跡取りはいずこへ~美人に育ってしまった侯爵令息の転身~

芽吹鹿

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 「めちゃくちゃにして」と、ハヤセはうわごとを発する。夢うつつのまま廃人に堕ちていく一歩手前、絶望が去来して久しい時のことだ。


 豪快に蹴破られた扉が、爆音をたてて部屋の奥まで破片を飛ばす。それらは原型も保てずにパラパラと部屋の床を散らしていった。


「ハヤセ!!」


 朽ちていく心の底にも染み入る声。鉄のように耳ざわりは固く、けれども伸びやかに地の底まで震わせる。重低音の男らしい、ハヤセがかつて憧れた声と同質のものだった。


「ぅ……っアルベール……」


 ハヤセの内に過剰な熱が湧き上がってくる。我が身を託し、縋るように想った相手が目の前にいる。まるで意思疎通で心が通じ合えたかのような。良くも悪くも、激烈なものを前にして悲しみや憂いが消えていく。


「わざわざ御自らお出でになったか」


「下郎が。今すぐハヤセから離れろ!!」


 嵐のように荒れ狂う声がする。どんな様子でいるか、弟の肉塊に阻まれたハヤセの視界では、遠くの人影までを見届けることができなかった。


 クリスは中腰となり、対立の調子を押し出していく。彼は甲斐甲斐しく貴人を見やっては、あまりに非現実なこの状況に心を高ぶらせていた。


「この廃嫡子はレイフィールドが引き取っていきますよ。俺の宿願も、父の悩みの種もこれで両方処理できるでしょうしね」


「く……うう……」


 ミシミシと骨の音が鳴った。
 ハヤセの右手の感覚が痛みと共にしだいに無くなっていく。切り離したくても強く掴まれ、もみくちゃに身体の動きを縛られる。


 クリスに力任せに押し潰されていく過程で、非力なハヤセの四肢は痛みに耐えることしかできなかった。


「レイフィールドの妻に、うん兄上はそれがいい。そうでなくては今まで頑張ってきた意味がない」


「聞き捨てならないな………。愛憎の獣め、我が妃の手を即刻離せ」


「正式な婚姻もまだなのに。よくもぬけぬけと、『我が妃』などと」


「狼藉の代償はわかっているんだろうな!!」


「そりゃあもう!!殿下にも同じセリフをお返ししますよ!!」


 闇雲に抱き起こされるハヤセを目の当たりにし、アルベールは武者震いが止まらなくなった。鬼気をまとう貴人の迫力は、侍女たちの足腰をわななかせた。一部は眩暈を覚えるほどの大事となる。


「ハヤセ」


「あっと!!殿下も女どもも、口をふさいでご覧あれ」


 ハヤセは真横から漂う獣臭さにふると顔を背けた。
 首に押し当てられるクリスの舌の感触は、この世のものでは言い表せないほどおぞましい。じんわりと水気がハヤセを侵食していく。肌を這うようにうごめくその光景に、誰もが目を覆いたくなった。


「貴様……」


 傾けた目線の先、幼馴染は互いに目と目を合わせた。クリスの凌辱に対して、アルベールの方はとっくに許容の限度を超えていた。


「姦通を犯して、この美しい顔を歪めるのはさぞ堪らなかったことでしょう。くくくっ最高に気持ちが良かったでしょうね」


「クソが」


「さぞ。さぞ背徳感があったでしょう。兄上を組み伏した時の感覚は?無上の喜びを感じましたか?」


 クリスの目論見通りなら、この挑発行為で標的は、まんまと我を忘れるはずであった。しかし目標のアルベールは怒りに惑わされることもない。ハヤセの首筋に据え置かれた銀剣に注意を向けつつ、冷静に場を把握していった。


「おい」


 何も動じない。なびく髪の金色が残像のように場をそよいでいく。間合いなど初めから無かったかのように、はっと気を許した時には、アルベールはハヤセらの傍らにひらりと舞い込んでいた。


「その片手の剣は飾りか?」


 剣と剣がぶつかり合いそうな距離。そこに至るのがわかってようやく、レイフィールドの方も剣裁きを意識する。しかしその緊張感はあまりに悠長が過ぎた。







 一閃が振り下ろされる、刹那。

 太刀筋。人の頭をめがけた剣は楕円の弧を描いて、ちょうどクリスの首元を捉えていく。鍛錬で幾度も繰り出された剣技は、室内で静寂すらも切り裂いていった。


 腹の奥が締め付けられるような空気を裂く音がする。鼻にこもる野獣の臭気、続いておどろおどろしい血みどろの匂い。ハヤセの身体にどんどん負荷がかかっていく。もたれかかるクリスの肉体は弱々しい呼気を打つばかりだ。


「はっ、あ……まって」


 どくんと心臓が動く。おちおち弟の顔を振り返ることもできない。見るまでもなく、じわりとハヤセの肩に垂れ落ちていく赤い液体が、その惨状を物語っていたからである。


「口ほどにもない!!」


「だめ、だめっ!!!!殺さないで!!」


 アルベールの剛腕が再び振られる手前にて、ハヤセは両者の取っ組み合いに割り入った。剣を握るアルベールの右腕に縋りついてさらなる攻撃を阻止しようとする。


「よせハヤセ!!なぜだ、ここで仕留めないと」


「いやだ!!!!もうたえられない、それだけはやめて!!」


 渦のように感情が巻いて、理性をどこかに置きやった。ぐちゃぐちゃな悲痛の叫びで訴えかけてくる。懸命に止めようとするハヤセの必死さに、アルベールは動揺を隠せなかった。


「人殺しになっちゃう……!!!!アルベールが人殺しになっちゃう!!」


 ハヤセはまるで子供のように泣いた。駄々っ子のような彼の泣き様は、今まさに獲物を殺さんとしている貴人の蛮行を抑えるため。麗しい人は幼馴染の行ないを看過できなかった。

「人殺し」。未来を嘱望される輝かしい皇太子にそんな不名誉な言葉は似合わないのだから。
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