理想の夫

ねがえり太郎

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番外編 春香(はるか)の場合

11.彼女の対決【最終話】

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彼女の会社の連絡先を調べるのは、造作もないことだった。

 自然派志向の化粧品は、ママ友でも愛用者が多い。スマホで検索すれば事務所の場所は容易に突き止める事が出来た。


 はやる気持ちを抑えつつ、電話を掛ける。受付らしき若い女性が出たので、できるだけ落ち着いた口調を心掛け、代表であるあの女への取次を願い出た。


「少々お待ちください」


 長い保留音を聞かされたあげく伝えられたのは「不在のため、お取次ぎできません」と言う素っ気ない返答だ。その日の夕方にも問い合わせて、それから翌日の午前中にも電話した。

 しかし判で押したような、同じ対応が繰り返される。戻り時間を確認するものの「申し訳ありませんが、スケジュールをお教えすることはできません」と、断られた。腹立たしいが、これはある程度予想できたことだ。仕方がないと諦める。


 だから今度は直接、そのオフィスのあるビルへ行って彼女を待つことにした。

航太郎を迎えに行った後、頼んでいたキッズシッターを家に招き入れた。今回ばかりは、航太郎は足手まといでしかないからだ。

 以前悠馬さんから聞いていた、彼女の帰宅時間を思い出す。『本当ならそれくらいに帰って来れる筈なんだけどね。結局夜中を回ることが多いんだ……』なんて、寂し気に笑っていた。

 育児を全面的に任せていた悠馬さんがいない今なら、あの女が定時に帰宅することもあるだろう。


 オフィスビルの一階にある広い待合スペースで、彼女を待ち伏せる。目立たないベンチに腰掛け、ジッとエレベーターの入口を見つめ続けた。今日が駄目なら、明日。明日が駄目なら―――明後日だ。かなり根気のいる作業になるだろう。けれども一刻も早く、私は悠馬さんとの繋がりを取り戻さねばならない。弱音を吐くわけには、行かないのだ。


 夫はちょうど良いことに長期出張中だ。だからキッズシッターを雇ってまで私が何をしているかなんて、不審に思うこともないはず。もともと家庭や育児に無関心な夫だが、流石にその場に居合わせたりしたら口を出して来るだろう。普段全く関わっていない家庭の事に、正論でやり込められるなんて我慢ならない。あの夫は口が達者だから、何か言われたら、私は口をつぐむしかなくなるのだ。


 しかし初日で、ターゲットを見つけることが出来た。どうやら、運が良いらしい。

 ひと時も漏らさず見つめ続けたエレベーターが開き、ほどなく彼女が姿を現したのだ。


 不本意な事に、その颯爽とした裾裁きに見入ってしまう自分がいた。

 雑誌から抜け出して来たような、キャリアウーマン。華美では無いが、上質でラインの美しいグレーのスーツに水色のインナー。品の良い濃紺のレディースバック。付き従うように肩を並べて歩くのは、小奇麗な若者だ。二人は何やら真剣な顔で話をしており、そのまま私の座っているベンチとは反対側の、道路側に近いソファ席に腰を下ろした。

 観葉植物の影から、その様子を窺う。

 若者は手帳に何かを書き付け、彼女の指示を仰ぐようにその言葉に従順に耳を傾けているように見えた。チリリと胸に走る稲妻……あんなことがあっても、平然と仕事をしている女に腹が立った。


 いかにもできる女、という彼女の佇まいに気圧されずにはいられない。ドキドキと胸が高鳴り、鼓膜まで震わせる。握る掌が汗ばみ、微かに震えた。これは、戦いの前の武者震いなのだろうか。

 けれども彼女との対決に備えて、今日は私なりに、きちんと身なりを整えて来たつもりだ。

 仕事でバリバリ働く彼女との違いを明確に主張するように、清楚な装いを心掛けた。お気に入りのベージュのワンピースに、真珠のネックレスとピアス。最近誂えた質の良いパンプスを履いて……戦いの場に乗り込むのだ。


