362 / 363
玲子様とお呼び! ~続・黛家の新婚さん~
4 見てしまった……!
しおりを挟む
3/28 コピペ間違いで貼りついていた文章を一部削除しました。
削除前に不完全なものに目を通してしまった方、誠に申し訳ありませんm(_ _)m
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
見てしまった……!
仕事人間で、普段プライベートを微塵もチラつかせない院長が、若い女性と車に乗り込むところを……!!
しかも女性は車から降りた途端笑顔で手を振り、駆け寄ると抱き着いたのだった……!
彼はいったいどんな表情で、美女の抱擁に応えていたのだろう。
仕事中は常に厳しい表情を浮かべ、ニコリともしないのが我が病院の院長の筈だ。
夜勤明けの通用口で、珍しく早く帰る院長の背中を見かけた。院長の広い背中しか見えない位置にいる私には、その表情は全く分からなかった。
でも、どうしよう……見たこともないようなニヤけ顔をしていたら……!
私の中にある、尊敬する院長の肖像がガラガラと崩れるような衝撃を受けるに違いない。
院長は、日本における腹腔鏡手術の第一人者だ。その崇高な志に感銘を受けて、彼が設立した専門病院に転職した私。彼は日本でほとんど腹腔鏡手術が知られていない時代、ドイツで学んだその技術を持ち込んだのだ。権威主義にとらわれていた当時の医学会に、その技術を定着させるのはかなりの労苦を要したらしい。大きな声では言えないが、かつて彼はそのために自分が所属していない大学病院において無償で手術をし、時には偉い先生の身代わりとして手術を請け負うことさえあったという。……それらの伝説は、あくまで『噂』と言われている。が、しかし、そうでもしなければ腹腔鏡手術がここまで日本で定着しなかったであろうと言うことは、容易に想像できる。
最初は見向きもされなかったのが、徐々に認められて行き、今では学会に出れば必ず院長の周りに質問のために人だかりができるほどだ。
院長は、ニコリともしない仏頂面がトレードマークで、初対面の人は怖い、と感じることもあるかもしれない。けれども誰よりも患者のことを考え、腹腔鏡の技術普及に腐心してきた方なのだ。
まるで漫画みたいだと思う。そう、彼は医学会における英雄の一人なのだ……!
だからこそ私には、その光景は衝撃の出来事だった。仕事一途に多忙な日々を過ごす院長の背中に、ずっと心酔していたのだから―――あ! 誤解しないでください。“心酔”と言っても、あくまでそれはリスペクトであって、ラブではありません……!! 私は、純粋に彼の仕事する姿勢に憧れているのです!
プライベートのことを自分から話さない院長だが、彼には長年連れ添った妻がいて、更に大きな息子がいるのだと(噂で)聞いたことがある。その息子は今、大学病院で研修医をしているとのこと。経験を積ませ、のちのち後継ぎとしてこの病院に迎え入れるのではないか、と皆が囁き合っている。
研修医と言えば少なくとも二十四歳以上。浪人していれば、もっと上かも?
だからあの華やかな若い美女が奥さんだなんて、絶対あり得ないのだ。例えば……二十五で産んだとして、五十歳くらい? だから、どんなに若くとも―――そう、四十代後半にはなっているはず。
あの美女はどう見ても二十代だ。いや、若く見える三十代って可能性もあるかも。
噂では一人息子だから、娘は居ない筈。いやいや、親類であれば……例えば、姪っ子とか……? 確かに可能性はなくもないが。
でも、抱き着き方が何というか……家族と言うより、男女の雰囲気を匂わせるような気がするのだ。あくまで印象、なのだけれども。うん、やけに親密な雰囲気だった。
不倫かな。
うっかり湧いたそんな“思いつき”に、ちょっとガッカリする。
医師は忙しい。
仕事で寝る暇もないのだから、不倫なんてする暇ないだろう……と思うが、何故か忙しい人ほど時間のやり繰りが上手なのか、どんなに忙しくても合間を縫って不倫や浮気をする人は―――たまに、いる。それは、医師に限る話ではないのかもしれないけれども。
現に元いた病院では、いた。ただ、まだ仕事に影響がないなら耐えられたかもしれない。けれどもそのゴタゴタで職場の人間関係がこじれたり、仕事が上手く進まなかったりすることがあってウンザリしてしまったのだ。もちろん私はそのゴタゴタの渦中にはいない。だって自分の仕事で手一杯なんだもん……! いや、単に要領が悪いだけなんだけれども。
けれども、仕事がスムーズに行かなかったり、聞きたくもないドロドロの愚痴を聞かされたりと、割を食う状況になって来て辟易してしまったのだ。だから、転職したって言うのもある。
そう。私は、特に人のプライベートについて騒ぎ立てるつもりはない。仕事さえちゃんとやってくれれば、良いのだ。不倫は嫌だけど、自分に迷惑が掛からないなら飲み込むことも出来る。うん。
だから目撃した光景に動揺してはいるものの、充実しているこの場所を離れる気は毛頭ない。現に院長の仕事っぷりには、いつも惚れ惚れしているのだ。―――純粋に彼を尊敬するその気持ちは、変わらない。……変わらないハズ、なのだけれど。
でもなぁ―――うぅ……やっぱり、なんか残念だ!
