絶対だよ、の約束

多田光希

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大学受験に失敗した実の兄から暴漢と暴行を受けるようになった松島竜樹は、そんな兄から少しでも逃げようと、お金目的で援交をしようとしたが…

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その日、俺は、出会い系サイトで知り合った中年の男とファミレスで待ち合わせをしていた。目的は援交だった。援交目的で男と会うのは今回が初めてで、かなり緊張していたかもしれない。パソコンでやり取りしていたメールには、五万くれるとあった。五万もあれば、安いビジネスホテルに、きっと五日間ほど宿泊できる。
俺には、どうしてもお金が必要だった。一日でもいいから、家に帰らなくても良い日が欲しかったのだ。

約束の時間を過ぎて、一人の男が息を切らして店へと入って来た。店員に声をかけられ、
「待ち合わせです」
と答えて、辺りを見回す。
背が高く、スタイルの良い、かなり目鼻立ちの整った男だった。黒縁の眼鏡をかけているせいか、とても真面目そうに見えた。格好から見て、きっとサラリーマンなんだろう…。
ジーッと見て観察していたら、目が合ってしまった。俺は慌てて目を逸らし、俯いた。
今日、約束していた人が、あんな風に、カッコいい人だったら良かったのに…。
メールに添付してあった写真は、もっと顔が丸くて、頭も薄かった。そんな奴と、俺は、今日…。
そんなことを考えている俺の座る席の横に、さっきの男がやって来て、立ち止まった。
「あの、違ってたらごめんなさい。もしかして、松山ケンイチ君ですか?」
松山ケンイチ。援交で使用するためだけの、分かりやすい俺の偽名だ。
「そうだけど、何?」
誰にでも偽名だと分かりそうなものなのに、その男の表情は真剣そのものだった。
「良かった。実は、課長が支社のトラブル対応で、急に出張になってしまって。君のパソコン以外の連絡先を知らないから、僕に代わりに待ち合わせ場所に行って、今日会えなくなったことを伝えてくれ、って言われて」
相当、慌てていたのだろうか。額に汗が滲んでいる。
「ふぅん。分かった」
俺は、何だかホッとして、テーブルの上に置いてあるコーラのストローを咥えた。
店員が注文を聞きに来る。なぜか男は、テーブルを挟んで、俺と向かい合って座った。
「オレンジジュースを」
スラックスのポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭いながら男が言った。
「オレンジジュース?普通、大人の人ってアイスコーヒーとかじゃないの?」
俺の偏見なのかもしれないけど、大人はだいたいみんなコーヒーを飲むものだと思っていたせいか、少し驚いて、思わず尋ねてしまっていた。
「あ、いや、コーヒーは好きなんだけど、午後から飲むと、夜に眠れなくなってしまって」
子供みたいなことを言う男が、両手を膝の上に置いて、恥ずかしそうに俯いた。
変な奴。
「で?その課長から、俺のことどうしろとか、聞いてんの?」
俺が聞くと、男は少し戸惑ったように、
「あ、いや、何も。ただ、会えなくなったことだけ伝えてくれればいいって。また連絡するから、って」
「そう…」
俺は、被っていた帽子のつばを、グッと下にさげた。
一気に気が抜けた感じがした。
「君の名前、有名な俳優さんと同じなんだね」
男がにこやかに話かけてくる。
バカじゃないのか、こいつ。同姓同名なんて、そうそういるワケないだろ。俺は無視して、コーラを飲み干した。
「あ、自己紹介もせず、ごめん。中西和真と言います。良かったら、これ。名刺」
そう言って名刺を差し出した男の手の指は、細く、そして長くて、とても綺麗だった。
さっきも思ったけど、この男、かなりのイケメンだ。眼鏡をかけているけど、その奥の瞳はとても澄んでいて、ものすごく優しそうに見えた。笑うと、口の横にシワが寄って、それがまた、より優しい雰囲気を引き出していた。
俺はその名刺を受けとると、そのまま黙ってハーフパンツのポケットに突っ込んだ。
「課長とは、どういう関係?」
突然の、核心をついた質問。
「親戚のおじちゃん」
咄嗟に嘘を付いた。
「そっか。今日は会えなくて残念だったね」
こいつは、人の話を何でも信じるんだな。ムシャクシャしていた俺は、何だか無性にこの男に対して意地悪をしたくなった。
「じゃあ、代わりに、中西さんがどこか遊びに連れてってよ」
「え?」
オレンジジュースを飲みながら、驚いたように俺を見た。
「遊園地に行きたい」
「でも、僕、こんな格好だし」
キチッとしたサマーシャツを着て、夏用のスラックスを履いている。腕時計やバッグや革靴も、カチッとした高級そうなものを身に付けていて、いかにも、真面目でやり手の会社員、という感じだ。だからこそ、わざと遊園地を選んだ。
「いいから行きたい。ね?いいでしょ?中西さん」
中西さんは、軽く息を吐くと、
「分かったよ。行こう」
と、笑顔を見せた。
こんな真面目そうなサラリーマンの男が、男子高校生を連れて遊園地なんて、有り得ないシチュエーションだ。俺は、それが面白くて、いたずら心に火がついたかのように、いろんなワガママを中西さんにぶつけた。一人でベンチに座らせて、ソフトクリームを食べさせたり、メリーゴーランドに乗せたり。中西さんが、恥ずかしそうに戸惑っている姿や表情を見る度に、俺は笑った。
そう…、笑っていたんだ。

「すっかり暗くなったね」
中西さんは、帰りに、とても夜景の綺麗な場所へと連れて来てくれた。
「雑誌に載ってた、ある俳優さんの言葉なんだけど『この灯りの分だけ人の生活や人生や悩みがあるんだな、と思うと、何だか自分の辛いことが、ちっぽけに思えるんです』って。すごく、いい言葉だな、と思ってさ」
中西さんが、夜景を見ながら、まるで俺を励ますかのように言った。
俺はしばらく黙り込んで、俯いた。
「家に帰りたくない…。どこか、泊まろうかな」
変だ、俺。初めて会ったばかりの人に、こんな弱音を吐いてしまうなんて。
「ダメだよ、そんなこと言っちゃ。君はまだ未成年だろ?家まで送ってあげるから」
そっと、手首を掴まれ、痛みに少し顔を歪める。
「あ、ごめん。痛かった?」
中西さんは、謝ると、俺の指先を握り直した。
トクン…と、心臓が微かに跳ねた。温かい、指先の感覚。ただ軽く触れているだけなのに、中西さんの優しさが全身へと伝わってくるようだった。
中西さんにしてみたら、ただ、子供の手を引く親のような、何の感情もない行動なのだろうけれど…。下の階へと降りるエレベーターに乗り込むと、ようやく中西さんの手が、俺の指先から離れた。本当に、ただ無意識に子供扱いをしてしまっているだけなんだろうな…。そんな中西さんの天然な優しさに触れて、何だか胸がくすぐったくなった。
俺の家へ向かって歩きながら、
「僕の名刺、ちゃんと持ってる?あれに、僕の携帯番号も印刷してあるから、何かあったらいつでも連絡しておいで。絶対だよ?何時でもいいから」
中西さんが、少し強めの口調で俺に言う。俺は、口を開くと涙が出そうで、声を出すことができなかった。

家まで送ってもらい、中西さんは帰って行った。
玄関を開けると、兄の卯月が、目の前に立ちはだかった。
「遅かったな、竜樹。今の男、誰だ?」
「友達の兄ちゃん。遅くなったから、家まで送ってくれた」
「お前は、何度言っても俺の言うことが分からないのか?」
腕を力強く引かれ、俺の部屋へと連れ込まれる。
「俺以外の奴と親しくするなって、いつも言ってるだろ!」
頬を叩かれたと同時に、帽子が飛んで、床に落ちた。
強く肩を押され、ベッドへと押し倒されたかと思うと、ビニール紐で両手をキツくベッドの柵へとくくりつけられる。
四ヶ月前からの、いつものパターンだった。
学校がある時は、周りが変に思うと困るからと、顔を傷付けないように、暴力を振るわれることはなかったが、夏休みに入ってからは、手を出すようになった。
もう、俺には抵抗する気も起きなくなっていた。抵抗すると、余計にひどい目に遭うということが、分かっていたからだ。
頬を平手で何度も強く叩かれ、髪を掴まれ、顔を前に向かされる。そして、俺の服をすべて脱がし、胸や横腹へと、唇と舌での愛撫が始まり、それが俺の下半身へと移動し、しばらくの抱擁が続く。そのうちに自らを俺へと一方的に挿入するのだ。いくらゴムを付けているからといっても、ただ痛いだけで、心からイヤだと思い、苦痛しかないのに、俺は感じたふりをする。そうしないと、卯月の暴力がひどくなるからだ。
卯月が、俺の中で、激しく波打つのが分かった。ズルリと、俺の中から抜けると、満足気に微笑む。
「お前、今日もイケなかったのか?こんなになってるのにな」
先端に、クッと爪を入れられた。
「うっ…!」
痛みに、思わず声が出る。
「シャワー浴びて寝ろよ。親にバレないように、部屋も片付けとけ。また明日の夜、かわいがってやるからな」
卯月は、俺の手を自由にすると、自分の乱れた衣服を直して、部屋から出ていった。
顔と手首が痛い。口の中は、血の味がした。もう、心が、傷付くことさえ諦めて、涙すら出てこなかった。
俺は体を起こし、兄がその場にそのまま放置していった残滓をティッシュで何重にも包み、ゴミ箱に捨てた。誤魔化すように、飲みかけていたジュースの蓋を開け、少しだけそのティッシュの上に流した。部屋中に充満していた、纏わりつくような不快な匂いが、甘い香りへと変わる。
こんなこと、いつまで続くんだろう…。

一つ上の兄の卯月が俺にこんなことをするようになったのは、大学受験に失敗してからだった。今は、予備校に通っていて、友達や彼女ともうまくやっている感じなのに、夜には必ず俺の部屋に来て、暴力を振るい、体を奪う。
「もう、疲れた…」
俺は呟くと、脱がされた服を片付け始めようとした。その時、ふと思い出した。ハーフパンツの中にねじ込んだ、名刺のことを。
俺は力ない手で、名刺を取り出した。
「中西…和真…」
この人に連絡したところで、何か変わるワケじゃない。頭では、そう思っていた。それなのに、自分でもよく分からなかったけれど、いつの間にか俺は外に出て、自分のスマホから中西さんに電話を掛けてしまっていたのだった。
何度か呼び出し音が鳴る。
『はい。中西です』
「あ、あのっ…俺…」
『…ケンイチ君?ケンイチ君でしょ?どうしたの?何かあった?』
ああ。この人は、見ず知らずの俺に対して、どうしてこんなにも優しく声を掛けてくれるのだろう。今日だって、嫌な顔ひとつせずに、俺のワガママに付き合ってくれていた。
「あの…俺…。電話なんかして、ごめんなさ…」
初めて人の優しさに触れたような気がして、涙が出た。
『大丈夫だよ。今日はありがとう。今、どこにいるの?家?』
「家の近くの、コンビニの駐車場…」
ダメだ。涙で声が途切れる。
『コンビニって、帰りに送って行った時に、最後に通ったところの?』
「…ん…」
声にならない。
『今行くから待ってて。いいね。絶対にそこにいて。絶対だよ』
「ん…」
そして、電話は切れた。
しばらくして、本当に中西さんが現れた。額に汗を滲ませながら、息を切らして…。
この人は、どうして今日初めて会ったばかりの俺に対して、こんなに必死になってくれるんだろう。
「…大丈夫?」
はぁ、はぁ、と、肩で息をしながら、俺に聞く。どれだけ慌てて、ここまで来たのだろう。俺は、中西さんの問いに答えられずにいた。
「とりあえず、今日はもう遅いから、ケンイチ君さえ嫌じゃなかったら、僕のアパートにおいで」
頭をくしゃっと撫でられる。俺の顔は、きっと涙でぐしゃぐしゃだったに違いない。

