MASK 〜黒衣の薬売り〜

天瀬純

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エレベーター

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「あ゛あ゛~、…」

職場のお手洗いで、鏡を前に小さく呟く。

「………」

少しやつれたアラサー近くの女が鏡の向こうから、じっと私を見つめてくる。大学を卒業して、6年。新卒で入社した今の職場で、任せてもらえる仕事も部下も顧客もそれなりに増えてきた。勤務歴に伴って身に付けてきたスキルの数だけ周囲からの評価も良い。だけど、ストレスもその分増えた。

 私生活では、学生時代に知り合った彼氏との交際が続いている。徐々に増えていく友人たちからの入籍の知らせを受けるたびに、否応なしに“結婚”を意識してしまう。事実婚という言葉があるけど、今のこの国のシステムからして入籍しておいたほうが色々と都合が良い。

(あいつは、はぐらかすけど…)

30を迎える前に彼との交際関係に進展を見出したい気持ちを無視できないストレスのせいで、ここ3年間ほど私は便秘に悩んでいた。

(はぁ~。どうにかして欲しい……)

* * *

* * 

* 

 その日、私は比較的早い時間帯に退社することができた。2年前から同棲している彼は、帰りが遅くなるらしい。

(夕飯は1人か…)

駅近の大手コーヒーショップのチェーン店の看板が目に入った。ちょうど、冷たいものを飲みたい気分だったので寄ることにした。

(期間限定の甘いのも良いけど、無難にアイスコーヒーが飲みたいな)

カフェインの胃や腸を刺激するといわれる作用を心なしか期待しながら店に入ると、

「っ⁉︎」

突然のことであった。ガラス張りの自動ドアをくぐり、広い店内に移動したつもりが、いきなり狭い空間に立っていた。ひどく困惑しながら周囲を見てみると、

(えっ⁉︎…どういうこと⁉︎)

どうやら私は古いエレベーターに乗っているようであった。しかも、下に向かって動いている。エレベーター内には、階層を示すボタンや画面がなかった。

(え…、夢……なの?)

試しに頬を2度叩いてみたが、痛みは感じた。

ポーンッ。

ガラガラ、ガシャ。

やがてエレベーターは止まり、扉が開いた。

「っ⁉︎」

目の前には、広大な土地が拡がっていた。自分が立っているエレベーター前から遥か遠くまで、一直線にレンガでできた通路が伸びており、見たことのない植物を育てている畑が無数に並んでいた。それらは碁盤の目のように張り巡らされた水路によって仕切られているようであった。

(なんなの…、ここ……)

「いらっしゃいませ」

「ひっ⁉︎」

いつの間にか、自分のそばに1匹の猫が

「驚かせてしまい申し訳ありません。あるじがお客様をお待ちでございますので、ご案内いたします」

私の腰ぐらいの高さまである茶トラの猫は、器用な二足立ちで優雅にお辞儀してみせた。

「では、こちらへ」

呆気に取られている私の手を引いて、猫は通路の奥へと案内していく。

(あ…、肉球……)

毛で覆われていながらも、人と似たような5本指の手のひらに猫特有の肉球があるのを感じられた。猫に手を引かれ、しばらく歩いているとレンガの大通りから横道にそれた。案内されている途中で、周囲の畑で植物の世話をしている猫を何匹か見つけた。どれも人間でいう小学生ぐらいに背丈はあるのではないかと思われる。やがて、1つの不思議な空間にたどり着いた。そこは周囲を何本もの竹に囲まれていたが、私が見た限りではどうやら応接室のようであった。2人掛けの黒い革製のソファが、これまた黒いテーブルを挟んで向かい合うように置かれており、それらの前に1人の若い男性が立っていた。男も全身“黒”であった。黒のスーツに黒の布マスク。



(なんなの、一体……)

「こんにちは。私はこの空間の主で薬売りの黒衣漆黒と申します。本日はあなた様におすすめのお薬がございまして、こちらにお呼びいたしました。どうぞ、お掛けになってください」

男に促されるがまま、ソファに腰を下ろした。

「あのぅ……」

いまだに状況を把握できかねていたが、とにかく目の前の男に聞いてみようと考えがまとまらないまま、尋ねてみた。すると、

「アイスコーヒーをお持ちいたしました」

音も立てずに1匹の黒猫がお盆にグラスを2つのせて現れた。

「っ⁉︎」

「ありがとう」

薬売りと名乗った男は猫にお礼を言って、グラスを受け取った。そして一口飲むと、それをテーブルの上に置いた。

「彼らは猫又で、この異界の空間で薬草の管理をしてくれているのですよ。とにかく働き者で、非常に助かっております」

優しく微笑みながら彼は、周囲を囲む竹藪の向こうで薬草の世話をする猫又たちを眺めていた。

(悪い人ではなさそう…?)

悪意が感じられない男の様子から少し警戒心が解けた私は、用意されたアイスコーヒーを少し飲んでみた。

(あ、美味しい)

「さて、先ほどお話ししたように、あなた様をお呼びたてした理由でもあります“おすすめのお薬”を早速ご紹介させていただきます」

そう言って、彼はテーブルの隅に置いてある黒い木製の救急箱を開けて、私の目の前にを置いた。

「こちら『大腸の代替わり』というお薬でございまして、お通じの滞りを改善する効果があります」

「⁉︎」

(便秘に効く…⁉︎)

「服用方法は、1日の始まりに800mlほどのお水を小さめの鍋にこのお薬とともに弱火で30分ほど煎じてください。その後、紙コップなどの小さめの容器に3つに分けて冷蔵庫に保管し、朝・昼・夕の食前に召し上がってください」

「煎じるんですか……」

(ちょっと、面倒だな…)

「飲み方に関しては、市販のお薬と比べて少し大変かもしれませんが、効果は抜群ですよ。こちらをたったの1日分服用されれば、長年の便秘で疲弊した大腸を劇的に回復させ、便秘だけでなく下痢に悩まされることも無くなります」

(ん~。信じ難い話だけど、ちょっと欲しいかも……)

日頃の苦しみを思い出した私は、提示された薬を前に頭を抱えた。すると、その様子を見た彼が、

「悩むようでしたら、近くを散策されながら決めるのもいいでしょう。お買い上げの際は、近くの者に声を掛けてください。帰りの際は、エレベーターまで案内させますので」

「はあ……」

「では、私はこれで」

男がソファから立ち上がると、彼の周囲に黒い霧のようなものが生じた。やがて霧が晴れると、彼の姿はなかった。

カチャ、カチャ。

見ると、男が使っていたグラスを先ほどアイスコーヒーを運んできた猫又が片付けている。

「お客様。散策されるようでしたら、ここから少し歩いたところに桜の木々が生い茂った森がございます。よろしかったら、そちらまでご案内いたしましょうか?」

(…桜が生い茂る森?なにそれ?)

今自分が目にしている光景だけでも十分であったが、その世界の住人が勧める景色に興味が湧いてきた。

「えっと…、お願いします…」

「かしこまりました」

その後、猫又の案内のもと、いくつもの薬草畑を紹介してもらいながら桜が生い茂っているという森へと辿り着いた。

「うわぁ………」

まさしく。森の全ての木々が満開の桜のため、視界全体が綺麗な桃色に染まっている。私が桜に心奪われていると、森の管理を任されている猫又たちが声を掛けてきた。少し驚いたけど、彼らとは打ち解け合い、用意してもらった和菓子を一緒に食べながら花見を楽しんだ。

……………

………



「すっかり長居してしまい、申し訳ありません」

「いえいえ、楽しんでいただけたようで何よりでございます」

森をあとにした私は、この世界に来たときに乗っていたエレベーターの前に案内役の黒の猫又と立っていた。

「それで、紹介していただいた薬なんですけども…。1つ…、買おうと思います」

「ありがとうございます。では、お会計3,500円となります」

代金を支払うと、猫又は肩にかけていた革製のショルダーバッグから薬の入った紙袋を取り出し、私に差し出した。それを受け取ると、エレベーターの扉が開いた。

「では、お大事になさいませ」

猫又が深々とお辞儀すると扉は閉じ、エレベーターが上へと動き出した。やがてエレベーター内が徐々に変化していき、見覚えのある内装に変わった。気がつくと私は自宅のあるマンションのロビーに立っていた。

「え…」

振り返ると、見慣れたいつものエレベーターがそこにあった。手には、あの世界で購入した薬が入った紙袋を持っていた。

* * *

* * 

* 

 あの日の出来事を思い返すたびに、夢だったのか、それとも現実だったのかと今でも考えてしまう。けれども、あれから便秘に悩むことはなくなった。薬を飲んだ翌朝から今日に至るまで、連日の快便だ。ストレスの大半を占めていた便秘が無くなったおかげで、肌の調子も良い。再びお通じに困ることがないように、食生活に気をつけ、安眠効果があるとされているアロマも始めた。意外だったのは、同棲中の彼が日増しに綺麗になっていく私を見て、妙に焦りだしたことだ。どうやら、結婚に踏み切らない自分を見限って私が他の男のもとに行くと思ったらしい。しばらくして、

「長い間、待たせてごめん。結婚しよう」

と、プロポーズをしてきた。以前の私なら承諾していたかもしれないが、今は返事を保留にしている。長年の便秘から解放された私は、その煮え切らない態度で便秘と同様に今までストレスの一部でもあった彼の処遇に悩んでいた。30を前に彼と入籍するか。それとも、決断力に乏しい彼を捨ててストレスをさらに軽減させるか。

(ん~。どうしたものか………)

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