忘れてしまおうと決意した筈が、先日の目撃現場が不意にフラッシュバックする。
開院前の準備のために器具を並べながらハァ~と溜息を吐いた。すると、「どうしたの? 珍しく元気ないね?」と、本日の担当医の三橋先生が声を掛けてくれた。ふわふわテンパ&垂れ目の若い男性医師だ。彼も院長の志に共鳴して集まった一人である。
「大丈夫です」
と、モヤモヤを振り払うように首を振る。
けれども、ふと思いついて尋ねてみた。
「そういえば三橋先生―――院長先生の奥様に会った事ありますか?」
「いや? ないけど」
院長の奥様を直接見た人に会った事はない。なんでも仕事の関係で海外にいることが多いとか。パターンCか、と心の中で呟く。
偏見かもしれないけれど、医師の妻って三つのパターンに別れると思う。以下は私が独自に分類している医師の奥様パターンABCである。
A:医療関係者。看護師とか医療事務、たまに医師同士ってのも。つまり、職場結婚。
B:箱入りお嬢様が専業主婦になって、育児や趣味に没頭している場合。まれにインスタとかで豪華な生活を発信したりしている人も。旦那さんは寝る暇なくボロボロなので、その対比が凄い。家族繋がりの見合いが出会いって言うのが多い印象。
C:忙しい旦那以上に忙しいバリバリのキャリアウーマン。通訳をやってたり、大学の教授や講師ってパターンも。
院長の奥様が医療関係者なら、顔見知りも多いだろう。だからパターンC。医療分野以外のバリキャリで働いていて、ネットに露出があったとしてもおそらく旧姓使用していて私達が認識できないのかも。
作業を止めず頭の中でそんな事を考えていると、そっけない回答のあとカルテのチェックをしていた三橋先生が不意に問いかけて来た。
「もしかして、『見た』?」
「え? 何をですか?」
「ベンツの美女」
「え?!」
唐突に三橋先生が水を向けて来たので、思わず動揺する。
そういえば、ベンツだったかも。
多忙でお金を使う暇がないから、数少ない趣味が『車』って医師も多い。職員駐車場に並ぶ高級車を見慣れているから、特別車種は意識していなかった。かろうじて免許は持ってるけど、ずっとペーパードライバーで車にはあまり詳しくないってのもある。
頷くのに躊躇していると、了解した、と言うように三橋先生はそのまま画面のカルテに目を戻した。
「……三橋先生は、目撃したんですか?」
「俺は見てない。けど―――看護師さんに聞かれてさ」
三橋先生は、平坦な声で言った。
そういうスキャンダルにはあまり心を動かされないタイプなのかな。それともそういう風に装っているだけかもしれないけど。
「奥さんは外国暮らし長いって聞いたことがあるから、もしかしていつの間にか別れてて、再婚したんじゃないかって噂になってるらしい」
な、なるほど。そうか、再婚って場合もあるか。そういう人もいるよね。極端な仕事人間で普段プライベートをほとんど滲ませない院長だから、周囲が離婚再婚を知らないままってこともあるのか? 病院職員なら病院の事務担当に把握されてしまうと思うけど、雇用保険とか関係ない経営者である院長の個人情報って別に管理しているのかもしれない。ええと例えば専用の秘書や弁護士が対応している、とか?? 経営者になった経験がないから、よく分からないけど。
「『愛人じゃないか?』って面白がって匂わす人もいるけど―――」
ギクッとする。
「院長の性格から考えて、そういうのは考えられないよね」
ここに来て一年しか経ってない私と違い、三橋先生はこの病院の創立したてからいる人だ。だから院長の人柄にも詳しいだろう。断言されて、少しホッとした。
「愛人作るような面倒なことしないで、慰謝料払って奥さんと別れるんじゃない?」
ハハハ、と軽く笑いながら言ってる横顔の瞳が笑ってない。
もしかして、彼は怒っているのだろうか?
おおぅ……優し気な見た目の割に、意外と辛辣なのね。
でも、院長に腹を立ててるんじゃなくて、こういう噂話に腹を立てているような雰囲気だ。
ヒヤリとした。下手に憶測を口にしなくて良かった、と思う。何となく三橋先生には嫌われたくない。
優し気な見た目の若い先生だから、と噂話を口にする看護婦がいたらしい。もしかするとその話題をきっかけに三橋先生と仲良くなろうと思ったのかも。貴重な独身男性。しかも仕事が出来る。看護師に対する威圧感もなくて感じが良いとくれば、さもありなん。
でも、師長に知られたらさぞ叱責されそうな内容だわ。憶測で噂を広げるな!……てね。
ところで、三橋先生の見解は私に大きな安堵をもたらした。
そうだよね、不倫じゃなくて再婚っていう可能性もあった。そっか、そっか。
私よりずっと長い付き合いである彼がそういう可能性を口に出すなら、不倫って言う状況よりそっちの方が信憑性があるのだろう、と。やっぱりちょっと引っ掛かってたから。
けど―――院長って面食いだったんだなぁ。と、安心した途端下世話な感想が浮かぶ。うう、こんなこと口に出したら、三橋先生に軽蔑されるかも。これはやはり、心に秘めとくに限る。
「そうですよね」
「小岩井さんは言いふらしたりしない人、なんだね」
少し手が止まっていた私に、笑いかける三橋先生。
その笑顔が柔らかくて、思わずビクリとする。
いえいえいえ、そういう訳じゃないんです。
私も結構下世話な考えを持ってたのです。
冷や汗をかきつつ動揺して視線を彷徨わせると、時計が目に入った。
わわわ、やばい。
「もう時間ですねっ!」
申し合わせの時間が迫っていた。私は慌てて話を切り上げ、仕上げのダブルチェックにかかる。ここでは毎日、忙しい。余計なことを考えている暇は無いのだ。
そうだよね。奥様が外国暮らしだったなら、すれ違い生活の末離婚ってありうる。お医者さんが仕事ばっかりで家庭が蔑ろになってしまい、別れるってパターンは結構あるのだ。そうでなくても現代は夫婦の四組に一組は離婚している。きっと院長は、離婚後若い美女と再婚したんだ。もしくは恋人か。後ろ暗いところの無い関係だ! そうに違いない。
そう結論付けて、私はもう、心の片隅にその話題を追いやったのだった。
その後はいつも通り一日中病院を走り回るので、精一杯だった。
******
それからしばらくして、再び私はかの美女が院長を迎えに来る場面に遭遇したのだった。
その時にはもう私の中のネットニュース的なスキャンダルを見ている気持ちは薄れていて、感情の波は穏やかなものになっていた。再婚だろうと浮気だろうと不倫だろうと、他人のプライベートなんか良いじゃないか、と。
パワハラもモラハラもセクハラもないこの職場のトップである人物であり、更に大いなる目標を持って自分の仕事に厳しく意欲的な上司である―――それが院長のすべてだ。
とかなんとか言っているが、なんのことはない。
あれから何故か三橋先生と付き合うことになり、私のプライベートが思いっきり充実してしまったのだ。その途端、他人のスキャンダルが全く気にならなくなった―――我ながら、現金なものである。仕事だけの人生だった少し前の私。それは自分で納得して選んだ人生だった。けれどもしかすると……他人のプライベートが充実している様子をまざまざと見せつけられて、少し羨ましかったのかもしれない。
「龍一さーん!」
駐車場に停車した車の横で、美女がブンブン手を振っている。あの常にいかめしい表情を崩さない院長に、あんなにフレンドリーに接することが出来るなんてすごい。私だったら畏れ多くて絶対できない。
またしてもちょうど裏口で帰り時間が一緒になった私は、先を行く院長の背中を眺めながら、彼はそれにどんな顔で応対しているのだろう……と、久しぶりに下世話な興味を抱いたのだった。
上司のプライベートなんて気にしない、と割り切ったものの、普段はキリッとした院長が、若い妻だか恋人だか愛人だかにデレデレ鼻の下伸ばしていたら、なんかちょっと嫌だ。
そこは三橋先生と違って、やっぱり割り切れないのである。
私の視線の先、車の傍まで歩み寄った院長を見上げて、華奢な美女がニッコリ笑う―――そして体格の良い院長の胸に飛び込むと、ギュッと抱き着いた……!
あわわわ、もし二人の関係が正当なものだとしても、見てるのが恥かしい!! 私は外でイチャイチャするのとか、そういうのに全く免疫がないのである。何しろ看護学校を卒業以来ずっとブラックな職場で身を粉にして働き続け、更に新しい職場では慣れるのに必死過ぎて、恋愛のレの字も経験して来なかった。職場の同僚は器用に合コンとかこなしてたけど、要領が悪いのか、オフは仕事の手順の確認と家事と休息で手一杯。それにだいたい仕事以外では人見知りで、知らない人と飲むのは疲れる性質だし、合コンに行ってもただ疲れるだけで全く癒されないのだ。
だから、三橋先生が人生で初めての恋人だ。恋を知る前に患者さんの下世話な冗談とかセクハラとか、ブラック病院の上司のモラハラとかパワハラで軽く男性不信に陥っていたせいかもしれない。
そんなことを考えつつ気付かない体裁を保ち、割とゆっくり歩いていたのだが、そろそろピトッとくっ付いている二人のいる門のあたりに到達しつつある。どうすべきだろうか。
ヨシ、とにかくサッと挨拶して通り過ぎよう……! と心に決めて、いっそ足を速めた。
「お疲れ様でーす」と聞こえるであろうギリギリの声量で院長の背中に挨拶をして、通り過ぎようとする。
すると、そこで院長が振り返った……美女をその胸にくっつけたまま、何事も無かったように。
「小岩井さん、お疲れ様」
「!」
なんと、院長は私の名前を憶えていた……!
下っ端も下っ端、ここでは新顔の看護師の私のことを。
状況にも関わらず、その瞬間軽く感動する。そして変わらず、ニコリともしない厳めしい表情を確認して―――なんだか安心してしまった。
すると美女が院長の胸から顔を上げて、私を見た。
おっ……遠目でも美女と分かったが、近くで見る彼女は更に輝くように美しい。特に活き活きとした瞳が印象的だった。
「あら、紹介して。龍一さん」
抱き着いていた手を戻して、彼女は私に向き直る。
すると院長は頷いた。
「今年から来てくれた、看護師の小岩井さんだ。小岩井さん、妻の玲子だ」
妻……!
肩の力が一気に抜けた。
―――合法! 公式だ! 良かった、良かった!!
その事実に心底ホッとしてしまう。
相手の美女は、確かに若すぎる。けどドロドロなスキャンダルでない。それだけでもう、私の中の気まずい気持ちが消し飛んで行く。安堵しつつ、私は慌てて頭を下げた。
「あっ……院長には、大変お世話になっております!」
「こちらこそ、いつもお世話になっています。今、帰り?」
「あ、はい」
「電車? なら送るから乗ってかない?」
「は? いえいえいえ、滅相もない……!」
「遠慮しないで。じゃあ、駅まで! ね?」
ううう……美しい笑顔で微笑まれてしまう。
正直、ものすっごく疲れてる。だから車に乗れるのはありがたい。
でもなんか緊張しちゃうから―――やっぱ全力で辞退したい!
しかし「まぁまぁ」と奥様に促されて、それが何だか断り切れなくて―――ピッカピカのベンツの、後部座席に乗せていただくことになってしまった。奥様が運転して、院長は助手席だ。
近寄りがたい美貌のわりに、なんと気さくな奥様だろうか。
そして後部座席には、なんとまぁ可愛らしい同乗者が……!
私を見て目を丸くしている。
わぁ、零れそうな瞳にまつ毛が……ながーい!
女の子……? じゃないな、服の色が男の子だ、たぶん。最近は男の子、女の子って色分けがハッキリしないから、推測でしかないけど。
「こんにちは」
挨拶すると「こんにちわっ」と、はにかみつつ挨拶を返してくれた。
「私は黛先生の病院で働いている小岩井美和っていうの。お名前は?」
チラッと彼(?)は前の席に視線を投げる。美女が頷くのを見てから、答えた。防犯対策だろうか? 名前を不用意に口にしないよう躾けられているのかもしれない。
「まゆずみ、りゅうたろう、です」
大きい目でこちらを真っすぐ見て、ハキハキ応えてくれる。可愛いのう。
『りゅうたろう』か……なるほど、男の子だ。良かった、早とちりして余計なこと言わなくて本当に良かった。
『りゅうたろう』と言うことは、院長の名前から一文字とったのだろうか。も、もしかして……この子、院長の息子さん?! 再婚して出来たのだろうか? でも、小学生ではなさそうだけど、これだけ喋れるってことは幼稚園とか? 少なくとも数年前には生まれていたってことだ。えええ? その割には職場でその事実を誰も知らないなんて、あるだろうか。
既に研修医の息子さんがいる筈だか―――うわぁ、つまり二十歳差くらいの次男ってこと?!