中西さんから、親に連絡をするようにきつく言われたので、俺はしぶしぶ母親に電話をした。しばらく友達の家に泊まるから…と。
家に帰ったら、卯月の行為がひどくなるかもしれない。それでも今は、家から離れたかった。
中西さんのアパートは、とても綺麗で、寝室も別にあり、お風呂やキッチン、リビングもすごく広かった。
リビングの机の上は、仕事関係と思われる書類でいっぱいだった。その少し空いた場所に、オレンジジュースを置いてくれる。俯いたままの俺に、中西さんが声を掛けてきた。
「本当の名前、竜樹君て言うんだ」
さっき、母親に電話をした時に、思わず名乗ったせいで、バレてしまった。
「うん…。松島竜樹…」
「そっか…。顔が腫れてるね。口の中も切れてるんじゃない?」
さりげなく言う中西さんの言葉に、俺の体が硬直した。
「さっき会ってた時より、ひどくなってる。手首の痕も…」
俺は咄嗟にT シャツの袖を伸ばして、手首を隠した。
長袖のTシャツを着て、帽子も深く被って、隠してるつもりだったけど、バレてたんだ。顔の傷も、手首の痕も…。
「一体、誰が…?」
俺は首を激しく横に振った。
「言えない。言いたくないんだ」
そう答えた僕に、中西さんは困ったように深いため息を吐いた。
「いいよ。言いたくないなら聞かない。でも、この先どうするつもりなの?君はまだ未成年だろ?僕はただの会社員で、君を守ってあげることはできないんだよ?」
急に見放されたようで、とても悲しくなった。
「明日には帰るよ。中西さんのこと困らせたいワケじゃないから」
「そういう意味で言ってるんじゃない。竜樹君さえ良ければ、しばらく、ここにいるといい。だけど、逃げるだけじゃ何の解決にもならないよ?」
中西さんの言っていることは、充分に理解できる。親や警察に相談しろ…ってことを言いたいんだろう。
そう。暴力だけならいい。実の兄に、体を奪われていることだけは、誰にも知られたくなかった。
そして、中西さんは、それ以上、何も言わなかった。

それから、中西さんのアパートで、二人での生活が始まった。卯月が予備校に行っている時間を狙って、だいたいの荷物も運び終わった。
「まっずい!中西さんて、本当に料理が超下手!そもそも野菜に火が通ってないし」
「竜樹君だって、同じようなもんだろ。つべこべ言わずに食べる」
「はいはい。我慢して食べますよ」
「一言多い!」
中西さんとの生活は、毎日が楽しくて、本当に、卯月のことを思い出す時間が少なくなるくらいだった。
居候をさせてもらうようになってから、中西さんは、仕事が終わってからすぐにアパートに帰って来てくれるようになった。その分、持ち帰って来る仕事量は増えていたけれど…。

俺は、大学受験を控えているにも関わらず、夏休み中の課外授業に一度も出席できないでいた。いつか、卯月が学校まで来るかも知れないと考えるだけで、怖くて仕方がなかったのだ。幸い、今は欠席の連絡はメールで報告することになっていて、課外に出ていないことは親にもバレずに済んでいた。

休日になると、外出できない俺が退屈していると思って気を遣ってくれているのか、中西さんは、いろんなところへと俺を連れ出してくれた。子供が行くような動物園や水族館。映画や買い物。中西さんとの時間は本当に新鮮なことばかりで、グレーでしかなかった俺の生活に、まるで色が付いたようだった。
「俺の両親、高校の教師で、部活の顧問もしてて、休日もほとんど家にいなかったから、こんなふうに出かけた記憶がなくて。マンボウがあんなにデカイなんて知らなかった。サメとかも、あんなに近くで見たの、初めてかも。この前の動物園も、めちゃくちゃ楽しかったし」
いつか水族館に連れて行ってもらった帰り、車の中で俺が興奮気味に話すと、
「あんまり物心ついてから水族館や動物園って行くこともないし、喜んでもらえたなら、良かった。あのマンボウは、ちょっとデカすぎたね。水槽一つを一匹だけで使ってたから、よっぽどだよ」
中西さんが笑う。俺もつられて笑った。
「でも、中西さんに悪くて。お金、全部出してもらってるし、アパートにも居候させてもらってるのに、何も返せないから、俺、バイトでもしようかな、って思ってて」
そこまで言うと、
「そんなの、しなくていいよ。竜樹君は、ただ笑ってくれてればいい。その、あどけない無邪気な笑顔に、僕は毎日癒されてるから」
「え?」
「それに、掃除とか洗濯とか洗い物とか、お風呂も洗って沸かしてくれたり、ほとんどの家事してもらってるし。今は僕のところにお嫁に来た専業主婦だと思って、甘えてくれてればいいよ」
「専業主婦…」
その言葉に胸がキュッとなり、そして急に何だかすごく照れくさくなって、つい俯いてしまった。
「あ、変な例えしてごめん。とにかく今は何も考えなくていいから。僕は竜樹君の笑顔さえ見られれば、それでいい。だから、本当に何も気にしなくていいよ」
中西さんの言葉に、胸がくすぐったくなった。そんな風に人から言われるのは初めてで、毎晩帰りの遅い両親のせいで、自分のことは自分でするしかなかったことが、ここにきて、中西さんの役に立てているんだと思えて、すごく嬉しくなった。
中西さんは、実の兄にも裏切られ、暗闇の中にいた俺を救ってくれた、本当に、お日様のように暖かい人だった。

中西さんと生活を始めて、三週間が過ぎた頃だった。ある夜、俺は悪夢にうなされて、目が覚めた。兄の卯月に暴力を振るわれ、体を奪われる夢だった。今まで現実に起きていたことを夢に見た俺は、寝汗がひどく、そして体を起こすと、呼吸を必死に整えた。
一つ上の兄、卯月は、小さい頃から両親が家にほとんどいなかったせいもあり、いつも優しくて、いろいろと俺の世話をやいてくれていた。親からのしつけで、自分のことは自分で、というスタイルの生活だったけど、いつも不器用な俺を「仕方ないな」と、笑いながら手伝ってくれるような、本当に温厚な兄だった。
それが、いつからか、あんなふうに…。思い出される、地獄のような、恐怖でしかない行為。
考えて、胸が苦しくなった。体も気持ちも、すごく重く感じた。これから先のことを思うと、不安で押し潰されそうになる。

汗をかなりかいたせいか、ひどく喉が渇いていた。俺はベッドから降りると、水を飲もうと、寝室を出て、キッチンへと向かった。リビングのソファーで眠る中西さんを起こさないように、静かに歩く。
ふと、男前な寝顔に、目が止まった。静かに寝息を立てている中西さんが、たまらなく愛しくなって、側に寄って、膝を付く。顔の高さが一緒になった。中西さんの寝顔を見ていたら、先ほどの胸の苦しさも不安も、全てかき消されるような安心感に包まれ、とても気持ちが落ち着いた。
「寝顔もカッコいいんだなぁ…」
しばらく見惚れて、それから俺は、ゆっくりと顔を近付け、中西さんの薄くて柔らかそうな唇に、そっと触れるだけのキスをした。
「ありがとう。中西さん」
そう言って、もう一度、今度は深く唇を重ねた。
ハッと、我にかえる。
俺…何して…!
俺は、喉の渇きも忘れて、慌てて寝室へと戻った。
いくらなんでも、寝込みを襲うなんて…。でも、中西さんの寝顔を見ていたら、どうしても中西さんにキスをしたくて仕方なくて、欲望が抑えられなかった。
まさか俺、中西さんのこと、いつの間にか好きになってた…?
カアッ、と顔が赤くなる。そして、自分の唇にそっと指を当てて、なぞる。
今日のことは、絶対に内緒にしておかないと…。急に恥ずかしくなった俺は、ベッドへと戻ると、タオルケットを頭から被った。

翌朝、中西さんの態度が普通なことに安堵して、一緒に朝食を食べていた時だった。
「あ、中西さん、替えのシーツと枕カバーってある?」
「え?あ、うん。あるよ。どうしたの?」
「昨日の夜、汗かいちゃって。今日、天気良さそうだし、洗おうかな、と思って」
「クーラーの温度、高かった?」
「ううん。ちょっと怖い夢見ちゃって。うなされたみたい」
「そっか…。大丈夫?」
「うん…」
中西さんが立ち上がり、寝室のクローゼットから新しいシーツと枕カバーを持って来てくれる。
「ごめんね。竜樹君にこんなことまでさせて」
申し訳なさそうに、俺へと手渡してくれる。
「ううん。俺のほうこそ、ベッド一人占めしちゃってて、ごめんなさい」
「僕は全然構わないんだけど…。今は夏休みだからいいけど、学校が始まってからは、さすがにここにいるワケにはいかないよね」
中西さんが、ふと呟いた。
「え?あ…、うん」
分かってる…。分かってるんだ。突き付けられる現実。一気に気分が沈む。
「そういえば、昨日、課長が出張から戻ってきて。君と連絡が取れないから、何か知らないか、って聞かれたけど、知らないって答えておいたよ」
一瞬、俺の表情が、強張ったかもしれない。
「ど、どうして?」
「だって、親戚なんだろ?僕のところにいるって言ったら、それを親御さんに話して、友達のところにいることが嘘だってバレるかもしれないし。それに、君に暴力を振るってる誰かが、もしかしたら親御さんに居場所を聞いて、ここに来る可能性もあるかな、と思って」
「そっか…。そうだよね。ありがとう。中西さんて、見かけによらず、賢いんだね」
「竜樹君は、いつも一言多い!」
俺は、笑った。
中西さんとのこんな些細な言葉のやり取りが、本当に楽しい。一緒にいるだけで嬉しくて、何よりも、中西さんの優しさに、心が安らいだ。いつまでも、このままでいたい。心から、そう思っていた。でも、幸せな時間は、そう長くは続かなかった。

「ただいま。竜樹君、布団のシーツとタオルケット、外に干しっぱなしだよ」
中西が仕事を終え、アパートに戻って声をかけたが、返事がなかった。
「竜樹君…?」
リビングへと向かったが、そこに竜樹の姿はなかった。
寝室の扉を開けるが、そこにも竜樹の姿はなく、お風呂場も覗いたが、竜樹はどこにもいなかった。こんなこと、今まで一度もなかったのに。
「…どこに行ったんだ…?」
中西は、頭に手をやり、落ち着かない気持ちを必死に抑えながら、冷静に思考を働かせていた。
「まさか、場所がバレて連れ戻された…とか?」
中西は、慌てて玄関へと向かい、急いで靴を履き、竜樹を探すために外へと出た。そこに、
「あ!お帰りなさい」
と、竜樹が戻って来た。
中西は、竜樹の姿を見た途端、躊躇することなく、思いっきり自分の胸へと抱き寄せた。竜樹の手から、自動販売機で買ってきたコーラが落ちる。
「良かった」
中西の左手が、力強く竜樹の頭を抱き抱え、竜樹の耳元に、中西の顔が密着し、息がかかる。竜樹の心臓が、トクン、と反応し、どんどんと鼓動が早くなった。
「心配したよ」
「ごめんなさい。どうしてもコーラが飲みたくて、自販機まで買いに行ってた」
「連絡くれれば、買ってきたのに…」
「だって、いつもお願いしてばかりだし、悪くて…」
「そんなのいいよ。全然」
中西が、ハッと気付いて、竜樹を胸から離し、距離を置く。
「ご、ごめん。あ、コーラ。冷たいうちに飲んだほうがいいよね」
中西が、コーラを拾い、竜樹へと手渡す。
「落としたコーラの蓋、今開けたら大変なことになるよ…」
竜樹が、高まる鼓動を落ち着けようと、ゆっくり静かに呟いた。
「そうだよね。ごめん。とりあえず、中へ入ろうか」
「うん…」
竜樹は、真っ赤になって俯いたまま、中西のあとをついてリビングへと向かった。

