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後日談 黛家の妊婦さん3
(171)ショールームで2
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前話の続きです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
黛と営業担当の短髪の男性が楽し気に盛り上がっている所へ、ボブカットの可愛らしい受付嬢が近づいて来た。
「あの、白石さん」
営業担当の男性は白石と言うらしい。車のドアに身を屈めて座席に座る黛と話し込んでいた彼は、腰を伸ばして振り向いた。
「予約されていたお客様が……」
「え?ああ!もうこんな時間か。すみません黛様、今違う担当をお呼びしますので」
「いえ、もう帰りますので大丈夫です」
「そうですか?申し訳ありません」
どうやら白石と約束していた客がいたらしい。黛が首を振ると、白石は申し訳なさそうに頭を下げて受付の方へ振り向き早足で戻っていく。何気なくその背を見送りながら七海もそちらに視線を向けた。そして受付の辺りに立っている女性と、ぱちりと目が合った。おそらく彼女が予約を入れていた客なのだろう。
「あっ」
思わず声が出た。が、向こうはそれ以前から気が付いていたかもしれない。目を見開いてこちらを凝視していたのだ。射るような視線がチクチクと刺さるように痛くて、七海は思わず視線を逸らす。しかし背けた頬に視線を感じて―――背中を冷や汗が伝う。やや間があってコツコツとパンプスの足音が近づいて来た。まさか……と思い振り向くと、肩までの黒髪を揺らして理知的な容貌の美女が、こちらに向かってズンズンと近づいて来るのが目に入る。ちょうど入れ替わりのように受付に置いてきぼりにされた白石は、戸惑ったようにこちらを窺っている。
「こんにちは、よくお会いしますね?」
「こんにちは……えーと、はい」
それは以前本屋でバッタリ遭遇した、新のバイト先の先輩、箕浦だった。
自分と大して年の違わない、もしかすると年下かもしれない相手なのだが、妙な迫力があってつい怯みがちに対応してしまう。初対面の時には面識のない七海に突っかかって来て理不尽な言い掛かりを仕掛けて来た相手だ。出来る限り避けて通りたい所であったが……しかし七海の性格上話し掛けて来た相手を無下に扱うと言うことも出来ず、つい曖昧に返答してしまう。けれどもこちらから話す話題も無いので、何を言われるのだろう?と戦々恐々としつつ視線を俯かせていると、フッと苛立ったように溜息を吐かれた。
「今日は『杖替わりの本田君』はいないんですか?」
うっ……と言葉に詰まる。確かに良い言葉遣いでは無かったかもしれない。が、咄嗟に新を庇おうと焦ってしまってそんな言い訳しか思いつかなったのだ。すると更に苛立ったような尖った声を箕浦は発した。
「何故黙っているの?返事くらい……」
しかし何か言い掛けて彼女が口を噤んだので、七海は恐る恐る顔を上げる。箕浦は七海の後ろを呆けたように見ていた。あ、と思った時には既にグイッと腰を力強く、しかし優しく引き寄せられてしまっていた。逞しい体にピタっと抱き寄せられるのが感じられて、思わず赤面してしまう。けれども呆気に取られる箕浦にも、頬を染める七海の反応にも無頓着に、黛は引き寄せた妻の耳元で口を開いた。
「七海、腹減った。帰ろうぜ」
「ま、まゆずみくん……ちょっと」
咄嗟に体を離そうとしたが、力の差で叶わない。慌てて目の前の箕浦に視線を戻す。呆けている彼女と目が合うと、その相貌がみるみる冷たいモノに変わって行く。無理もない、と七海は思った。以前箕浦と顔を合わせた時のことを思い出す。彼女は七海のことを、おそらく新の恋人だと勘違いしていた筈だ。それが別の男性と親し気にくっ付いていたら驚き、呆れもするだろう。案の定、箕浦は尖った声音で責めるように口を開いた。
「あ、あなた、何やって……!」
「じゃ、先にこっちをいただくか」
「え」
ちゅっ。
「わぁ!」
「なっ……!」
驚いた七海は目いっぱい黛を突き飛ばした。そこで漸く拘束が解けて、少し体を離す事に成功する。口付けられた頬を抑えて「な、な、なにするの……!」と目を白黒させる七海に、黛は口角を上げて魅力的に微笑んだ。