何というか、院長……わぁあ、さすが。仕事もプライベートも……精力的でいらっしゃる……。なんかもう、驚きすぎて一周回って『さすが』ってなってしまった。きっと私のような凡人とはかけ離れた場所にいらっしゃるのだ。次元が違う。もう何も、疑問に思うまい。
若干おののきつつも、子供の手前表情に出さずに私はニッコリ笑った。
「お母さん似だね」
「?……ぼく、かーさんに似てないよ」
「え? そっくりだよ?」
美形の奥様を子供にしたら、こんな感じの美少女になるだろうって、容易に想像できる。華やかな容貌は、厳めしい院長に全く似ていない。連れ子だって言われてもうなずけるのに。
「レイコちゃんのこと? レイコちゃんは『かーさん』じゃないよ。ね、じーちゃん?」
「ああ」
助手席から振り向いた院長が、真顔で頷いていた。
え?……『じーちゃん』????
真実を知った私は、驚愕した。
美女は、黛先生の奥様だった。しかも研修医の息子がいる―――そう、愛人でも再婚でも無かったのだ! 後から三橋先生に聞いたら「たしか十歳差くらいあるって聞いたことが……」と言っていたがそれにしても若過ぎよ! どう若く見積もっても、そうであれば四十後半な筈。あの若さと美貌で?!―――ないない、あり得ない! 周りの三十代の同僚の方がよっぽど……いや、これは声に出してはイケないやつ。モゴモゴ。自分にそのまま返って来るヤツだ。
可愛らしい美少女バリの「りゅうたろう」君は、なんと美女の孫だったのだ……!
ずっとアメリカを拠点に仕事をしていた彼女だが、孫が出来たと聞いて、育児がしたくて帰国したのだと言う。えええ?
はー……なんか、よく分からない。ツッコミたい箇所が幾つもあるけど、初対面だし上司の奥さんだし……迫力のある美女だから、ビビっちゃって、結局疑問点はほとんど何も聞けずに終わってしまった。
でも、結局駅まで送ってもらったし。いろいろ見た目とか行動が謎ですごいけど―――気さくで親切な奥様だった。
しかし『事実は小説より奇なり』と言うか、事実は私の勝手な妄想よりずっと予想外だった。
真実を知ってしまうと『若い美女と再婚』とか『不倫相手だった』と言う結論の方が、よほど現実的だと感じてしまう。
なんなんだ、あの驚異の美貌……! あれがひと昔前に流行った美魔女とかいうモノだろうか。本当に全く現実感がない。お金を湯水のように使ってアンチエイジングしまっくてるのだろうか……? そんな医療技術があるなら、私だってあやかりたい。
院長、ボランティアみたいな仕事受けてないで、奥様を広告塔に美容整形アンチエイジング系の外来やったらボロ儲けするのではないだろうか。
という訳で、とても信じて貰えそうもない今回の件、忙しさに紛れて周囲に漏らすタイミングを完全に逸してしまった。
院長の再婚とか愛人の噂は、ちょうど飽きられて下火になってきたし、話題にも上らなくなった。改めてわざわざ燃料を投下するのもどうかと思うし。誰かに話題を振られたら否定しよう! と決意してから、かれこれ一ヶ月が経過しているのだ。
三橋先生には、プライベートで顔を合わせた時にわぁわぁ話しまくったけど。彼は「へー」って言って、ちょっと笑っただけだった。相変わらずスキャンダル系に反応が薄い。でもこういう所が落ち着くなぁって思うから、良いんだけど。私も口に出して彼に伝える事で、なんとなく気が済んだってのもある。
それからの私は。
奥様が院長をお迎えに来るのを偶然見掛けるのが、ちょっとした楽しみになったのである。
あの常にいかめしい表情を崩さず平熱対応で淡々としている院長が、人目のある所でも奥様に好き勝手にギュッとされたり、まれにチュッとされたりして。
それでも慣れているのか変わらず表情が変わってない所とか、孫に「じーちゃん」と言われて少し目を細めたりしている所を目にすると―――彼の事をずっと、尊敬してもしたりない凄い人で遥か高みにいるような大人物だと思っていた(その気持ちは、もちろん今も変わらないが)けど、院長も私達とおんなじ人間なんだなぁ……と思ったりして、ちょっとホッコリするのだった。
----------------------------------------------------------------------------
またしても母親に間違われる玲子でした。
いつも通り最初からオチが見えている設定説明のようなお話で、申し訳ありません(^^;
お読みいただき、有難うございました!
ちなみに当然のことながら、現実の腹腔鏡手術の日本における第一人者と、このお話の登場人物は一切関係ありませんm(_ _)m でも豪傑エピソードは一部参考にさせていただきました。本当の偉人だと思います。尊敬。
削除前に不完全なものに目を通してしまった方、誠に申し訳ありませんm(_ _)m
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
見てしまった……!
仕事人間で、普段プライベートを微塵もチラつかせない院長が、若い女性と車に乗り込むところを……!!
しかも女性は車から降りた途端笑顔で手を振り、駆け寄ると抱き着いたのだった……!
彼はいったいどんな表情で、美女の抱擁に応えていたのだろう。
仕事中は常に厳しい表情を浮かべ、ニコリともしないのが我が病院の院長の筈だ。
夜勤明けの通用口で、珍しく早く帰る院長の背中を見かけた。院長の広い背中しか見えない位置にいる私には、その表情は全く分からなかった。
でも、どうしよう……見たこともないようなニヤけ顔をしていたら……!
私の中にある、尊敬する院長の肖像がガラガラと崩れるような衝撃を受けるに違いない。
院長は、日本における腹腔鏡手術の第一人者だ。その崇高な志に感銘を受けて、彼が設立した専門病院に転職した私。彼は日本でほとんど腹腔鏡手術が知られていない時代、ドイツで学んだその技術を持ち込んだのだ。権威主義にとらわれていた当時の医学会に、その技術を定着させるのはかなりの労苦を要したらしい。大きな声では言えないが、かつて彼はそのために自分が所属していない大学病院において無償で手術をし、時には偉い先生の身代わりとして手術を請け負うことさえあったという。……それらの伝説は、あくまで『噂』と言われている。が、しかし、そうでもしなければ腹腔鏡手術がここまで日本で定着しなかったであろうと言うことは、容易に想像できる。
最初は見向きもされなかったのが、徐々に認められて行き、今では学会に出れば必ず院長の周りに質問のために人だかりができるほどだ。
院長は、ニコリともしない仏頂面がトレードマークで、初対面の人は怖い、と感じることもあるかもしれない。けれども誰よりも患者のことを考え、腹腔鏡の技術普及に腐心してきた方なのだ。
まるで漫画みたいだと思う。そう、彼は医学会における英雄の一人なのだ……!