「布団のシーツとタオルケット、すっかり忘れてた」
「大丈夫だよ。今日は、雨も降ってないし」
夕飯を食べながら、会話をするけど、何だか恥ずかしくて、俺は中西さんと目が合わせられなかった。
「あのさ、俺、あんなふうに人に心配されたことなかったから、ものすごく嬉しかった」
俯きながら、中西さんに言うと、
「みんな口に出さないだけで、竜樹くんのこと、ちゃんと心配してるよ。友達とか親御さんからも、ちょくちょく連絡来てるみたいだし」
「…そうだね。確かに、言われてみるとそうかも」
でも、今の俺にしてみたら、中西さんに心配されることが、一番の幸せかもしれない。そう考えながら、頬が、つい緩んでしまう。
そこに、突然、インターホンが鳴った。
「はい」
中西さんが返事をする。知らない二人の男が画面に映し出された。
『中西和真さんのお宅ですか?』
「はい。そうですけど…」
『北警察署の北山と申しますが、少しお話を伺いたいのですが』
「北警察署?警察が何で?」
俺は立ち上がり、中西さんの横に立った。
「分かりました。今、開けます」
中西さんが、玄関の扉を開けると、
「中西和真、未成年、拉致・監禁の疑いで、署まで連行する」
と、二人の男が警察手帳を見せた。
「え?」
「松島竜樹君だね?お兄さんから、捜索願が出てる。君も一緒に署まで来てもらえるかな?」
「卯月から?そんな、俺、親にはちゃんと毎日連絡してたし、中西さんは俺のこと監禁なんてしてません!俺が無理に頼んで、ここに住ませてもらってただけです!」
俺は思わず大声を出して叫んだ。
「詳しくは、署で聞くから」
「嫌だ!俺のせいで中西さんが警察に行くとか、絶対に嫌だ!!中西さんは何も悪くない!!」
俺は必死に訴えた。
「とにかく落ち着いて」
私服の警察官の、もう一人の男が、俺の肩に手をかける。
「触るな!!」
混乱する俺に向かって、
「竜樹!!」
中西さんが、初めて声を荒げた。
俺はビックリして、中西さんを見た。
「心配ないから。大丈夫だから。一緒に警察に行こう」
「中西さん…」
俺は二人の警察官に促されるまま、中西さんと一緒にパトカーに乗り込んだのだった。

警察署に着くと、一人、別室に連れて行かれ、先ほど北山と名乗った年配の男が、机を挟んで俺と向かい合い、椅子に座った。
「中西は、本当に君を拉致・監禁してないと?」
「はい。俺が家庭内暴力を受けていたことを知った中西さんが、アパートに居候させてくれていただけです」
あんなにも、誰にも知られたくないと思っていたことなのに、中西さんを守りたい一心で、スラスラと言葉が出てくる。
「家庭内暴力?」
「そうです。だから、中西さんは何も悪くありません。俺がワガママを言って、ずっと居候させてもらってたんです」
「でも、君はまだ未成年だろ?それに、さっきも言ったけど、お兄さんから捜索願が出てる」
「俺に暴力を振るっていたのは、兄です。中西さんからきつく言われていたので、母には毎日連絡してました。俺が、中西さんに無理を言ってアパートに住ませてもらってたんです。本当です。信じて下さい」
俺は、中西さんが悪くないことを分かってもらいたくて、必死に訴えた。
「分かったよ。取りあえず、今日は一旦、家に戻りなさい。明日、また来てもらうことになるけど。未成年の子が、家にも帰らずに他人の家に泊まってるのは、良くないことだ。車で送るから」
「…中西さんは、どうなるんですか?」
「まあ、詳しく事情を聞かないことには…」
「中西さんは、俺を助けてくれたんです。本当に親切にしてくれただけで、何も悪くありません」
「…分かったよ。おい、野口と宮間。この子を家まで送ってやってくれ」
横に立っていた二人のうちの一人の若い男が、俺の腕を掴んで、椅子から立ち上がらせる。
「中西さんに会わせて下さい」
俺が懇願すると、
「それは無理なんだ。ごめんよ」
年配の男が、俺の頭に、ポンと軽く手を置いた。
「警察は、今日、俺が家に帰ったら、また兄に暴力を振るわれるのを分かってて、家に帰すんですね」
俺が嫌味っぽく言うと、三人が、グッと言葉に詰まった。俺は促されるままに警察が準備した車に乗り込むと、久しぶりの自宅へと連れて行かれたのだった。

「全く。お前には参るよ」
先ほどの年配刑事、北山が、別の車に乗り込みながら言った。
「大きな貸しがあるんで、これくらい協力して下さいよ、北山さん」
後部座席に乗り込みながら、中西が言った。
北山の運転する車が、竜樹を乗せた車のあとを追う。
「あの子、お前は悪くないって、ずっと言ってたぞ。こんな騙すような真似していいのか?」
「僕は、あの子を守りたいんです。もうすぐ夏休みも終わるし、これ以上、僕のアパートに置いておくワケにもいかないんで…」
「ふぅん。お前の正義感、本当にもったいないな。救われてる奴らも多かったのに。また警察に戻って来いよ」
北山が言うと、中西は静かに首を横に振った。
「僕にはもう、警察官は務まりません」
「まだ昔のこと、気にしてるのか?本当に、頑固なところも相変わらずだな」
北山が、悲し気な表情で、少しだけ口元を上げて微笑んだ。
「でも、まさか捜索願が出てたのは、想定外でした。本当に犯罪者になるところでしたよ」
「俺も驚いたよ。まさか、お前がかくまってたなんてな…」
「…兄で間違いなさそうですね」
「そう言ってたよ。兄から暴力を受けてた、って」
「え!本人が、そう話したんですか?」
「ああ」
「…あんなに話したがらなかったのに…?どうして急に…」
「さあな…。とりあえず、うまくいくといいけどな」
北山の言葉で、車の中の空気が、一瞬でピリッと張りつめた。

「到着したみたいだな」
北山が少し離れたところで、車を停めた。竜樹が車を降り、野口と一緒に玄関の中へと入る。しばらくして、野口が出てきて、竜樹を乗せてきた車に乗り込むと、北山の携帯が鳴った。
「…ああ。分かった。とりあえず、野口はこっちに来てくれ。宮間は先に署に戻ってていいぞ」
北山が言うと、しばらくして、野口が北山の車に乗り込み、助手席に座った。
「父親も母親も今日は帰りが遅いみたいで、家には兄だけでした。帰るなり、あの子の手を引いて、すぐに二階に上がって行きました」
野口から、説明を受ける。
中西は、車の窓から、二階に灯った部屋の明かりをずっと見ていた。しばらくして、二つの影が激しく動き始めた。
「北山さん!」
「分かってるよ」
三人は勢い良く車から降り走り出すと、松島家の玄関のドアノブに手を掛けた。幸い、鍵は掛かっていなかった。二階から怒鳴り声が聞こえた。
「俺の言うことを聞かない奴は、どうなるかなんて、分かってたことだろ!」
ガタガタと、激しい物音が響き、うめき声が聞こえた。
「今日はいつもより激しくしてやるよ。覚悟しとけよ!」
竜樹の兄、卯月が、両手をベッドの柵にくくりつけたれた竜樹の頬に何発も平手打ちをし、荒々しく服を脱がす。
「もう、ほぐさなくても、このままでいいよな?」
卯月が自分の下半身を竜樹へとあてがった瞬間、バンッ!!と部屋の扉が開き、北山と野口が入って来た。二人が卯月の腕を掴み、抵抗できないように、取り押さえた。
「松島卯月。弟、暴行の容疑で現行犯逮捕する」
竜樹と卯月の二人が、その一瞬の出来事に、何が起きたのか分からないと行った様子で、呆然としたまま、微動だにせずにいた。
北山が、卯月に衣服の乱れを直すように促し、それから、卯月の腕に、手錠をはめた。
「じゃあ、あとは頼んだぞ。借りは返したからな」
北山は、扉の外側にいた中西の肩を叩くと、卯月を連れて、野口と一緒に部屋をあとにした。
中西は、両手をベッドの柵に縛られ、全裸で横たわる竜樹に静かに近寄ると、そっと、床に落ちていたタオルケットをかけた。
竜樹は、唇を噛みしめて、横を向いたまま、中西と目を合わせようとはしなかった。
中西が、ビニール紐できつく繋がれた両腕をゆっくりと解放する。
「辛かったね…」
言いながら、竜樹を優しく抱き起こす。
「中西さ…」
竜樹の目から、涙が、一つ、また一つと零れてくる。
「もう大丈夫だから」
中西の言葉に安堵して、竜樹は中西の胸に顔を埋めて、声を出して泣いた。今までの分も、まとめてと言うくらい、堰を切ったかのように、ずっと中西の胸で泣き続けたのだった。

その日の夜遅く帰宅した母親に、中西さんは事情を説明してくれた。
「先ほど、卯月さんが竜樹さんに暴力を振るっているところを現行犯で捕まり、警察に連行されました」
母は、信じられないといった表情を一瞬見せたかと思うと、急にうろたえ始めた。
「落ち着いて下さい。今、卯月さんは北警察署にいます。今すぐご主人さんに連絡を取って、一緒に行ってあげて下さい」
中西さんが、ゆっくりと丁寧に、母へと向かって優しい口調で話す。
「…わ、分かりました。あの、失礼ですけど…」
「あ、すみません。僕は印刷会社で修理担当の巡回の仕事をしています、中西と申します」
胸ポケットから名刺を取り出して、母に手渡す。
「元、警察官です。竜樹さんとは、街で偶然知り合ったのですが、初めて会った時に、顔と手首にひどい傷を追っていたので、こちらで保護させてもらっていました。ご相談もせず、勝手なことをしてしまい、すみません」
「いえ…。こちらこそ、竜樹を守って下さって、本当にありがとうございます。私、全然何も知らなくて…。情けない母親ですね…」
母が口に手をやり、嗚咽を漏らす。目からは、次から次へと涙が溢れていた。
「母さん、泣かないで。早く卯月のところに行ってあげてよ」
「…ええ、そうね。竜樹、ごめんね。気付いてあげられなくて、本当にごめんなさい。卯月も、きっと辛かったでしょうね。あんなに仲が良かった二人だもの…」
母が、涙を流しながら俺を抱き締める。
ああ…。どうしてもっと早く相談しなかったのだろう。母は、いつだって、俺や卯月の味方だったんだ。母は父に連絡を取ると、すぐに卯月のいる北警察署へと向かったのだった。