 深呼吸をして、立ち上がる。心を決めて、明るい照明の当たるエントランスの中央へと進み出た。声が届く所まで来て一旦立ち止まる。

 声を掛けると、彼女は私を振り返り―――表情を強張らせた。

 小奇麗な若者が不審気に彼女の顔を覗き込み、それから彼女の視線を追って私を見る。再び彼女に顔を向けた彼に問われて、彼女は我に返ったように表情を緩ませた。そうして彼女が一言二言発すると、若者は頷いて立ち上がる。それから名残惜し気にこちらを振り返りつつ、エレベーターの方へ戻って行った。


 コツコツとパンプスの音を響かせて、私は彼女に歩み寄る。

 彼女は近付く私を、薄い表情で見守っていた。


「今日は悠馬さんの行先を教えて欲しくて……伺いました。彼の連絡先を、教えてください」


 すると彼女は一瞬、目を瞠った。

 それから深く息を吸い、溜息を吐き出すように返答する。


「連絡先……? ご存じなのでは?」


 まただ。と、思う。


 あの時も、こんな風に彼女は慌てず騒がず、私の言葉を受け止めたのだ。

 一抹の悔しさも滲ませもしないその平静さを、血が逆流するほど憎らしく思う。汚い言葉を投げつけて罵り、そのお綺麗な仮面を引っ剥がしてやりたい―――そんな衝動に駆られた。


 しかし、目的を果たすまでの辛抱だ……! そう、荒ぶる心を必死で諫める。一番私にとって大事なのは悠馬さんだ。つまらない事に、引っ掛かっている場合じゃない。私は努めて声を落ち着け、質問を重ねた。


「連絡をしたのだけれど、返答が無いの。直接会って、彼の無事を確認したいのですが」


 分かっているくせに、と思う。

 惚けるのも大概にして欲しい。私がわざわざ、会いたくもない女の前に現れた意味なんて、明らかだろう。やはりこの女が、悠馬さんから連絡手段を取り上げているのだろうか?


「……私に言われても、困ります」


 彼女はふと、視線を逸らした。俯いたまま、ポツリと呟く。

 何の感情も込められていないような、淡々とした声だった。


「失礼します」


 そして鞄を手にスッと立ち上がり、私に背を向け歩き出した。

 罵られる覚悟はしていた。が、スルーされる事は想像していなかった為出遅れる。その隙に卑怯な女は、逃げ出す様に正面入り口の自動扉をくぐってしまった……!

 私は慌てて、後を追う。小走りに駆け寄り、ビルを出た所で「待ってよ……!」と声を張り上げた。

 すると観念したように、彼女は足を止める。


 しかし、頑なにこちらを見ようとはしない。

 彼女に駆け寄り、一縷の望みをかけて私は懇願した。


「教えて! どうしても彼と話したいの……!」


 そこで漸く、彼女は私を振り返る。表情の無い、冷たい目で私を見下ろしこう言い放ったのだ。




「もう、彼とは離婚手続きを終えたので他人なんです。連絡先をご存じであれば、直接彼と遣り取りしてください」




 それだけ言って、素っ気なく立ち去ろうとする。

 頭にカッと血が上った。

 こちらが下手に出ているのに、この態度……!


「なっ……待ちなさいよ……!」


 私は咄嗟に、彼女の手首を掴んだ。スーツに隠されていて見た目ではわからなかったが、随分細い手首だと思った。冬の広葉樹、落ち葉が全て落ち切った枯れ枝が頭に浮かぶ。だが、今はそんな些細なことはどうでも良い。

 離婚した相手だと言うのに、関係ないと言いながら私と悠馬さんの間を邪魔するなんて―――やっぱり、わざとなのね? 彼女はわざと、私と彼の中を割こうとしている。自分が振られたものだから、きっと私達がよりを戻すのが面白くないのだろう。