だからこそ私には、その光景は衝撃の出来事だった。仕事一途に多忙な日々を過ごす院長の背中に、ずっと心酔していたのだから―――あ! 誤解しないでください。“心酔”と言っても、あくまでそれはリスペクトであって、ラブではありません……!! 私は、純粋に彼の仕事する姿勢に憧れているのです!
プライベートのことを自分から話さない院長だが、彼には長年連れ添った妻がいて、更に大きな息子がいるのだと(噂で)聞いたことがある。その息子は今、大学病院で研修医をしているとのこと。経験を積ませ、のちのち後継ぎとしてこの病院に迎え入れるのではないか、と皆が囁き合っている。
研修医と言えば少なくとも二十四歳以上。浪人していれば、もっと上かも?
だからあの華やかな若い美女が奥さんだなんて、絶対あり得ないのだ。例えば……二十五で産んだとして、五十歳くらい? だから、どんなに若くとも―――そう、四十代後半にはなっているはず。
あの美女はどう見ても二十代だ。いや、若く見える三十代って可能性もあるかも。
噂では一人息子だから、娘は居ない筈。いやいや、親類であれば……例えば、姪っ子とか……? 確かに可能性はなくもないが。
でも、抱き着き方が何というか……家族と言うより、男女の雰囲気を匂わせるような気がするのだ。あくまで印象、なのだけれども。うん、やけに親密な雰囲気だった。
不倫かな。
うっかり湧いたそんな“思いつき”に、ちょっとガッカリする。
医師は忙しい。
仕事で寝る暇もないのだから、不倫なんてする暇ないだろう……と思うが、何故か忙しい人ほど時間のやり繰りが上手なのか、どんなに忙しくても合間を縫って不倫や浮気をする人は―――たまに、いる。それは、医師に限る話ではないのかもしれないけれども。
現に元いた病院では、いた。ただ、まだ仕事に影響がないなら耐えられたかもしれない。けれどもそのゴタゴタで職場の人間関係がこじれたり、仕事が上手く進まなかったりすることがあってウンザリしてしまったのだ。もちろん私はそのゴタゴタの渦中にはいない。だって自分の仕事で手一杯なんだもん……! いや、単に要領が悪いだけなんだけれども。
けれども、仕事がスムーズに行かなかったり、聞きたくもないドロドロの愚痴を聞かされたりと、割を食う状況になって来て辟易してしまったのだ。だから、転職したって言うのもある。
そう。私は、特に人のプライベートについて騒ぎ立てるつもりはない。仕事さえちゃんとやってくれれば、良いのだ。不倫は嫌だけど、自分に迷惑が掛からないなら飲み込むことも出来る。うん。
だから目撃した光景に動揺してはいるものの、充実しているこの場所を離れる気は毛頭ない。現に院長の仕事っぷりには、いつも惚れ惚れしているのだ。―――純粋に彼を尊敬するその気持ちは、変わらない。……変わらないハズ、なのだけれど。
でもなぁ―――うぅ……やっぱり、なんか残念だ!
忘れてしまおうと決意した筈が、先日の目撃現場が不意にフラッシュバックする。
開院前の準備のために器具を並べながらハァ~と溜息を吐いた。すると、「どうしたの? 珍しく元気ないね?」と、本日の担当医の三橋先生が声を掛けてくれた。ふわふわテンパ&垂れ目の若い男性医師だ。彼も院長の志に共鳴して集まった一人である。
「大丈夫です」
と、モヤモヤを振り払うように首を振る。
けれども、ふと思いついて尋ねてみた。
「そういえば三橋先生―――院長先生の奥様に会った事ありますか?」
「いや? ないけど」
院長の奥様を直接見た人に会った事はない。なんでも仕事の関係で海外にいることが多いとか。パターンCか、と心の中で呟く。
偏見かもしれないけれど、医師の妻って三つのパターンに別れると思う。以下は私が独自に分類している医師の奥様パターンABCである。
A:医療関係者。看護師とか医療事務、たまに医師同士ってのも。つまり、職場結婚。
B:箱入りお嬢様が専業主婦になって、育児や趣味に没頭している場合。まれにインスタとかで豪華な生活を発信したりしている人も。旦那さんは寝る暇なくボロボロなので、その対比が凄い。家族繋がりの見合いが出会いって言うのが多い印象。
C:忙しい旦那以上に忙しいバリバリのキャリアウーマン。通訳をやってたり、大学の教授や講師ってパターンも。
院長の奥様が医療関係者なら、顔見知りも多いだろう。だからパターンC。医療分野以外のバリキャリで働いていて、ネットに露出があったとしてもおそらく旧姓使用していて私達が認識できないのかも。
作業を止めず頭の中でそんな事を考えていると、そっけない回答のあとカルテのチェックをしていた三橋先生が不意に問いかけて来た。
「もしかして、『見た』?」
「え? 何をですか?」
「ベンツの美女」
「え?!」
唐突に三橋先生が水を向けて来たので、思わず動揺する。
そういえば、ベンツだったかも。
多忙でお金を使う暇がないから、数少ない趣味が『車』って医師も多い。職員駐車場に並ぶ高級車を見慣れているから、特別車種は意識していなかった。かろうじて免許は持ってるけど、ずっとペーパードライバーで車にはあまり詳しくないってのもある。
頷くのに躊躇していると、了解した、と言うように三橋先生はそのまま画面のカルテに目を戻した。
「……三橋先生は、目撃したんですか?」
「俺は見てない。けど―――看護師さんに聞かれてさ」
三橋先生は、平坦な声で言った。
そういうスキャンダルにはあまり心を動かされないタイプなのかな。それともそういう風に装っているだけかもしれないけど。
「奥さんは外国暮らし長いって聞いたことがあるから、もしかしていつの間にか別れてて、再婚したんじゃないかって噂になってるらしい」
な、なるほど。そうか、再婚って場合もあるか。そういう人もいるよね。極端な仕事人間で普段プライベートをほとんど滲ませない院長だから、周囲が離婚再婚を知らないままってこともあるのか? 病院職員なら病院の事務担当に把握されてしまうと思うけど、雇用保険とか関係ない経営者である院長の個人情報って別に管理しているのかもしれない。ええと例えば専用の秘書や弁護士が対応している、とか?? 経営者になった経験がないから、よく分からないけど。
「『愛人じゃないか?』って面白がって匂わす人もいるけど―――」
ギクッとする。
「院長の性格から考えて、そういうのは考えられないよね」
ここに来て一年しか経ってない私と違い、三橋先生はこの病院の創立したてからいる人だ。だから院長の人柄にも詳しいだろう。断言されて、少しホッとした。
「愛人作るような面倒なことしないで、慰謝料払って奥さんと別れるんじゃない?」
ハハハ、と軽く笑いながら言ってる横顔の瞳が笑ってない。
もしかして、彼は怒っているのだろうか?