母を見送って、中西さんが俺の方を向く。
「今日はゆっくり休むといい。明日も警察に行くんだろ?夕方六時過ぎには、アパートに帰ってきてるから、荷物を取りにおいで」
そう言って、優しく微笑んだ。
「アパートを追い出すの?」
「君は受験生だろ?学校が始まるのに、僕のアパートにいるのは良くないよ。お兄さんも、しばらくは帰ってこられないだろうし、家に戻った方がいい。そして、ご両親とよく話し合って、今後のことを決めていかないと」
「どうして…?もう一緒にいちゃいけないの?警察の誤解、まだ解けてないから?」
俺は中西さんの腕にしがみついた。離れるなんてイヤだ。考えるだけで、息が詰まりそうなくらい、胸が苦しくなる。
「明日、ゆっくり話そう。アパートで待ってるから」
「絶対だよ?」
俺の好きな、中西さんの口癖。
「うん。絶対」
中西さんは、クスッと笑った。その優しくて可愛い笑顔に、胸がギュッとなる。そして、中西さんは、玄関を静かに出て行ったのだった。

翌日、俺は警察から連絡を受けて、北警察署へと足を運んだ。昨日の年配の刑事が、また向かい合って座った。
「中西のこと、許してやったか?」
と、笑みを浮かべて聞いてくる。
「拉致、監禁のことですか?だから、それは違うって昨日から言ってるじゃないですか。中西さんのこと逮捕とかしたら、俺、訴えますよ」
年配の刑事が、はははっ、と声を上げて笑った。
「あれは、芝居だよ。君を家に連れ戻すように、中西に頼まれてアパートに行っただけだ。私情で警察を三人も動かすなんて、勝手な奴だよ、全く。中西には何の容疑もかかってないから、安心しろ」
「…どういうことですか?」
「どうしても、君を守りたかったって言ってたぞ。だから、兄貴が現行犯逮捕になるように、わざわざ仕向けたんだろ。昔っからあいつは他人のことに関して、必死になりすぎるんだ」
そんな。じゃあ、俺は、中西さんの罠にまんまとひっかかって、騙されてたってこと?
「そんな、ひどい。俺がどれだけ中西さんの心配したと思って…」
「まあ、そうムキになるな。中西も、本気で悩んでたんだぞ。俺に相談に来た時の顔ったら、なかったなぁ。いつも冷静な中西が、めずらしく深刻な顔してたからな。本当に中西に大事にされてるんだな」
大事にされてる?俺が…?
「中西さんが、元警察官て本当なんですか?」
「本当だよ。いろいろ事情があって、辞めちまったけどな。頭もキレるし、勘もいいし、警察の柔道大会で毎回優勝するくらい強かったし、才能あったから、もったいないって止めたけど、あいつは変なところで頑固だからな」
確かに。調理法や味付けとかも、どんなに「変えたら?」って言っても、聞かなかったもんな…。
「あの…辞めた理由を聞いてもいいですか…?」
俺が言うと、北山さんが少し頭を低くして小さな声で話し始めた。
「俺が話したって言うなよ…?昔、中西が同期の奴と二人して、強盗犯を捕まえたことがあってな。そいつが出所してすぐに、その同期の方を襲ったんだ。まあ、逆恨みってやつだ。幸い、五針ほど縫ったケガで、命に別状はなかったけど、やっぱり怖くなったんだろ。同期の方が警察を辞めてな。その時に、中西に言ったんだ。『襲われてケガをしたのが、俺じゃなくて、お前だったら良かったのに』って。かなりショックを受けて、それに責任を感じて、中西も辞めた…って感じだな」
そんなことがあったなんて。俺にはいつも笑顔で接してくれて、暗い顔なんて一度も見せたことなんてなかったのに…。
「もし中西さんが逆の立場だったら、きっと『ケガをしたのが僕で良かった』って言うと思います」
中西さんには、そういう優しさがあるから。
俺が言うと、北山さんも、
「俺もそう思うよ。中西は、そういう奴だ。警察を辞めたせいで、結局、結婚の話もダメになって…。あの時は、本当に見てられなかったよ」
「…中西さん、結婚の予定があったんですか?」
チクリと、胸が痛む。
「ああ。警察の事務の子でな。長く付き合ってたけど、無職になるから、って…。向こうの親にも反対されて、そのまま別れることになって」
「今、その人とは?」
そこが、一番気になるところだった。
「向こうはとっくに別の人と結婚して、ここも辞めたよ。…ずいぶんと話が横に反れたな。本題に入ろうか」
その言葉に、ものすごく安堵している自分がいた。
そして、事情徴収が始まったのだった。

事情徴収が終わって家に帰ると、めずらしく母がいた。
「お帰り。お昼まだでしょ?何か食べたいものある?」
「学校、行かなくていいの?」
いつもは夜も遅く、土日も部活の指導で家にいることなんてほとんどなかったのに、久しぶりに家にいる母の姿に、かなり驚いてしまった。
「今日は休みをもらったの。母さん、これから早く帰らせてもらうように学校に頼んだら、一人、講師の先生が補助で来てくれることになって…」
「そう」
母なりに、いろいろ考えてくれたんだな…と思うと、少し嬉しくなった。
「卯月ね、気持ちが落ち着くまで、一週間ほど入院することになりそうなの。私が追い詰めたのかもしれないわね。教師になれ、なんて強要して。卯月の気持ちなんて考えたことなくて、こんなことになって初めて後悔したけど、もう遅いわよね。大学受験に失敗した時に、もっと向き合ってあげれば良かった。竜樹にまで辛い思いさせてしまって…」
母の声は、必死で涙を堪えていたのか、震えていた。
「母さんだけのせいじゃないよ…」
俺はキッチンの椅子に腰かけた。
「…オムライスでいい?」
「うん。あ、俺も手伝う。母さんに料理を教えてほしくて」
「めずらしいわね」
母さんが、少し笑顔になった。
「中西さんの作ってくれるご飯が、本当に不味くてさ。美味しい料理を作って、食べさせてあげたいんだ」
中西さんの名前を出した瞬間、母さんの顔が一気に曇ったのが分かった。
「…竜樹、そのことなんだけど…」

俺は、夕方の六時半頃に中西さんのアパートに着くように家を出て、途中でコンビニに寄り、缶コーヒーを買った。アパートに着くと、鍵は開いたままで、中西さんが笑顔で迎え入れてくれた。
「中西さんの嘘つき。俺のこと騙して、わざと警察呼ぶなんて。どんなに心配したと思ってるんだよ」
言いながら部屋に上がると、缶コーヒーをテーブルの上に置き、リビングの床に座った。
「北山さんから聞いたの?あの人、昔っからお喋りだからなぁ…」
「警察を私情で三人も動かすなんて…」
「北山さんには、貸しがあったからね。竜樹君が親戚のおじさんだって言ってた、うちの課長、先週逮捕されたよ」
「え!?何で?」
「横領の疑いがあったんだ。あと、男の買春。援交するのに、お金を使い込んでたみたいで」
中西さんの言葉に、一瞬ドキッとし、動揺してしまう。
「その課長と僕が同じ会社だって知った北山さんが、僕に急に連絡してきたかと思ったら、素行を調べて証拠を見つけといてくれ、って。ひどい話だろ?まあ、会社のパソコンを見たら、すぐに証拠は掴めたけどね。帳簿も援交の約束もパソコンのゴミ箱に全部残ってて。削除まですることを忘れてたのか、知らなかったのか…。そのデータを全てメールで北山さんに送ったんだ」
俺の体が硬直した。それじゃ、俺とのやり取りも全部バレてるんじゃ…?動悸がして、胸が急に苦しくなった。
「君とのやり取りは、復元できないように全て削除しておいたよ、松山ケンイチ君。証拠隠滅で、本当はそういうことしちゃダメなんだけど。だいたい、親戚のおじさんと会うのに偽名を使ってる時点で、おかしいな、とは思ってたけどね」
サラリと中西さんが言う。ただ、口調は少し怒っているかのように、きつく感じた。
「そっか。俺もそこまで頭が回んなかったな…。とっくに気付いてたんだね。あの時、どうしても家に帰りたくなくて、お金が欲しかったから…。でも、実際は会えなかったんだし、別に良くない…?」
「良くない!あの日、僕じゃなくて課長が行ってたら、どうするつもりだったんだ!」
やっぱり怒ってる。こんな風に感情的になっている中西さんを俺は初めて見た。
「ごめんなさい」
言いながら俯く俺の手に、中西さんの手が重なった。
「君は、いつも僕に心配をかけてばかりで、本当に放っておけない…」
温かい、手のぬくもり。初めて指先を握ってくれた時も、こんな感覚だった。胸がときめいて、弾けるような感覚。俺は、恥ずかしさで俯いたまま、中西さんに尋ねた。
「中西さんは、俺が卯月から暴力を振るわれていたこと、どうして分かったの?話したことなかったのに」
「どうして…って、初めて会った日に、家に送ったあと電話が来て、傷がひどくなってたから。きっと、家族の誰かなんだろうな、って思ってた」
「そっか…。ずっと知らないふりしてくれてたんだ」
「言いたくなさそうだったからね。でも、結局、強行手段に出てしまったけど。騙すような真似して、本当にごめん」
俺は首を横に振った。
「助けてくれて、ありがとう」
俺が言うと、中西さんが重ねていた手に力を込めて嬉しそうに微笑む。その中西さんの笑顔に、胸がトクンと跳ねた。
「今日、母さんから、しばらく中西さんに会ったらいけないって言われて…。電話やLINEもダメだって言われたんだ。卯月とのことがあってから、成績がものすごく下がってて、受験が終わるまでは、学校が終わってから家に帰って勉強するように、って。母さんが勉強を見てくれるって言うんだ。今まで放っておいた分の時間を取り戻したいから、って」
俺が言うと、中西さんは重ねていた手を離し、
「そっか。分かったよ」
と、返事をした。
あっさりと納得する中西さんに対して、ひどく悲しい気持ちになった。
「中西さんは、寂しくないの?俺は嫌だ。ずっと中西さんと一緒にいたい。離れたくない」
もう、しばらく会えなくなるなら、今日は言いたいことを言おうと覚悟してここに来た。拒否されてもいい。自分の気持ちだけは伝えたかった。
「受験が終われば、会ってもいいんだろ?」
「え…?あ、うん。進路が決まったら、もう、好きにしていいって」
「じゃあ、我慢するよ。竜樹君の進路が決まるまで待ってる」
「でも、半年も先の話だよ?俺は毎日だって会いたいし、ずっと中西さんのそばにいたい」
言いながら、泣いてしまいそうになる。
「あんまりかわいいこと言うなよ…」
腕を引き寄せられ、ギュッと抱き締められる。中西さんの男らしさが、一瞬だけ垣間見えたような気がした。
「ずっと我慢してきたのに…」
中西さんの優しくて低い声が、耳元に響く。
「…もう我慢しないでよ。俺、中西さんのこと…」
中西さんの背中に手を回す。俺を抱き締める中西さんの腕に力がこもった。
「コーヒー買ってきたんだ。今日は眠らせないように…と思って。それに、俺、十八歳になったから、もう未成年じゃない。だから…」
合図をするかのように、中西さんの背中に回した腕に、力を入れた。
「…確信犯だね…」
抱き締める腕が緩み、向かい合うと、中西さんの右手が俺の頬を包み込んだ。ゆっくりと、唇が重なる。優しくて、甘くて、お互いの想いを確かめ合うような、長いキスだった。それだけで、俺の感情は一気に高ぶった。
「どうしてこんなに君に惹かれるのか分からないよ」
「俺だって…」
どうしてこんなに、中西さんじゃなきゃダメなのか、分からない。好きって気持ちは、これ以上大きくならないと思っていたのに、中西さんと触れ合うだけで、もっともっと、大きく膨らむ。
「好き…。中西さん…」
「竜樹…」
中西さんが眼鏡を取って、机の上に置く。その男前な素顔に思わず見惚れてしまう。
「ちょっ…!」
急にお姫様抱っこをされ、思わず声を上げてしまった。
「ベッドに行こう。大事にしたいんだ」
「…うん」
俺は、中西さんにしがみつき、真っ赤になった。
「こんな華奢な体、壊してしまいそうだ…」
中西さんは、とても丁寧に俺を扱ってくれた。お互いの鼓動が全身に伝わって、好きな人と体を重ねる心地よさが、たまらなく幸せだった。