「『何』って……苗字呼びしただろ?」
「えっ……あ!」
箕浦との再会に動転するあまり、咄嗟にいつも通りの言い方しか出て来なかったのだ。七海と、自分の面識の無い女性が対峙している、明らかに緊張感を孕んだ空気をものともせず、しかし黛は何処までも通常運転だった。七海の頭からはすっかりペナルティのことなど抜け落ちていたと言うのに。
「でもっ、人前ですることないじゃない!」
それにしてもこの状況は酷過ぎる!七海は頬に手を当てつつ真っ赤になって拳を握り、抗議の声を上げた。しかし黛の落ち着き払った態度は全く崩される素振りも無い。それどころか溜息を吐き、真顔で諭すように七海の肩を叩いた。
「さっきも言っただろ?恥ずかしければ恥ずかしいほど良いって。パブロフの犬みたいに失敗体験があってこそ、しっかり反射として学ぶ事ができるんだぞ」
「だからって限度があるでしょー!それに私を犬と一緒にしないで!」
「いや、それは犬に失礼だろ?」
「え?!」
まさか夫に犬以下のように言われるとは思わず、七海は目を剥いた。黛は『しょうがないな』と言うように肩を竦めて、七海の肩に置いていた手でポンポンと彼女をあやした。
「パブロフの犬は純粋に実験体として扱われていたんだ。逃げ場が無い状態での学習は大変なんだぞ?七海はそこまで拘束されずに良い環境で好きに生きられるんだから、あの犬よりずっと甘い環境にいるじゃないか」
「なっ……そう言う問題じゃ」
「じゃ、どういう問題だ?俺はやると言ったからにはやる。最初から人前でもやるって宣言していたし、さっきだって人前だっただろ?言った事を守っているだけだ。それもこれも七海とナナコの今後のためで……」
「ああ、も~!ああ言えばこう言う……!」
七海ばかりがヒートアップして、頭から湯気を出した所で「あの」と声を掛けられた。ハッと振り向くと、痴話喧嘩を目の前に毒気を抜かれたような表情の箕浦がいた。
「あっ……」
「どういう関係?」
「ええと……」
七海は少し口籠った後、視線を落として小さな声で呟いた。
「夫です」
「はぁっ?!」
箕浦はカッと目を見開いて首を振った。
「えっ……夫って……本田君は?」
「あの、新は別に……」
「……騙してたの?」
「え?いや……」
「ひどいじゃない、彼は本気であなたに尽くしているのに!」
「ええ?!」
何だかとってもヤヤコシイ状況になって来た……!七海はどう対処すべきか分からず挙動不審に視線を彷徨わせるばかりだ。氷のような視線を向けられて冷や汗がどっと溢れて来る。何か……何か言わないと、アタフタしているところへ黛が腕組みをして箕浦の方に向き直った。
「ふーん、なるほど」
黛が七海から離れ一歩前に出る。目を吊り上げる箕浦の顔をマジマジと見下ろした。一見して飛びぬけて整った顔の男に真っすぐ見つめられた当人は息を飲んで押し黙った。目の前の大人しそうな妊婦の『夫』だと言う人物は、眩しいくらいの美男である。バイトで来ていた精悍な容貌の学生、本田とはまた違ったタイプのイケメンだ。
自分のように苦労を重ねて自立しようとしている女では無く、何故男に寄り掛かり利用するようなこんな女ばかりが得をするのか、と苛立った箕浦は腹立ち紛れに彼女の秘密をぶちまけてやろうと思い立った。そう、これは親切でやっているのだ。人畜無害そうな女に限ってずる賢く周囲を利用して、それを当り前のように享受している。それを教えてやるのだから感謝されこそすれ、責められる道理は無い。
「この人があなたの妻と言うのは本当?」
「ああ」
黛が真顔で頷いた。その印象的な瞳に真っすぐに見つめられて、こんな時だと言うのに箕浦の鼓動は知らず早くなってしまう。ゴクリと唾を飲み込んで、彼女は告発の言葉を口にした。
「この人、若い男の子を騙して利用しているんですよ。買い物に付き合わせて、親し気にしている所を見ました。彼はすっかり騙されていて夢中になっているみたいで―――私が忠告したのに、話も聞かないくらいで。知らなかったでしょう?」
言ってやった……!と一気に言い切った荒い息を吐きだして、箕浦は拳を握った。すると驚きを露わに―――するかと思われた美男は、目をスッと細めて「ああ」と再び気のない返事を返した。あまりの手ごたえの無さに拍子抜けした箕浦が戸惑っているところに、黛が大きく頷いた。