おおぅ……優し気な見た目の割に、意外と辛辣なのね。
でも、院長に腹を立ててるんじゃなくて、こういう噂話に腹を立てているような雰囲気だ。
ヒヤリとした。下手に憶測を口にしなくて良かった、と思う。何となく三橋先生には嫌われたくない。
優し気な見た目の若い先生だから、と噂話を口にする看護婦がいたらしい。もしかするとその話題をきっかけに三橋先生と仲良くなろうと思ったのかも。貴重な独身男性。しかも仕事が出来る。看護師に対する威圧感もなくて感じが良いとくれば、さもありなん。
でも、師長に知られたらさぞ叱責されそうな内容だわ。憶測で噂を広げるな!……てね。
ところで、三橋先生の見解は私に大きな安堵をもたらした。
そうだよね、不倫じゃなくて再婚っていう可能性もあった。そっか、そっか。
私よりずっと長い付き合いである彼がそういう可能性を口に出すなら、不倫って言う状況よりそっちの方が信憑性があるのだろう、と。やっぱりちょっと引っ掛かってたから。
けど―――院長って面食いだったんだなぁ。と、安心した途端下世話な感想が浮かぶ。うう、こんなこと口に出したら、三橋先生に軽蔑されるかも。これはやはり、心に秘めとくに限る。
「そうですよね」
「小岩井さんは言いふらしたりしない人、なんだね」
少し手が止まっていた私に、笑いかける三橋先生。
その笑顔が柔らかくて、思わずビクリとする。
いえいえいえ、そういう訳じゃないんです。
私も結構下世話な考えを持ってたのです。
冷や汗をかきつつ動揺して視線を彷徨わせると、時計が目に入った。
わわわ、やばい。
「もう時間ですねっ!」
申し合わせの時間が迫っていた。私は慌てて話を切り上げ、仕上げのダブルチェックにかかる。ここでは毎日、忙しい。余計なことを考えている暇は無いのだ。
そうだよね。奥様が外国暮らしだったなら、すれ違い生活の末離婚ってありうる。お医者さんが仕事ばっかりで家庭が蔑ろになってしまい、別れるってパターンは結構あるのだ。そうでなくても現代は夫婦の四組に一組は離婚している。きっと院長は、離婚後若い美女と再婚したんだ。もしくは恋人か。後ろ暗いところの無い関係だ! そうに違いない。
そう結論付けて、私はもう、心の片隅にその話題を追いやったのだった。
その後はいつも通り一日中病院を走り回るので、精一杯だった。
******
それからしばらくして、再び私はかの美女が院長を迎えに来る場面に遭遇したのだった。
その時にはもう私の中のネットニュース的なスキャンダルを見ている気持ちは薄れていて、感情の波は穏やかなものになっていた。再婚だろうと浮気だろうと不倫だろうと、他人のプライベートなんか良いじゃないか、と。
パワハラもモラハラもセクハラもないこの職場のトップである人物であり、更に大いなる目標を持って自分の仕事に厳しく意欲的な上司である―――それが院長のすべてだ。
とかなんとか言っているが、なんのことはない。
あれから何故か三橋先生と付き合うことになり、私のプライベートが思いっきり充実してしまったのだ。その途端、他人のスキャンダルが全く気にならなくなった―――我ながら、現金なものである。仕事だけの人生だった少し前の私。それは自分で納得して選んだ人生だった。けれどもしかすると……他人のプライベートが充実している様子をまざまざと見せつけられて、少し羨ましかったのかもしれない。
「龍一さーん!」
駐車場に停車した車の横で、美女がブンブン手を振っている。あの常にいかめしい表情を崩さない院長に、あんなにフレンドリーに接することが出来るなんてすごい。私だったら畏れ多くて絶対できない。
またしてもちょうど裏口で帰り時間が一緒になった私は、先を行く院長の背中を眺めながら、彼はそれにどんな顔で応対しているのだろう……と、久しぶりに下世話な興味を抱いたのだった。
上司のプライベートなんて気にしない、と割り切ったものの、普段はキリッとした院長が、若い妻だか恋人だか愛人だかにデレデレ鼻の下伸ばしていたら、なんかちょっと嫌だ。
そこは三橋先生と違って、やっぱり割り切れないのである。
私の視線の先、車の傍まで歩み寄った院長を見上げて、華奢な美女がニッコリ笑う―――そして体格の良い院長の胸に飛び込むと、ギュッと抱き着いた……!
あわわわ、もし二人の関係が正当なものだとしても、見てるのが恥かしい!! 私は外でイチャイチャするのとか、そういうのに全く免疫がないのである。何しろ看護学校を卒業以来ずっとブラックな職場で身を粉にして働き続け、更に新しい職場では慣れるのに必死過ぎて、恋愛のレの字も経験して来なかった。職場の同僚は器用に合コンとかこなしてたけど、要領が悪いのか、オフは仕事の手順の確認と家事と休息で手一杯。それにだいたい仕事以外では人見知りで、知らない人と飲むのは疲れる性質だし、合コンに行ってもただ疲れるだけで全く癒されないのだ。
だから、三橋先生が人生で初めての恋人だ。恋を知る前に患者さんの下世話な冗談とかセクハラとか、ブラック病院の上司のモラハラとかパワハラで軽く男性不信に陥っていたせいかもしれない。
そんなことを考えつつ気付かない体裁を保ち、割とゆっくり歩いていたのだが、そろそろピトッとくっ付いている二人のいる門のあたりに到達しつつある。どうすべきだろうか。
ヨシ、とにかくサッと挨拶して通り過ぎよう……! と心に決めて、いっそ足を速めた。
「お疲れ様でーす」と聞こえるであろうギリギリの声量で院長の背中に挨拶をして、通り過ぎようとする。
すると、そこで院長が振り返った……美女をその胸にくっつけたまま、何事も無かったように。
「小岩井さん、お疲れ様」
「!」
なんと、院長は私の名前を憶えていた……!
