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70貴方を想う
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曲が始まるやいなや、ハヤセは音楽に身を委ねていた。そして心はアルベールに夢中なまま。いっさいの不安も、悩みも考えることはしなかった。
豊かな楽器の音を聴く。すとんと心に落ちてくるような温和な調べ。雰囲気に馴染み過ぎて、見事な演奏に釘付けになる人々もいた。
「イザベルと茶会をしたんだって?あちらの様子はどうだった?」
「元気にしていたよ。旦那さんの仕事が増えすぎだから減らしてくれって、イザベルから貴方へ」
「はっ。それは難しい要求だな。デイナイン家の力は頼りにしているんでね」
揺れ動くドレスと、傷んだ軍服。不釣り合いな二つの色がくるくると左右を回る。容易そうに位置取りを変えて、人の行く手を避けながら、弧を描く。自分たちだけの世界を表していく。
「ねぇアルベール。冬の北方地域はどうだった?」
「ああ死ぬほど寒かった。馬も兵士も火が無いと動けないくらいの極寒でな。野生の動物はみんな凍ってしまっていたんだ」
「珍しい動物はいた?」
「人の腕よりでかい角を持った馬がいたよ。連れて帰ろうと思ったんだけどさ、そいつも凍りやがった」
「あはははっ、凍ってばかりだね」
彼らは話した。踊りの作法は身に沁みついているから、もはや反射的に手足が動く。あまった口は何よりも愛しい相手との会話に集中ができた。
「生肉の調理方法が独特だったなぁ。あっちでは煙で蒸して焼くのが普通なんだって、信じられないだろう」
「それでおいしくなるの?お肉ってすぐ腐っちゃうし、味が煙臭くなりそうだけど」
「ところがだ。目が飛び出るほど旨かったんだから、本気で帝都に店を誘致しようと思ったぐらいさ。まぁその店は雪に埋もれて潰れたんだけどな」
「ぶっ!!あはははっ!!嘘でしょう、最後のは絶対に嘘だよ」
脚がよろついてもアルベールが抱きとめてくれる。ハヤセは自分の身を絶対に支えてくれる人がそばにいて、心の底から気を抜くことができていた。
「この日のために踊りは練習していたのか?」
「ちょっとだけ。でも音に合わせるのは数年ぶりかな」
「上手だよ。正直もっと踊れないのかと思ってた」
衆目が関心を集めるほど優雅に、空を舞うように踊る。すべては女官時代の賜物だ。
磨き上げてきた技術で、舞踏に集う者へ神髄を見せつける。演奏者たちが驚嘆の表情をさらすと同時に、間奏が一度挟まった。踊りもぴたりとそこで止める。他者との間合いを確かめるために必要なことだった。
「終わりたくない」
ハヤセは本音を呟いていた。この熱狂も、愉悦も夜に溶けていってしまわないか。それが怖かった。
「いやまだ曲を終わらせやしない」
「どうやって。もうじきこれも終わっちゃうのに」
「任せろ。次期皇帝の権限を使って、俺が演奏者を買収すればいけるぞ」
ハヤセは相手の冗談に再び噴き出してしまった。大げさすぎるぐらいに、延々と笑いに引き込まれる。彼はこの上ない幸福感に満たされていた。幸せで現実と虚構の境がわからなくなるくらい。この状況が夢だろうかと錯覚してしまうほど。
「夢みたい」
「いや夢なんかじゃない。俺たちはここでちゃんと生きている」
なんという夜だろう。終わってほしくないのに、次へ進みたい。夢ならもう醒めて。これ以上は期待させないでほしい。これほど快い生き方があっただろうか。身の回りのものが、見えている景色が今日はどれもこれも綺麗に際立っている。
「アルベール。僕に手を差し伸べてくれてありがとう」