「『他人』と言っても、満ちゃんの親という繋がりは途切れてないでしょう? あなたは彼の居場所を、知っている筈よ」


 背を向けて逃げようとしていた彼女が、そこで漸く振り向いた。

 何かに耐えるように、眉根を寄せている。やっと人間らしい表情を見せた女の顔を、私はしっかりと見据え、観察する。そこに嘘の痕跡が見つかるのではないか、と考えたのだ。決してただでは逃がしはしない。私だって、必死なのだ。本気で悠馬さんとの未来を、切望しているのに。


 彼女は私の強い視線を避けるように、再び目を逸らした。

 嘘をついている証拠を、見つけたような気がした。真っすぐ見返せないのは―――悠馬さんを私から隠している、その罪悪感からだと直感する。


「ねぇ、教えてよ……!」


 私の必死な訴えに、しかし彼女は声を荒げることなく返答した。


「もう一度言いますが、私は関係ありません。私を通さず直接、彼と交渉してください。それから、会社に連絡をしたり、待ち伏せするのは止めてください」


 視線も合わせられないくせに、やけにキッパリと言い切る女に苛立った。

 理路整然と抗議の言葉を並べる態度に、吐き気すら覚える。これは感情の話だ、本能に従った魂の叫びなのだ。なのに、いつまでも冷静な態度を貫こうとする上から目線の態度に、喉の奥を引っ掛かれるような憤懣を感じずにはいられない。

 私を馬鹿にしているのだろうか? そんな風に口で上手に躱そうとするところは、夫と同じだと思う。仕事をしている事が、社会に出てお金を稼ぐことがそんなに偉いと言うの? 都に『夫を理解しない専業主婦』と窘められた時の、苦い思いが蘇った。


「こんなことをされても……」


 重苦しい言葉と共に、彼女は再び顔を上げる。

 目と目が合う。射るような視線―――そこに漸く、怒りの光を見つけた。


 その時、私の心には相反する気持ちが産まれた。

 彼女に一泡吹かせてやった……!と言う愉悦。そして、怒り。私から、悠馬さんを奪う、それを当然のことと考えている、彼女の傲慢さに対する。


 あくまで平坦だった、彼女の声が硬質化する瞬間。そこにあるのは、強い拒絶の感情だった。




「私が貴方達の仲立ちを務める事なんて、あり得ませんから……!」




 彼女はそう捨て台詞を吐くと、私の手を振りほどいて再び立ち去ろうとした。私はハッとして、彼女の手首を握る右手に力を込める。


 まだ、話は終わっていない!

 彼女の逃走を阻まなければ!


 グイッと力まかせに引っ張ると―――何故か拍子抜けするくらい、スッと相手の力が抜けた。その体が思ったよりも、あっけなくよろけたのだ。


「うっ!」


 彼女は道路にドウッ、と倒れ込んだ。そのまま膝を付く格好になる。


 一瞬狼狽えたが、それが逃走を目的とした彼女の演技かもしれない、と気が付く。だから、安易にその手首を離すことはできない、と判断した。

 本当は強いくせに。今更弱い女を演出して、逃げようとするなんて卑怯極まりない女だ……! とすら考えた。唾棄すべき行為に、更に苛立ちを募らせる。気付いたら思ったよりも、大きな声で叫んでいた。


「彼には!」


 もう何が何だか分からない。本当はもっと下手に出ても良い、彼女に酷い言葉を向けられようがどうしようが耐えてみせる。彼との未来の為だ、そう思っていたのに。爆発した怒りを抑える事が出来なかった。


「彼には、私が必要なの……! 私にも! もう離婚したんでしょう? あなたは何でも持っているじゃない! 離婚した夫の行先くらい何故、教えてくれないのよ! どこまで意地悪なの……!!」

「……はなして……」


 膝を付いたまま、何故か彼女はブルブルと震えだした。

 そして、あろうことか口を押えている。まるで吐き気をもよおしているかのような、仕草に驚いた。思わず呆気に取られて、言葉を飲み込む。




「灯さん!」




 ビルの前に横付けにされた高級車から男が飛び出して来て、私達に駆け寄った。彼はあっという間に私から、彼女を奪い取る。

 宝物のように彼女を大事に抱きかかえる大きな男は、彼女の家に出入りする、あの強面男だった。


「君は、いったい何をしているんだ……!」


 私を睨みつけるその双眸には、燃えるような憎しみが込められている。そのビリビリと私の体を震わせる咆哮に―――私は凍りつかざるを得なかった。


「近寄るな、と警告した筈だ。それを無視したからには―――それなりの手段を取らせてもらう。覚悟しておけ……!」


 そう言い捨てると、腕の中でボンヤリしている女を抱き上げる。屈強な男は、彼女を軽々と腕に抱えたまま、呆然と佇む私に背中を向けた。

 そのまま、オフィスビルのエントランスに入って行ってしまう。


 その様を茫然と見送ったまま立ち竦んでいると、先程の小奇麗な若者が同じエントランスから飛び出して来た。彼はチラリと私を一瞥すると目を逸らし、ビルの前に横付けされた車に走り寄った。かと思うと乗り込み、その車であっという間に走り去ってしまう。







 嵐のような一幕が終わった。


 まるで抱え上げられたあの女は、悲劇のヒロインで。

 男は、ヒロインを救ったヒーローのようだ。


……だとしたら、私はナニ?


 暫くその場に私は留まっていたのだろう。

 取り残された私に、周りから遠巻きに向かられる視線に気が付いた。


 のろのろと、家路を辿る。一番お気に入りのスーツで。履くだけで気分が上がる、大好きなブランドのパンプスで。―――なのに、まるで道化師の衣装を着ているみたいな気分だった。


 家に帰ると、キッズシッターの若い女と航太郎の笑い声が響いて来た。

 まるで私の家じゃないみたい。他人の家に辿り着いたような気分になる。


 私の気配に気づいたのか、キッズシッターの横井が航太郎を伴って玄関に現れた。


「お帰りなさいませ」

「……」


 さきほどケラケラ笑っていた筈の航太郎が、押し黙り強張った表情でキッズシッターの後ろから私を窺っている。ギュッと小さな丸い手が、そのシャツの裾を握りしめていた。


「あれ? 航太郎くん、『おかえりなさい』は?」

「……おかえりなさい」


 呟く航太郎の平坦な言葉に籠る感情を、勘違いしたのか彼女は朗らかに笑う。そしてその頭をくしゃくしゃと撫でた。頭を少し乱暴に揺すられつつも、航太郎は眩しそうに目を細める。


「お迎えの言葉ちゃんと言えて、偉いね! ちょっと恥ずかしかったのかな?」 

「……」


 いつもなら、後で嫌味の一つも言ったかもしれない。

 けれども、今の私には怒る気力も無かった。




 疲れた。




 手続きと清算を済ませて、キッズシッターを送り出す。


 服を着替えるのももどかしく、スーツを脱ぎ捨てて肌着だけになる。私が何も言わないことに不安気な表情浮かべる航太郎に寝る準備をさせ、そのまま同じベッドに潜り込んだ。


 航太郎は、少し驚いているようだった。それでも構わない。今は一人でいることに、到底耐えられそうもない……。


 驚かせついでに、小さな体を抱き寄せてみる。航太郎は私の行動の意味が分からずに、黙ってされるがままになっている。緊張しているのか体を固くして縮こまっていた。




 悠馬さんを奪えば、あの女に一泡吹かせられると思っていたのに。

 彼を奪ってもなお、彼女は沢山の手に守られているようだ。


 やっぱり、あの女はお姫様だ。主人公なのだ。


 ずるい。

 ずるいよ……。


 私の目尻から涙が零れて、航太郎の前髪を濡らす。


「……ママ、どこかいたいの?」

「……」


 答えない私。おずおずと伸ばされた航太郎小さな手が、その背中をトントンと叩いた。




「いたい、いたいの―――飛んでいけ!」




 小さな手が、何度も私の背を撫でる。


 それに答えないまま。

 私はただ―――涙を流し続けたのだった。






【理想の夫 春香の場合・完】

こちらで春香視点のお話は、お終いです。


妄想過多、暗すぎる鬱々としたお話にも関わらず、最後までお読みいただき、誠に有難うございました。
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