「初めて会った時、首筋にいくつもキスマークがあったから、恋人がいて、そいつに暴力を振るわれているのかと思ったんだ」
中西さんが、俺を抱き締めながら、耳元で話す。
「竜樹君が、あまりにも綺麗だったから、初対面なのに、何か、それがすごく許せなくて、いろいろ世話をやきたくなってしまって…。だから、電話をもらえた時、本当に嬉しかった。今、こうして竜樹君が僕の腕の中にいることが、信じられないよ」
「うそ…。そんな素振り、全然見せてなかったのに」
俺は嬉しくなって、中西さんの顔を両手で挟み、
「ずっと、俺の片想いかと思ってた」
そう言って、中西さんの唇にキスをした。
「いい大人が、11歳も年下の男の子相手に本気になるなんて、恥ずかしいだろ?」
照れてる。かわいい。
「中西さん、絶対に警察の仕事に向いてると思うよ。中西さんみたいな人がいたら、きっと多くの人が救われると思う。俺みたいに」
俺が言うと、中西さんは困ったように微笑んだ。
「竜樹君は、将来の夢とかあるの?」
「俺、幼稚園の教諭になりたいんだ。何か、高校の授業で実習に行った時に、子供の純粋さや可愛さにハマっちゃって。今は幼児心理学とか発達障害のこととか、専門的に学ぶことも多いし、大変な仕事って分かってるんだけど、諦めきれなくて…」
「そっか。いい夢だね。竜樹君ならきっと子供たちや保護者からも人気が出るよ」
俺は嬉しくなって、中西さんの胸に顔を寄せる。
「…中西さん、俺、もう一回したい」
そして、ねだる。
中西さんが、俺をギュッと抱き締めた。
「竜樹君て、意外と積極的なんだね。寝てる僕にキスしたり、さ…」
驚いて、バッと胸から離れる。
「おっ、起きてたの?」
「寝室の扉が開く音で目が覚めてたんだけど、寝たふりしてた」
「ひどい」
「僕的にはラッキーだったかな。すごく嬉しかった」
言いながら、額に柔らかいキスをされる。
「中西さんには、かなわないなぁ…」
俺はもう一度、快楽を味わうために、中西さんの首に手を回した。
「受験が終わったら連絡するね」
「絶対だよ?」
俺は笑った。
「うん!絶対!」
そして、俺たちは、先ほどよりも激しく愛し合ったのだった。

「荷物、これで全部?忘れ物ない?」
「うん。大丈夫」
「じゃあ、行こうか」
翌朝、中西さんに手伝ってもらいながら、俺の自宅へと向かう。歩いてもそんなに距離はないけれど、荷物のこともあり、中西さんが車を出してくれた。
「そういえば、竜樹君の通ってる高校ってどこなの?」
「中南高校」
「え!?名門校じゃないか!」
中西さんが、かなり驚いた様子で僕を見た。
「ずっと勉強、勉強ばっかりで楽しくないけどね。中西さんといる方がずっと楽しい」
運転する中西さんの左手は、ずっと俺の右手を握ってくれていた。
「志望する大学に入れるといいね」
「うん。頑張る」
どうしよう。もうすぐ家に着いてしまう。
「俺、中西さんに会ってから、毎日が本当に楽しくて幸せで…。なのに、どうして…」
そこまで言って、言葉に詰まる。
「僕もだよ。竜樹君と出会ってから、平凡で同じ時間をただ過ごしていた毎日が、百八十度変わった。すごく幸せで、楽しかった」
車が家の前に止まる。嫌だ。車から降りたくない。そんな俺の気持ちも知らずに、中西さんが、車から降りて、先に荷物を玄関へと運んでくれる。そして、助手席のドアが開く。
「竜樹君」
名前を呼ばれるけど、俯いたまま、顔を上げられずにいた。涙が、一つ、また一つと零れる。
「ほら、泣かない!半年なんて、あっという間だよ」
「でも…」
「今は、学業に専念して、大学に無事合格したら、また一緒に住もう」
中西さんの言葉に驚いて、思わず顔を上げた。
「いいの?」
「竜樹君さえ、嫌じゃなければ、だけどね」
「嫌なワケ…ないじゃん」
嬉しさに、顔が歪み、より涙が溢れた。
「だからさ、寂しいけど、二人で一緒に半年間を乗り越えよう」
そう言いながら、中西さんが笑う。
「うん!合格したら、すぐに中西さんに、直接報告しに行くから」
そして俺たちは、今までにないくらい、強く強く抱き締め合ったのだった。

中西さんと離ればなれの生活が始まり、夏休みも終わり、九月を迎え、学校が始まった。始業式の日に担任に呼び出された俺は、二人で教室の机に向かい合って座った。
「受験生が一度も課外授業に出ずに、いったいどういうつもりだ?」
「すみません。ずっと体調が良くなくて」
「お母さんから、火曜と金曜の放課後に数学の勉強を見てほしいって、先週連絡があったぞ」
「母さんから?」
「前の学校で一緒に仕事してたから、頼みやすかったんだろ」
「でも、俺、文系の大学希望なんで、別に数学はそこまで…」
「だとしても、推薦狙ってるんだろ?」
「まあ、一応」
「そしたら、成績をこれ以上下げないようにしないと難しいぞ?」
「…分かってます」
「明日の金曜から、放課後に勉強見てやるから、ちゃんと残れよ」
そう言って、担任の明石は俺の頭にポンと軽く手を置いた。
まあ、ずっと母親に付きっきりで勉強を見てもらうよりは、気分転換になっていいのかもしれない…。俺はその時、その程度にしか思っていなかったのだった。

「で、ここで、この数式を使うと…」
担任の明石は、なぜか背後から、かなり体を密着させ、勉強を教えるスタイルだった。最初は気になっていたけれど、三度目にもなると、そのスタイルにも少し慣れてきて、なるべく顔を近付けないように、前を見たままの姿勢ではいたけれど、さほどその距離感も気にならなくなってきていた。
「…あ、そっか。なるほど」
明石先生は教え方も上手で、すごく分かりやすかった。そこに、先生の右手が俺の頭を撫でたかと思うと、突然、背後から左側の首筋に、先生の唇が這い、チュッと音を立てて、きつく吸われた。ゾワッと全身に鳥肌が立つ。
俺はガタンと勢い良く席を立ち、
「何すんだよ!」
と、思わず怒鳴った。
「推薦、欲しいんだろ…?」
俺へと歩み寄る。
「一回、俺とするなら、絶対に推薦を松島で押し通してやるけど、どうする?」
「何言って…」
「みんな、今までそうやって推薦取ってきたんだ。断った奴らは、推薦を逃して、自力で共通テスト受けてたけど、お前の兄貴は俺の誘いを断ったせいで、推薦ももらえず、受験にも失敗して可哀想だったよ」
「…卯月にも、そんな条件を出してたのか?」
「めちゃくちゃ魅力的だったしタイプだったから、一番手に入れたいと思っていたのに、残念だったよ」
俺は、その真実を聞いて、ショックで足元から崩れてしまいそうだった。
先生の腕が伸び、俺の腕を掴む。
「やめろよ!離せ!」
俺は必死で抵抗しようと、机の上に置いてあった教科書や、ペンケース、カバンをとにかく無我夢中で先生へと投げ付けた。教室の窓ガラスが、バリンと大きな音を立てて割れた。廊下にガラスの破片が、いくつも飛び散る。
「こんなに抵抗する生徒は、初めてだな」
そのまま勢い良く腕を引かれ、再び首筋に唇と舌が這った。
気持ち悪くて、思わず吐きそうになる。
カッターシャツのボタンに手をかけられ、俺は思いっ切り腕を突っぱねた。その瞬間、ビリッと、何かが破れた音がした。
そこに、
「何の音だ!?」
と、階段を駆け上がるいくつもの足音と声が響き渡る。先生が少しひるんだスキに、俺は瞬時に先生の胸倉を掴んだ。
「お前が卯月を追い詰めたのか?ふざけんな!」
胸倉を掴んだまま、勢い良く、教室の割れた窓の方へと移動する。
「おい!何してるんだ!」
教頭と生徒指導の先生が教室へと入ってきて、俺と先生を引き離した。
「離せよ!卯月のこと苦しめやがって!絶対に許さない!」
「落ち着きなさい!」
教頭が怒鳴る。そこに他の先生や生徒も集まり出し、誰かが呼んだ警察が来るまで、俺の怒りと悔しさは収まらなかった。
「いいか。推薦が欲しかったら、何も言うなよ?分かったな。先生の言う通りです、で押し通せ。今後のことは、後日ちゃんと二人で話し合おう」
二人してパトカーに乗せられる前に、先生に耳打ちをされる。俺は口答えもできずに、黙ってただ俯いていただけだった。

警察署に着くと、先生とは別の部屋へと連れて行かれた。ここに来るのは、二度目になる。
「せっかく、頑張るって決めたのに…」
こんなことになってしまって、つい中西さんに対して申し訳なくなり、涙が零れそうになるのを必死に堪えた。
コンコン、とノックの音がして、扉が開く。俺は俯いたまま、顔を上げることなく、椅子の背もたれに寄りかかったままでいた。
「松島竜樹君だね?ちょっといろいろ話を聞かせてもらうよ」
机を挟んで、警察の人が椅子に座るとすぐに、
「野口、悪いけどカメラを持って来てくれないか?」
と、一緒に入って来たもう一人の男に声を掛けた。
「先生と何かあったの?」
「別に、何も」
「教室のガラス割ったんだって?」
「わざとじゃありません」
「そっか。何も話したくない、って感じだね」
「全部、先生から聞いて下さい。俺から言うことはありません」
「なるほど。先生からは、今、別の刑事が話を聞いているところだから、まだこちらに話は伝わってきてなくて」
俺は、再び黙り込んだ。そこに、野口と呼ばれた男がカメラを持って戻ってきた。
「ありがとう」
そう言って、担当の刑事がカメラを受け取ると、
「その、首筋のアザと、ちぎれかかってるボタンの写真、証拠として撮らせてもらうよ?」
「え?…証拠って、何の…?」
そんなことして、もし先生にバレたら、俺の推薦の話がなくなるかもしれない。
俺は思わず顔を上げた。その瞬間、見覚えのある顔に、思わず絶句してしまった。
「あ…。自己紹介がまだだったね。北警察署の中西と言います」
言いながら、目の前に警察手帳を出し、本物の刑事であることを証明する。
「取りあえず、写真を撮らせてもらっていいかな?」
中西さんがカメラを持って席を立つと、俺へと近寄る。
「やだ、って言ったら?」
「無理強いはしないよ」
「先生にバレない?」
「バレたら何か困ることでも?」
「…別に、何も」
「大丈夫。バレないよ。ここに立ってもらえる?」
俺は中西さんに言われた通りに立つと、写真を何枚か撮られた。中西さんは画像を確認すると、
「現像に回しといて」
と、野口という刑事へとカメラを手渡した。
そして、机の上に置いてあるアルコール入りのウエットティッシュを二枚ほど手に取ると、突然、俺の首筋を拭き始めた。
「な、何…?」
「消毒」
「え…?」
そこに、ノックの音がした。扉が開いたかと思うと、北山さんが現れ、中西さんを呼んだ。二人で何やら話をしていたかと思うと、中西さんが戻ってきて、
「大きな虫が教室に入ってきて、驚いて物を投げてガラスが割れただけで、二人の間に揉め事はなく、ケガもなかったから被害届も出さないと、向こうは話してるみたいだけど?」
と言った。
「…はい。先生の言う通りです」
「分かった。じゃあ、もうこれで帰っていいよ。親御さんに迎えに来てもらうように、こちらから連絡するね。一応、まだ高校生だし、説明しないといけないから」
中西さんに促され、取り上げられていた私物を全て返してもらった中のスマホから、母の携帯番号を調べて、中西さんに教えた。電話が済み、
「今すぐに向かうそうだよ。お疲れさま」
中西さんが立ち上がり、扉を開けてくれる。
俺が部屋を出ようとした時に、耳元で、
「自動販売機の横の椅子に座って待ってて」
と、囁いた。
座って待ってると、廊下をスタイルの良い中西さんが歩いて来るのが分かった。そのカッコよさに見惚れていると、さりげなく俺の前を通り過ぎ、自動販売機でジュースを買うふりをして、俺へと話かけてきた。
「そこに談話室があるの分かる?」
ガチャンと、飲み物が落ちてきて、それを手に持つと、
「行こう」
と、コーラを片手に、俺の手を握って、足早に歩く。
扉が閉じた瞬間にコーラをテーブルの上に置くと、背中を壁へと押し付けられ、身動きが出来ないように両手で挟まれる。
そして、首筋へと顔を近付けてきたかと思うと、激しく唇で先生と同じ部分を吸われた。
「ん…」
ズクン…と全身が疼く。先生の時は気持ち悪くて仕方なかったのに、中西さんとだと、どうしてこんなに高揚した気持ちになるんだろう…。
左手で顎を持ち上げられ、親指で唇をなぞられる。
「こっちは?」
「…大丈夫。まだ中西さんとしか、したことない」
「まだ…って。誰かとする予定でもあるような言い方だね」
「そんなこと…」
言う唇を塞がれる。足に力が入らなくなるくらいの、激しくて熱いキスだった。
「これは警察としてじゃなく、恋人として聞くよ?何があったの?」
優しいけれど、口調は少し強かった。それでも、恋人と言ってくれたことがすごく嬉しくて、つい弱気になってしまいそうになる。でも、中西さんに心配はかけたくなかった。
「…本当に何もない。それより、いつ警察に戻ったの?」
「九月から勤務してる。竜樹君に、向いてるって言われて…。単純だろ?復帰して初めて担当する案件だったんだけど、名前を見てびっくりしたよ」
「…ごめんなさい。もう大丈夫だから」
「分かったよ。竜樹君がそう言うなら、信じる。残念ながら、証拠がないと警察も動けないし…。受験、頑張って」
言いながら、俺から離れると、机の上のコーラを手渡してくれる。
「ありがとう」
それを受け取り、お礼を言う。本当は抱きついて、さっき学校であったことを全て洗いざらい話して、中西さんにすがりたかった。でもそんなことをしたら、先生に調査が入って、受験に影響が出るかもしれない。そう思うと、すごく怖くなった。
「連絡、待ってるから。それから、僕のためにも、ちゃんと自分のことを大事に考えるんだよ?」
中西さんが、静かに言う。その言葉に、つい涙が出そうになった。
「うん…。じゃあ」
そして俺は一人で先に談話室を出たのだった。

それにしても、本当にめちゃくちゃカッコよかったな…。スーツ姿は見慣れていたはずなのに、全然雰囲気も違って見えたし、的確に対応しながら仕事をこなす中西さんは、本当に素敵で、より惚れ込んでしまった。
「恋人か…」
呟いて、ニヤけてしまう。
「竜樹!ちゃんと聞いてるの?この大事な時期に、警察にお世話になるなんて!」
警察からの帰りの車の中で、母から散々説教される。
「ごめんてば。そう言えば、今日、卯月は?」
「明日は土曜で予備校が休みだから、バイトのあと、彼女のアパートに泊まるって言ってたけど?」
「そっか。話したいことあるから、バイト先に行ってみるよ」
「そう…」
母が心配そうに、バックミラーで俺を見た。
「大丈夫だよ。卯月、ちゃんと謝ってくれたし、もう昔みたいに普通に接してくれてるから」
そうなのだ。前に起きていた忌まわしい出来事が、夢だったのかもしれない、と思うくらい、卯月とは良い関係に戻りつつあった。

「悩んでるなー」
北山が、頭に手をやりながら資料を見ている中西に声を掛ける。
「そりゃ、悩みますよ。中南高校の件、かなり前から問題になってたじゃないですか。推薦を条件に体の関係を求められた、って、卒業してから被害を訴えてきてる生徒が過去に何人もいるのに、証拠がないせいで、受理すらできてないなんて、おかしいですよ。しかも、毎回、今回と同じ先生ですよ?」
「仕方ないだろ。証拠がないと、こっちも動けないんだから。しかも、その明石って奴はかなり用意周到で、一年に一人にしか手を出してないから、他の生徒に聞いたところで、証言も出てこないからな」
「今年のターゲットが、松島竜樹ってことですよね?」
「まあ、今日の状況から行くと、そうなるな。あれは、明らかにキスマークだろ。さすがの俺でも分かったぞ?」
「でも、本人は口を割らなかった」
「どうしても推薦が欲しいんだろ?」
「関係を持つと思いますか?」
「さあな。でも、もう未成年でもないんだし、同意の上なら問題ないだろ?」
「北山さんに聞いた僕がバカでした。帰ります」
中西は資料を勢いよく閉じ、ガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がると、めずらしく苛立ったように足早に事務所をあとにした。

「卯月!」
「竜樹?どうした?こんな所まで来て」
「バイト終わるの待ってた。話したいことあって」
「何だよ?連絡くれれば、いつでも時間作ったのに」
「俺、今日、学校で問題起こして、警察署に連れてかれちゃって」
「は?大丈夫なのか?受験に影響でるんじゃないのか?何があったんだ?」
俺の心配をしてくれる卯月は、今では、いつも優しかったあの頃の卯月そのものだった。
「卯月…。明石先生のこと、辛かったよな。俺、全然知らなくて、本当にごめん。話してくれたら良かったのに…」
卯月の体が少し硬直した。
「俺はもう大丈夫だよ。確かに、あの時はかなり精神的にも参ってたし、竜樹にもひどいことして、本当に反省も後悔してるけど、今は受験に失敗したおかげで、自分の志望する大学を目指せることになったし。逆に、無理に教師にならなくて済んで良かったかも、って思ってるくらいだから」
卯月の体が揺れ、心からそう思って笑っているのが分かる。
「それより、その話を知ってるってことは、今度は竜樹が狙われてるってことだよな?大丈夫なのか?」
「それで、卯月に相談したくて。警察は証拠がないと動けないって言ってた。これ以上、卯月や俺みたいな犠牲者を増やしたくないんだ。だから…」
「そっか。分かった。あの機械オタクのダチに聞いとくよ」
「うん。今度の火曜の放課後が、狙い目だと思う」
「竜樹、無理するなよ。お前なら、推薦じゃなくても受かるだろうし、危なくなったら絶対に逃げるんだぞ?」
「うん。ありがとう」
「俺よりも、あの人に相談はしてみたのか?しばらく一緒に住んでた、元警察官の…」
「中西さん?ううん。母さんに受験が終わるまで会うのも連絡取るのもダメって言われてるし」
「相変わらず、そういうところは融通きかないんだな」
「俺、卯月みたいに要領良くないから。バイトして、彼女も大事にできて、成績もトップで、全てうまくやりこなせるなんて、卯月ぐらいだよ」
「いや、褒めすぎだろ」
卯月が笑う。俺も嬉しくなって、笑った。
「それに、今日警察に行った時の担当が、その人だったんだ。前の会社を辞めて、九月から警察に戻ったみたいで…。だから、なおさら話せなかった。下手なこと言って、先生に調査が入ったら…と思って」
「そっか…」
「とにかく、俺は卯月の仇を取りたい!あんな奴、絶対に野放しになんかしておかないから!」
「竜樹…。ありがとな。でも、絶対に無理はするなよ?大事な弟が危ない思いするのは、俺もイヤなんだからな。分かったか?」
「うん。分かった。何かされそうになったら、走って逃げるから大丈夫」
そして俺と卯月は、お互いに笑顔になって、目を合わせた。

そして、火曜日の放課後のことだった。
「先生、この前話してたことだけど。先生と関係持ったら、絶対に志望校の推薦もらえるの?」
「ん?ああ」
「今までの人たちも、そうだったってことだよね?」
「何だ?疑ってるのか?」
「だって、実際、その人たちから話を聞いたワケじゃないし…。俺の知ってる人で、誰がいたとか教えてよ。誰にも言わないから」
「そうだな…。確かに、松島が知ってる奴はいないかもしれないな」
「じゃあ、先生のこと、どうやって信じたらいい?俺だって、それなりの覚悟いるし…」
「何だ…?やっぱり推薦欲しさに、俺とする気になったのか?」
「…いつも、どこでしてたの?」
「ここでしてたよ。みんな、初めてのことで戸惑いながら恥ずかしそうにしてる姿が、すごく可愛くてな。それがまた興奮するんだ…」
先生が俺の頬へと手を伸ばす。
「先生がしてることは、悪く言うと、脅しみたいなもんだよね?」
「交換条件だよ。どっちも良い思いするんだから。松島のこと、気持ち良くさせる自信はあるぞ?」
「今日は母さんに遅くなるって言ってきてないから無理だけど…。一緒に仕事してたなら分かるでしょ?予定が狂うと、すぐヒステリー起こすの」
今でこそ、多少は人の話も聞いてくれるようにもなったし、随分と丸くなったけれど…。でも、厳しさは相変わらず変わらないままだった。
「…確かにな。一緒に仕事してた先生達みんな、すごく気を使ってたよ」
「今度の金曜日、ちゃんと遅くなるって言っとく」
先生が、僕の頬へと唇を寄せた。全身に鳥肌が立つ。
「楽しみにしてるよ」
そして、耳元で嬉しそうに囁いた。
「その変わり、絶対に推薦してよね」
「任せとけ」
「じゃあ…金曜日に…」
そう言って、俺は席を立った。その腕を急に掴まれる。
「録音してただろ?」
「え?」
「バレてないとでも思ったか?スマホを出せ」
俺はしぶしぶポケットに入れてたスマホを出した。
ボイスレコーダーになっている画面を見られる。
「やっぱりな。今ここで削除しろ」
俺は言われるがまま、今までの会話を削除した。
「他には?」
全身をくまなく触られる。
「ないよ」
「カバンの中の物を全部出せ」
俺は机の上に、カバンの中身を全て出した。
一つ一つを丁寧に確認する。
「卯月といい、お前といい、一筋縄じゃいかないな」
「そっちが、こんなおかしな事をやめればいいだけの話だろ?」
「…他には、なさそうだな」
「だから、そう言ってるだろ」
俺はバラけたカバンの中身を手早くカバンに戻すと、
「俺、推薦いらないから。自分で共通テスト受けて受験する。もう放課後の勉強も見てもらわなくていい」
と言い残し、帰ろうとした。
その腕を力強く掴まれる。
「…何?」
「気に入ったよ。こんなに手のやける奴は初めてだ。どうしても手に入れたくなった」
ガタン、と音を立てて、先生が椅子から立ち上がった。