「新の知合いか?」
何と、あの懐っこい大型犬のような本田は、目の前の男と親しいらしい。何処まで鬼畜なのか……と、箕浦はキッと七海を睨みつける。黛の斜め後ろでボンヤリしていた七海が、恐怖心でビクリと肩を揺らした。
「……本田君は私の事務所にバイトに来ていて」
「ああ、やっぱりお前か!新にセクハラしていた先輩って」
「……は?」
『セクハラ』と思わぬ単語が飛び出して来て、情報を処理しきれない箕浦の思考は一度カチッと停止してしまう。
「せ……『セクハラ』?」
「新が言ってたぞ、七海の買い物に付き合ってたらバイト先の先輩にバッタリ会ったって。それ、お前だろ?」
「え、それ……は、私だけど……『セクハラ』って言うのは違」
箕浦はあくまで親切のつもりだったのだ。少しくらい迷惑そうな表情をしていても、新は照れて遠慮している、くらいにしか思っていなかった。ただ本屋で再会した時にキツイ言い方をされて戸惑った。それもこの、大人しそうな地味な妊婦にそそのかされて仕方なく言っている……くらいに後から都合良く記憶を書き換えて、気持ちを落ち着けていたのだ。
「バイト先で迫られて躱すのが大変だったって。仕事教えて貰ってるし、自分も実力不足だから強く断れなくて困ってたってさ。だからもうあの事務所でバイトできねーって嘆いていたもんな。しかもバッタリ会ってまたシツコク絡んで来たんだって?まぁ、新もハッキリ言わないから誤解されるのかもしれないけど、関係ない七海に食って掛かるのは止めろよ。お前のいる仕事場でバイト出来ないから、新に七海の買い物付き合うバイトをさせる事になったんだから。八つ当たりも大概にしろよな」
ズバズバ遠慮なく言われて、思わず箕浦は絶句してしまう。七海は息を飲んで真っ白になる彼女を見守っていた。女性に対しても歯に衣着せない黛の物言いを久し振りに耳にしてしまい、ゴクリと唾を飲み込んで成り行きを見守った。
「そん……なワケ……」
やっと言葉を口にする箕浦の心中はグラグラと着地点を見いだせずにいる。同情を込めたような七海の視線に気が付かないほどだ。気が付いていたらプライドの高い箕浦は、八つ当たりで再び噛みついていたかもしれない。
「じゃ、新についてはアイツの問題だから知らんけど、もう顔を合わせてもこっちには構うなよな。俺の女に言いがかり付けるのはこれで終わりにしてくれ」
そうバシっと言い切って、黛は七海の手を取り「じゃ、行くか」と微笑んで歩き出した。手を引かれるまま七海は黛の後を付いて行ったが―――何があったのか、遠く離れていたため把握しきれていないボブカットの受付嬢と営業担当の白石に軽く挨拶をして、ショールームの自動扉を通り抜ける時、少し振り向いてみる。駆け寄って来る白石にも目をくれず、まだ呆然と視線を俯かせていた箕浦が見えて知らず「ああぁ~」と変な声が漏れてしまった。
黛はもう何事も無かったかのように、そちらに感心さえ示さない。黄色い車の助手席のドアを開け「七海?」と首を傾げる。七海は我に返り頷いて、お腹を圧迫しにくいように目いっぱい下げた座席に黛の手を借りて慎重に乗り込んだ。
七海がしっかり席に収まったのを確認してから丁寧に助手席のドアを閉め、運転席に乗り込んでシートベルトを締めた黛は妻の方を見て屈託無くニコリと笑う。
「何食いたい?」
「え?ええと……」
「久しぶりに寿司でもどうだ?ナナコが産まれる前に、大将に顔見せておこうぜ」
「あ、うん。そうだね、それが良いね」
行き付けの寿司屋にその場で予約の電話をする黛を見ながら、そう言う筋合いじゃないのは分かっているのだが、少しだけポツンと佇む彼女を思い出して同情してしまう七海であった。
大人になって、学生の頃に比べ随分遠慮や配慮と言う言葉を学んだように見えた黛だったが―――どうやら中身はそんなに変わっていないらしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
七海の心情はちょっとシンミリしていましたが、箕浦は我に返ってその後「キー!」となっていたので、余計な同情かもしれません。むしろ苛立ったお客さんの相手をすることになる、白石さんと受付嬢に同情した方が良いかも(^^;)
新のアルバイトから始まった一連のお話はこちらでやっと終了です。
お読みいただき、ありがとうございました。
たぶん次話こそ出産まで辿り着く(ハズ!)…と思います。(←また弱気)
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黛と営業担当の短髪の男性が楽し気に盛り上がっている所へ、ボブカットの可愛らしい受付嬢が近づいて来た。
「あの、白石さん」
営業担当の男性は白石と言うらしい。車のドアに身を屈めて座席に座る黛と話し込んでいた彼は、腰を伸ばして振り向いた。
「予約されていたお客様が……」
「え?ああ!もうこんな時間か。すみません黛様、今違う担当をお呼びしますので」
「いえ、もう帰りますので大丈夫です」
「そうですか?申し訳ありません」
どうやら白石と約束していた客がいたらしい。黛が首を振ると、白石は申し訳なさそうに頭を下げて受付の方へ振り向き早足で戻っていく。何気なくその背を見送りながら七海もそちらに視線を向けた。そして受付の辺りに立っている女性と、ぱちりと目が合った。おそらく彼女が予約を入れていた客なのだろう。
「あっ」
思わず声が出た。が、向こうはそれ以前から気が付いていたかもしれない。目を見開いてこちらを凝視していたのだ。射るような視線がチクチクと刺さるように痛くて、七海は思わず視線を逸らす。しかし背けた頬に視線を感じて―――背中を冷や汗が伝う。やや間があってコツコツとパンプスの足音が近づいて来た。まさか……と思い振り向くと、肩までの黒髪を揺らして理知的な容貌の美女が、こちらに向かってズンズンと近づいて来るのが目に入る。ちょうど入れ替わりのように受付に置いてきぼりにされた白石は、戸惑ったようにこちらを窺っている。
「こんにちは、よくお会いしますね?」
「こんにちは……えーと、はい」
それは以前本屋でバッタリ遭遇した、新のバイト先の先輩、箕浦だった。
自分と大して年の違わない、もしかすると年下かもしれない相手なのだが、妙な迫力があってつい怯みがちに対応してしまう。初対面の時には面識のない七海に突っかかって来て理不尽な言い掛かりを仕掛けて来た相手だ。出来る限り避けて通りたい所であったが……しかし七海の性格上話し掛けて来た相手を無下に扱うと言うことも出来ず、つい曖昧に返答してしまう。けれどもこちらから話す話題も無いので、何を言われるのだろう?と戦々恐々としつつ視線を俯かせていると、フッと苛立ったように溜息を吐かれた。
「今日は『杖替わりの本田君』はいないんですか?」
うっ……と言葉に詰まる。確かに良い言葉遣いでは無かったかもしれない。が、咄嗟に新を庇おうと焦ってしまってそんな言い訳しか思いつかなったのだ。すると更に苛立ったような尖った声を箕浦は発した。
「何故黙っているの?返事くらい……」
しかし何か言い掛けて彼女が口を噤んだので、七海は恐る恐る顔を上げる。箕浦は七海の後ろを呆けたように見ていた。あ、と思った時には既にグイッと腰を力強く、しかし優しく引き寄せられてしまっていた。逞しい体にピタっと抱き寄せられるのが感じられて、思わず赤面してしまう。けれども呆気に取られる箕浦にも、頬を染める七海の反応にも無頓着に、黛は引き寄せた妻の耳元で口を開いた。
「七海、腹減った。帰ろうぜ」
「ま、まゆずみくん……ちょっと」
咄嗟に体を離そうとしたが、力の差で叶わない。慌てて目の前の箕浦に視線を戻す。呆けている彼女と目が合うと、その相貌がみるみる冷たいモノに変わって行く。無理もない、と七海は思った。以前箕浦と顔を合わせた時のことを思い出す。彼女は七海のことを、おそらく新の恋人だと勘違いしていた筈だ。それが別の男性と親し気にくっ付いていたら驚き、呆れもするだろう。案の定、箕浦は尖った声音で責めるように口を開いた。
「あ、あなた、何やって……!」
「じゃ、先にこっちをいただくか」
「え」
ちゅっ。
「わぁ!」
「なっ……!」
驚いた七海は目いっぱい黛を突き飛ばした。そこで漸く拘束が解けて、少し体を離す事に成功する。口付けられた頬を抑えて「な、な、なにするの……!」と目を白黒させる七海に、黛は口角を上げて魅力的に微笑んだ。
「『何』って……苗字呼びしただろ?」
「えっ……あ!」
