スリーピングドール

フジキフジコ

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16.逃げない

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病室に向かう足取りが日に日に重くなる。

芳彦は、ドアの前で深く息を吸い込んだ。
このドアの先では、完璧な演技をしなくてはならない。
那智を不安にさせるような、悲しい顔を見せてはならなかった。

「那智、いる?」
ドアをノックして、声をかけながら中に入ると、隙間から無人のベッドが目に入った。

「那智?」
那智は壁際の小さなテーブルの上に雑誌を広げて、一心不乱にページを捲っていた。

「那智!どうしたの?」
最後までページを捲り終わると手で払い落とし、また別の雑誌をめくる。
その様子が普通ではなく、芳彦は背中から那智の両腕を拘束するように抱きしめた。

「那智、落ち着いて、ね?」
「…わかんねえ…んだよ。わかんね、んだっ!」
首を振って、芳彦の腕の中で那智は喘ぐように言った。

「自分のこと…わからなくなってる…。オレ、いつから…FakeLipsだったんだろう…、なんで…どうして、そうだったのか…わからない…」
身体を二つに折って、自由の利かない両手に頭を埋め自分の髪を引き抜きそうな力で引っ張る。

「那智、やめて」
「その雑誌に、ライブのこと、書いてある…、はじめての野外…雨が降って…大変だったけど、いい思い出になったって…それって、いつのことだよ、オレ、覚えてねえんだよっ!」

芳彦は自分の髪を掴む那智の手を必死で離した。
「那智!」
「芳彦…教えてくれよ、オレ、本当におまえたちと一緒に、その場所にいた?いたのか?!」

髪の代わりに掴ませた芳彦の手首に、那智の爪が食い込んで血が滲んだ。
芳彦は歯を食いしばって痛みに耐える。
暴れることを諦めたのか、那智は弱く首を振りながら全身から力を抜いて、床の上に崩れるように座り込んだ。

「てのひらから水がこぼれるみたいにさ、汲んでも汲んでもなんにも残らねえんだよ。オレの中、カラッポになってくよ」
「那智……」

もう、いいんだ。
そう言ってやりたい気持ちを、芳彦はこらえた。
もう、頑張らなくてもいい。
全部忘れてもいい。
それで君が、苦しまなくてすむなら。
思うだけで言葉には出来ない。
そんな思いやりが、那智にとって見当違いだとわかっているから。

ごめん、那智。
上手に演技が出来なくて、ごめん。
君の前でいつも泣くことしか出来なくてごめん。

「なにも…僕には、なにも出来ないね」
那智の前で膝を折って、芳彦は顔を覆って泣いた。

あの時だって、本当は自分に出来ることはあったはずだ。
那智が、義父から暴力を受けていることを知っていたのに、なにも出来なかった。

樫野に責められてから、ずっと芳彦は過去を後悔していた。
自分には那智を救うチャンスはあったのに。
出来なかったんじゃない、しなかった、だけだ。



「芳彦…」
目の前で悔しそうに嗚咽を漏らす芳彦に驚いて、那智は少しづつ落ち着きを取り戻した。

花沢芳彦。
自分のために泣いてくれる、彼の名前を知っている。
一緒に多くの時を過ごした仲間。
まだ、なにもかもなくしたわけじゃない。
一番大切なものが、この手の中に、残っている。

「芳彦、そんなこと、ない。悪かったオレ、取り乱したりして」
顔を覆っている芳彦の指を、そっとはがしながら那智は言った。
芳彦の手首の血に気づいてはっとする。

「これ、ごめん」
どうしていいかわからなくて、那智は慌てて芳彦の手首の血を自分の手で拭った。

「那智…あの、それはちょっと痛いんだけど」
「え…あ、ゴメン」
お互いに濡れた瞳があって、照れたように二人は笑った。

「芳彦、話してくれないか。オレたち、どこで出会って、どうして一緒に踊ることになったんだ」
「那智…」

那智の言葉に、芳彦は気づいた。
そうだ、那智が忘れたことも自分は覚えている。
鮮明に鮮烈に、自分の中にある。
それを、那智に話してやることが出来る。

「はじめて、那智が踊っているのを見たのは、近所の児童公園だった」

塾の帰り道。
その公園は、夜でも明るい都心の大きな公園ではなく、日中でさえ、あまり人の寄りつかなさそうな、高い木々が鬱蒼と周囲を囲む、小さな公園だった。
パチパチと音を立てる古い街灯の下で、一人、那智は踊っていた。

音源は耳に当てたヘッドホンから取っているらしく、芳彦には、地面を蹴る軽やかな靴音と、那智の手足が空気を切る音、そして小さな那智の息づかいしか聞こえなかった。

「那智は一人で、とても真剣に踊っていた。家に帰ってから、君が踊っていたのが『ダンサー』でミア・フライアーが踊っていたダンスだって気づいた。次の日DVDを借りて見て驚いたよ。那智は完璧にフリをコピーしていた」
「リュック・ベッソンの『ダンサー』だ。そうだ、オレ、映画で見て、すごいって思って。あんなふうに、言葉じゃなく、身体で表現出来るダンスを、自分でもしてみたいって思った」
「那智!覚えてるんだね?」
芳彦の頬を新しい涙が伝う。

「君は、踊るために生まれてきたような人だった」
那智のダンスをはじめて見たとき、すぐに芳彦は目を奪われ、心を奪われた。

那智のダンスは、静かで、無心で、それでいて何かを強く訴えているようだった。
まるで清らかな"祈り"のように、胸を打った。

次の日も同じ時間に行くと、やっぱり那智は同じ場所で踊っていた。
芳彦が側に行って、ベンチに腰掛けても、那智はそのまま1曲を最後まで踊った。
踊り終わった那智が、振り返って自分を見た。

「それ、『ダンサー』のミア・フライアーでしょ?」
その日DVDで見て確認したことを、さも知っている風にいったのは、那智の関心を引きたかったからだ。

「見ていてもいい?」
しばらく大きな目でじっと芳彦を見つめたあと、那智は微笑んだ。
「見てたって、面白くないだろ。おまえも踊れば。踊れるんだろ、花沢バレエ教室」

芳彦の母親は元プリマドンナで、家はバレエ教室を経営していた。
そのことをからかわれるのは子供の頃から慣れていたけれど、那智の口調には、揶揄は感じなかった。

「うん、僕も踊れると思う。一緒に、踊りたい。フリは那智が教えて」
那智は「おまえ、1コ年下のくせに呼び捨てかよ」
と言って、額をこづきながら笑った。

あの夜からはじまった。
芳彦の人生は、那智に出会って変わった。
大切な、かけがえのない思い出だ。
今はもう、あの夜のことを覚えているのは自分だけだとしても。

「芳彦、オレが忘れてしまったこと、他にも話してくれる?」
「うん」
「これから忘れてしまうことも」
「うん」
頷きながら、芳彦の頬を涙が滑る。
うれしいのか悲しいのかわからない。
ただ胸が詰まって、涙が、止まらなかった。

「話すよ、僕の知っていること、僕たちのことを。何度でも、いつでも、君に話して聞かせる」

もう二度と後悔はしない。
どんなに辛くても、那智の前から逃げ出さない。



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