「何で一人で解決しようとしたんだ!どんなに危ない状況だったか分かってるのか!」
中西さんが、俺に向かって怒鳴る。
「中西さんに心配かけたくなかったし、うまく行くと思ってたから…」
「いい加減にしろ!どうしてちゃんと相談しなかったんだ!卯月君が昨日警察に来て、僕に事情を話してくれてたから良かったものの、そうじゃなかったら、今頃…」
「無事だったんだから、良くない?」
「良くない!俺と北山さんがが助けに入らなかったら、犯されてたかもしれないんだぞ!竜樹君はいつも楽観的すぎる!もっと危機感を持てよ!」
中西さんは『火曜の放課後に、俺が先生との会話を録音して、仇を打つ』と言っていたことを『心配で仕方がない』と卯月から相談を受けていたらしい。そこで、以前勤めていた、印刷会社の社員のふりをして、コピー機のメンテナンスをしに来たと見せかけて、北山さんと二人で学校に潜入していたのだ。
俺が先生に押し倒され、無理矢理服を脱がされそうになったところで、二人が助けに入ってくれ、何とか難を逃れることができたのだが…。
「そんなに怒らなくても…」
「怒るに決まってるだろ!」
「まあ、まあ。現行犯で逮捕できたんだし、もう一つの、兄の卯月君が用意してくれたボイスレコーダーの録音も残ってるし、いいじゃないか」
北山さんが、止めに入る。
「良くないですよ!だいたい、竜樹君は考えが甘過ぎるし、浅はかすぎる!どうしていつも無謀なことばかりして、自分を大事にしようとしないのか理解できないよ!」
中西さんの言葉に、ついカチンと来た。
「もう、分かったよ!うるさいな!中西さん、母さんみたいで、すごくうざい!11歳年上だからって、保護者づらしないでよ!説教する中西さんなんか大嫌い!顔も見たくない!」
俺なりにかなり反省もしてたし、先生に襲われそうになったショックもあった中で、あまりにも注意されすぎて頭に来てしまった俺は、思わず口に出してしまった。
その瞬間、中西さんが、黙り込んだ。
「取りあえず、松島君も調書を作るから、署まで一緒に来てもらえるか?先生とは別のパトカー準備してあるから」
北山さんが、俺に声を掛ける。
「北山さん、僕、この案件から外れます。一人、別の刑事に要請かけて下さい」
中西さんが、言った。
「中西…?」
「おとついの夜に起きた、集団暴行事件の方で、まだ調べたいことがあるので、先に署に戻ります」
「…分かったよ」
北山さんが、中西さんの要望をすんなりと受け入れる。
「竜樹君の気持ち、よく分かったよ…。自分の歳に見合う人と、新しい出会いがあるといいね。もう、君とは会わないから、安心して」
え…?
「…違う!俺、そんな意味で言ったんじゃ…」
「結局、僕のこと信じてなかったから、相談もできなかったんだろ?何があっても君を守りたいって、ずっと思ってたけど、僕一人だけが空回りしてたみたいだね。気付けなくて、ごめん。元気でね」
そう言って、中西さんは、その場をあとにした。
北山さんが、
「今の言葉はキツイなー。中西の奴、中南高校の過去の資料を全て引っ張り出してきて、過去に相談に来てた生徒、一人一人、毎日夜遅くまで、尋ねて歩いてたんだぞ?何とか証拠を見つけようとして、必死だったのに」
「俺、そんなつもりで言ったんじゃ…。中西さんがあまりにも怒るから…つい頭に来て…」
「そりゃ、目の前で大事な奴が襲われてたら、さすがの中西も、冷静じゃいられないだろ。ま、俺には関係のないことだからこれ以上とやかく言うつもりもないけど、中西は頑固だから、今までも、一度別れを決めたら、徹底して押し通してた、とだけ言っとくよ」
北山さんが、自分の髪をくしゃくしゃと触りながら、俺を戒めるかのように言った。
突然の、中西さんからの別れの言葉がまだ信じられなくて、胸が痛い。まるで、何かで、心臓をえぐられてるかのようだった。

それからというもの、俺の担当は野口と言う人になり、警察署に行っても、中西さんと顔を合わせることは、全くなかった。担任の明石先生は、卯月の友達が作ってくれたボールペン式のボイスレコーダーに俺が録音していた証拠と、過去に被害に遭った人たちの証言により、今までの素行が全て明らかになり、教員免許も剥奪され、それなりの刑で裁かれることになった。
「お疲れさん。やっと受験勉強に専念できるな」
最後の事情徴収の日、北山さんが声を掛けてきた。
「あの…」
中西さんのことを聞きたかったけれど、なかなか聞き出せずにいた。
「余計なことかもしれないけど、中西が、異動願を出したよ。九月は、ちょうど勤務希望申請証を出す時期だしな。もし受理されれば、二月には異動になる」
「どこにですか?」
「どこかは言えないけど、地方の駐在所ってなってたな。誰も行きたがらないから、すぐに申請は通るだろ」
「そんな…。異動したら、そこに住むことになるんですよね?」
「そうだな。アパートも引き払って、駐在所に住むことになる」
ショックが大きすぎて、全身の力が抜け、手が少しだけカタカタと震え出したのが分かった。
自分がいかに中西さんの優しさに甘えていたのかを痛いほど思い知らされる。何をしても、何を言っても、絶対に許してくれると思っていたし、ずっとそばにいてくれるって、そう信じていた。
「今、中西さんは…?」
「サミットの手伝いで、広島に駆り出されてるよ」
「いつ帰って来ますか?」
「さあ。そのあとも、地震のあった被災地の援助に長く行くことになってるから、何とも…」
「そうですか…。分かりました」
俺は肩を落として、ゆっくり歩き出した。涙が、あとからあとから溢れて来る。
俺はバカだ。お金欲しさに援交しようとしたり、先生とのことも失敗して、犯されそうになって…。中西さんに怒られて当然のことをしてるのに、逆ギレして、あんなことを言ってしまって。『僕のためにも、自分を大事にしてほしい』って、何度も言ってくれていたのに。約束を守らなかったのは俺の方で、中西さんは何も悪くない。今さら後悔しても遅いと、今になってようやく気付く。
「会いたい…」
呟いて、立ち止まる。
もし逆の立場だったとしたら、絶対に俺だって怒るに違いない。中西さんが、変な女や男に言い寄られて、手を出されそうになってるところを見たり、お金目的でホテルに連れ込まれようとしてるところに鉢合わせたり…。想像するだけで、胸が苦しくなる。中西さんが、どんな気持ちでいたかなんて、考えたこともなかった。
あのあと、何度か電話もしたけど、中西さんは出てくれなかった。
北山さんの言葉が、イヤというくらい、頭に浮かんで来る。『中西は頑固だから、今までも、一度別れを決めたら、徹底して、押し通してた』と。

ありがたいことに、一、二年生の頃から成績が優秀だったこともあり、俺は学校長から推薦をもらうことができた。受験は物凄く緊張したが、十二月の中旬の合格発表で、見事、志望校の合格を勝ち取ることが出来た。
俺は合格発表が終わったその日の夕方に、ある場所へと急いで向かった。

息を切らし、インターホンを押す。
反応がなかった。もう一度、押してみる。
やっぱり反応はなかった。俺は玄関の扉に背中を付けると、その場に、しゃがみ込んだ。膝を抱えて、寒い外の中、涙を流しながら、しばらく動けずにいた。
「もしかして、まだ被災地に駆り出されてるのかな…」
普通の会社員と違って、警察の仕事はかなり不規則で、一体、いつ中西さんがアパートにいるのか、全く予測できなかった。
「…一緒に住もうって、言ったのに。嘘つき」
あんなにお互いを想い合って、愛し合ったのに…。あれは夢だったのかと、そう錯覚してしまいそうなくらいだった。
「こんな寒い中で、何してるの?風邪引くよ」
声がして、俺の頭上に影ができ、俺は顔を上げた。
「中西さ…」
泣いていたせいで、うまく声が出ない。
手には大きなスーツケースと、そして、お弁当屋さんの袋を持っていた。
担いでいたリュックから、アパートの鍵を取り出し、扉を開ける。
「僕自身、今日、久しぶりに戻って来たんだ。埃だらけかもしれないけど、外よりはいいだろ?入ったら?」
そう言って、重そうな荷物を抱えて、中へと入る。
すぐに暖房を入れてくれたけれど、換気のため、部屋中の窓を開け、そして、床をクイックルワイパーで簡単に拭いたかと思うと、手際良く、全ての部屋に掃除機をかけ始めた。
「ごめんね、バタバタしてて。一ヶ月近く、家を空けてたもんだから…」
中西さんが、スーツケースから荷物を出す。
「地震のあった被災地に、長いこと手伝いに行ってたの?」
「よく知ってるね」
中西さんが窓を閉め始める。
「何回か、電話したんだけど…」
「え?あ…スマホ…どこやったっけ?」
慌てた様子で、リュックの中や、スーツケースの中を探す。
「あ…充電が切れてる。会社の携帯さえ持ってればいいかな、と思ってスーツケースの中に入れっぱなしだったの忘れてたよ」
「俺から連絡あるかも、とか思わなかったの?」
俺が言うと、中西さんは黙り込んだ。そして、スマホを充電し始めた。
「松島君のことは、考えないようにしてた。実際、被災地での毎日は本当に大変で、考える余裕もなかったんだけど…」
松島君…?いかにも他人行儀という感じで、距離を置かれたのが分かる。
「…俺、あのあと志望校の推薦もらえて、今日合格発表だったんだ」
「そっか…。その様子だと、受かったみたいだね」
「うん」
「おめでとう」
中西さんが、嬉しそうに、そしてどこか悲し気に微笑んだ。
「中西さん、疲れてる…?」
「え…?」
「顔色があまり良くないから…」
「そうだね。やっぱり、被災地へ行くのは精神的にもかなりしんどいから…。大事な家族やパートナーや友達を突然失った人たちも多くて、その悲しみや辛さなんて、想像もつかないくらい壮絶で…。住むところも失くして、それでもみんな頑張ってて…。自分がいかに恵まれた環境にいるのか、思い知らされるよ…」
中西さんが、めずらしく肩を落として俯いた。
俺はそんな中西さんに声を掛けられずにいた。
いくら手伝いとは言え、そんな想像を絶するような辛い現場にいる人たちの心は、きっと、強い痛みですり減って行くのが分かるから…。今ここで、俺がどんな言葉をかけたところで、励みになんてならない…。
「警察の仕事ってさ、本当に辛いことの方が多くて、たまに逃げ出したくなる時があるよ。実は、地方の駐在所勤務への希望を出してて。大学を卒業して初めての勤務地が、かなり田舎の駐在所だったんだけど、毎日が穏やかで、周りの人たちも親切で。小学校から帰る子供たちを見送ったり…。それでも刑事になりたくて、試験を受けたけど、今みたいな、気が重くなるようないざこざや喧騒ばかりの、殺伐とした環境から少しでも解放されたい、って、最近はいつも思ってる」
「…でも、地方に行ったら、原則そこに在住しなきゃいけないし、もう本当に会えなくなるんだよね…?」
「そうだね」
軽い返事…。痛みで胸がギュッと締め付けられる。
中西さんが時計を見る。
「帰らなくていいの?お母さんに怒られるよ」
「うん…」
中西さんには、もう俺を受け入れるつもりがないことが、身にしみて分かった。俺はゆっくりと立ち上がる。
「中に入れてくれて、ありがとう」
俺が言うと、中西さんが、黙ったまま俺を玄関まで見送ってくれる。
「こっちこそ、わざわざ報告に来てくれて、ありがとう」
中西さんが、優しい口調で言った。
「会いたかったから…」
「そっか…。気を付けて帰るんだよ」
「うん。お邪魔しました。ゆっくり休んでね」
「ありがとう」
そして、玄関の扉が閉じた。
って言うか、って言うかさ!
何だか物凄く腹が立ってきた俺は、ガチャン!と大きな音を立てて玄関の扉を開いた。そして、まだそこにいた中西さんと目が合った。
「な、何?」
驚きに目を見開く中西さんの体を押して、寝室へと連れ込むと、ベッドへと押し倒した。
「この、クソガキが!いい大人が、いつまでも意地張って、拗ねて、ふてくされて、マジで子供か!っつーの!!」
「…え?何?口が悪すぎ…」
言い掛ける中西さんの唇を俺は思いっ切り自分の唇で塞いだ。
「信じてたんだ。あの日、絶対に中西さんが助けてくれるって。きっと、何も言わなくても、分かってくれてるって。実際、教室に、前もって盗聴機、付けてたんでしょ?」
「また北山さんに聞いたの?」
「北山さんは、俺の裏の協力者だから」
「スパイみたいだね」
「あの日言ったこと、本当に後悔してる。ごめんなさい。あの時、俺もかなり動揺してたし、中西さんの気持ちも考えずに思わずキツイこと言ってしまって、反省もしてる。俺は、中西さん以外の人に触られると、鳥肌が立つし、気持ち悪くて吐きそうになるんだからな!俺の体をこんな風にしといて、別れるとか、絶対に許さないから!」
俺がキツイ口調で言うと、
「自信がないんだ…。君にはまだ未来がある。その未来を歳の離れた僕が奪っていいのかな、って。あの時に、そう思ったんだ」
「俺のこと、松島君とか、そういうこと言うのもガキくさ!って思うし、中西さんは、優しすぎるんだよ。もっと自分軸で物を考えてよ。俺のことは俺が決めるから。中西さんが、どうしたいのか、それを教えて欲しい」
「僕は…」
言いかけて、黙り込む中西さんに、
「俺は、中西さんとこの先も一緒にいたい。もう、明日からここに一緒に住みたいくらいだし、ずっとそばにいたい。もう離れたくない。その気持ちに変わりはないから…」
俺の涙が、中西さんの頬に落ちる。
「もう、あんな辛くて苦しい思いなんて、したくないよ…。会いたくてたまらなかった…」
言いながら、中西さんに抱き付いた。
「ごめん…」
中西さんが謝る。
俺の体が強張った。
やっぱり、もうダメなのかな…。別れる覚悟を決めるしか、道は残されてないのかもしれない…。
俺は体を起こし、中西さんから離れた。
「分かった…。俺の方こそ、勝手なこと言って、ごめんなさ…」
その体を勢い良く、抱き締められる。
「大人げないことして、ごめん。竜樹君に、全部言わせてごめん。本気で竜樹君のことが好きなんだ。考えないようにしてたけど、全然無理で。被災地に行って、いろんな人たちの話を聞いて、後悔したくないと思った。いつ、突然の別れが来るか分からないなら、好きな人には正直にならなきゃ…って。そう思ってたのに。会うと、どうしていいか分からなくなってしまって…」
俺を抱き締める腕に力がこもる。
「竜樹君を失いたくない。だけど…こんな僕なんかで、本当にいいの?」
「こんな僕じゃないと、俺は無理なんだよ…?中西さんのこと、もうどう証明していいか分からないくらい大好きでどうしようもなくて、ずっとずっとその顔を見ていたい…」
「竜樹…」
頭を抱えられ、唇を奪われる。その激しく熱いキスに、俺は興奮を覚えた。
「めちゃくちゃにしてよ…。離れてた時間も…埋めるくらい」
「そんなこと言うと、理性が飛ぶよ…?」
「飛んでよ…。俺、早く会いたくて、受験までの間、ものすごく頑張ったんだからな…」
俺は、中西さんの眼鏡を外した。中西さんは、スイッチが入ると、俺の名前を呼び捨てにする。そんなところも、すごく魅力的に感じた。
「竜樹…。俺ともう一度、やり直してくれる?」
「当たり前だろ…?そのために、会いに来たんだから…」
服を脱がされ、露になった肌に、中西さんが激しく吸い付く。お互いの息遣いが、激しくなる。
「竜樹、愛してる。もう、誰にも触れさせたくない」
囁きが、体の芯まで響き渡る。
いつも以上の激しい愛撫に、俺は感じるままに、身を委ねた。会えなかった時間を取り戻すかのように、お互いに我を忘れるくらい夢中になって、肌を重ね合わせた。

