7 / 16
6.記憶②
しおりを挟む
芸能界でデビューしないかと声がかかったのは、5人で踊るようになって1年近くたった頃だった。
樫野は迷わず「やろう」と言った。
「別に失敗したって失うものがあるわけじゃない。挑戦しよう」
けれど那智は樫野と同じようには言えなかった。
那智が迷っていることを見抜いて声をかけたのは芳彦だった。
「なにを迷っているの。那智も、ずっとこのメンバーで踊れたらいいって、言ってたじゃない」
「そうだけど」
那智は言葉を選びながら、答えた。
「だけど、オレたちの歌やダンスが、本当に芸能界で通用するのか。デビューするって言うのは、自分たちを商品にするってことだろ。オレたち以外の大勢の人間が、かかわってくるんだ。半端な気持ちで飛びこめるわけない」
「確かに、そうだね。でもなんだか、那智らしくないよ。本当は、なにを迷ってるの」
芳彦の言葉に那智ははっとして、バツが悪そうに目を逸らした。
「…オレ、思ったんだ。デビューしたら、家を出られるんじゃないかって」
「那智…」
目を逸らしたまま、那智は言った。
「でもそう思ったら、自分の事情におまえたちを付き合わせるような気がして、冷静に考えられなくなった」
那智が家を出たいその理由を思って、芳彦は胸が詰まった。
何も言えないでいると、やっと芳彦の目を見て那智は言う。
「芳彦、大学に進学するつもりだったんだろ?おまえには、自分のやりたいことが、あるんじゃないか」
5人で毎週のように踊ってはいても、共有する具体的な夢があったわけではなかった。
今はそれが楽しいけれど、時期が来れば一人ずつ、別の道に進んでいくこともあるんだろうと、漠然と思っていた。
那智だけではなく、それぞれが選択をしなければならなかった。
芳彦は少し考えて、きっぱりと言った。
「僕は君たちと、同じ道を歩きたい。これからも、一緒に踊りたいよ。それが、僕の夢だ」
那智は驚いた顔をして、「そうか」と言った。
泣いているような、笑っているような顔をしていた。
***
朝、自室のある二階から一階のキッチンに行くと、母親がダイニングテーブルの椅子に腰掛けていた。
「お母さん、寝てなきゃダメじゃないか」
那智は驚いて声をかけた。
母親は入院していた病院を、昨日退院したばかりだった。
「那智…」
青白い顔は今にも泣きだしそうな頼りなさで、那智は心配になって側に寄って肩に手をかけた。
母親の、また細くなった肩は震えていた。
「さあ、寝室に戻ろう」
「でも、あなたの朝ご飯の支度をしてあげなくちゃ」
「オレはいいんだ。適当に食べていくから」
那智がそう言うと、母親は自分の肩の上におかれた那智の手の上に自分の手を重ねて「那智、ごめんなさい」と言った。
その声が泣いていると那智にはわかったけれど、気づかないふりをした。
母親が那智に何を謝ったのか、わかったからだ。
知っているのだ。
義父が自分にしていることを。
「母さんに言うか。言えないだろ。母さんにはオレが必要だからな。経済的にも精神的にも」
行為の最中にあの男が嘲笑するように吐いた言葉は悲しいけれど真実だった。
那智が中学生になった頃、母親は体調を崩して仕事をやめ、入退院を繰り返すようになった。
それ以後、那智と母親の経済的基盤は、義父が支えていた。
そして身体を患っている母には、精神的にも支えてくれる存在が必要だった。
義父は那智にとっては悪魔のような男だったが、病院では患者の信頼の厚い医師であり、那智の母親にとっては良き夫だった。
誰の目からも完璧な人間として見られることを望むあまり、精神に歪みを生んだのかもしれない。
義父は那智にだけ、冷酷な本性を見せた。
けれど、同じ家に寝起きしていれば、夫が時々、深夜、息子の部屋に忍んでいることくらい、気づくに決まっている。
少し前から那智は、母親が知っているのではないかと感じていた。
ただそのことを、母親がどう理解しているのかはわからない。
暴力なのだと、わかっているのか。それとも、合意の上だと誤解しているのか。
「ごめんなさい」と泣きながら言ったのは、義父と自分の関係が、義父による性的暴力だとわかってくれていると思えて、那智は安心した。
けれど同時にどうしようもない絶望感を味わった。
母さんには知られたくない、傷つけたくない。
そう思い続けながら心のどこかでは、気づいて、助けて、と叫んでいた。
義父が自分にしていることを知れば、義父と別れて、自分を連れて家を出てくれるんじゃないか。
もうあんなこと、されなくてすむんじゃないか。
そんなことを思わないわけでもなかった。
「ごめんなさい」
謝りながら泣く母親は、知っているけれど、どうにも出来ないということを、那智に訴えているのだ。
自分を救ってくれる最後の望みが消えたような気がした。
心が冷えて、凍りそうだった。
逃げ道はどこにあるのだろう。
樫野は迷わず「やろう」と言った。
「別に失敗したって失うものがあるわけじゃない。挑戦しよう」
けれど那智は樫野と同じようには言えなかった。
那智が迷っていることを見抜いて声をかけたのは芳彦だった。
「なにを迷っているの。那智も、ずっとこのメンバーで踊れたらいいって、言ってたじゃない」