箕浦との再会に動転するあまり、咄嗟にいつも通りの言い方しか出て来なかったのだ。七海と、自分の面識の無い女性が対峙している、明らかに緊張感を孕んだ空気をものともせず、しかし黛は何処までも通常運転だった。七海の頭からはすっかりペナルティのことなど抜け落ちていたと言うのに。
「でもっ、人前ですることないじゃない!」
それにしてもこの状況は酷過ぎる!七海は頬に手を当てつつ真っ赤になって拳を握り、抗議の声を上げた。しかし黛の落ち着き払った態度は全く崩される素振りも無い。それどころか溜息を吐き、真顔で諭すように七海の肩を叩いた。
「さっきも言っただろ?恥ずかしければ恥ずかしいほど良いって。パブロフの犬みたいに失敗体験があってこそ、しっかり反射として学ぶ事ができるんだぞ」
「だからって限度があるでしょー!それに私を犬と一緒にしないで!」
「いや、それは犬に失礼だろ?」
「え?!」
まさか夫に犬以下のように言われるとは思わず、七海は目を剥いた。黛は『しょうがないな』と言うように肩を竦めて、七海の肩に置いていた手でポンポンと彼女をあやした。
「パブロフの犬は純粋に実験体として扱われていたんだ。逃げ場が無い状態での学習は大変なんだぞ?七海はそこまで拘束されずに良い環境で好きに生きられるんだから、あの犬よりずっと甘い環境にいるじゃないか」
「なっ……そう言う問題じゃ」
「じゃ、どういう問題だ?俺はやると言ったからにはやる。最初から人前でもやるって宣言していたし、さっきだって人前だっただろ?言った事を守っているだけだ。それもこれも七海とナナコの今後のためで……」
「ああ、も~!ああ言えばこう言う……!」
七海ばかりがヒートアップして、頭から湯気を出した所で「あの」と声を掛けられた。ハッと振り向くと、痴話喧嘩を目の前に毒気を抜かれたような表情の箕浦がいた。
「あっ……」
「どういう関係?」
「ええと……」
七海は少し口籠った後、視線を落として小さな声で呟いた。
「夫です」
「はぁっ?!」
箕浦はカッと目を見開いて首を振った。
「えっ……夫って……本田君は?」
「あの、新は別に……」
「……騙してたの?」
「え?いや……」
「ひどいじゃない、彼は本気であなたに尽くしているのに!」
「ええ?!」
何だかとってもヤヤコシイ状況になって来た……!七海はどう対処すべきか分からず挙動不審に視線を彷徨わせるばかりだ。氷のような視線を向けられて冷や汗がどっと溢れて来る。何か……何か言わないと、アタフタしているところへ黛が腕組みをして箕浦の方に向き直った。
「ふーん、なるほど」
黛が七海から離れ一歩前に出る。目を吊り上げる箕浦の顔をマジマジと見下ろした。一見して飛びぬけて整った顔の男に真っすぐ見つめられた当人は息を飲んで押し黙った。目の前の大人しそうな妊婦の『夫』だと言う人物は、眩しいくらいの美男である。バイトで来ていた精悍な容貌の学生、本田とはまた違ったタイプのイケメンだ。
自分のように苦労を重ねて自立しようとしている女では無く、何故男に寄り掛かり利用するようなこんな女ばかりが得をするのか、と苛立った箕浦は腹立ち紛れに彼女の秘密をぶちまけてやろうと思い立った。そう、これは親切でやっているのだ。人畜無害そうな女に限ってずる賢く周囲を利用して、それを当り前のように享受している。それを教えてやるのだから感謝されこそすれ、責められる道理は無い。
「この人があなたの妻と言うのは本当?」
「ああ」
黛が真顔で頷いた。その印象的な瞳に真っすぐに見つめられて、こんな時だと言うのに箕浦の鼓動は知らず早くなってしまう。ゴクリと唾を飲み込んで、彼女は告発の言葉を口にした。
「この人、若い男の子を騙して利用しているんですよ。買い物に付き合わせて、親し気にしている所を見ました。彼はすっかり騙されていて夢中になっているみたいで―――私が忠告したのに、話も聞かないくらいで。知らなかったでしょう?」
言ってやった……!と一気に言い切った荒い息を吐きだして、箕浦は拳を握った。すると驚きを露わに―――するかと思われた美男は、目をスッと細めて「ああ」と再び気のない返事を返した。あまりの手ごたえの無さに拍子抜けした箕浦が戸惑っているところに、黛が大きく頷いた。
「新の知合いか?」
何と、あの懐っこい大型犬のような本田は、目の前の男と親しいらしい。何処まで鬼畜なのか……と、箕浦はキッと七海を睨みつける。黛の斜め後ろでボンヤリしていた七海が、恐怖心でビクリと肩を揺らした。