下っ端も下っ端、ここでは新顔の看護師の私のことを。
状況にも関わらず、その瞬間軽く感動する。そして変わらず、ニコリともしない厳めしい表情を確認して―――なんだか安心してしまった。
すると美女が院長の胸から顔を上げて、私を見た。
おっ……遠目でも美女と分かったが、近くで見る彼女は更に輝くように美しい。特に活き活きとした瞳が印象的だった。
「あら、紹介して。龍一さん」
抱き着いていた手を戻して、彼女は私に向き直る。
すると院長は頷いた。
「今年から来てくれた、看護師の小岩井さんだ。小岩井さん、妻の玲子だ」
妻……!
肩の力が一気に抜けた。
―――合法! 公式だ! 良かった、良かった!!
その事実に心底ホッとしてしまう。
相手の美女は、確かに若すぎる。けどドロドロなスキャンダルでない。それだけでもう、私の中の気まずい気持ちが消し飛んで行く。安堵しつつ、私は慌てて頭を下げた。
「あっ……院長には、大変お世話になっております!」
「こちらこそ、いつもお世話になっています。今、帰り?」
「あ、はい」
「電車? なら送るから乗ってかない?」
「は? いえいえいえ、滅相もない……!」
「遠慮しないで。じゃあ、駅まで! ね?」
ううう……美しい笑顔で微笑まれてしまう。
正直、ものすっごく疲れてる。だから車に乗れるのはありがたい。
でもなんか緊張しちゃうから―――やっぱ全力で辞退したい!
しかし「まぁまぁ」と奥様に促されて、それが何だか断り切れなくて―――ピッカピカのベンツの、後部座席に乗せていただくことになってしまった。奥様が運転して、院長は助手席だ。
近寄りがたい美貌のわりに、なんと気さくな奥様だろうか。
そして後部座席には、なんとまぁ可愛らしい同乗者が……!
私を見て目を丸くしている。
わぁ、零れそうな瞳にまつ毛が……ながーい!
女の子……? じゃないな、服の色が男の子だ、たぶん。最近は男の子、女の子って色分けがハッキリしないから、推測でしかないけど。
「こんにちは」
挨拶すると「こんにちわっ」と、はにかみつつ挨拶を返してくれた。
「私は黛先生の病院で働いている小岩井美和っていうの。お名前は?」
チラッと彼(?)は前の席に視線を投げる。美女が頷くのを見てから、答えた。防犯対策だろうか? 名前を不用意に口にしないよう躾けられているのかもしれない。
「まゆずみ、りゅうたろう、です」
大きい目でこちらを真っすぐ見て、ハキハキ応えてくれる。可愛いのう。
『りゅうたろう』か……なるほど、男の子だ。良かった、早とちりして余計なこと言わなくて本当に良かった。
『りゅうたろう』と言うことは、院長の名前から一文字とったのだろうか。も、もしかして……この子、院長の息子さん?! 再婚して出来たのだろうか? でも、小学生ではなさそうだけど、これだけ喋れるってことは幼稚園とか? 少なくとも数年前には生まれていたってことだ。えええ? その割には職場でその事実を誰も知らないなんて、あるだろうか。
既に研修医の息子さんがいる筈だか―――うわぁ、つまり二十歳差くらいの次男ってこと?!
何というか、院長……わぁあ、さすが。仕事もプライベートも……精力的でいらっしゃる……。なんかもう、驚きすぎて一周回って『さすが』ってなってしまった。きっと私のような凡人とはかけ離れた場所にいらっしゃるのだ。次元が違う。もう何も、疑問に思うまい。
若干おののきつつも、子供の手前表情に出さずに私はニッコリ笑った。
「お母さん似だね」
「?……ぼく、かーさんに似てないよ」
「え? そっくりだよ?」
美形の奥様を子供にしたら、こんな感じの美少女になるだろうって、容易に想像できる。華やかな容貌は、厳めしい院長に全く似ていない。連れ子だって言われてもうなずけるのに。
「レイコちゃんのこと? レイコちゃんは『かーさん』じゃないよ。ね、じーちゃん?」
「ああ」
助手席から振り向いた院長が、真顔で頷いていた。
え?……『じーちゃん』????
真実を知った私は、驚愕した。
美女は、黛先生の奥様だった。しかも研修医の息子がいる―――そう、愛人でも再婚でも無かったのだ! 後から三橋先生に聞いたら「たしか十歳差くらいあるって聞いたことが……」と言っていたがそれにしても若過ぎよ! どう若く見積もっても、そうであれば四十後半な筈。あの若さと美貌で?!―――ないない、あり得ない! 周りの三十代の同僚の方がよっぽど……いや、これは声に出してはイケないやつ。モゴモゴ。自分にそのまま返って来るヤツだ。
可愛らしい美少女バリの「りゅうたろう」君は、なんと美女の孫だったのだ……!
ずっとアメリカを拠点に仕事をしていた彼女だが、孫が出来たと聞いて、育児がしたくて帰国したのだと言う。えええ?