「水臭いな、いいよ気にしなくていい」
「ここでの居場所を作ってくれて。本当にありがとう」
山のような感情が埋もれないように、慎重に言葉を紡いでいく。踊り出す前に口にすべきことがある。全部を伝えるべきだと気持ちがざわめく。
「僕のためにしてくれたこと。実は言葉にできないほど……嬉しかった。辛いことも苦しいことも一緒に分かち合ってくれると言ってくれた、貴方のやさしさに救われてた」
「……」
「僕に何ができるか、まだ全然わからない。でも一緒にいて。これからも一緒にいさせてほしい」
型どおりではない。書いた台本にはないし、作法にも合っていない。イザベルの助言にも無い、それでも構わなかった。ただハヤセはアルベールに想いを伝えたかった。
「ハヤセ」
「愛してる、アルベール。心の底から……僕は貴方を愛している」
じわじわ眼から出てくる涙。胸に下りてくる敬愛の気持ち。魂の底から出た本音が、ハヤセの涙腺をいっそう脆くしていく。
先までへらへらと笑っていたくせに、二人は顔を歪めながら目を合わせていた。青い瞳には大粒の涙が溜まっている。ハヤセの涙に誘われるように、アルベールもまた緩んだ目元を決壊させていった。
「なにを……、何をいまさら。俺もだよ!!俺もそうだって。ずっと、お前のことが愛しくて堪らなかったんだよ」
その場は演奏や踊りどころではなくなった。皇太子妃の修羅場かと周囲は心配したが、それは彼らの姿を見れば杞憂だとわかるだろう。
幸せに包まれていた。両者の泣き顔には一点の曇りもない。全てがこの瞬間のための前座だったように。周りからは物音が消えて、あらゆる注目と感覚が、二人の先に向かっていた。
「ふふっ。ひどい顔」
「お前もだろっ……ぐすっ」
抱擁して、熱い涙を重ねる。キスの味がいつもよりも塩辛かった。
熱に浮かされて、ハヤセは愛しい人に身を委ねた。この浮遊感がずっと続けばいいのに。彼は切なげに「ありがとう」と小さくもう一度だけ呟いた。
豊かな楽器の音を聴く。すとんと心に落ちてくるような温和な調べ。雰囲気に馴染み過ぎて、見事な演奏に釘付けになる人々もいた。
「イザベルと茶会をしたんだって?あちらの様子はどうだった?」
「元気にしていたよ。旦那さんの仕事が増えすぎだから減らしてくれって、イザベルから貴方へ」
「はっ。それは難しい要求だな。デイナイン家の力は頼りにしているんでね」
揺れ動くドレスと、傷んだ軍服。不釣り合いな二つの色がくるくると左右を回る。容易そうに位置取りを変えて、人の行く手を避けながら、弧を描く。自分たちだけの世界を表していく。
「ねぇアルベール。冬の北方地域はどうだった?」
「ああ死ぬほど寒かった。馬も兵士も火が無いと動けないくらいの極寒でな。野生の動物はみんな凍ってしまっていたんだ」
「珍しい動物はいた?」
「人の腕よりでかい角を持った馬がいたよ。連れて帰ろうと思ったんだけどさ、そいつも凍りやがった」
「あはははっ、凍ってばかりだね」
彼らは話した。踊りの作法は身に沁みついているから、もはや反射的に手足が動く。あまった口は何よりも愛しい相手との会話に集中ができた。
「生肉の調理方法が独特だったなぁ。あっちでは煙で蒸して焼くのが普通なんだって、信じられないだろう」
「それでおいしくなるの?お肉ってすぐ腐っちゃうし、味が煙臭くなりそうだけど」
「ところがだ。目が飛び出るほど旨かったんだから、本気で帝都に店を誘致しようと思ったぐらいさ。まぁその店は雪に埋もれて潰れたんだけどな」
「ぶっ!!あはははっ!!嘘でしょう、最後のは絶対に嘘だよ」
脚がよろついてもアルベールが抱きとめてくれる。ハヤセは自分の身を絶対に支えてくれる人がそばにいて、心の底から気を抜くことができていた。
「この日のために踊りは練習していたのか?」
「ちょっとだけ。でも音に合わせるのは数年ぶりかな」
「上手だよ。正直もっと踊れないのかと思ってた」
衆目が関心を集めるほど優雅に、空を舞うように踊る。すべては女官時代の賜物だ。
磨き上げてきた技術で、舞踏に集う者へ神髄を見せつける。演奏者たちが驚嘆の表情をさらすと同時に、間奏が一度挟まった。踊りもぴたりとそこで止める。他者との間合いを確かめるために必要なことだった。
「終わりたくない」
ハヤセは本音を呟いていた。この熱狂も、愉悦も夜に溶けていってしまわないか。それが怖かった。
「いやまだ曲を終わらせやしない」
「どうやって。もうじきこれも終わっちゃうのに」
「任せろ。次期皇帝の権限を使って、俺が演奏者を買収すればいけるぞ」
ハヤセは相手の冗談に再び噴き出してしまった。大げさすぎるぐらいに、延々と笑いに引き込まれる。彼はこの上ない幸福感に満たされていた。幸せで現実と虚構の境がわからなくなるくらい。この状況が夢だろうかと錯覚してしまうほど。
「夢みたい」
「いや夢なんかじゃない。俺たちはここでちゃんと生きている」
なんという夜だろう。終わってほしくないのに、次へ進みたい。夢ならもう醒めて。これ以上は期待させないでほしい。これほど快い生き方があっただろうか。身の回りのものが、見えている景色が今日はどれもこれも綺麗に際立っている。
「アルベール。僕に手を差し伸べてくれてありがとう」
「水臭いな、いいよ気にしなくていい」
「ここでの居場所を作ってくれて。本当にありがとう」
山のような感情が埋もれないように、慎重に言葉を紡いでいく。踊り出す前に口にすべきことがある。全部を伝えるべきだと気持ちがざわめく。
「僕のためにしてくれたこと。実は言葉にできないほど……嬉しかった。辛いことも苦しいことも一緒に分かち合ってくれると言ってくれた、貴方のやさしさに救われてた」
「……」
「僕に何ができるか、まだ全然わからない。でも一緒にいて。これからも一緒にいさせてほしい」
型どおりではない。書いた台本にはないし、作法にも合っていない。イザベルの助言にも無い、それでも構わなかった。ただハヤセはアルベールに想いを伝えたかった。
「ハヤセ」
「愛してる、アルベール。心の底から……僕は貴方を愛している」
じわじわ眼から出てくる涙。胸に下りてくる敬愛の気持ち。魂の底から出た本音が、ハヤセの涙腺をいっそう脆くしていく。
先までへらへらと笑っていたくせに、二人は顔を歪めながら目を合わせていた。青い瞳には大粒の涙が溜まっている。ハヤセの涙に誘われるように、アルベールもまた緩んだ目元を決壊させていった。
「なにを……、何をいまさら。俺もだよ!!俺もそうだって。ずっと、お前のことが愛しくて堪らなかったんだよ」
その場は演奏や踊りどころではなくなった。皇太子妃の修羅場かと周囲は心配したが、それは彼らの姿を見れば杞憂だとわかるだろう。
幸せに包まれていた。両者の泣き顔には一点の曇りもない。全てがこの瞬間のための前座だったように。周りからは物音が消えて、あらゆる注目と感覚が、二人の先に向かっていた。
「ふふっ。ひどい顔」
「お前もだろっ……ぐすっ」
抱擁して、熱い涙を重ねる。キスの味がいつもよりも塩辛かった。
熱に浮かされて、ハヤセは愛しい人に身を委ねた。この浮遊感がずっと続けばいいのに。彼は切なげに「ありがとう」と小さくもう一度だけ呟いた。
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