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第2章 ADAGIO

op.08 おもちゃの交響曲(7)

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「アルフォンソ」


 不意に後ろから名前を呼ばれた。振り返って立っている青年の名前を呼ぶ。

「ヴィオ君」
「少しこっちへ来てくれ」

 突然の招きにキョトンとするが、リチェルも笑顔で促すので、アルは渋々立ち上がってヴィオの後をついていった。

 ヴィオがアルを連れて行ったのは、いつも借りていた練習室だった。ピアノの蓋を開けると、ヴィオが前に座る。

「今日お前が間違えたところだけど──」
「……っ」

 瞬間、息を呑んだ。

 ピアノの前に座ったヴィオが気負いする事もなく、アルのパートを淀みなく弾き始めたのだ。だが驚いたのはそれだけじゃない。

(何だろう。何か、違う……)

 決して、ヴィオの技量がアルに比べて抜きん出ていると言うわけではない。

 そもそもヴァイオリンがあれだけ天才的に弾けて、ピアノもこのレベルで弾けるって何なの⁉︎ という反発が出てくるのは致し方ないが、ヴィオの演奏はアルと違って上手いが、アルにとってはどこか物足りない気も──。
 
 軽い音を奏でて、ピアノの音が途切れる。ヴィオがアルの方を向いて。

「楽譜通りに弾いたんだ」

 そう、言った。

「前から聞きたかったんだが、お前この曲楽譜通りに弾いた事があるか?」
「え? そりゃ、楽譜通りに弾いてるけど……」

 答えながら少し後ろめたい気持ちが落ちる。アルの言い訳を流すわけでもなく、ヴィオがさらに言い添える。

「言っておくが、音符を間違いなく弾くという意味じゃない」

 ぐっと言葉に詰まった。
 分かっている。ヴィオが言っているのは楽譜に書かれた速度を表す記号や感情を表す記号の事だろう。もっと端的に言うならアレンジせずに、と言うことだ。

「……だろうな」

 ヴィオが小さく息をついた。

「お前の演奏は自由だし、だからこその魅力もある。実際独学とは思えないくらいの腕前だよ。だが基礎を完璧にする前に崩してるんだろうと以前から薄々思っていたんだ」
「あ、えっと……」

 思わず目を逸らしてしまうのは図星だからだ。

 自由に弾くのは楽しくて、楽譜通りに弾けと言われると窮屈に感じてしまうのは昔からだ。即興やアレンジは得意だったし、今まで不便に感じた事はなかった。
 だから楽譜はあくまでお手本くらいの感覚でいたのだ。

 もちろん、それが良くないことであることはある程度知ってはいる。

「緊張したらテンポが速くなることは舞台慣れしていないとまま起こりうることだし、今日の場合動揺していたからだと言うことも当然あるだろう。だけどもそれ以前に、基盤となる正確な演奏が確立していないのに気分で崩してるから演奏がブレたんだ」

 そこがしっかりしていれば、アルの技量なら今日も何とかしただろうと淡々とヴィオが口にする。

 ぐうの音も出ないとはこの事である。先ほどリチェルに慰められた傷が別の角度からぐりぐり抉られるようで、頬が引きつってるのが分かる。

「あの、ヴィオ君」

 何故それを、今、僕に?

 かすれた声で吐き出した言葉に、ヴィオはキョトンとしてアルを見た。

「何だ、間違えたから落ち込んでたんじゃないのか?」
「確かにそうなんだけど、それもあるんだけど……!」

 言っててアル自身にもよく分からなくなってきた。

 落ち込んでいたのは確かに失敗したからだ。だけど多分本質はリチェルが言ってくれた事で、家のいざこざが原因なのだろう。

「原因が分からないと対策のしようがないと思ったんだが」

 それはそうだ。
 ごもっとも。

 そしてヴィオの言ったことは、間違いなくアルの演奏の弱みをついている。つまりヴィオなりにアルのことを気にしてくれたと言うことだ。

 アルにだって、この青年がお人好しの部類に入ることは分かっている。
 何せ無計画に山を登ってぶっ倒れてた自分の世話を焼いてくれたわけだし。

 ただちょっと、容赦がないだけで。

「それもあるけど、一番の原因は多分、自分の中途半端さで……」

 分かってはいても、せめてもの抵抗で言い訳を口にしてしまう。
 その心の弱さを──。

「中途半端が嫌なら徹底的に練習するしかないだろう」

 ド正論で切り捨てられた。

「…………」

 思わず黙り込んだ。ここまでバッサリ切られるといっそ清々しい。

「ふ、はは……っ」

 ついで込み上げたのは笑いで、ピアノに座ったヴィオが呆然とするのも構わずアルは笑い出す。

 中途半端が嫌なら徹底的にやるしかない。
 そりゃそうだ。

 多分アルがずっと気持ち悪かったのは父に何も言わずに家を出てきたからだし、稼業のことも中途半端に置いてきたからだ。それが嫌なら、ちゃんと向き合うしかない。おっしゃる通りだ。

「……アルフォンソ?」

 笑い出した自分を怪訝そうに見てくるヴィオに、そうだね、と笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭ってアルは頷く。

「うん、そうだ。中途半端は、良くないよね」

 だったらきっと、自分は戻るべきなのだ。
 置いてきた事をきちんと片付けてから、ヴィオのように考えて、決めるべきなのだろう。

 そう考えると不思議なくらい、気持ちがストンと落ちる。

「まぁ、お前が納得したならそれで良いんだが……」

 よく分かっていないのだろうヴィオが、曖昧に頷く。
 それからピアノの椅子から立ち上がると、軽くアルに座るよう促した。

「で、正確に弾く練習はするのか?」
「え、今から?」

 忘れていた話題を掘り返されて慌てる。
 だがヴィオの顔は至って真面目だった。

「師事している先生はいないんだろう。基礎練でいいなら見られると思うが?」
「いや、そうなんだけど~……」

 何だか少し嫌な予感がして、アルはじり、と半歩下がる。
 納得したらお腹も空いてきたし、部屋に並んでいた軽食もちょっと食べたかったりする。

「……僕、正確に弾くの、苦手で」
「知ってる。だからだろ」

 これはヴィオの善意だ。
 断るのははばかられる。
 それに何だか、逃げ場もないような……。

「……じゃあ、ちょっとだけ」
「あぁ」

 そう言って椅子に座ったのが、運のツキだったと後にアルは思い返す。
 練習を終えたアルは、ヴィオに対してポツリと呟くことになる。

「ヴィオ君って、学校で鬼とか悪魔とか言われた事ない?」











「楽しかったね」
「ね~!」

 日も傾き夜も更けてきたが、祭りはまだ続いていた。村長曰く今日は遅くまで火を焚いて祭りを続けるらしい。

 リートもリリコもまだ遊び足りないようだったが、あくびを噛み殺し始めたのを見てリチェルと一緒に家に帰ってきていた。
 寝巻きに着替えると、思い出したように二人は今日の事を和気あいあいと話している。

「じゃあ二人ともゆっくり休んでね」

 リチェルが部屋を立ち去ろうとすると、リチェル姉ちゃんと幼い声が呼び止めた。

 振り返ると、リートがこっちを見ていた。じっと見ている瞳には少し不安が揺れていて、どうしたの? とリチェルはそばによって問いかける。

「ううん、何でも」
「どうしたのリート? 寂しくなっちゃった?」
「違うよ!」

 リリコの言葉にリートが弾かれたように反発する。

「リート君?」

 だけどリリコの言うことはあながち間違いじゃなくて、リートはもごもごと口を動かしながらベッドの脇にしゃがみ込んだリチェルをそっと見た。

「あの、今日、ぼく上手だった?」
「えぇ。とっても。二人ともとっても素敵な歌声だったわ」

 実際その通りだった。
 慣れ親しんだ村の人の前だったからと言うのを差し置いても、練習通りに歌えていたのはすごいことだと思う。でしょ! とリリコがパッと笑う。

「でもこんなに上手に歌えたんだから、やっぱりお母さんにも聴いて欲しかったわ」
「今度お母さんが帰ってきた時に聴かせてあげましょう」

 リリコの髪を手ですいて撫でると、リリコがくすぐったそうに笑う。だけどリートの表情は浮かないままで、そっとリチェルの服の袖を握りしめる。

「リート君?」
「……リチェル姉ちゃんは、お母さんが帰ってくるまで一緒にいられないんだよね」

 ハッとした。
 リートの表情は何かを我慢しているようで、驚いたリチェルの瞳をやっぱり、と言うように見返した。

 リートは聡い子だ。
 きっとヴィオが収穫祭の依頼のために残っていたことも分かっている。先程から浮かない顔をしていたのは、リチェル達が出ていく日の事を考えていたのだろう。

「それは仕方ないじゃない。リチェルお姉ちゃんだっていつまでも村にいる訳にはいかないもの」

 リリコが口をとがらせる。
 うん、と小さく頷いたリートにリチェルは何と答えていいか分からなかった。

「わかってる」

 ぎゅっと袖を掴む力が強くなる。
 どうして良いか分からなかったけれども振り解くことなんて出来るはずもなくて、リチェルはそっとリートを抱き寄せた。

 ごめんなさい、と言う言葉が喉元まで出てきて、だけどそれを口にすることはもっと残酷な気がして口をつぐむ。

「こら、リート。泣かないの!」
「泣いてないよ!」

 リリコの声にリートが反発した。
 リートとリリコの態度はお互いの不足を補っているようだ。

 リートが不安そうなのを察してか、リリコはあえて気丈に振る舞っているようにも見える。
 だけど心細さは変わらないのだろう。
 もう、と口を尖らせながらもベッドから降りてピトリとリチェルにくっついた。

「リチェルお姉ちゃん」
「なぁに?」
「ずっと一緒にいてくれてありがと」

 それは強がりのリリコが見せた精一杯の感謝だった。
 うん、と頷いてリリコの事も抱き寄せる。リリコは嫌がらなかった。

 二人とも多分ちゃんと分かっているのだ。
 そろそろお別れしないといけない事を。
 ずっと気持ちが張り詰めていたからリートの方が先に悲しくなっただけで、きっとリリコも今我慢しているのだろう。

 ゆらゆらと、心が動く。
 
 やっぱり自分だけでもこの村に残った方がいいのではないだろうか。
 だけどその選択は考えるとチリチリと胸を焼いた。だってそれはヴィオと離れると言う事だから。
 
「二人とも、今日は本当におつかれさま」

 抱き寄せた手に力を込めて、リチェルは出来る限り平静を保って続ける。

「二人のことはガスパロさんやヴィオが話してくれてるから、明日またお話しするわね」

 心はまだ迷ったままで、だけどそれを見せてはいけないと穏やかに笑って、リチェルは二人をベッドに促した。

「ゆっくり休んで。おやすみなさい」

 そう告げると、二人はかすかに笑って『おやすみなさい』と返してくれた。





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