MASK 〜黒衣の薬売り〜

天瀬純

文字の大きさ
上 下
12 / 62

夜桜見物 《絵描き》

しおりを挟む
 今年は桜の開花が早い。まだ完全に満開だとは言えないけど、地元で有名な桜の並木通りには、たくさんの人たちが花見を目的に押し寄せていた。もともと等間隔に街灯が並んでいるところであるため、夜桜見物のスポットとしても人気だ。そこから徒歩20分ほど離れたところの公園にも大きな桜の木が数本植えられており、私が住んでいるマンションのベランダからよく見える。

(今年も綺麗だなぁ…)

仕事柄、在宅が基本のため、桜が綺麗に咲き誇るこの時期は仕事で煮詰まったときに気軽に気分転換ができるから、1年で1番好きなときだ。

 高校では理系のカリキュラムに身を置いていたが、昔から絵を描くことが好きだったため、最初はデザイン関係の専門学校に進学しようと真剣に考えた。しかし、センスや才能が大きく問われる業界にいきなり飛び込むよりは高校で培った理系の知識を磨くことはどうか、という親からの強い勧めを受け、医用生体工学を学べる大学に進んだ。絵を描くことと同様にSF映画っぽい人工臓器についても興味があったからだ。

 やがて大学を卒業した私は、とある医療機器メーカーに就職した。最初は研修の日々だったけど、徐々にやりがいのある仕事に参加させてもらえることが増えていき、充実した日々を送るようになった。けれども入社4年目を迎えた頃には、絵を描くことをただの趣味の1つに留めていることに若干の不満を抱えるようになった。大学での講義や休憩時間、就職してからもずっと帰宅後に臓器や医療器具の絵や設計図をよく描いてきた。このまま会社でのキャリアや勤務歴を積み重ねるだけでいいのかと大いに悩んだ。そのことを取引先関係で知り合った当時の交際相手の彼女に相談したところ、彼女はタブレット端末で私の絵を見るなり、挑戦するべきだと背中を押してくれた。彼女の一言で勇気を持てた私は、医療関係のイラストを専門とするメディカルイラストレーターを目指すべく、職場の上司に休憩時間に相談してみた。中小企業であったとはいえ、意外にもすぐにこの件は社長や他の経営陣の知るところとなった。全員が私の絵を見ることとなり、少し恥ずかしかったが、それなりの評価を得られたときの嬉しさや達成感は今でも覚えている。

 話し合いを重ねた結果、私は休職扱いとなり、その間に専門学校に通うことを許された。会社の規模からして、授業料を100%カバーしてもらうことはさすがに無理であったが、家賃補償といった細かい面でサポートしてくれることになった。さらに交際相手である彼女は、私が家事を一通りしてくれるのなら、同棲して生活費を多少なりとも応援すると申し出てくれた。そうした周囲の温かい応援のもと、3年間の専門学校のカリキュラムを無事に終えることができた。

 やがて復職した私は、メディカルイラストレーターとして歩み始めた。同時に長らく私を支えてきてくれた彼女と入籍し、恩返しするべく、より一層家事能力に磨きをかけた。現在は、勤めていた会社の買収を機に独立し、フリーのイラストレーターとして在宅で働きながら、磨き上げられた家事能力で妻を支えている。
しおりを挟む

処理中です...