「そうだけど」
那智は言葉を選びながら、答えた。
「だけど、オレたちの歌やダンスが、本当に芸能界で通用するのか。デビューするって言うのは、自分たちを商品にするってことだろ。オレたち以外の大勢の人間が、かかわってくるんだ。半端な気持ちで飛びこめるわけない」
「確かに、そうだね。でもなんだか、那智らしくないよ。本当は、なにを迷ってるの」
芳彦の言葉に那智ははっとして、バツが悪そうに目を逸らした。
「…オレ、思ったんだ。デビューしたら、家を出られるんじゃないかって」
「那智…」
目を逸らしたまま、那智は言った。
「でもそう思ったら、自分の事情におまえたちを付き合わせるような気がして、冷静に考えられなくなった」
那智が家を出たいその理由を思って、芳彦は胸が詰まった。
何も言えないでいると、やっと芳彦の目を見て那智は言う。
「芳彦、大学に進学するつもりだったんだろ?おまえには、自分のやりたいことが、あるんじゃないか」
5人で毎週のように踊ってはいても、共有する具体的な夢があったわけではなかった。
今はそれが楽しいけれど、時期が来れば一人ずつ、別の道に進んでいくこともあるんだろうと、漠然と思っていた。
那智だけではなく、それぞれが選択をしなければならなかった。
芳彦は少し考えて、きっぱりと言った。
「僕は君たちと、同じ道を歩きたい。これからも、一緒に踊りたいよ。それが、僕の夢だ」
那智は驚いた顔をして、「そうか」と言った。
泣いているような、笑っているような顔をしていた。
***
朝、自室のある二階から一階のキッチンに行くと、母親がダイニングテーブルの椅子に腰掛けていた。
「お母さん、寝てなきゃダメじゃないか」
那智は驚いて声をかけた。
母親は入院していた病院を、昨日退院したばかりだった。
「那智…」
青白い顔は今にも泣きだしそうな頼りなさで、那智は心配になって側に寄って肩に手をかけた。
母親の、また細くなった肩は震えていた。
「さあ、寝室に戻ろう」
「でも、あなたの朝ご飯の支度をしてあげなくちゃ」
「オレはいいんだ。適当に食べていくから」
那智がそう言うと、母親は自分の肩の上におかれた那智の手の上に自分の手を重ねて「那智、ごめんなさい」と言った。
その声が泣いていると那智にはわかったけれど、気づかないふりをした。
母親が那智に何を謝ったのか、わかったからだ。
知っているのだ。
義父が自分にしていることを。
「母さんに言うか。言えないだろ。母さんにはオレが必要だからな。経済的にも精神的にも」
行為の最中にあの男が嘲笑するように吐いた言葉は悲しいけれど真実だった。
那智が中学生になった頃、母親は体調を崩して仕事をやめ、入退院を繰り返すようになった。
それ以後、那智と母親の経済的基盤は、義父が支えていた。
そして身体を患っている母には、精神的にも支えてくれる存在が必要だった。
義父は那智にとっては悪魔のような男だったが、病院では患者の信頼の厚い医師であり、那智の母親にとっては良き夫だった。
誰の目からも完璧な人間として見られることを望むあまり、精神に歪みを生んだのかもしれない。
義父は那智にだけ、冷酷な本性を見せた。
けれど、同じ家に寝起きしていれば、夫が時々、深夜、息子の部屋に忍んでいることくらい、気づくに決まっている。
少し前から那智は、母親が知っているのではないかと感じていた。
ただそのことを、母親がどう理解しているのかはわからない。
暴力なのだと、わかっているのか。それとも、合意の上だと誤解しているのか。
「ごめんなさい」と泣きながら言ったのは、義父と自分の関係が、義父による性的暴力だとわかってくれていると思えて、那智は安心した。
けれど同時にどうしようもない絶望感を味わった。
母さんには知られたくない、傷つけたくない。
そう思い続けながら心のどこかでは、気づいて、助けて、と叫んでいた。
義父が自分にしていることを知れば、義父と別れて、自分を連れて家を出てくれるんじゃないか。
もうあんなこと、されなくてすむんじゃないか。
そんなことを思わないわけでもなかった。
「ごめんなさい」
謝りながら泣く母親は、知っているけれど、どうにも出来ないということを、那智に訴えているのだ。
自分を救ってくれる最後の望みが消えたような気がした。
心が冷えて、凍りそうだった。
逃げ道はどこにあるのだろう。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
林檎を並べても、
ロウバイ
BL
―――彼は思い出さない。
二人で過ごした日々を忘れてしまった攻めと、そんな彼の行く先を見守る受けです。
ソウが目を覚ますと、そこは消毒の香りが充満した病室だった。自分の記憶を辿ろうとして、はたり。その手がかりとなる記憶がまったくないことに気付く。そんな時、林檎を片手にカーテンを引いてとある人物が入ってきた。
彼―――トキと名乗るその黒髪の男は、ソウが事故で記憶喪失になったことと、自身がソウの親友であると告げるが…。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる