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67甘くない世②
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「皇太子にちゃんと好意を伝えたい?」
「うん。なので助言をもらいたくて呼びました」
茶色の長毛をふわふわと揺らしながら、気品のある雅な仕草で茶器を手に取る。絵になるほどの品性がその女性からは漂っていた。
「それで私に相談しようとしたの?またずいぶんと拍子抜けなことで悩んでいるのね」
「う。イザベルの意見がほしかったんだよ」
そよそよと風が吹く。エイナ宮の外庭。紅茶の香りと草花の匂いがちょうどよく混ざり合う。俗世とは切り離された、静寂の世界が傷んだ心さえ洗うかのようであった。
皇太子妃とその従者たち。イザベル・デイナイン公爵夫人の一行を招いた茶会は、和気藹々とした雰囲気の真っただ中にあった。
満開の木々と花々を愛でながら。たまに茶を淹れたり、鳥の鳴き声に耳を傾けながらの世間話に気持ちは弾んでいく。ハヤセは手近のクッキーをひと口つまんだ。
「素直になればいいだけじゃない。あなたたち夫婦でしょ?」
「アルベールの期待に応えられる伝え方をしたいんだ。どうしたらいい?」
「知らないわよ。好きですって口に出すだけでしょう」
「そ……、そうなんだけど」
美神の粋に達するほど洗練された妃の困り顔。その黒髪は肩に届かない長さまで切りそろえられてから、より凛々しさと甘美さが増したようであった。
空の色はしっとりと淡い。
おいしい空気が肺を埋め尽くしていく。コソコソと悩みを打ち明けようとする妃が、その必死の表情で幼馴染の女性に語りかける。この平和な一枚絵をどこに飾ろうか、侍女たちは和やかな世界に感謝を告げたい思いだった。
「言わないと始まらないものよ、何事も」
「わかってる。だけど色々と余計なことを考えちゃうんだ」
ズズズと音を立てながら茶をはしたなく飲んでいることを、ハヤセは気づきさえしない。年下の身内を眺めるような気持ちでイザベルは柔和に微笑んだ。まるでハヤセが本当の姉弟の関係みたく思えたのである。
「しゃんとなさい。あっちはハヤセにぞっこんなんだから、私の完璧な作戦通りグイグイ行けばいいだけなの。いつも通りよ」
「うん……うん」
「もう、二人して奥手すぎてじれったいわ。あなたの侍女が可哀そうになってくる」
どうしてここで侍女の話にあがるのかと、ハヤセは首を傾げた。構わずに、イザベルは向かいに立つ侍女たちに目配せを送り続けた。
侍女イヴ・ハーツの姿を見かけると互いに頷き合う。イザベルと侍女だけが知っている二人だけの秘密、それを目の合図だけで確認したのだった。
「イザベル?」
「ねぇハヤセ、ここまで大恋愛を乗り越えてきたじゃない。もう縮こまる必要はないのよ?」
「……」
「『愛さえあれば何もいらなかった』、なんて素敵な言葉なのかしら」
イザベルがわざとそうに発する。
それはハヤセが1年前に、イザベルに宛てて書いた手紙の文言であった。アルベールから受けた愛に対して、イザベルに包み隠さず身の内を晒したわけである。
過去の自分の本音を、侍女たちの面前でいきなり読み上げられて、聞き手は恥ずかしさで堪らなくなった。
「な、なんで!!言わないでよ恥ずかしい!!」
「あははっ、でもいいじゃない。綺麗だもの。愛を利用しようとしたあなたが、逆に皇太子の愛情で絆されちゃうなんて」
ぐうの音も出ないハヤセは黙って俯くしかなかった。侍女たちは何が何だかわからなかったが、主人のただならぬ焦りをくまなく窺う。
イザベルはしみじみとハヤセを見て、少しだけ彼の生き様に羨望を滲ませていた。
何もかもかなぐり捨てて、その代わりに強烈な愛のためだけに生きる。こんな風になりたいと彼女自身が幼い頃に望んでいた。それを今まさに幼馴染が体現しているのだから人の世とはわからないものである。
「罪と罰。この世に生まれ落ちた罪と、情愛を受け入れた罰ね……。アルベールはちゃあんと文芸も手堅く抑えているのだからさすがだわ」
「なにそれ」
「ハヤセは知らないの?愛に傾倒して狂っていくダメ男と姫君のお話よ。ロマンスと見せかけたドロドロの奴。アルベールがそう喋っていたって、あなたが手紙で書いていたじゃない」
アルベールが発する言葉の意味。それだってハヤセには、まだまだわからないことだらけだった。
どんな風に自分を想ってくれているか。枕の上で囁いてくれる愛情の深さも、やさしい手つきの感覚さえまだ十分に理解することはできていない。すべてを知ろうとすればするほど相手への気持ちは高まっていく。それが頭の中で蔓延して、ひどくもどかしかった。
幼馴染の男女は互いに身を近づけていった。誰の耳も入れないような距離の近さで、他の人が情報を盗むのを阻止するかのように装いながら。かすれるほどの小さな声を掛け合っていく。
「今日は特別にあらすじを教えてあげるけど。あなたも小説を読みなさいよ?アルベールの伴侶なら絶対に欠かせない教養だからね。あっこれが今日の相談への助言だからね」
「あ、ありがとうイザベル。じゃあ僕の方も、お礼においしいスイーツの作り方を教えてあげるから楽しみにしてて」
「…………もしかして私が料理作るの下手だってバレてる?」
薄桃色の花びらが舞った。ぶわりと風にのった可憐な花吹雪が、青々しい地平線をようようと踊る。祝いの日でもなんでもない。
なのに人々の視界には覆い尽くさんばかりの大地の恵みが降り注いでいた。順風満帆とは言い難い、でも確かに時間は穏やかに進み続けている。ハヤセにとって最高の日だった。
「うん。なので助言をもらいたくて呼びました」
茶色の長毛をふわふわと揺らしながら、気品のある雅な仕草で茶器を手に取る。絵になるほどの品性がその女性からは漂っていた。
「それで私に相談しようとしたの?またずいぶんと拍子抜けなことで悩んでいるのね」
「う。イザベルの意見がほしかったんだよ」
そよそよと風が吹く。エイナ宮の外庭。紅茶の香りと草花の匂いがちょうどよく混ざり合う。俗世とは切り離された、静寂の世界が傷んだ心さえ洗うかのようであった。
皇太子妃とその従者たち。イザベル・デイナイン公爵夫人の一行を招いた茶会は、和気藹々とした雰囲気の真っただ中にあった。
満開の木々と花々を愛でながら。たまに茶を淹れたり、鳥の鳴き声に耳を傾けながらの世間話に気持ちは弾んでいく。ハヤセは手近のクッキーをひと口つまんだ。
「素直になればいいだけじゃない。あなたたち夫婦でしょ?」
「アルベールの期待に応えられる伝え方をしたいんだ。どうしたらいい?」
「知らないわよ。好きですって口に出すだけでしょう」
「そ……、そうなんだけど」
美神の粋に達するほど洗練された妃の困り顔。その黒髪は肩に届かない長さまで切りそろえられてから、より凛々しさと甘美さが増したようであった。
空の色はしっとりと淡い。
おいしい空気が肺を埋め尽くしていく。コソコソと悩みを打ち明けようとする妃が、その必死の表情で幼馴染の女性に語りかける。この平和な一枚絵をどこに飾ろうか、侍女たちは和やかな世界に感謝を告げたい思いだった。
「言わないと始まらないものよ、何事も」
「わかってる。だけど色々と余計なことを考えちゃうんだ」
ズズズと音を立てながら茶をはしたなく飲んでいることを、ハヤセは気づきさえしない。年下の身内を眺めるような気持ちでイザベルは柔和に微笑んだ。まるでハヤセが本当の姉弟の関係みたく思えたのである。
「しゃんとなさい。あっちはハヤセにぞっこんなんだから、私の完璧な作戦通りグイグイ行けばいいだけなの。いつも通りよ」
「うん……うん」
「もう、二人して奥手すぎてじれったいわ。あなたの侍女が可哀そうになってくる」
どうしてここで侍女の話にあがるのかと、ハヤセは首を傾げた。構わずに、イザベルは向かいに立つ侍女たちに目配せを送り続けた。
侍女イヴ・ハーツの姿を見かけると互いに頷き合う。イザベルと侍女だけが知っている二人だけの秘密、それを目の合図だけで確認したのだった。
「イザベル?」
「ねぇハヤセ、ここまで大恋愛を乗り越えてきたじゃない。もう縮こまる必要はないのよ?」
「……」
「『愛さえあれば何もいらなかった』、なんて素敵な言葉なのかしら」
イザベルがわざとそうに発する。
それはハヤセが1年前に、イザベルに宛てて書いた手紙の文言であった。アルベールから受けた愛に対して、イザベルに包み隠さず身の内を晒したわけである。
過去の自分の本音を、侍女たちの面前でいきなり読み上げられて、聞き手は恥ずかしさで堪らなくなった。
「な、なんで!!言わないでよ恥ずかしい!!」
「あははっ、でもいいじゃない。綺麗だもの。愛を利用しようとしたあなたが、逆に皇太子の愛情で絆されちゃうなんて」
ぐうの音も出ないハヤセは黙って俯くしかなかった。侍女たちは何が何だかわからなかったが、主人のただならぬ焦りをくまなく窺う。
イザベルはしみじみとハヤセを見て、少しだけ彼の生き様に羨望を滲ませていた。
何もかもかなぐり捨てて、その代わりに強烈な愛のためだけに生きる。こんな風になりたいと彼女自身が幼い頃に望んでいた。それを今まさに幼馴染が体現しているのだから人の世とはわからないものである。
「罪と罰。この世に生まれ落ちた罪と、情愛を受け入れた罰ね……。アルベールはちゃあんと文芸も手堅く抑えているのだからさすがだわ」
「なにそれ」
「ハヤセは知らないの?愛に傾倒して狂っていくダメ男と姫君のお話よ。ロマンスと見せかけたドロドロの奴。アルベールがそう喋っていたって、あなたが手紙で書いていたじゃない」
アルベールが発する言葉の意味。それだってハヤセには、まだまだわからないことだらけだった。
どんな風に自分を想ってくれているか。枕の上で囁いてくれる愛情の深さも、やさしい手つきの感覚さえまだ十分に理解することはできていない。すべてを知ろうとすればするほど相手への気持ちは高まっていく。それが頭の中で蔓延して、ひどくもどかしかった。
幼馴染の男女は互いに身を近づけていった。誰の耳も入れないような距離の近さで、他の人が情報を盗むのを阻止するかのように装いながら。かすれるほどの小さな声を掛け合っていく。
「今日は特別にあらすじを教えてあげるけど。あなたも小説を読みなさいよ?アルベールの伴侶なら絶対に欠かせない教養だからね。あっこれが今日の相談への助言だからね」
「あ、ありがとうイザベル。じゃあ僕の方も、お礼においしいスイーツの作り方を教えてあげるから楽しみにしてて」
「…………もしかして私が料理作るの下手だってバレてる?」
薄桃色の花びらが舞った。ぶわりと風にのった可憐な花吹雪が、青々しい地平線をようようと踊る。祝いの日でもなんでもない。
なのに人々の視界には覆い尽くさんばかりの大地の恵みが降り注いでいた。順風満帆とは言い難い、でも確かに時間は穏やかに進み続けている。ハヤセにとって最高の日だった。
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