はー……なんか、よく分からない。ツッコミたい箇所が幾つもあるけど、初対面だし上司の奥さんだし……迫力のある美女だから、ビビっちゃって、結局疑問点はほとんど何も聞けずに終わってしまった。
でも、結局駅まで送ってもらったし。いろいろ見た目とか行動が謎ですごいけど―――気さくで親切な奥様だった。
しかし『事実は小説より奇なり』と言うか、事実は私の勝手な妄想よりずっと予想外だった。
真実を知ってしまうと『若い美女と再婚』とか『不倫相手だった』と言う結論の方が、よほど現実的だと感じてしまう。
なんなんだ、あの驚異の美貌……! あれがひと昔前に流行った美魔女とかいうモノだろうか。本当に全く現実感がない。お金を湯水のように使ってアンチエイジングしまっくてるのだろうか……? そんな医療技術があるなら、私だってあやかりたい。
院長、ボランティアみたいな仕事受けてないで、奥様を広告塔に美容整形アンチエイジング系の外来やったらボロ儲けするのではないだろうか。
という訳で、とても信じて貰えそうもない今回の件、忙しさに紛れて周囲に漏らすタイミングを完全に逸してしまった。
院長の再婚とか愛人の噂は、ちょうど飽きられて下火になってきたし、話題にも上らなくなった。改めてわざわざ燃料を投下するのもどうかと思うし。誰かに話題を振られたら否定しよう! と決意してから、かれこれ一ヶ月が経過しているのだ。
三橋先生には、プライベートで顔を合わせた時にわぁわぁ話しまくったけど。彼は「へー」って言って、ちょっと笑っただけだった。相変わらずスキャンダル系に反応が薄い。でもこういう所が落ち着くなぁって思うから、良いんだけど。私も口に出して彼に伝える事で、なんとなく気が済んだってのもある。
それからの私は。
奥様が院長をお迎えに来るのを偶然見掛けるのが、ちょっとした楽しみになったのである。
あの常にいかめしい表情を崩さず平熱対応で淡々としている院長が、人目のある所でも奥様に好き勝手にギュッとされたり、まれにチュッとされたりして。
それでも慣れているのか変わらず表情が変わってない所とか、孫に「じーちゃん」と言われて少し目を細めたりしている所を目にすると―――彼の事をずっと、尊敬してもしたりない凄い人で遥か高みにいるような大人物だと思っていた(その気持ちは、もちろん今も変わらないが)けど、院長も私達とおんなじ人間なんだなぁ……と思ったりして、ちょっとホッコリするのだった。
----------------------------------------------------------------------------
またしても母親に間違われる玲子でした。
いつも通り最初からオチが見えている設定説明のようなお話で、申し訳ありません(^^;
お読みいただき、有難うございました!
ちなみに当然のことながら、現実の腹腔鏡手術の日本における第一人者と、このお話の登場人物は一切関係ありませんm(_ _)m でも豪傑エピソードは一部参考にさせていただきました。本当の偉人だと思います。尊敬。
21
お気に入りに追加
1,356
あなたにおすすめの小説
【完結】選ばれなかった王女は、手紙を残して消えることにした。
曽根原ツタ
恋愛
「お姉様、私はヴィンス様と愛し合っているの。だから邪魔者は――消えてくれない?」
「分かったわ」
「えっ……」
男が生まれない王家の第一王女ノルティマは、次の女王になるべく全てを犠牲にして教育を受けていた。
毎日奴隷のように働かされた挙句、将来王配として彼女を支えるはずだった婚約者ヴィンスは──妹と想いあっていた。
裏切りを知ったノルティマは、手紙を残して王宮を去ることに。
何もかも諦めて、崖から湖に飛び降りたとき──救いの手を差し伸べる男が現れて……?
★小説家になろう様で先行更新中
側妃、で御座いますか?承知いたしました、ただし条件があります。
とうや
恋愛
「私はシャーロットを妻にしようと思う。君は側妃になってくれ」
成婚の儀を迎える半年前。王太子セオドアは、15年も婚約者だったエマにそう言った。微笑んだままのエマ・シーグローブ公爵令嬢と、驚きの余り硬直する近衛騎士ケイレブ・シェパード。幼馴染だった3人の関係は、シャーロットという少女によって崩れた。
「側妃、で御座いますか?承知いたしました、ただし条件があります」
********************************************
ATTENTION
********************************************
*世界軸は『側近候補を外されて覚醒したら〜』あたりの、なんちゃってヨーロッパ風。魔法はあるけれど魔王もいないし神様も遠い存在。そんなご都合主義で設定うすうすの世界です。
*いつものような残酷な表現はありませんが、倫理観に難ありで軽い胸糞です。タグを良くご覧ください。
*R-15は保険です。
浮気くらいで騒ぐなとおっしゃるなら、そのとおり従ってあげましょう。
Hibah
恋愛
私の夫エルキュールは、王位継承権がある王子ではないものの、その勇敢さと知性で知られた高貴な男性でした。貴族社会では珍しいことに、私たちは婚約の段階で互いに恋に落ち、幸せな結婚生活へと進みました。しかし、ある日を境に、夫は私以外の女性を部屋に連れ込むようになります。そして「男なら誰でもやっている」と、浮気を肯定し、開き直ってしまいます。私は夫のその態度に心から苦しみました。夫を愛していないわけではなく、愛し続けているからこそ、辛いのです。しかし、夫は変わってしまいました。もうどうしようもないので、私も変わることにします。
【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話
ラララキヲ
恋愛
長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。
しかし寝室に居た妻は……
希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──
一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……──
<【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました>
◇テンプレ浮気クソ男女。
◇軽い触れ合い表現があるのでR15に
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇ご都合展開。矛盾は察して下さい…
◇なろうにも上げてます。
※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)
今日も旦那は愛人に尽くしている~なら私もいいわよね?~
コトミ
恋愛
結婚した夫には愛人がいた。辺境伯の令嬢であったビオラには男兄弟がおらず、子爵家のカールを婿として屋敷に向かい入れた。半年の間は良かったが、それから事態は急速に悪化していく。伯爵であり、領地も統治している夫に平民の愛人がいて、屋敷の隣にその愛人のための別棟まで作って愛人に尽くす。こんなことを我慢できる夫人は私以外に何人いるのかしら。そんな考えを巡らせながら、ビオラは毎日夫の代わりに領地の仕事をこなしていた。毎晩夫のカールは愛人の元へ通っている。その間ビオラは休む暇なく仕事をこなした。ビオラがカールに反論してもカールは「君も愛人を作ればいいじゃないか」の一点張り。我慢の限界になったビオラはずっと大切にしてきた屋敷を飛び出した。
そしてその飛び出した先で出会った人とは?
(できる限り毎日投稿を頑張ります。誤字脱字、世界観、ストーリー構成、などなどはゆるゆるです)
hotランキング1位入りしました。ありがとうございます
王太子の子を孕まされてました
杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。
※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる