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15抑揚
しおりを挟む「皇太子の妾を目指せ。ハヤセ」
妾、妄言でもそんな単語は出てこない。ついに父はとち狂ったのだとハヤセは耳を疑った。
それと同時に、自分の名前が初めて呼ばれたことに胸の血流が上がっていくのを感じた。
「ストロガノフの娘はまだ成人すらしていない。皇太子につけ入る隙は大いにあるというものだ」
「は、は……?」
「これを利用しない手はない」
これだけ父のオックスが至近距離でつらつらと話していても、ハヤセの頭はその言葉をはね返すようにしていた。相手が屈んでこちらに目を合わせてくると、反射的に歯を食いしばってしまう。
父は言う。幼馴染を篭絡せよ。妾を目指せ。ぐるぐると頭が回っていく。男を誘惑、それも友に対して。
この父の発言は、どれもこれも到底容認できることではない。まさに地獄みたいな生き様ではないかとハヤセは血の気が引く思いがした。
「やれよ?」
「い………」
「やれ。これ以上身近の人間を消されたくなければ、自分の使命として受け入れろ」
ハヤセが命を惜しまないと悟るや否や、オックスの脅しの標的は、外部の人間へと乗り移っていった。
「卑怯な脅迫を」とハヤセは叫びたかったが腹にも喉にも力が入らない。
家名を守り世間体を気にする反面、隣人を捨てることは厭わない。蛮勇な男とはよく言ったものだが、オックスのそうした人物評はあながち間違っていない。だからこそハヤセには違和感があった。皇太子を誑かしたとなればどんな身分の者でも、世間からは厳しい視線を向けられるであろう。
それは当事者のみならず家や一族にまで影響が出るに違いない。危険な綱渡りだ。家も、人も、何もかもがめちゃくちゃになってしまいかねない。いつもならとことん外聞にかぶりつく父の様子がおかしい。
ここまで父らしからぬ博打もないではないか。
「できる、はずが」
ハヤセがおずおずと口を開けると、かすれ声が虚空を飛んでいく。何にせよハヤセは反論の気持ちを前に押し出した。どう考えても男の自分が皇太子を誘惑するなど無理である。それをどうしても父に伝えなければならない。
「今日の広間での立ち回りではっきりしたが、あの皇太子は貴様に、ハヤセ・レイフィールドに相当惚れこんでいるぞ」
オックスの恐ろしい発言にハヤセは絶句した。見ていたのか。いやそれは二の次である。あの場の皇太子の抱擁を、相手は勘違いしている。あれは幼馴染との再会であれば自然な成り行きであった、はずだ。
再会の抱擁などいくらでもある。例えば皇太子だって、人との友情をそのように確かめ合うに決まっている。惚れたなんて論外だ。訂正しなければマズい。
「あの、それは」
ハヤセは焦り、我を忘れていた。だが、その感情もオックスによって封殺された。オックスは勢いよくハヤセの両手を掴み、わしわしと腕を振る。
まるで友好を見せつけるかのように。さっきまで殴る蹴ると無茶苦茶だった男の挙動の変化に、ハヤセは萎縮した。ズキズキと胸が、背中が痛む。
その握手の意味だって、到底知りたくもない。
「この機会を逃すわけにはいかんのだ。ハヤセの力を貸してくれ」
頼りにしている。そんな父の嘘偽りの台詞を聞くだけで憎悪が湧いてくる。
~~~~~
夜。華麗な装飾をふんだんにあしらった広間には寝静まったような沈黙が流れ続けている。無人では音も立たぬというが、宮外にわずかに意識を飛ばしてみると、実に多様な音が聞こえてくる。
男たちの咆哮。何かがぶつかり合う鈍い響き。金属を叩きつける間延びした高音。
帝国宰相オズモンド・カンテの采配はまったく裏目に出たといえる。才知と実務能力を買われ、若くして皇家を支える大黒柱となった彼は、なにぶん非常事態への備えが足りていなかった。予想外の事態に適切な処理をする、そんな厳正な判断を見誤った。
具体的には、衛兵や武装した男たちを闇雲に外に送ったのが非常に悪手だった。初めこそ皇太子の姿を求めて蠢いていた民衆だったが、それも日が暮れた辺りで様子が変わってきた。
衛兵が出しゃばったらそれだけ民衆も暴走を始めたのだ。抑圧に対して人々は敏感だった。情熱に水を差されたことで、民衆は収拾のつかない暴徒集団に変貌してしまったのだから、手のつけようがない。武装した帝国の役人と、丸腰の一般人という構図からは想像ができないほどじりじりとした競り合いでなおも膠着している。
このどうにもいかない窮状をオズモンドは、皇太子に報告した。皇太子もずっと広間に残って、外の様子を度々近侍のものに訊ねていた。
純朴な民をここまで連れてきてしまったと、貴人は自責の念を浮かべている。慈悲深く下々のことまで思いやれる奇特な御人だと、オズモンドはそのことに深く感銘を受けることだった。
「記念式は、延期としよう」
御前に行くより前から、こちらの意を汲んだかのように皇太子が喋りだした。外の状況から全てを察したのだろう。
皇太子の顔は重々しく、しかし堂々とした振る舞いは昼から変わらずであった。
「貴族たちには悪いことをしてしまったな」
「ええ。誠に」
「今夜は外があれだ。出入りは引き続き禁止としようか」
オズモンドも苦渋の表情をした。貴族に割り当てた部屋は大小を問わないと言った、過去の自分を殴りつけたい気持ちであった。諸侯を半ば軟禁したとなれば非難は不可避であろう。
それに加えて悪辣なもてなしをしたとなれば、帝国の威信はさらに傷ついてしまう。
「責任は全てこの私にあります」
「オズモンド…………」
「廷臣は私の命令に正しくふさわしい行動を取ってくれました。罰するのであれば、どうかこの私のみをお裁きください」
気が早いかもしれないが、貴族たちがあることないこと主張する前にはっきりとしておかなくてはならない気がした。
守衛や侍従、女官の仕事ぶりは誉めてしかるべきだ。不足していたのは己の経験と判断力。皇太子の影響力をもっと考えて決断するべきであった。
「外の兵士を退かせよう」
ついに殿下から下知が降りてくる。何か敗北感のようなものが身に刻まれていく思いだが、それらを振り切って頭を下げた。
「貴族にはしかるべきもてなしと、適当な寝所に案内してやるんだ」
「では女官長に」
こちらがそう言い終える前に、殿下はなぜかそっぽを向いてしまった。どうしたのか、こちらが目線をちらと送っても応答がない。
その様子の奥では、皇太子付きの執事が妙に晴れやかな顔つきでいる。従者たちもだ。妙な和みの雰囲気。それにどういった意味があるのか。この奇妙な空気の間を宰相はただちに掌握することはできなかった。
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