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後日談 黛家の妊婦さん3
(163)事前の準備
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時系列として前話の続き。短い小話です。
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黛家に立ち寄った新は、先日のアルバイトの報酬を手にホクホク帰って行った。一方唯はこの後実家に帰って夕飯を食べるそうだ。
実家が近いって羨ましい、と七海は思う。七海の実家である江島家に辿り着くには電車でも車でも三十分以上掛かる。通常の通勤などであればそれほど遠く感じない距離だが、臨月のお腹を抱えている今の彼女にとっては気楽に立ち寄れる場所ではなくなってしまった。
臨月に入ってから一度、遠賀のハイヤーでこどもの国まで送って貰い一泊したのだが、その際母親の響から「産後は暫く水に触らない方が良いって言われているのよ」と里帰り出産を勧められた。しかし共働きの両親は見るからにバタバタと忙しそうだし、祖母の町子は年の割に元気ではあるものの、小学生男子の対応と家事に追われかなりお疲れ気味だ。
この狭いマンションに、その上更に七海とひっきりなしに泣く赤ん坊が住み込む……と言う過密で混沌とした状況がありありと思い浮かび、結局申し訳なくなって辞退することになった。もうすっかり黛家のペースに慣れてしまったので、返って実家では落ち着かないような気もしたのだ。
だから唯の状況が少し羨ましいと思う。実家が近ければ、相手の都合の良い範囲で手伝って貰うことも気軽に出来るのに、と。しかしこのご時世、自然妊娠出来たというだけでも幸運なのだから、それは贅沢な悩みと言うものだろう。まだ子供のいない唯の前でそれを口には出さなかった。
と言うわけで、黛家で産後を過ごすことを決意した七海は、出産後の準備は余念なく行っておかねばならない、と考えている。
「えーと、チャイルドシートとマザーズバッグは新しいのを用意して。ベビーカーはまだ暫く使えないけど、取りに行くのは大変だから準備しておいた方が良いよね?実家のトランクルームから取ってこよう!」
寝る準備をすっかり整えた七海が、寝室のベッドの上で妊娠・出産情報誌のチェックリストを眺めながら呟いていると、お風呂から上がったばかりのパジャマ姿の黛が近付いて来た。
「何を取って来るって?」
「ベビーカー。今のうちに取ってこようと思って。出産後ってなかなか身動き取れなくなっちゃうから」
「じゃあ休みの日に一緒に行くか?」
「平日に遠賀さんに連れて行って貰うから大丈夫だよ」
「でも運べないだろ?」
「車に乗せる時はお父さんかお母さんに手伝って貰うから、心配しなくても大丈夫。家まで運ぶのもコンシェルジュさんに手伝って貰えると思うし。それより黛君にはチャイルドシートとかベビーベッドとかを選ぶの、付きあって貰いたいな。タブレットや雑誌で見るだけじゃ使い勝手とかピンと来ないから一緒に行って欲しい」
「そうか、じゃあ今度駅前のショッピングセンターに見に行くか」
「うん!……あっ」
話しながら情報誌をめくっていた七海が、何かを思い出したように声を上げた。
「どうした?」
他にも何か必要なものがあるのか、と黛は七海の手元を覗き込んだ。
「あのね、その……」
少し言いづらそうに頬を染めた七海が、声のトーンを落とした。
「できたら出産前に一度、黛君とちゃんとしたデートがしたいな、と思って。子連れで行きづらくなるような映画館とかレストランとか……ほんのちょっとの時間で良いんだ」
情報誌やネットで出産前にやって置くことを調べていると『出産前にやっておけば良かったこと』と題して様々な項目が出て来る。『歯医者にかかる』『美容院で髪を切っておく』『部屋のレイアウトを変える』など、それこそやって置かないと出産後の暮らしに影響があることから、『映画館に行く』『カフェでまったり過ごす』『旅行やライブに行く』など赤ちゃん連れで行きにくくなる場所へのお出掛けまで。『焼肉やお好み焼きを食べに行く』と言うのもあった。熱い鉄板に赤ちゃんが触れてしまうので子供が大きくなるまで連れて行けないから、という理由だそうだ。