結局、あまりにも問題を起こしすぎてたこともあり、母からの許可が降りず、卒業式が終わるまで、中西さんと会うことも連絡を取り合うことも禁止されたまま、三ヶ月が過ぎた。俺は、あまりにも待ちきれなくて、卒業式を終えたその当日に、家を出ることを決めていた。
「あんまり迷惑かけちゃダメよ?たまには家にも帰ってきなさいね」
「分かってるよ」
母に見送られながら、荷物を抱えて家を出る。息が弾む。そして、これからの生活を思って、つい顔がニヤけてしまう。

「おい、中西!顔がニヤけてるぞ」
北山が、中西の頭を書類で軽く小突く。
「すみません。大事な会議でしたね」
中西は言うが、顔がしまらない。
「中西さん、どうしたんですか?」
野口が北山に尋ねた。
「今日から、あの松島竜樹と一緒に住むらしい。あいつん家、姉貴しかいないから、弟が出来るみたいで嬉しいんだろ」
「ああ。あの妙に魅力的で綺麗な男の子とですか?まあ、あんな綺麗な子と毎日一緒にいられるとなると、何となく嬉しくなる気持ちも分かりますけど、いつも真面目で難しい顔ばかりしている中西さんのあんな顔、初めて見ましたよ」
野口が呆れ気味に言った。
会議が終わり、中西は、そそくさと席を立った。
「じゃあ、お先に失礼します」
そう言って、中西は急いで会議室をあとにした。

「中西さん!」
三ヶ月ぶりの再会に心が弾む。好きな人と会う、このドキドキ感が、たまらなく心地いい。
「竜樹君!ごめん、待った?」
「ううん。俺も今来たところ」
中西さんが、黙ったまま、俺を見つめた。
「どうしたの?」
「いや…何か、前よりも、もっと綺麗になったね。その白いセーターも、すごく良く似合ってる」
中西さんの一言で、全身にカッと血が巡り、一気に自分の顔が赤くなったのが分かった。そして、中西さんの顔も赤い。
「合鍵作ってあるから、あとで渡すよ」
そして、懐かしいアパートに足を踏み入れ、荷物を玄関へと置く。
「中西さんが異動にならなくて、本当に良かった」
「まあ、毎年申請はしてるけど、なかなか希望通りにはいかないよ。これでもまだ若い方だし、コキ使いやすいから、簡単には手離してくれないだろうな、とは思ってる。でも、次年度からは『現状維持』で申請するつもりでいるよ。異動願の方は、北山さんが出さずにいてくれたみたいで…」
「北山さんて、いつも、助け船を出すかのように動いてくれて、なかなか粋なことするよね」
「そうだね。本当に、いつも何だかんだ言いながら助けてくれてるよね…。年も年だし、これからはもっと労って大事にするよ」
中西さんが笑い、肩が揺れる。俺もつられて笑った。
「俺が一緒に住んでも、迷惑じゃない?」
「迷惑な訳ないだろ。どんなに待ち遠しかったか…」
「俺も!」
俺は、中西さんの背中に、思いっ切り抱き付いた。
「卯月もね、志望校に受かったんだよ。教師にはなりたくないって、親にハッキリ意見も言えて、自分の行きたい大学に行けることになって、めちゃくちゃ喜んでた」
「そっか。良かった。卯月君とも、もう大丈夫みたいで、安心したよ」
「うん!中西さんのおかげだよ。俺、中西さんに会えなかった間、母さんに料理もいっぱい習って、結構うまくなったよ。中西さんに、毎日作ってあげるね」
「信じられないなぁ。竜樹君の料理も、かなりひどかったから…」
からかい交りに言って、笑う。しがみつく背中から、中西さんの声が響いてくることに、言いようのない幸せな気持ちが沸き上がってくる。
「今日もね、コーヒー買ってきたよ」
俺からの、誘いの合図。
「だから、そういうことを言われると、理性が…」
「中西さんは、俺としたくないの?俺はしたいよ?ずっとずっとしたかった。中西さんのこと、大好きだから…」
「竜樹…」
名前を呼び捨てにされ、中西さんのスイッチが入ったのが分かった。
中西さんが、俺へと向き合う。大きな手が、俺の頬を包んだ。俺は瞳を閉じて、中西さんの唇を待った。優しく訪れる口付け。
「ヤバいなぁ…。一回目は、長く持ちそうにない」
ギュッと俺を強く抱き締めながら、中西さんが耳元で囁く。
「いいよ…。何回でもして…。俺のこと、中西さんの好きにしていいから」
「そのセリフ、刺激が強すぎるよ」
中西さんは、俺を軽々と抱き抱えると、寝室へと運んだ。

「竜樹君、大学に行ったら、男子からも女子からもモテそうで心配だなぁ…」
結局、二人して興奮が収まらず、三度目の行為が終わったあとで、中西さんが「はぁ」と、ため息を吐きながら、天井を仰ぐ。
「中西さんこそ、女性の警察官とか事務の女子からすごく人気があって、モテてるって聞いてるよ」
「また竜樹君専属のスパイが、余計なこと言ってるの?」
「全部、断ってるみたいだ、って言ってたけど、やっぱりそう言う話を聞くと、すごくムカつく」
「スパイと縁を切ることを薦めるよ。北山さんから情報仕入れてると思うと、仕事中も気が抜けない」
「だって、心配なんだもん。中西さん、本当は告白とかされて、喜んでるんじゃないの?」
「もしかして、妬いてるの?」
声が嬉しそうだ。
「当たり前だろ…」
もう、俺の心の中も、体も、中西さん以外、受け入れることなんてできないんだから。
「大丈夫だよ。竜樹君以外の人なんて、考えられないから」
「…すんごい口説き文句」
嬉しい反面、聞いてて恥ずかしくなる。
「竜樹…」
俺へと体を向ける中西さんの顔を見上げると、すかさずキスをされた。熱い熱いキスだった。
「改めて、僕の恋人として、この先も、ずっと一緒にいて欲しい。大事にするから…」
まるで、プロポーズのような言葉に胸が打たれ、感動して目が潤んでしまう。
「絶対だよ?」
「うん。絶対」
そして俺たちは、笑い合った。
「ありがとう。大好き、中西さん…」
言いながら、俺は中西さんにしがみついた。
「俺さ、ちょっと考えてたんだけど…」
「何?」
「中西さんがもし、いつか本当に駐在所に勤務したくなったら、俺も付いていこうかな、って。そこの地元で幼稚園の先生やりながら、駐在所で一緒に住むって、どう?」
「…なるほど。それ、すごくいい案だね。のんびりした田舎で、近所の人たちに、野菜作りとか習ってたりしてさ。子供やお年寄りたちと気楽に談笑し合える環境で、二人で穏やかに過ごすのも、楽しそうだね」
「でしょ?今は今で幸せだけど、そういう未来もいいかな、って」
言いながら、俺が中西さんの目を見つめて笑うと、
「ありがとう、竜樹君」
中西さんが、目を細めて、優しく微笑んだ。
そして、もう一度、ゆっくりと唇を重ね合わせた。

中西さんのおかげで、俺は、幸せという、目に見えないものを身を持って感じ、知ることが出来た。そして、この先、何があったとしても、中西さんとだったら、きっと乗り越えて行ける。心から、そう思ったのだった。
(完)
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