、列を詰めると「どうした?」と私の顔を覗き込んでくる。
「先輩が……」
「うん?先輩って……お前の彼氏の事か?」
「うん、そこに居て」
「今日家族と食事っつってたっけ?じゃあ、もしかしてその前に映画でも見てたのかな」
家族と映画……?無いわけじゃないと思うけど……。
「どこ?」
「あそこ。エスカレーターのトコ」
シネコンの出入口の前に直通のエスカレーターがあった。彼はボンヤリと佇んでいた。まるで誰かを待っているかのように。
「エスカレーター……あ、あれか。スゲー目立つな。何でスーツ着てんの?あの人」
その時、所在無げに映画の広告の辺りを見ていた先輩の顔が、パっと輝いた。どうやら待ち人が戻ったようだ。
その人は柔らかな笑顔を湛えながら現れた。
スっと背筋の伸びた、背の高い華奢な女性。
白いワンピースの肩に薄い若草色のカーディガンを羽織って、首にはキラリと光るダイヤのネックレス。小さなポーチを華奢なブレスレットをした手に持って、先輩に手を挙げて歩み寄っていく。
彼女を見る先輩の表情。
そんな表情は見たくない。
初めて見た。
夢見るようにウットリとして、瞳には私に決して向ける事の無かった熱が灯っている。
いつも優しく微笑んでくれる余裕の表情はそこには無く、頬を赤らめて照れたようにはにかんでいる。
見たくないのに、目が離せない。
そんな目で見て欲しかったのは、私。
お願い、他の人をそんな目で見ないで……。
「アイツの姉貴か?あのキレーなねーちゃん?」
「おねえさんなんか、いないよ……」
「え、じゃあ……」
克己はゴクリと唾を呑みこんで、押し黙った。それから少し慌てたように「じゃ、友達なんじゃね?いっぱい女友達いるって、言ってたじゃん」と何故か先輩のフォローをする。だけど下手過ぎて返って違和感が鮮明になってくる。
「克己。なんでそんな事知ってるの」
私が彼らから目を外さないまま低い声を出すと「うっ」っと呻いてそれ以上答えなかった。
その態度にピンと来た。
―――胡桃だな。
「そ、それより、列進んだぞ!前詰めろよ」
話題を変えるように、克己が私を促した。
「……やめた」
「え?」
「映画見ない。先輩達を追いかける」
「はぁ?!」
素っ頓狂な声を出す克己を残して、私は列を抜けた。
白いワンピースの女の人をエスコートして、先輩がエスカレーターに消えたから。
先輩は『女友達』と会う時は、正直にそう言う。
でも最近私は我儘だった。女友達と会うのを止めない約束なのに、不機嫌になったり一緒に行きたいと言い募ったり。
それが面倒になった……?
だから、私に黙って女の人と会っているのだろうか?
そういう風に考えてみたけれども、どうしても違和感が拭いきれない。
だって他の女友達と話すときも、私と話す時だって―――先輩があんな風に頬を染めてウットリと見つめていたなんてコトが今まであっただろうか。
いや。そんな瞬間は一度も無かった。
断言できる。あの人は特別なんだ。
嫌な予感が私の全身を貫いた。
体が痛い。息が苦しい。胸が潰れるよう。
これが、嫉妬?
だとしたら、今まで感じたものとは比べものにならないほどの毒薬だ。
御伽噺で魔法使いに人間にしてもらった人魚姫は、口を聞けない上に歩くたびに足に激痛が走るっていう条件を課せられたっけ。
まるで今の私と同じだ。
先輩と付き合える魔法をかけて貰った。
代わりに、嫉妬という刃にいつも心臓を貫かれる痛みに耐えなければならない。そしてそれを口に出して相手を責めてしまえば―――魔法は解けてしまうのだ。痛みから解放される代わりに、甘美な夢を……彼の一番近くに居られる権利も失ってしまうかもしれない。
今までもチクチクする痛みに耐えて来た。
一番傍に居られるなら。彼の瞳に映る権利を―――手を繋ぎキスをして抱きしめられる他の『女友達』より優遇された地位を約束して貰えるなら、その痛みに耐える価値はあった。
だけど、あの先輩の表情を。
ウットリと熱の籠った瞳を見たら。
―――耐えられないかもしれない。
初めてそう思った。
「おい、待てって」
肩に手が掛かる。克己が列を抜けて私を追いかけて来た。
「俺も行く」
あと一人でカウンターに辿り着く処だった。克己の必死な顔を見て、私は少し頭が冷えた。
「いいよ。克己は映画見てて。行先確認したいだけだから」
「うん、だから俺も行く。本当は追いかけない方がいいと思うけど―――電話して聞いてみればいいじゃん。『今見掛けたよ』ってさ」
「やだ」
「だからだよ。そんなヒドイ顔で黙って後つけてどうすんの?直接聞けないくらいヤバい予感がしてるんだったら、尚更一人で居ない方がいい……あっちょっ!待てっ」
見失いそうになって、私は小走りに走った。
その後ろを克己が付いて来る。
私はもう、克己を追い返そうという気を失っていた。
背の高い先輩は周囲より一つ頭が抜けていて、追いかけるのは思ったより簡単だった。
華奢な白いワンピースの彼女と寄り添うように歩きながらも、二人が手を繋ぐ様子や肩や腰に手をやる仕草は幸い見られなかった。
けれども時折微笑みを交わし、何かを指差しながら笑いあう素振りを目にすると―――醸し出される親し気な空気に頭の配線が焼ききれそうになった。
本当に眩暈を感じてしまうほど。
「大丈夫か?」
ぴったりと背後に控えながら、克己は心配そうに私を覗き込んだ。
けれども私はそんな克己を無視して、前を行く二人の背中を睨み付けていた。
二人はあるエレベーターの前で立ち止まった。
それは、そのビルのにあるホテルの直通エレベーターだった。
エレベーターの扉が開く。
彼がドアを押さえて、彼女をそこへ招いた。
クスリと笑って先にエレベーターの中へ歩き出す彼女の背に手を添えて、スマートにエスコートする彼の仕草は―――洗練されていて一部の隙も感じられない。
あんな人だったかな。
私の恋人とは違う人に見える。
エレベーターが閉まって笑いあう二人の姿が、その扉の奥に消えた。
「あ、みゆ!」
克己が声を掛けたがもう、私の耳には届かない。
私は衝かれたように走り出し、エレベーターの前で立ち尽くした。
2……3……4、とエレベーターの進む階が順に光る。
4階で止まった。
直ぐに案内板を見る。
そこには『4階 ○○ホテル フロント』―――そう、表示されていた。
素敵な恋愛物語。
ドキドキしたり、ハラハラしたり。
ヒーローが優しくて誠実で、ヒロインを一番に欲してくれる。
誤解があっても結局両想いだって最後には分かって、溜飲が下がる。
そんな恋物語が好きだった。
でも現実のほうがもっと素敵。漫画の中のヒーローより私の先輩はカッコ良いと思う。
そして、現実のほうがもっと残酷。先輩が私に与える苦しみや植えつけた嫉妬心は、夢中になったどんな物語より激しく私を苛んだ。だからこそ優しくされた時、微笑んでくれた時の快感は―――私を中毒になるほど夢中にさせてしまう。
先輩は今頃何処にいるのかな?
今日は家族で食事に出かけるそうだ。
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スポっ。
「漫画ばっか、読んでんじゃねーよ」
私の片耳からイヤホンを勝手に抜き取った男が、ついでに嫌味を吹き込んだ。
キッと睨みつけてその手からイヤホンを取り戻すと、口の悪いソイツは断りも無く私のベッドに腰を下ろした。
「あんただって、読んでるでしょ。部活もせずにフラフラしてさぁ」
「お前だって、茶道部の幽霊部員だろ?出席したってお菓子食ってダベッてるだけだろう」
ムッと口を曲げた幼馴染の克己は、私の頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「やめてよっ!もー、なんなの」
バシッと手を払いのける。
こんな風に乱暴に遣り取りするのは、小学校の頃から当り前のコトだ。だから気を悪くするでもなく克己はかえってニヤニヤしていた。
「映画、見に行かね?」
「胡桃と行きゃあ、いいじゃん」
私が先輩と付き合い始めた頃、克己は私の友達の胡桃と付き合い始めた。
お嬢様でおしとやかな胡桃はずっと克己を好きだったのだけれど、いい加減で乱暴な克己は気付いているのか気付いていないのか胡桃の事を放ったらかしにしていた。
胡桃のために二人が一緒に行けるイベントを企画したり、男女数人でカラオケに行ったり、克己の個人情報を横流ししたりと―――私は忠実な恋愛サポーターとして貢献した。
代わりに胡桃は、私の先輩に対する熱い思いや付き合ってからの不安や愚痴を聞いてくれるという、大きなお返しをしてくれている。
つまり、私達は『ウィン=ウィン』の関係―――互いに助け合い利益を与え合う良い関係を保っているのだ。
私が先輩に告白して成功をした事に励まされて、胡桃も克己に告白する事を決意した。
こうして、胡桃の恋は無事成就したのだ。
だから克己は映画にはまず、胡桃を誘うべきである。
「今、行きたいんだ!胡桃は今日から家族旅行だから。お前も見たいって言ってただろ?スペースウォーズの久しぶりの最新作!」
「う……まあ、ねえ」
確かに見たかった。でも先輩に会う時間も削りたく無かった。
この間の変わったミニシアター系の映画を見た後では、先輩をその映画に誘う気持ちは萎えてしまった。趣味が違い過ぎる事は明白で、私の趣味に付き合わせてますます距離が離れてしまうのは避けたかった。だから中々見に行く機会に恵まれなかったのだ。
「今日、8時30分からのヤツ。おばさんにはさっき言っといた。11時終わりだけど終わったらすぐ帰るって約束したし」
「ええ~」
嫌そうな素振りをしながらも先輩のいない時間を持て余していた私は、ちょっと乗り気になっていた。どうせ先輩と見に行けるワケないしな。娯楽超大作とか、趣味じゃ無いと思う。それに映画見る時間あったら、先輩とは別のところでイチャイチャしていたいし……。
「おい」
克己が妄想を逞しくしている私の頬っぺたを摘まんで引っ張った。
「いひゃいっ!」
「気持わりぃ顔、すんな。なんか変な妄想してるだろ」
頬っぺたを奪還し、私はヒリヒリする部分を擦って言った。
「じゃあ、いこ。夜ごはんどーする?食べた?」
「おばさんが食べてけって言ってたぞ、もう用意できたから呼んで来いって言われた」
「それを先に言ってよ!」
お腹ペコペコなんだから……!
** ** **
駅ビルにあるシネコンに辿り着いた。
「俺、実は3D見るの初めてなんだ」
「うっそー、遅くない?」
「だから、なんかスゲーワクワクして来た」
克己は嬉しそうにチケット売り場に並んでいる。かくいう私もずっと見たかった映画だし3D映画を見た経験も一度切りだったから、はやる心を宥めつつウキウキと列に並んでいた。
チケット買ったら売店でポップコーンを買って、飲み物は……キョロキョロと売店を目で探した。すると見覚えのある長身を見とがめて、大きな声を出しそうになってしまう。
その人は柔らかい猫っ毛で、いつもは無造作な感じに緩いパーマを掛けた髪をセットしている。けれども今はその髪をきちんと撫でつけて、見たことも無いような隙の無い格好をしていた。白いシャツにカッチリしたスーツを着こなし、それから精悍な容貌と均整の取れた体に似合わない、華奢な女もののバッグを手に持っていた。
見間違えようもない―――周囲の女の子たちも振り返ってコソコソ噂をしている。
いつもの彼なら、こなれたジーンズにTシャツ、革製品のアクセサリーにエンジニアブーツを絶妙に着こなしている所だ。それが野性的な容貌にしっくり来過ぎていて、待ち合わせではいつも彼を見つけるとあまりの格好良さにドキリと胸が跳ねてしまう。高校では品行方正に見えがちなブレザーを程良く気崩していて、色気の漂う立ち姿に毎日と言って良いほど見惚れてしまう。けれども共通しているのは、どちらも最低限学生と分かる装いだと言う事だ。
それが……今はどこから見てもお金持ちの御曹司かエリートビジネスマン―――そんな風にしか見えない。
そういえば直接確認したことは無いけれども先輩の家はお金持ちで、お父さんがやり手の実業家だっていう噂を聞いたことがある。
先輩と付き合う以前、ある友達が「じゃあ、将来結婚する時は政略結婚だったりするのかな?ひょっとして、もう婚約者がいたりして!」って言い出して「漫画じゃあるまいし」と他の友達が一蹴していたのを思い出した。
先輩がお金持ちの家の息子かどうかなんて、どうでもよかった。そんなオプションが無くても、先輩のカッコ良さは変わらない。
だけど『婚約者』って単語には胸がざわついた。
現にどんどん彼女が変わるのは『婚約者』がいて今の彼女との付き合いは全て遊びなのだという説も―――シツコク残っていた。『忘れられない人がいる』って言う噂の方が優勢だったけれど。
今目にしている彼は、別世界の人みたい。
いつも私の隣で手を繋いで笑いかけてくれる人とは―――別人に見える。
「おい、進んでるぞ」
立ち止まった私の背をポン、と叩いて克己が言った。
ノロノロと歩き出し、列を詰めると「どうした?」と私の顔を覗き込んでくる。
「先輩が……」
「うん?先輩って……お前の彼氏の事か?」
「うん、そこに居て」
「今日家族と食事っつってたっけ?じゃあ、もしかしてその前に映画でも見てたのかな」
家族と映画……?無いわけじゃないと思うけど……。
「どこ?」
「あそこ。エスカレーターのトコ」
シネコンの出入口の前に直通のエスカレーターがあった。彼はボンヤリと佇んでいた。まるで誰かを待っているかのように。
「エスカレーター……あ、あれか。スゲー目立つな。何でスーツ着てんの?あの人」
その時、所在無げに映画の広告の辺りを見ていた先輩の顔が、パっと輝いた。どうやら待ち人が戻ったようだ。
その人は柔らかな笑顔を湛えながら現れた。
スっと背筋の伸びた、背の高い華奢な女性。
白いワンピースの肩に薄い若草色のカーディガンを羽織って、首にはキラリと光るダイヤのネックレス。小さなポーチを華奢なブレスレットをした手に持って、先輩に手を挙げて歩み寄っていく。
彼女を見る先輩の表情。
そんな表情は見たくない。
初めて見た。
夢見るようにウットリとして、瞳には私に決して向ける事の無かった熱が灯っている。
いつも優しく微笑んでくれる余裕の表情はそこには無く、頬を赤らめて照れたようにはにかんでいる。
見たくないのに、目が離せない。
そんな目で見て欲しかったのは、私。
お願い、他の人をそんな目で見ないで……。
「アイツの姉貴か?あのキレーなねーちゃん?」
「おねえさんなんか、いないよ……」
「え、じゃあ……」
克己はゴクリと唾を呑みこんで、押し黙った。それから少し慌てたように「じゃ、友達なんじゃね?いっぱい女友達いるって、言ってたじゃん」と何故か先輩のフォローをする。だけど下手過ぎて返って違和感が鮮明になってくる。
「克己。なんでそんな事知ってるの」
私が彼らから目を外さないまま低い声を出すと「うっ」っと呻いてそれ以上答えなかった。
その態度にピンと来た。
―――胡桃だな。
「そ、それより、列進んだぞ!前詰めろよ」
話題を変えるように、克己が私を促した。
「……やめた」
「え?」
「映画見ない。先輩達を追いかける」
「はぁ?!」
素っ頓狂な声を出す克己を残して、私は列を抜けた。
白いワンピースの女の人をエスコートして、先輩がエスカレーターに消えたから。
先輩は『女友達』と会う時は、正直にそう言う。
でも最近私は我儘だった。女友達と会うのを止めない約束なのに、不機嫌になったり一緒に行きたいと言い募ったり。
それが面倒になった……?
だから、私に黙って女の人と会っているのだろうか?
そういう風に考えてみたけれども、どうしても違和感が拭いきれない。
だって他の女友達と話すときも、私と話す時だって―――先輩があんな風に頬を染めてウットリと見つめていたなんてコトが今まであっただろうか。
いや。そんな瞬間は一度も無かった。
断言できる。あの人は特別なんだ。
嫌な予感が私の全身を貫いた。
体が痛い。息が苦しい。胸が潰れるよう。
これが、嫉妬?
だとしたら、今まで感じたものとは比べものにならないほどの毒薬だ。
御伽噺で魔法使いに人間にしてもらった人魚姫は、口を聞けない上に歩くたびに足に激痛が走るっていう条件を課せられたっけ。
まるで今の私と同じだ。
先輩と付き合える魔法をかけて貰った。
代わりに、嫉妬という刃にいつも心臓を貫かれる痛みに耐えなければならない。そしてそれを口に出して相手を責めてしまえば―――魔法は解けてしまうのだ。痛みから解放される代わりに、甘美な夢を……彼の一番近くに居られる権利も失ってしまうかもしれない。
今までもチクチクする痛みに耐えて来た。
一番傍に居られるなら。彼の瞳に映る権利を―――手を繋ぎキスをして抱きしめられる他の『女友達』より優遇された地位を約束して貰えるなら、その痛みに耐える価値はあった。
だけど、あの先輩の表情を。
ウットリと熱の籠った瞳を見たら。
―――耐えられないかもしれない。
初めてそう思った。
「おい、待てって」
肩に手が掛かる。克己が列を抜けて私を追いかけて来た。
「俺も行く」
あと一人でカウンターに辿り着く処だった。克己の必死な顔を見て、私は少し頭が冷えた。
「いいよ。克己は映画見てて。行先確認したいだけだから」
「うん、だから俺も行く。本当は追いかけない方がいいと思うけど―――電話して聞いてみればいいじゃん。『今見掛けたよ』ってさ」
「やだ」
「だからだよ。そんなヒドイ顔で黙って後つけてどうすんの?直接聞けないくらいヤバい予感がしてるんだったら、尚更一人で居ない方がいい……あっちょっ!待てっ」
見失いそうになって、私は小走りに走った。
その後ろを克己が付いて来る。
私はもう、克己を追い返そうという気を失っていた。
背の高い先輩は周囲より一つ頭が抜けていて、追いかけるのは思ったより簡単だった。
華奢な白いワンピースの彼女と寄り添うように歩きながらも、二人が手を繋ぐ様子や肩や腰に手をやる仕草は幸い見られなかった。
けれども時折微笑みを交わし、何かを指差しながら笑いあう素振りを目にすると―――醸し出される親し気な空気に頭の配線が焼ききれそうになった。
本当に眩暈を感じてしまうほど。
「大丈夫か?」
ぴったりと背後に控えながら、克己は心配そうに私を覗き込んだ。
けれども私はそんな克己を無視して、前を行く二人の背中を睨み付けていた。
二人はあるエレベーターの前で立ち止まった。
それは、そのビルのにあるホテルの直通エレベーターだった。
エレベーターの扉が開く。
彼がドアを押さえて、彼女をそこへ招いた。
クスリと笑って先にエレベーターの中へ歩き出す彼女の背に手を添えて、スマートにエスコートする彼の仕草は―――洗練されていて一部の隙も感じられない。
あんな人だったかな。
私の恋人とは違う人に見える。
エレベーターが閉まって笑いあう二人の姿が、その扉の奥に消えた。
「あ、みゆ!」
克己が声を掛けたがもう、私の耳には届かない。
私は衝かれたように走り出し、エレベーターの前で立ち尽くした。
2……3……4、とエレベーターの進む階が順に光る。
4階で止まった。
直ぐに案内板を見る。
そこには『4階 ○○ホテル フロント』―――そう、表示されていた。
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