なかでも七海が気になったのは『夫と二人きりでデートする』と言うもの。出産後は思った以上に子供に掛かり切りになる―――というのは傍から見ていてよくよく身に染みている。黛自身も多忙であるし、これからはますます夫婦水入らずで過ごす事が難しくなるかもしれない。そう想像した時、今を逃すともうずっとそう言う機会に恵まれずにアッと言う間に数年経ってしまうのではないか、という危機感のようなものが芽生えたのだ。
「ほら、一旦子供が産まれちゃうとしばらくそう言うところに二人でお出掛けとか難しくなるでしょ?あっでも、忙しかったら無理はしないで欲しいんだけど……」
とは言っても、疲れている黛の貴重な休みを潰してまで無理に、とは考えていない。
「……どうかな?」
遠慮しつつおずおずと顔を上げると、満面の笑みを浮かべる夫のキラキラした瞳にかち合った。
「七海からデートに誘われた……!」
「え?」
「すげぇ!」
結論として―――ものすごく夫に喜ばれた。
『すげぇ、すげぇ』と目を輝かせる夫を見た七海の胸中は複雑だった。試しに過去の自分の行いを振り返ってみる。
すると友人時代から恋人時代、結婚以降夫婦時代……確かに自分からハッキリと、ちゃんとしたデートに誘った記憶がほとんど無いことに気が付いた。これまで連れ立って出掛ける時は、大抵黛から誘われてそれに乗るのが普通だったのだ。これはずっと七海に片思いをしていた黛が努力して彼女との接点を維持していた結果だったのだが、付き合ってからもその位置関係はあまり変わっていない。
そう言えば結婚してからも散歩、買い物や外食などといった日常生活に関するお出掛けが多く、七海が『誘う』と言うより厳密には黛が『ついて来る』と言った方が正しい状況だった。
……何だか目の前の夫が不憫に思えて来た。
出産までの短い猶予期間、出来る限り夫に尽くしたほうが良いかもしれない。と、七海は改めて、深く反省したのであった。
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お読みいただき、誠にありがとうございました!
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黛家に立ち寄った新は、先日のアルバイトの報酬を手にホクホク帰って行った。一方唯はこの後実家に帰って夕飯を食べるそうだ。
実家が近いって羨ましい、と七海は思う。七海の実家である江島家に辿り着くには電車でも車でも三十分以上掛かる。通常の通勤などであればそれほど遠く感じない距離だが、臨月のお腹を抱えている今の彼女にとっては気楽に立ち寄れる場所ではなくなってしまった。
臨月に入ってから一度、遠賀のハイヤーでこどもの国まで送って貰い一泊したのだが、その際母親の響から「産後は暫く水に触らない方が良いって言われているのよ」と里帰り出産を勧められた。しかし共働きの両親は見るからにバタバタと忙しそうだし、祖母の町子は年の割に元気ではあるものの、小学生男子の対応と家事に追われかなりお疲れ気味だ。
この狭いマンションに、その上更に七海とひっきりなしに泣く赤ん坊が住み込む……と言う過密で混沌とした状況がありありと思い浮かび、結局申し訳なくなって辞退することになった。もうすっかり黛家のペースに慣れてしまったので、返って実家では落ち着かないような気もしたのだ。
だから唯の状況が少し羨ましいと思う。実家が近ければ、相手の都合の良い範囲で手伝って貰うことも気軽に出来るのに、と。しかしこのご時世、自然妊娠出来たというだけでも幸運なのだから、それは贅沢な悩みと言うものだろう。まだ子供のいない唯の前でそれを口には出さなかった。
と言うわけで、黛家で産後を過ごすことを決意した七海は、出産後の準備は余念なく行っておかねばならない、と考えている。
「えーと、チャイルドシートとマザーズバッグは新しいのを用意して。ベビーカーはまだ暫く使えないけど、取りに行くのは大変だから準備しておいた方が良いよね?実家のトランクルームから取ってこよう!」
寝る準備をすっかり整えた七海が、寝室のベッドの上で妊娠・出産情報誌のチェックリストを眺めながら呟いていると、お風呂から上がったばかりのパジャマ姿の黛が近付いて来た。
「何を取って来るって?」
「ベビーカー。今のうちに取ってこようと思って。出産後ってなかなか身動き取れなくなっちゃうから」
「じゃあ休みの日に一緒に行くか?」
「平日に遠賀さんに連れて行って貰うから大丈夫だよ」
「でも運べないだろ?」
「車に乗せる時はお父さんかお母さんに手伝って貰うから、心配しなくても大丈夫。家まで運ぶのもコンシェルジュさんに手伝って貰えると思うし。それより黛君にはチャイルドシートとかベビーベッドとかを選ぶの、付きあって貰いたいな。タブレットや雑誌で見るだけじゃ使い勝手とかピンと来ないから一緒に行って欲しい」
「そうか、じゃあ今度駅前のショッピングセンターに見に行くか」
「うん!……あっ」
話しながら情報誌をめくっていた七海が、何かを思い出したように声を上げた。
「どうした?」
他にも何か必要なものがあるのか、と黛は七海の手元を覗き込んだ。
「あのね、その……」
少し言いづらそうに頬を染めた七海が、声のトーンを落とした。
「できたら出産前に一度、黛君とちゃんとしたデートがしたいな、と思って。子連れで行きづらくなるような映画館とかレストランとか……ほんのちょっとの時間で良いんだ」
情報誌やネットで出産前にやって置くことを調べていると『出産前にやっておけば良かったこと』と題して様々な項目が出て来る。『歯医者にかかる』『美容院で髪を切っておく』『部屋のレイアウトを変える』など、それこそやって置かないと出産後の暮らしに影響があることから、『映画館に行く』『カフェでまったり過ごす』『旅行やライブに行く』など赤ちゃん連れで行きにくくなる場所へのお出掛けまで。『焼肉やお好み焼きを食べに行く』と言うのもあった。熱い鉄板に赤ちゃんが触れてしまうので子供が大きくなるまで連れて行けないから、という理由だそうだ。
なかでも七海が気になったのは『夫と二人きりでデートする』と言うもの。出産後は思った以上に子供に掛かり切りになる―――というのは傍から見ていてよくよく身に染みている。黛自身も多忙であるし、これからはますます夫婦水入らずで過ごす事が難しくなるかもしれない。そう想像した時、今を逃すともうずっとそう言う機会に恵まれずにアッと言う間に数年経ってしまうのではないか、という危機感のようなものが芽生えたのだ。
「ほら、一旦子供が産まれちゃうとしばらくそう言うところに二人でお出掛けとか難しくなるでしょ?あっでも、忙しかったら無理はしないで欲しいんだけど……」
とは言っても、疲れている黛の貴重な休みを潰してまで無理に、とは考えていない。
「……どうかな?」
遠慮しつつおずおずと顔を上げると、満面の笑みを浮かべる夫のキラキラした瞳にかち合った。
「七海からデートに誘われた……!」
「え?」
「すげぇ!」
結論として―――ものすごく夫に喜ばれた。
『すげぇ、すげぇ』と目を輝かせる夫を見た七海の胸中は複雑だった。試しに過去の自分の行いを振り返ってみる。
すると友人時代から恋人時代、結婚以降夫婦時代……確かに自分からハッキリと、ちゃんとしたデートに誘った記憶がほとんど無いことに気が付いた。これまで連れ立って出掛ける時は、大抵黛から誘われてそれに乗るのが普通だったのだ。これはずっと七海に片思いをしていた黛が努力して彼女との接点を維持していた結果だったのだが、付き合ってからもその位置関係はあまり変わっていない。
そう言えば結婚してからも散歩、買い物や外食などといった日常生活に関するお出掛けが多く、七海が『誘う』と言うより厳密には黛が『ついて来る』と言った方が正しい状況だった。
……何だか目の前の夫が不憫に思えて来た。
出産までの短い猶予期間、出来る限り夫に尽くしたほうが良いかもしれない。と、七海は改めて、深く反省したのであった。
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お読みいただき、誠にありがとうございました!
応援ありがとうございます!
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