「……本田君は私の事務所にバイトに来ていて」
「ああ、やっぱりお前か!新にセクハラしていた先輩って」
「……は?」
『セクハラ』と思わぬ単語が飛び出して来て、情報を処理しきれない箕浦の思考は一度カチッと停止してしまう。
「せ……『セクハラ』?」
「新が言ってたぞ、七海の買い物に付き合ってたらバイト先の先輩にバッタリ会ったって。それ、お前だろ?」
「え、それ……は、私だけど……『セクハラ』って言うのは違」
箕浦はあくまで親切のつもりだったのだ。少しくらい迷惑そうな表情をしていても、新は照れて遠慮している、くらいにしか思っていなかった。ただ本屋で再会した時にキツイ言い方をされて戸惑った。それもこの、大人しそうな地味な妊婦にそそのかされて仕方なく言っている……くらいに後から都合良く記憶を書き換えて、気持ちを落ち着けていたのだ。
「バイト先で迫られて躱すのが大変だったって。仕事教えて貰ってるし、自分も実力不足だから強く断れなくて困ってたってさ。だからもうあの事務所でバイトできねーって嘆いていたもんな。しかもバッタリ会ってまたシツコク絡んで来たんだって?まぁ、新もハッキリ言わないから誤解されるのかもしれないけど、関係ない七海に食って掛かるのは止めろよ。お前のいる仕事場でバイト出来ないから、新に七海の買い物付き合うバイトをさせる事になったんだから。八つ当たりも大概にしろよな」
ズバズバ遠慮なく言われて、思わず箕浦は絶句してしまう。七海は息を飲んで真っ白になる彼女を見守っていた。女性に対しても歯に衣着せない黛の物言いを久し振りに耳にしてしまい、ゴクリと唾を飲み込んで成り行きを見守った。
「そん……なワケ……」
やっと言葉を口にする箕浦の心中はグラグラと着地点を見いだせずにいる。同情を込めたような七海の視線に気が付かないほどだ。気が付いていたらプライドの高い箕浦は、八つ当たりで再び噛みついていたかもしれない。
「じゃ、新についてはアイツの問題だから知らんけど、もう顔を合わせてもこっちには構うなよな。俺の女に言いがかり付けるのはこれで終わりにしてくれ」
そうバシっと言い切って、黛は七海の手を取り「じゃ、行くか」と微笑んで歩き出した。手を引かれるまま七海は黛の後を付いて行ったが―――何があったのか、遠く離れていたため把握しきれていないボブカットの受付嬢と営業担当の白石に軽く挨拶をして、ショールームの自動扉を通り抜ける時、少し振り向いてみる。駆け寄って来る白石にも目をくれず、まだ呆然と視線を俯かせていた箕浦が見えて知らず「ああぁ~」と変な声が漏れてしまった。
黛はもう何事も無かったかのように、そちらに感心さえ示さない。黄色い車の助手席のドアを開け「七海?」と首を傾げる。七海は我に返り頷いて、お腹を圧迫しにくいように目いっぱい下げた座席に黛の手を借りて慎重に乗り込んだ。
七海がしっかり席に収まったのを確認してから丁寧に助手席のドアを閉め、運転席に乗り込んでシートベルトを締めた黛は妻の方を見て屈託無くニコリと笑う。
「何食いたい?」
「え?ええと……」
「久しぶりに寿司でもどうだ?ナナコが産まれる前に、大将に顔見せておこうぜ」
「あ、うん。そうだね、それが良いね」
行き付けの寿司屋にその場で予約の電話をする黛を見ながら、そう言う筋合いじゃないのは分かっているのだが、少しだけポツンと佇む彼女を思い出して同情してしまう七海であった。
大人になって、学生の頃に比べ随分遠慮や配慮と言う言葉を学んだように見えた黛だったが―――どうやら中身はそんなに変わっていないらしい。
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七海の心情はちょっとシンミリしていましたが、箕浦は我に返ってその後「キー!」となっていたので、余計な同情かもしれません。むしろ苛立ったお客さんの相手をすることになる、白石さんと受付嬢に同情した方が良いかも(^^;)
新のアルバイトから始まった一連のお話はこちらでやっと終了です。
お読みいただき、ありがとうございました。
たぶん次話こそ出産まで辿り着く(ハズ!)…と思います。(←また弱気)
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